「やだやだ、遅くなっちゃった……なんでこんな日に限って課長のやつ、仕事押し付けてくんのよ……」
最寄駅を降りると、もう深夜0時半だ。
通りすがるコンビニには誘蛾灯の耳障りな音が鳴り響き、時折、バチンと何かが弾けるような音が鳴る。虫が電気ショックで焼ける音なのは明白なのだが不快なのでそれ以上考えず、ただただ足早に、何事もなく家に帰れますようにと願う。
自分の家に帰るには、呪殺マンションの前を通り過ぎなければならないのだから。
特に今日は、三姉妹の月命日だ。0時を過ぎてそうなってしまった。この日の朝になると三姉妹の友達か親戚かはわからないが、花束やジュースをマンションの前に置いていく。優しさを形にしたようなそれらは、私にはなんだか、悪霊が怒らないように鎮めるための供物にしか見えなかった。
多分、そう思っているのは私だけじゃない。近くに住む人みんなだ。動物が死んだような匂いがすることは多いし、なぜかカラスがいつもいて、まるで誰かが死ぬのを待っているかのようだ。
なぜかここは見通しがいいはずなのに、車がよくぶつかって事故は起きる。幸い、死亡事故こそ起きてないけれど「魔の交差点」なんて言われてたりもする。私もなぜか何度か転んで捻挫になったこともある。でもそれはまだ全然いい方。通り魔が出る、なんて噂はずっとある。誰も捕まったことはないし、監視カメラには何も映ってない。なのになぜか、何かが起きる。
ナイフを持った犯人の悪霊だって話もあるし、三姉妹が誰かを道連れにしようとしてるなんて話もある。そして実際、切りつけられたような傷を受けた人もいる。ここを通りがかった人が悪夢を見て、そして翌朝、首や腕に傷痕が残っていて……って、いやだいやだ、怖いことを考えるとずっと考えちゃう。何も考えるな、とにかく歩けば家に帰れる。それで大丈夫。
私、田中美優子には明日も仕事があるのだ。無事に帰宅して、しっかり寝て、明日に備えなければ。
『……ねぇ、きみかわいいね。こんな時間に何してるの』
だから、ナンパなんて無視するに限る。
下手に言葉を返しても相手が喜ぶだけだ。
『いい店知ってるんだ、行こうよ。ねえ?』
だって、渋谷とか池袋だってこういう厄介男はいた。
そのときは無視でなんとかなった。
だからここがオカルトスポットで幽霊の目撃情報が多いからって、別にナンパ男がいても不思議じゃない。
そう、これはただのナンパ男で、私はそれを無視してるだけ。
『ねえ聞いてる? 聞こえてるでしょ?』
くぐもって聞こえにくい声も多分風邪ひいてるとかだろうし、獣臭い吐息も、きっと歯を磨いてないからだ。不潔なナンパ男なんだ、そうに違いない。
道端のミラーには私以外には何かの影しか映ってなくて、まるで幽霊か何かに見えるのも、きっとただの勘違いで……。
『聞こえてんだよな? お前、ちょっと震えたよなぁ? なぁ!? なあ!!!!!』
「なぁ、じゃねえ今何時だと思ってんだ! あぁ!?」
『はぁ!?』
「ひょえっ!?」
私はついに我慢できずに、振りむいてしまった。
そこには、筋骨隆々の誰かが、もう一人の誰かの顔をがっしりと掴んでいた。
「だ、誰……?」
「あー、お姉さん、ここ物騒だから早く帰りなよ」
「あのっ、えっ、いや……ええ……?」
青年だ。
少年とは言い難いが、おじさんと呼ぶのもためらうくらいの年齢。
青年の背中は、大きい。
Tシャツ越しなのに、凄まじい筋肉があるのがわかる。
ジムで見かけたボディビルダーともなんだか違う。
そして一番大事なことは、絶対に幽霊じゃない。
ジーパンの太ももがはち切れそうなムキムキの幽霊なんて見たことないし。
「あ、あのー……何をしてるんですか……?」
「ケンカ」
「け、ケンカですか」
「あー、ケンカだと犯罪になっちまうか。注意だ。近隣住民として」
いや注意とかいうレベルじゃない。
ケンカと言う方が遥かに正しい。
成年がもう一人の男の顔をがっしりと掴み、身動きを封じているのだから。
もう一人の男の顔がよく見えないのは気のせいだ。
まるで幽霊みたいにぼやけてるのは、過労のせいで私の目がかすんでるだけのはずだ。
『てめ……なんなんだ……? 離せ、離せよ……!』
本当に幽霊だったら、アイアンクローみたいな感じで顔をがっしり掴めるはずがない。
念仏とか十字架とかじゃなく、ただの握力でどうにかできるはずがない。
「こんなところで大声でナンパする常識知らずだから注意しに来ただけで、物騒なことは何もない。安心してくれ。あと通報しないでくれ」
「は、はぁ……そうですね……」
「夜も遅いし、もう帰りな」
『ふざけんなよ……俺のえさを……がはっ!?』
「てめー口が臭えな? 誰か喰ったことあんだろ。それも一人や二人じゃないな?」
『ったりめーだろうが……ごふっ!?』
幽霊の顎に、青年の膝が二、三回叩き込まれた。
……あっ、いや、幽霊じゃない。不審者です。不審者。
「見たところ、野良の悪霊か。九神の野郎が消えたが、あいつの力はまだ残ってる。ハイエナみてえに残りカスを食えば強くなれるとでも思ったのか?」
『へ、へへへ……その通りよ、九神の魔力の残り香を吸ったのさ。力を付けた悪霊に、ただの人間ごときが勝てると……げふっ、嘘です、すみません、腹は、腹は止めてください』
「ついでに、味見とばかりに通行人を襲おうとしたわけだ。チンピラみてえな思考の悪霊だな?」
『そ、そんな、滅相もない……。俺なんて田舎でガキ脅かしてるだけのちんけな悪霊で、人殺しなんてとてもとても……』
「女を背中から襲っておいて何言ってやがる!」
『うえっ……ごほっ、やめ……も、むり……』
不審者が口答えする度にボディブローを叩き込まれている。
段々、不審者の腰が低くなってきた。
ていうか、なんか消えた。
青年がぶん殴ってたら突然白い光に包まれて、気付いたらきれいさっぱりいなくなってた。なんか無理矢理、成仏させられた的な感じ……?
「あ、えっと、助けてくれて……ありがとう」
「ああいうナンパ男とか不審者とかいるから、夜は気を付けなよ」
あ、不審者扱いでいいんだ。
「ああ、俺は不審者じゃない。ここのマンションのオーナーに清掃とか見回りを頼まれてるんだ。何かこのマンションのことで問題があったら銀座不動産に言ってくれ」
「へぇー……」
ここの不動産屋、事故物件に何もできないって評判悪かったんだけど……ちゃんと対処してくれたんだ。対処って言っていいのかわかんないけど。
「とにかく、ここの治安が悪いのはもう大丈夫だ」
「大丈夫……」
こんな流れで大丈夫になっちゃっていいんだろうか。
『おーい、れいちゃーん。明日は学校なんだから早く寝なよー』
「おっとすまん。すぐ戻る」
マンションの入口から女子高生らしき子が出てきて、青年に声を掛けた。
……あれ?
いや、気のせいかな? 気のせいよね?
『もー、転校初日に寝坊遅刻したら格好悪いよ?』
「十徹くらいなら体は持つ」
『だめだめ。現代人には睡眠が足りてないんだから。あっ、なんかすみませんお騒がせしちゃって』
女子高生が青年をマンションの中に招き入れようとして、そこで私に気付いた。
ぺこぺこと申し訳なさそうに謝る。
うーん……昔ここで起きた殺人事件の被害者一家に凄い似てるんだけど……。
どう見ても、ワイドショーとか週刊誌に出てきた雲取家の三女にしか見えないんだけど……。
「オ、オヤスミナサイ……」
幽霊と思ったのは不審者。
すでに死んだ被害者っぽい子は、ただの女子高生。
「あたし、過労で疲れてんのね……明日もう有給取ろっかな……」
そうだ、そうに違いない。
明日は休みだ。
でもなんだか、そう心に決めたら恐怖心がふっと軽くなった気がした。
◆
引っ越しついでに転校することにした。
雲取家のマンションから以前の学校までは遠すぎるし、異世界転移より前の俺について覚えてる人を混乱させてしまう。目鼻立ちとか細かいパーツはともかくとして、体つきは全然違っていて成長期では説明不可能なレベルだ。あまり友達もいないし、こっちも10年前の人間関係はかなりうろ覚えだ。スパっと環境を変えた方が後腐れがない。
ちなみに住所変更の手続きや転校の手続きは銀座さんが色々と手伝ってくれた。あのおっさん、ガラは悪いがけっこう親切なんだよな。
「それであたしの通ってた高校に行くわけだね。後輩じゃーん」
通学ルートを歩いている途中、なぜか俺についてきた桜が嬉しそうに俺の頭をなでる。俺の方が身長は高いんだが、浮遊している桜にはあまり関係がないらしい。
「そこは偶然だが」
「そこはもっとさぁ、あるじゃん。運命とか」
「桜の家の近くの高校に通うんだから高確率で被るだろ」
「れいちゃん、けっこう強引かと思ったけど、なんかプライベートだとアレだね。陰キャ?」
「陰キャで結構。異世界で十年以上暮らしてるから自認はおっさんだよ」
正直、この年齢で高校生と一緒に過ごすのは少々格好悪い。
だが流石に学歴がないのは困るし、中退というのも座りが悪い。
「しかし……このまま来ていいのか? 大騒ぎになると思うが」
現状、桜の姿は霊感のある人間なら普通に視認できるレベルだ。悪霊ではないし禍々しい気配を放っているわけでもないが、知り合いがいるところに死人が来たらどうなることか。
というか、すでに同じ高校の生徒が俺たちを見て驚愕している。
あるいはドン引きしていると言ってもいい。
「やっぱそうかなー。あ、おはよー」
「うえっ!? あっ、おっ、おは、おはよ……」
そして桜はドン引きしてる生徒に普通にあいさつした。
コミュ力が強すぎる。
「あれ、キミ知り合いだっけ? あたしのこと知ってる? まいっか」
「えと、あの、いや……顔写真とかは……ニュースで……」
「あちゃー、それがあったか。友達怖がらせたくないしなー」
まいったまいったと桜が頭をかく。
『騒ぎになるから少し冷静に考えなさいって言ったじゃないの。いつも行き当たりばったりなんだから』
「ごめーん姉さん」
と、桜をたしなめる声が響いた。
この声は確か……。
『あ、私です。あのときは大変失礼しました……』
桜の姿がうつろになったかと思うと、背の高い黒髪の女性の姿に変身した。
雲取三姉妹の長女、茜さんだ。
服装はエプロンに包丁ではなく、ニットのセーターにスカートという落ち着いた装いをしている。生前に着ていた服だろう。最初あったときとはうってかわって、恨めしそうな気配は皆無だ。むしろ申し訳なさそうな顔をしている。
「そういえば二人も成仏してなかったんだな」
「ええ、恥ずかしながら」
「別に恥ずかしがることでもないが。しかし姿が変わったってことは……今は三人で一人の幽霊って感じか?」
「マンションの中であれば多分三人同時に姿を現しても問題ないのですが、外だと三人一緒じゃないと行動できないようです」
恐らく、もっとも存在力や魔力が高いのは桜だ。
彼女がメインの人格として表に出ていて、姉たちは影に潜んでエネルギーを節約している形なのだろう。
「杏子も挨拶した方がいいんでしょうけど、たくさん刺したので合わせる顔がないと言って……すみません」
「気にするな、よくあることだ」
「よ、よくはないと思いますが……」
あったんだよなぁあの程度は。
だが俺の言葉が本気だと察したのか、茜さんはちょっと引いている。
「あーごめんねいきなり姿が変わって。びっくりして……ないね。普通するもんじゃない?」
と思ったら、また桜に姿を変えた。
周囲が驚くから控えめにしてほしい。
「俺は驚かないが周りは驚くぞ」
あ、いや、周囲の人々はこちらを見ていない。
危うい気配を察してか目を逸らしている。
……ま、いいか。
「うん、わかってる。人の気配が強いところとか知り合いがいたら姿消すからさぁ、ちょっと付き合ってよ。れいちゃんがいるとわたしも安心だし」
「ただ学校に行きたいだけ、ってわけじゃなさそうだな?」
俺の質問に、桜が妙に気恥ずかしそうに答えた。
「……ちょっと、部室に忘れ物あるんだよねぇ」