軽やかに風を操作し、人目に付かない城壁に登ったアストレアは一人黄昏ていた。
遮るもの一つない高所。
足を踏み外せば死──風を手足よりも自在に動かせる彼女にとって高所は恐怖の対象にはなり得ないため、椅子に座るような気楽さで城壁に座り込んだ。
眼下に広がる街並をじっと眺める。
その瞳に光は──ない。
「…………」
そっと足を抱える。
フィンに辛辣に当たっていたのは、彼女なりの気遣いでもあった。
あの頃、人間嫌いを拗らせていたアストレアはパーティーを紹介されたものの受け入れられないと断るつもりだった。もしくは、適当にこなしてやっぱりこの程度じゃ着いてこれない……そうやって突き放すつもりだったのだ。
フィンはそれを耐え抜いた。
それどころか、弱い自分が申し訳ないと常に謝っていた。
それに思うところがなかったわけではない。
なぜそこまで頑張るのか。
なんで諦めないのか。
本人は自分の居場所はここしかないからと言い張り続け、生傷が増え、古傷に苦しみ、治せもせず死ぬような想いをし続けて──それでも諦めない。
やがて、成長したフィンは盾役として一人前になり、アストレアが帰れなんて言えなくなりつつある頃に、あの事件が起きた。
そうしてフィンは英雄になった。
あの時から、アストレアの心を掴んで離さない英雄に。
ただ────アストレアの優しさはあまりにも不器用で中途半端だった。
人間は嫌い。
だからと言って、嫌いだからと言って殺してやろうなどとは思わない。自分に悪意を見せてきた者ならばまだしも、フィンは誠実で、素直で、正直で、異性としても個人としても好感の抱ける人格だったから。
だから、彼女は素直になれなかった。
嫌いだけど、嫌いじゃない。
好きだけど好きだと言えない。
人間だから嫌いと言ってしまったら、閉鎖的で嫌な奴らだと思っていた里のエルフと同じだから。
そうして積み上げ続けた結果、彼女はこうして一人絶望している。
『俺も、みんなに言ってないことが沢山ある。言えば嫌われる、やれば嫌われる、だから言わないしやらない。師匠に躾られたからこそみんなに嫌われずに振る舞えているが、本当の俺はどうしようもないくらい醜悪で汚らしい男なんだ』
『一緒に暮らすようになってから、この想いは強くなった。みんなにだらしない姿は見せられないし、見せるわけにはいかないんだからな。もしそんなことをしてしまえば、いくらでも替えのきく盾役なんてお役御免だ』
『言い切れるか? 師匠達、【星天】が王都にやってきて業務提携という形で組んだ。こうなったことでパーティーの火力は大幅に増加し、〈深淵の森〉を除いて俺が役に立てる機会は更に減っただろ。いつ首を切られてもおかしくないんじゃないか? ──そんな風に、思う時がある。実際、過去に何度もそう言われてきたからな』
「っ…………」
フィンの言葉を反芻する。
このフィンの言葉こそが、アストレアの罪そのもの。
フィンの素直で実直で誠実だと思っていた性格は、他ならぬ彼女達への配慮によるものだった。
初めからそうだった。
田舎から出てきた学がない子供にしては妙に大人しく、女に対する距離を心掛けた少年だった。気遣いも出来て、惜しむらくは彼が子供すぎたこと。今くらいの力を最初から持っていれば、フィンの気遣いを素直に受け取ることもアストレアには出来ただろう。
だが、フィンは子供だった。
脆弱で、守られるべき子供だったのだ。
そんな子供が、身体より大きな盾を持って、不慣れな手つきでモンスターの攻撃を受けていく。逸らし、弾き、受け、時には失敗を重ね身体に傷が付き。
子供だ。
まだ十四かそこらの子供が、190歳を超えたアストレアを庇うのだ。
人の感覚で言えばまだ十九歳程度だった少女にとって、強く尊大な種族であるエルフにとって、人を嫌いになっていた彼女にとって──それは、あまりにも残酷な光景だった。
────あんた、田舎に帰ったら?
『……弱くて、ごめんなさい。でも、強くなるから。お願いします』
そう言ってフィンは頭を下げる。
身体に刻まれた切り傷も、殴打によって出来た骨折も気にせず。
どうしてそんなに頑張るのよ。
あんた、そのままで生きていけるわけがないでしょ。
逃げちゃえばいいのに、逃げなさいよ、おかしいでしょ……。
見捨てる気にはなれなかった。
素直にもなれなかった。
時に強引にでも帰そうとして攻撃を当てたこともある。戦闘中に背中から風で傷をつけられたフィンは、やや驚いた表情で振り向き、その隙を狙われてモンスターに噛みつかれていた。
『がああぁっ!!?』
『ぁっ…………』
絶叫に、自分が何をしてしまったのか悟り青褪める。
噛み付いて隙だらけのモンスターをカルラが斬り捨て、噛み付いたままの上半身を強引に引き剥がし、鎧の下でぐちゃぐちゃになった肉を懸命にマリアンヌが治癒する。
それでも、フィンは責めなかった。
それどころか、自分の所為ですまなかったと謝罪した。
自分が弱くて、アストレアの、エルフの実力者の戦い方を理解できていないのが原因だ。これからはそんなことがないようにする。どうか、まだ見捨てないでくれ。
そういったフィンに、アストレアがなんと答えたか──彼女の記憶には残っていない。
「…………こんな女、好かれるわけがないわよね」
フィンに嫌われることはたくさんしてきたが、好かれるようなことはしていない。
里から出てきたエルフに対する態度も辛辣なことこの上なし。
フィンから見て、器量の狭すぎる女だと思われているだろう。
王女のくせに舐められているとも思われているかもしれない。
実際、再会した長女アリシアはよく出来た人格者だ。
場の空気を読めるし会話を回せる。
それでいて、エルフ特有の取っ付きにくさがない。
かといって下手に出ているわけでもなく、世間を知っているからこそうまく溶け込んでいる。ヴァシリと旅をしたことも大きいだろう。一人で絶望するばかりだったアストレアと違い、彼女には教師がいたのだ。
「なのに、近付く女が許せない……一体何様だってのよ」
フィンの邪魔をしたいわけではない。
だが、フィンをぽっと出の女に奪われるのは我慢ならない。
だからせめてハーレムを、なんて逃げの言葉を吐き出していたのだ。好かれるような行動をしてこなかった女が、選ばれないかもしれない恐怖を飲み込むために、他者を許容するとの名目でフィンの意思などまるで気にせずに。
醜悪。
醜悪がすぎる。
これではまるで──嫌いだった、あの時の人間達のようだ。
「…………はっ」
だって仕方ないじゃない。
好きになってしまったんだから。
好きになるなんて思っていなかったんだから。
頼りない少年が英雄になるだなんて誰が思った。英雄だから好きなんじゃない。フィン・デビュラだから好きなんだ。好きになってしまったんだ。
なぜ?
──救われたから。
自分の運命を覆す、人の英雄に。
元より、あの事件が起きる頃にはフィンも成長しており少年から青年に羽化しようとしていた。声変わりに伸びた身長、男らしくゴツゴツとした身体。
そういった要素に目を惹かれていなかったと言えば嘘になる。
アストレアが辛辣だったのは一年の間で、二年目からはメキメキ成長していくフィンに何も言えなくなっていた。
だが、フィンは今でもその頃の記憶に怯えている。
アストレアの脅しは間違いなく効いていた。
フィンは脅しに対してなんとも思っていたわけではない。
日々怯えながら、捨てられて何もかもを失うことを覚悟しながらそれでも学び鍛え強くなる道を選んでいたに過ぎないのだ。
彼女ら三人──いや、実質は二人。
アストレアとカルラによる厳しい視線に晒されて育ったフィンは自己評価を欠落させ、己が身を鑑みない戦闘スタイルとなった。死ぬような思いをしたとて死んだわけではないと明るく笑うのだ。痛ましい笑顔だ。平気だと言わせたのは、誰だったか。
「…………はぁ……」
────ズキッ。
「……フィンが受けた苦痛は、こんなもんじゃない」
頭痛に胸と腹部の痛み。
こんな一過性のものではない、心身への苦痛を彼女はフィンに与え続けていた。まだ子供で、少年と呼べる年齢だったフィンに。
それを思えばこの程度、いい気味だとすら思えた。
「許されるわけなんて、ないんだから…………」
ぎゅ、と膝を強く抱いた。