屈辱と凌辱の果てに、月の女神は壊れた。
他ならぬ敵、敵に奪われた使徒、そして自らが守り慈しんで来た民に犯され尊厳を汚された彼女は魔に冒された。
彼女が滅されなかったのは敵の悪戯に過ぎない。
狂ってしまった神を下げ渡して弄ぶことを許した。
群がる有象無象に魂が穢された月の女神は自ら滅ぶことすらせずただひたすらその肉欲をぶつけられ、全てを忘却し淫欲に耽る────そんな日々を、千年近く過ごした。
月の女神は散々に穢された。
屈辱の日々に心を壊し自我すら崩れ去った。
その果てに、かつて栄華を極めた廃墟、つまりは月の女神を奉じた跡地へと封じられた。飽きられ、忘れ去られ、その力を全て失ってから、女神ですらない、邪神ですらない存在に墜ちてから。
──だが、彼女は終わらなかった。
月の女神としての力は全て失った。
否、神としての力すらなくなった。
だが彼女には魔が宿った。
封じられた祠の底で、狂乱と憎悪で息を吹き返した。
凄惨な記憶を忘却せず、彼女はその憤怒を糧とした。
女神への憎悪。
人々への憎悪。
自身への憎悪。
世界への憎悪。
憎悪をひたすらに生み出し続け世界を侵食する魔を作り続ける。
その他大勢の雑多な魔ではない、正真正銘墜ちた神が発するエネルギーは世界そのものを塗り替える。文字通り、神の創った武器だろうが打ち消せない。
そうして彼女は魔を生み出す邪神と化した。
ひたすらに待ち続けた。
深き森の中で、夢の跡に一人取り残され、魔を生み出し続け世界に混沌を齎す為に。
数千年が経過し、己が使徒を生み出せるようになった。
使徒は嗜虐心が強く、女を好んで痛めつける習性があった。
だがそれだけではなく男も、人間であることすら必要無かった。
生きているのならばなんでもよかった。
だが、しいて言えば、人間の女を特に好んだ。
嬌声と悲鳴が入り混じった絶望を齎すに相応しい使徒だった。
魔王軍を名乗る一団に紛れ込ませ世界に破滅の渦で飲み込まんとした。
その、一手目。
躓いた。
見過ごせなかった。
放っておけなかった。
魅せられた。
惹かれた。
世界への憎悪。
使徒への憎悪。
仲間への憎悪。
それら全てを丸ごと自身への憎悪にして、尊厳すらも失って弄ばれながら彼は必死に抗っていた。どれだけ無様でもいい。どれだけ哀れでもいい。その、ほんの少しの惨めさを食いしばって誰かを助けられるのならそれでいい。
そんなことしか出来ない自分が憎い。
特別ではない自分が憎い。
全て、ここに至るまで全ての悪い出来事は、己が未熟であり、不足しており、この世界を生き抜くうえで特別ではないからだと思い込んでいる、壊れて狂い切った青年。
一体──どれだけねじ曲がっていればここまで歪んでしまうのだろう。
月の女神ルルクス、それでいて邪神ルルクスであった彼女は青年を見つけた。
手を伸ばした。
そっと触れた。
生まれたばかりの赤子を抱く親のように、優しく丁寧に、おっかなびっくり。
そうして少年は使徒になった。
壊れた少年は邪神に魅入られた。
壊れた少年に邪神は魅入られた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
王都入りした者達は休む暇もなく早急に動き出した。
事前にフェンナを通じて連絡をしていたことでスムーズに合流を果たし、中心となっていたエクトルと連携して情報収集と締め上げに勤しむ。
この際、エクトル枢機卿やセラフィーヌにフィンの話はしなかった。
することで余計拗れると考えたヴァシリは、『フィンや【超滅】、マリアンヌには【深淵の森】攻略を継続させている』と言って意識の外へずらした。
聖女ら調査隊がやってくるまでおよそ一ヵ月。
ヴァシリはこの時点で終着点を幾つか定め、どうにか最善の形に着地出来ないか模索し始める。
(最も望ましいのは何も起きないことだが、それは無理だ。女神自身が捕捉されていると感じている以上、フィンのことは間違いなく露見している……)
彼女らの目標はフィンを守ること。
最善は何も起きないことだがそれは望めず、何かしらの問題が発生する見込みでいる。
(火元を探して駆けずり回っている枢機卿やセラフィーヌくんには申し訳ないが、十中八九我々に対しアクションを起こすだろう。その場合の対応を考えた方がいい)
まず、女神の威圧を涼しい顔で耐えたアストレアは最も強力な駒だ。
なんなら何の補助も存在しない力比べならば彼女が最も世界で強いと言ってもいい。
〈聖剣〉を持たないアリア、神の祝福がない聖女たち、それらを省けばこの世で最も神に近い存在と言っていい。
(我々にあの邪神の加護はない。話し合いをしてくれれば幾らでも誤魔化せる。クエストを優先していて忙しいとか、東方諸国に遠征に行っているとか、適当に言い訳して書類はその場で偽造させればいい)
どこでも勝手に連絡が出来るエルフが常に周りにいる上に、なんならヴァシリも同じ事が出来る。
会談しながら別の建物に居るマーカスに書類の偽造をさせるなど容易な事だ。
(逆に避けたいのは問答無用で攻撃してきた時。アストレアや私に対応できるものならばいいが、アリアの〈聖剣〉や邪神の攻撃同様埒外の物であった場合は……最悪、アリアを逃がしてどうにかするしかない)
神の攻撃を直接体験してはいないが、あの威圧とアリアを軽くいなした話から太刀打ちできるものではないと予想している。
(それでもいきなり壊滅は避けられる。最悪の場合はアリアを逃がす、何とかなりそうなら全員で退く、こちらの攻撃で殺せる程度ならば苦労が徒労で終わる、か……)
あり得る可能性は大きく分けて三つ。
まず一つ目、実は邪神の感知などされておらず、話し合いから始まり穏当に終わる場合。
二つ目、邪神の感知はされているが女神の力など持ち合わせておらずここにいるメンバーだけで対処出来た場合。
三つ目、邪神の感知をされており向こうが本腰入れて排除しに来て神の力で蹂躙されフィンと邪神の命も奪われる場合。
ヴァシリは三つ目の選択肢を想定して動くことにした。
最悪、フィンやアリアさえ守れればそれでいい。
共に来ている面々にも相談し納得してもらった。
命に順番を付けて逃れる優先順位も定めた。
最も前に出るのはヴァシリとアストレアに決まった。
妹と仲間の両名が死に近付くことにアリシアは苦い顔をしたが、決意が固かったのと、かつて妹を運命の名の下に見殺しにしていた自分に口を出す権利はないと諦めた。
王太子も巻き込み聖女の対策を行った。
まず緊急時の避難を定めた。
聖女側がどう動くかはわからないが、出迎えくらいはエクトルが決められる範囲内。
出迎える場所、案内する場所、ヴァシリらの待機場所も全て決めて早い段階で人々を散らせるようにした。該当地区に屋敷を持っていた貴族や商人は当然文句を言ったが、三勢力に黙らされ口を噤んだ。
幾つもの勢力が絡んでいるとは思えないほどトップの連携が取れている王国だからこそ出来る芸当である。
そして準備と並行して調査も進めていくが、やはり邪教の気配は王都には存在しなかった。
エクトルとセラフィーヌはその結果を本国へと報告したが、追加調査という名分に変わっただけだった。
(……準備は整った。後は迎え撃つだけ……)
念には念を入れて、エルフによる風の支配は一度待つことにした。
通常感知されない行動だが、相手は神の加護を持ち合わせている可能性が高い。
そんな相手にいつでも攻撃できる態勢でいることが感知されれば攻撃の名分を与えてしまう。先手必勝で攻撃することは許されていない。少なくとも聖女二人は邪教の調査に来るのだから、こちらから手を出してしまえばそうだと証言するようなもの。
エスペランサ教は世界で唯一の宗教だ。
ヴァシリが生まれた時からそうなのだ。
その影響力は計り知れない。
最悪、人海戦術を取られて追い詰められるだろう。
ヴァシリ一人ならいくらでも逃げられるが今はそうではなかった。
己の長い生に終わりが来るかもしれない。
いや、終わりがこないまま、永遠の苦痛に苛まれるかもしれない。
あの邪神の言うことを信じるのならば、相手もまた邪神ということなのだから。
だが、たとえそうなったとしても、ヴァシリは仕方ないとすら思うだろう。
なぜならば、己が運命を乗り越えられたのは、力不足だと置いて行った弟子の命を代償にしたおかげなのだから。
弟子の命を救うために、今度は自分の命を使う時が来ただけだ。
そう思えば、彼女の心から恐怖はほとんど消えた気がした。
(次は────次こそは私が、君を救うんだ。君に救われた命を使って……!)
必ずや、その運命を覆す。
かつて愛弟子がしてくれたように、次は、自分が。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
聖女が来訪した。
その聖女は、大きなメイスを持ち、赤髪を靡かせた女性だった。
「よう、怪物ババア。魔王軍征伐以来かよ、久しいなァ」
「…………君だけか?」
「あ?」
「もう一人……序列一位の聖女はどこへ行った?」
【破砕の聖女】フレデリカ・ブラッドフォージ。
一人で敵地へとやってきた彼女は、呆れた表情で言った。
「知らん。どっか行った」
「…………な、んだって……?」
「どっか行っちまったからこんなバカみてえに真っ直ぐ来たんだよ。ったく、シラけるぜ。あいつが怪物ババアも勇者もブチ殺せるって言うからついてきたのに、『暫し別行動をとります』とだけ言って消えやがった」
「────アストレアッッ!!」
ヴァシリの絶叫より先にアストレアが行動する。
風を支配し探知する。
その範囲は王国全土を容易く超えた。
幾つもの〈不浄領域〉を飛び越えたその先、彼女すら支配できない濃密な魔に浸された森の手前──彼女らが数週間住み着いた拠点。
その中を覗き込んで──アストレアは絶句する。
「────…………う、そ……」
いない。
そこにいるべき人がいない。
そこには誰も居ない、残ってない。
アリーシャも、グリセルダも、【超滅】のメンバーも、マリアンヌも、フィンも。
争った形跡すらなく、姿を消していた。