扉が閉じた。
誰もいなくなった部屋で一人、床にへたり込む。
「……………………」
足に力が入らない。
手が痺れている。
腹の奥が、ズキズキと痛む。
フィンの、何もない、いや、あんな顔は初めて見た。
淀んだ瞳。
歪んだ顔。
怒りか、憎悪か、激情に支配された人間が見せる、恐ろしい貌だ。
「…………ああああぁあぁぁぁ…………」
喉の奥から絞り出した声が鳴る。
私がやったんだ。
私がフィンをあんな顔にさせた。
彼を傷付けた。
二度とあの子を辛い目に遭わせないと誓ったのに。
私がフィンをおかしくしたんだ。
両手で顔を覆う。
フィンが何も感じてないわけがないと、わかっていたのに。
どうして私はあんなことを言ってしまったんだ?
フィンに全てを悔やむようなことを言ってしまった。
今のフィンを否定するようなことを言ってしまった。
どうして?
ショックだったんだ。
フィンが、自分のことを何も考えず、私とアリアを守れるのが嬉しいと言うのが。これから先も身を差し出して守ると言ったことが。私が気にしないように、何とかなると健気に言ったことに、耐えられなかった。
だけど、フィンにとってはそれが一生懸命だったんだ。
わかってたのに、あれがフィンにとっての最適解だったことはわかっていたのに、否定してしまった。私が悪いんだ。私がフィンをおかしくしてしまったと言った。
フィンは私の言葉の意味をちゃんと受け取っていた。
受け取ってしまった。
違う、違うんだ、フィン。
私は君を否定したかったわけじゃないんだ。
ただ、これ以上君を犠牲にして生きて行くことが苦しくて、嫌で仕方なくて、もっと他に何かあるんじゃないかって、伝えたかったんだ。
頼りないだろうが、これでも、私は君の師だ。
弟子のことは命懸けでも守りたいんだ。
────私にはもう、その資格すらない。
「…………ぁ、はっ、ふっ……」
だって、そうでもしないと、君に何も返せない。
受け取ってばかりだ。
君のことを育てたけれど、あの日々は決して楽なものじゃなかっただろう。
フィンに恨まれたって仕方ない日々だった。
毎日毎日痛めつけて、骨を折られて、折られた骨すら叩かれて、脳が千切れるような痛みを君に与え続けた。苦しかった筈だ。辛かった筈だ。泣き言の一つも漏らさずにただ幼馴染のためにと頑張った君を置き去りにした私が、好かれる筈もない。
だというのに、君は私を師匠と呼んでくれた。
それに甘えていたとわかった。
だから、少しでも、君の師だと胸を張って言えるように……フィンのために、そう、言いたかったのに……。
「はっ、はぁっ、は、はっ、はっ、は、ははっ──」
何もかも遅かった。
もう、フィンは二度と元に戻らない。
彼をあんな風にしたのは私だ。
否定なんて出来ない。
今の彼を受け入れるしかないんだ。
自分に価値があると思わず、私とアリアのために命を軽々しく扱い仲間に傷は一切負わせない、理想的な盾役。
受け入れろ。
それが私の罪だ。
◇◆◇◆◇◆◇
正解はなんだったんだろう。
俺にとっての正解はいつも誰かの不正解だ。
俺が守っても皆傷付く。
身体に傷は一つもないのに涙を流し悔やむような顔をする。
カルラも、アストレアも、マリアンヌも、皆そうだ。
そんなに、そんなに俺が気に入らないのか。
そんなに俺が何かをすることがダメなのか。
そんなことないとわかっている。
それでもそう思ってしまう。
カルラは俺を好きじゃなかった。
斬って、謝りもせず、邪魔だと言っていた。
アストレアも俺を好きじゃなかった。
風で俺を何度も吹き飛ばしていた。
受け止められないような奴に命は預けられないと言われた。
道理だと思った。
俺は、どうしてこんなに弱いんだと、常に思い知らされていた。
特別じゃない。
マリアンヌだけが一緒だった。
彼女は聖女になった。
俺とは違った。
俺が、俺だけが、いつまで経っても特別じゃない。
だから余計、俺は昂るんだろう。
俺みたいな凡人が、カルラやアストレアのように才能に溢れて美しい女性を好き放題汚すことに興奮している。
死ねばよかった。
死んでおけばよかったんだ。
師匠の顔に泥を塗らないように、あの時、尖兵に殺されておけばよかった。
邪神ルルクス様。
こんな俺を見て嘲笑っている、邪神ルルクス様。
そうだよ、俺は全てが憎いんだ。
この世界も、俺自身も、全てが憎い。
滅んでしまえばいい。
だって、俺は特別じゃないから。
特別な人達が苦しんで死ねば、俺は気持ちが良いから。
そう思ったことすらあるよ。
それでも……俺は、師匠の、弟子なんだ。
例え世界の全てがあの人の敵になっても、俺だけは敵になりたくないんだ。こんな特別じゃない、どうでもいい俺を、愛してくれた人だから。
『──はい、そこまで』
闇マリの声と共にシュルシュルと頭の何かが吸われていく感覚がする。
脳味噌が引っ張られるような感覚と共に、頭の中にあった重たくて粘っこい何かと、胸の内にあった極めて不快な何かがゴッソリと抜けていく。
おっ、おほっ♡
さっきまでの重苦しさはたまらんかったが、一気に抜けると爽快で病み付きになりそうだ。
「ん? あれっ? フィンくん……?」
「おう。どうかしたか?」
「…………えっと……さっきまで、物凄かったけど……平気なの?」
「…………? 何の話だ?」
何かあったっけ?
あんまり師匠には俺のやり方は良く見られなかったけど、そればっかりは仕方ない。
まさかあんなに嫌がられるとは思わなかったが……かといって他にやりようなんてないからな。エヴァは俺のこれからに必要な人だ。これまでのことを悔やんでもこれからのことは変わらない。
「…………まさか……闇のマリアンヌちゃん……?」
「闇マリがどうかしたか?」
「…………い、いえ……。……そんな…………」
「……顔色悪いぞ、大丈夫か?」
『んっ……れろっ……毎度、濃くて飲み込みにくいのよねぇ……』
エッチな話してる?
闇マリのエッチなペロッて舌を鳴らした音が聞こえてくるんだけど?
まさか闇のマリアンヌが突然フィンフィンを舐めるなんていやらしいことするわけないよな。あと全然フィンフィン気持ち良くないし。
『んんっ……んっ、ほんとに、濃くって……身体が火照って来るわ……』
本当にエッチな話じゃないんだよな!?
不安になって来た!
だって俺はまったくやらしいことされてないのに闇マリが勝手に発情してるんだぞ? これが不安に思わずにいられるか! 俺の頭の中で俺の知らない短期さんに寝取られているかもしれないんだッ!
く、くそっ!
闇マリッ今助けるぞっ!
待ってろ、まずは物理的に頭をかち割ってから……
「フィ、フィンくん? ちょっと一回落ち着いてちょうだい?」
「わかった」
アリシアさんは血の気の引いた顔のままゆっくりと深呼吸をした。
そっちが落ち着くんかい。
「えっと……フィンくん、さっきまですっごい憎しみに溢れてたけど……?」
「……? いや、全然そんなことないが」
「い、いや、そんなわけないって。私ハッキリ感じたもの、フィンくんのありえないくらいの憎しみ。呑まれて動けなくなってたから間に合わなかったけど……」
「えぇ……? そんな風に見えるか? というか、何をそんな憎むっていうんだよ」
変なことを言うなぁ。
そう言って笑うと、アリシアさんは目を見開いた。
「う、うそ、うそよ、だってさっき、あんな……何が、なんで? 自覚すらないの? もう、そんなの…………どうしようも……」
「……本当に大丈夫だぞ。寧ろアリシアさんの方こそ大丈夫か」
そっと優しく抱き締める。
怖いとき、不安なときは人肌で温めるのが一番だ。
アリシアさんは俺のことが大好きなので当然喜んでくれるだろう。
「ひっ……!」
ぎゅっと抱き締めると、彼女は腕の中でビクッと跳ねた。
震えている。
見上げる顔も、血の気が無いままだ。
どうやら何か勘違いしてしまったみたいだ。
アリシアさんでも読み間違えることがあるんだなぁ。
『──……ふぅ。はぁ、やっと飲み終えたと思ったら今度はアリシアにやってるの? 我が使徒ながら、鬼畜ねぇ』
何が?
震えてる女性が居たら抱き締めるのが紳士ってもんだろ。
まぁアリシアさんとは肉体関係あるから躊躇いなんてないけど。
あ!
ていうか闇マリなにしてたんだよ。
普通にエロいことしてたんだろ? 俺にはわかる。俺の知らない短期さんとエッチなことしてたんだ。もう隠さなくたっていい。
これが寝取られの味かぁ……。
ふ、うふっ、ふふふっ、おほっ♡
『ねぇ、我が使徒』
はい、なんですか?
『これからもっと、楽しいことがあるわよ。我が使徒の思うようにやりなさい。私はいつもあなたのことを肯定していますから』
そう言って、闇マリは、まるで女神のような微笑みを見せた。
◇◆◇◆◇◆◇
正気じゃない。
わかってたことだけど、フィンくんはやっぱり壊れきってる。
壊れても尚普通に見せかけているだけで、もう、この子の精神は崩壊してる。そうじゃなきゃ、あんな風になるわけがないの。
『私が、私が悪いんだ! 君をそんな風に育ててしまった、私がっ! もっと大切に、もっと慈しんで、ずっと傍に置いておくべきだったのに……っ! すまない! フィンっ! すまなかった!!』
ヴァシリがそう言った瞬間、フィンくんから溢れ出した、言い表せない程の闇。
あれは人が出していいものじゃない。
これまでに生きて来た中であんなに濃い感情を叩きつけてきたのはそれこそ、魔王軍の……いえ、あれはもう、魔王と似た何かだった。聖剣を使ったアリアが辛うじて相討ちで、その後は成長した彼女が致命傷を与えて人類を勝利に導いた、大陸西部を支配した魔の王。
あの時の、アリアと相討ちになった時の魔王と同じかそれ以上に濃密な負の感情だった。
優しく背中を摩る手。
柔らかく微笑んでいる顔。
かなりエッチで、だけど紳士的で、人には言えない性癖を抱えている、邪神に魅入られた子。
内側にあるモノの重さはわかっていたつもりだった。
誰にも言えない、そんな秘密をずっと抱えて生きてきて、私が暴いてしまった。
君のことを知る前にはもう戻れない。
今回もまた、知るべきではないことを知ってしまったかもしれない。
全て言っていた通りだった。
邪神に魅入られたのは、彼自身の深い闇があったからこそだと。
……どうしてわかってないフリをしていたのか。
怖かった。
知るのが、恐ろしかった。
そこに踏み込んでいいかどうかがわからなかったのよ。
壊れてることはわかってた。
でも、君はすごく普通に振舞うから……触れたらそれが壊れそうで、怖かった。
──もう、戻れないのね。
私も、フィンくんも、ヴァシリも、ルルクス様も。
アリーシャの言葉が突き刺さる。
そうよね、もう、元には戻らないのよね。
……いい加減、ヴァシリにも話をしないといけないか。
どうなるか全くわからない。
フィンくんが今みたいにおかしくなるかもしれない。
でも、もうこれ以上時間稼ぎも出来なくなった。
言わなきゃいけないわ。
「…………ねぇ、フィンくん」
「ん? どうした?」
「そろそろ隠すのも限界だと思うの。ヴァシリと、アリア、マリアンヌちゃん……伝えましょ? フィンくんのことを」
「……そうか。アリシアさんが言うなら、そうなんだろうな」
「ええ。もう無理よ。暴いて、本当にごめんなさい。責任は取るわ」
「エッ、せ、責任っ……」
そうよ、責任よ。
私が暴かなければ、こんな風にはなっていなかったかもしれない。
今より酷い状況になっていたかもしれないけど、それは暴いた人間の言っていいことじゃない。
「フィンくんが例え地獄に落ちても、私も一緒に行く。二人なら、いえ、闇のマリアンヌちゃんもいるなら、地獄だって怖くないわ」
魔というものに堕ちたらどうなるのか想像もつかないけれど、きっとロクなことにはならないのでしょうね。
「だから気に病まないでいいの。君は凄いんだから。ね?」
「あ、ああ……わかった。別に気に病んでないけど」
もう自分がどんな感情を抱いていたのかすら理解できてない。
それがわかると、猶更悲しくなる。
せめて私だけは、フィンくんの感情を覚えておかないと。
邪神に捧げられているであろうその想いは、紛れもないフィンくんのものだから。