部屋を辞して辿り着いたのは浴場だった。
服も着替えずに中に入る。
……知らなかった。
フィンさんが、そんな思いで生きていたなんて。
わからなかった。
フィンさんが、そんな苦痛に苛まれていたなんて。
知らなかった、わからなかった、言い訳ばかりが頭の中に思い浮かぶ。
だって、だってだって、全部そんなことわかるわけもなかった。
フィンさんはいつだって平気じゃなかった。
だって言うのに平気なフリをして、そんな苦痛すらも飲み込んで、自分は大丈夫だって心に言い聞かせていたなんて、そんな、そんなの、わかるわけがない。
──バシャアッ!
冷水を頭にかける。
強引に冷やされた思考が、言い訳を洗い流す。
「…………私は……なにも、わかってなかった……」
ずっと一緒にいたのに。
同じ立場だったのに。
私だけがフィンさんのことを対等に考えられたはずなのに。
私は、フィンさんの苦しみを感じ取れなかった。
察せなかった、声をかけることすらできなかった。
強引にでも聞くべきだった。
平気だ、なんて言った後の表情を見たことがあるか?
覚えがない。
そう、覚えがないの。
どうして覚えてないの?
見てたはずなのに、見たことがあるはずなのに、私は、私の記憶には、残ってないの。
私が、私が気がついてあげなきゃダメだったのに!
「どこが、なにが聖女よっ!!」
大切な人の気持ちすらわからない女が、一体誰を救えるの?
自分への怒りが収まらない。
嫌いだ。
自分が嫌い。
フィンさんのことを気にもしていなかった、自分が嫌いで仕方ない。私は、私だけは理解しなくちゃいけなかった。守られるだけでいちゃダメだった。対等にいるべきだった。なのに、なのに私は、フィンさんに守られることを当たり前だと思っていた。
力がなかった?
そんなの言い訳だ。
フィンさんは自分の被害も気にせずに私のことを守ってくれてたのに、私は保身を考えて一歩引いていた。反吐が出る。まるで修道院で私を虐めてきたあの子女達のようで、己の悍ましさに鳥肌が立つ。
「私は──私は、なんで、こんなに醜いの……?」
【勇者】アリアンロッド。
彼女が近くにいるからこそ、より色濃く自分の醜さを自覚させられる。
どうして彼女はあんなに綺麗なの?
どうしてあなたはそんなにまっすぐでいられるの?
フィンさんの全てを見て、どうしてそんなに、美しくいられるの?
私は、断片的に聞いただけでも耐えられなかったのに。
『俺は…………この世界が憎い。全てが憎い。滅んでしまえとすら思う時が、ある』
『だけど、それだけじゃないんだ。何よりも憎いのは自分だ。力のない自分が憎い。アリアのような特別でもなく、師匠の弟子だと胸を張れない自分が一番憎い……!』
『俺は……俺はっ!! 俺はどうしてこんな、何もない、凡人なんだ!? ずっとずっとそうだった! どいつもこいつも恵まれて! 俺だけだ! 俺たち持たざる者には生きることすら許されない! 俺は、この世界が大嫌いだ!』
なにも言えなかった。
初めて見たフィンさんの怒り。
見たこともないような形相になったフィンさんは本当に恐ろしくて、何より、フィンさんを怖いと思った自分が信じられなかった。
『恵まれた人間も、恵まれない人間も、全員等しく死ねばいい。……ああ、そうか。あの時俺は、こう思ったんだ』
『こんな世界、とっとと滅んでしまえばいいって……!』
それがフィンさんの本音。
ずっと隠してきた、フィンさんの憎悪。
私達を守って傷ついていく内側でずっとずっと溜め込んで、私達も、フィンさん自身も目を逸らし続けていた現実。
もうどうしようもないその想いに、アリアンロッドさんは、ただまっすぐ答えた。
『見た。見たよ。フィンの全部を見た。ごめんね。ごめんなさい。私、フィンのこと、全然わかってなかった。──でも、もう逃げない』
『私は勇者だよ。世界を救ったんだ。幼馴染の一人くらい救えなくてどうするのさ』
『構うもんか。それでも私はフィンがいい。フィンじゃないと嫌だ。文句ある!?』
「…………ふふっ、あはっ、あははっ! ねぇ、そんなの……勝てるわけ、ないでしょ……」
なんて美しい愛なの?
どうして私はそう言えなかったの?
なんで私は気がつくこともできなかったの?
なんで好きな人の苦痛から目を逸らしたの?
フィンさんは強い人だから大丈夫。
そんなわけがないのに。
強い人だからって平気なわけがないのに。
私は、私達は、目を逸らしてしまった。
逃げ出してしまった。
もし問い詰めて本音を言われて、嫌われていることがわかったらどうすればいい? 怖くて踏み出せるわけがなかった。
でもそれは言い訳。
フィンさんからすればなにを今更と呆れるに違いない。
フィンさんが苦しんでる間、私はずっと守られていた。
守ってもらうだけだったんだから。
「……なんで? なんで私は、アリアンロッドさんのように、なれないの?」
自分の浅はかさに吐き気がする。
〈聖剣〉がないから?
ううん、違う。
ヴァシリさんがいなかったから?
そうじゃない。
私はアリアンロッドさんのようにはなれない。
ずっと怯えてた。
自分の居場所を失うことに怯えてた。
明日生きていられるかどうかに怯えてた。
孤児院で育って、修道院でいじめられて、追い出されて、冒険者になって、一人で生きていくしかなくなった。だから卑しいんだ。惨めなんだ。
フィンさんに甘える道を選んだ。
守ってくれたから。
仲間だと思ったから。
フィンさんに助けてもらうために、尽力してた。
自分の…………自分の卑しさが、本当に、醜い。
「…………勝てないよぉ……」
勝てるわけがない。
幼馴染同士、お互いを想いあってる男女に、勝てるわけなんてない。
フィンさんですら怖がってた。
フィンさんにも恐怖があった。
だけど、アリアンロッドさんは、そんな恐怖を乗り越えた。
フィンさんに手を差し伸べて引っ張り上げた。
それが、喜ばしいことだってわかってるのに。
フィンさんが、好きな人が本当の意味で心から救われて、嬉しいのに。
どうしてこんなに、苦しいの?
どうして私は素直に喜べないの?
身体を重ねて、想いを通じ合っているのに、どうして?
胸が痛い。
恋の動悸とはまるで違う。
「わ、わた、私だって……フィンさんのこと、好きなのにぃ……」
幼馴染同盟だなんて手を組んでた自分が哀れで仕方がない。
滑稽だ。
惨めだ。
最初からフィンさんはアリアンロッドさんのことを見てたのに。
その隣で私は、フィンさんの心も読み取れないで、ずっと、ずっと……!
「う、うあっ、ううううぅぅ……!!」
涙が溢れる。
それを冷水で強引に流していく。
泣いちゃだめ。
泣く資格なんてない。
一番泣きたいのは、泣きたかったのは、他でもないフィンさんなんだから。
私が泣く権利はない。
なのに、涙が止まらない。
それを誤魔化したくて、冷水をずっと浴び続ける。
喜べ。
喜びなさい、マリアンヌ。
喜ぶしかないんだよ、マリアンヌ。
だってフィンさんが救われた。
これ以上に嬉しいことはないんだから。
たとえそれが私じゃないにしても、たとえ私が選ばれなかったとしても、たとえ、目の前で、負けを見せつけられたとしても……私はそれを喜ばないと、いけないんです。
だって、私は聖女だから。
捨てられたわけじゃないんですから。
一番が明確になっただけで、別に、捨てられたわけではないんですよ。
だからそう、悲しむ必要なんてないんです。
ただ喜べばいい。
そうでしょう、マリアンヌ。
わかってる。
わかってます。
次、顔を上げたとき、ちゃんと笑えるようになりますから。
だから今は、今だけは、この気持ちを吐き出させてください。
──あーあ……。
──フィンさん、奪られちゃったなぁ……。
胸が痛くて仕方ない。
ドキドキとチクチク、頭がどんよりと重たい。
これが失恋なんだ。
恋をしてるのに、恋が実ってるのに、恋に敗れた。
わけわかんない。
でも、仕方ない。
負けたんだ。
アリアンロッドさんに。
それが、事実なんだから……。