世界には、見るべきではないものがある。
魔女の里で生まれ育ったカトリーナだが、冒険者として過ごした数年間で学んだことがいくつもあった。触れてはいけない領域があること。知ってはいけない絡繰があること。見るべきではない深淵があること。
人の業の深さ。
心がある生き物のやった事とは思えないような非道。
そういったことが世界には存在し、他人に食い物にされる人々がいるのだとカトリーナは知っている。
触れざるべきもの。
目の前で和やかに会話する一柱と一人がそうだとわかったのは、あまりにも遅すぎた。
養分と呼ばれて否定しない使徒。
己が使徒を養分と呼び食い物にしている邪神。
どう考えても健全な関係ではない。
封印されて力を失っていた神に力を取り戻させるほどの憎悪。
そんな心の状態でありながら、極めて紳士的に振舞おうとする怪物染みた理性。
おかしい人だとは思っていた。
他人に見えないのをいいことに邪神に奉仕させて愉しんでいる、紳士の皮を被った変態。そんなとんでもない男に大事な仲間が目を付けられて絆されて抱かれそうになっていた。抱いた危機感に逆らわず、踏み込んでどうにかしなくちゃと思った。
話を聞いて、自分が空回りしていたことがわかった。
怒りもせず、仕方ないことだと受け入れた。
器の広い人だと思った。
自分が勘違いしていたと恥じた。
だけど──だけど、そうじゃなかった。
憎悪を、記憶を奪われて、どうして平然としていられるの?
神の操り人形、傀儡、文字通りの養分。
だっていうのに、それなのに自我がある。
一人の人間として独立している。
なのに、許容している。
おかしい。
普通じゃない。
記憶を奪われて、感情すら奪われて、神に良いように扱われているのに笑って過ごせるその精神性は、一体何なのか。
(…………ひ……人じゃない……)
悪い人だと思った。
でもそうじゃなかった。
だけど、おかしい人だった。
おかしい理由はいくつもあって、人とすら思えないほど狂っていた。
神に取り憑かれて、神に感情と記憶を奪われ養分と呼ばれているのに気にせず仕方ないことだと受け入れるその精神性は、カトリーナに恐怖を抱かせるには十分すぎた。
辛い人生を送って、理不尽で死を迎え、女神によって蘇生された。
だからと言って、その後の人生全てをこんな扱いされなければいけないなんて事はない。
(なんで…………笑っていられるの……!?)
カトリーナはルルクスに恐怖心を抱いている。
以前の圧力もそうだし、人智の及ばない超常の存在だからだ。
何をするかわからず、何をして来るかもわからず、何をされるかわからない。以前からフィンと妙に親しげにしている姿は見ているが、それでもぎこちない距離感は否めなかった。
敬えば良いのか?
畏れれば良いのか?
不敬ではないか。
気を損ねないか。
テイアのように声を届かせるだけの存在ではない、世界に影響を及ぼす邪神。テイアという存在に身近だったカトリーナだからこそ、ルルクスに怯えるのは当然だった。
そんな邪神に取り憑かれて、自分がおかしいことも、狂っていることも自覚しながら、それでもマシな人間でありたいと言う高潔さ。
その矛盾がひどく気持ち悪かった。
「……すまん。嫌な気分にさせたか」
「っ、い、いえ、そんな……ことは……」
どうしてそんな顔をできるの?
誰よりも辛い目に遭っているのは貴方なのに。
どうして他人を思いやることができるの?
「その……なんだ。もっと簡単に言おう。実際に死んで、復活したからこそ俺はこう考えるようになったんだ。何がおかしいのか、正直に言って欲しい」
「お、おかしくなんて、ありませんよ」
「その反応はおかしいやつを前にした時にするもんだろ」
そう言ってフィンは苦笑する。
その笑顔がさっきまでのものと何一つ変わらなくて、逆に恐ろしい。
「少しでもマシでありたいんだ。だけど、俺はおかしい奴だから、自分の何がおかしいのかもわからない。壊れてるって散々言われた。もう二度と戻らないって闇マリにも言われてる。それでも、こんな俺にも、誇れるものはあるんだ。それを誇っても良いような男になりたいんだよ」
その顔が、あまりにも真剣で。
あまりにも残酷すぎる現実が、カトリーナの意識を蝕む。
(…………どうして、この人が、こんな目に遭ってるの……?)
それは、全てが原因だ。
勇者と幼馴染だったから。
幼馴染に轢かれて死の淵に立ち、それでも幼馴染を置いていかないと気張れる少年だったから。
師と幼馴染に置いていかれても不貞腐れず王都で独り立ちしようと思える少年だったから。
仲間と絆が育めず酷い環境で暮らしながら耐えられる身体だったから。
苦しさを快楽に感じられる所為で、過酷な道を歩めてしまったから。
仲間を救うために死に、その間際で邪神すら魅了する憎悪を吐き出してしまったから。
全てがフィン・デビュラの今に至る要素だった。
フィンはなるべくしてこうなった。
本人の口から直接過去を語られたカトリーヌは、その事実から目を逸らせなかった。
今では女達に囲まれて好き放題やって楽しい生活をしているのかもしれない。
でも、それだって、本当に楽しいの?
わからない。
本心がどこにあるのかがわからない。
マシでありたいと思う心と、狂った心が同居しているから。
(…………こわい……)
心の底から震えが湧き上がる。
顔から血の気が引き真っ青になった。
カチカチと歯がぶつかる。
フィン・デビュラという一人の男がこうなってしまったのは神の気まぐれかもしれない。だけど、神の気まぐれがなければ、生きることすら許されなかった。邪神の養分にされて喜んでいる。どうすればいい? どうすればこの人の、マシになりたいという要望を叶えられる?
邪神が恐ろしい。
怖くて仕方ない。
あんな淫らな奉仕をしておきながら、男のことを養分として扱うその精神性が理解できない。邪神であり女神。聖魔合わさる存在が、矛盾している存在達が、恐ろしくて仕方なかった。
「で、デビュラさんは…………それで良いんですか……?」
口に出してから、気がつく。
聞くべきではなかったかもしれないと。
それは、踏んではいけない領域だったかもしれない。
慌てて口を塞いだカトリーナだが、すでに言葉は発せられている。
怯えるカトリーナに、フィンは苦笑して答えた。
「良いもなにも、
吐き出された本音には怒りもなければ憎悪もない。
ただ、仕方ないと受け入れた、事実の確認に過ぎなかった。
(…………もう……この人は…………)
邪神と色んなプレイを楽しんでいる変態だと思っていた。
それだけじゃなかった。
壊れて、壊れて、壊れきってもなお人として素晴らしい人間でありたいともがき続けている高潔な人だった。
何を言えば良いのか?
それすらも浮かんでこない。
自らの恩人でもあり怨敵でもある邪神に命を救われ、養分として扱われ、性的にも好き勝手され、肉体を痛めつけられ、死ぬことすら許されない。こんな環境で人として立派でありたいと言い続けている人に言えることなんて、ひとつもない。
(私が同じ状況だったら、耐えられない……)
「あー……勘違いされてるかもしれんが、もし仮にアニカとそういう行為に及ぶことがあっても、闇マリは干渉してこないから安心してくれ。邪神は俺にだけ取り憑いてるから」
「……あの娘には恩があるもの。神は恩を忘れないわ」
「お、恩……?」
「ええ。神と魔。聖と魔。面白い概念よ。おかげで消化も早く済んだし、感謝してるわ」
わからない。
何一つわからない。
わかってはいけない、妖しい笑み。
邪神の笑顔がこれほどまでに恐ろしい。
自らの主神は助けてくれない。
声を一方的に投げかけるだけ。
頼りない。
だからカトリーナは、自分で邪神と相対せねばならない。
「そ……それは、何よりです」
「だから安心しなさい。我が使徒はおかしいけれど、女性に無理やり暴行を働いたことはないわ」
「そんなの当たり前だろ……」
呆れた表情でフィンが言う。
常識はある。
紳士だ。
頼れる盾役で、信頼できる。
だと言うのに、壁一枚隔てているような、生物としての存在が違う感じがする。
同じ使徒。
同じ人間。
だけど、まるで違う生き物だ。
(…………私は、踏み込んではいけない領域に、踏み込んだ……)
今すぐこの場から逃げ出したい。
でも、それは叶わない。
カトリーナに出来ることは、邪神の気を損なわず、フィンの異常性に怯えず、平静を取り繕おうと努力することだけだった。