ルルクスの言葉に、テイアは何も言い返せなかった。
使徒のことは大事にしろ。
エスペランサに勝ち目なんてないんだから少しでも力を付けろ。
女神として魔を受け入れたくなくても相手は話を聞いてはくれない。声をかけたのはあくまで気まぐれ。受け入れなくても気にしない。
箸にも棒にも掛からぬような矮小な存在だと、居ても居なくても変わらぬ存在だと突きつけられている。苛立つ。不愉快で仕方がない。女神であるこの身が、大地の化身であった妾が、取るに足らないだと? そのようなこと、あっていい筈がない。
──だが、否定できぬ。
エスペランサはルルクスに夢中だった。
男神は悉く滅ぼし、女神を標的に暴れ回った。一際強大だったルルクスを仕留めてからは、女神にすら興味を抱かなくなった。
妾など、追わずとも良いと?
相手にする価値もないと?
当時抱いた憤りは、しかしすぐに安堵へと変わった。
だがそのことが悔しくて、屈辱的で、されど怒ったところでどうしようもない。女神の矜持も何もかもを投げ捨てて、テイアは生存することを選んだ。遠い未来で逆転することを夢見て。
結果はどうだ。
──妾は、あの太陽神は愚か、ルルクスにも太刀打ちできぬ。
激しい陵辱の末に魔に堕ちたが、女神として融合を果たし新たな存在に昇華したルルクス。テイアが全盛の時代であっても勝てない、今の世に存在してはいけない正真正銘の神。いずれ世界を魔で呑み込み名実ともに支配者に返り咲きエスペランサとの決戦を行うであろうルルクスに、彼女は何一つ言い返せなかった。
(…………はっ。わかりきっていたことであろう)
己の計画は机上の空論。
それどころか実現することなどあり得ない夢物語だ。
仮にエスペランサが帰還しルルクスと戦ったとして、そのあとどうなるか。どちらが生き残ってもテイアに勝ち目はない。いや、お互い相打ちになるほど拮抗していればテイアにも勝つ術はある。だが、今の弱体化極まりない自分が二柱に害をなせるとは思えなかった。
(しかしそれでも、魔に染まるなど……)
かつて忌み嫌い穢れとして扱っていた魔。
神が神たる所以。
人々が逆らえない理外の力に対抗することが出来たのが神々だ。
ゆえに彼ら彼女らは崇められ、畏れられ、支配者として君臨することが出来た。
魔を受け入れれば二度と元には戻らない。
樽一杯に満ちたワインに泥水が混じれば取り返しがつかないように、一度堕ちた神は二度と元には戻らない。堕ちぬように抵抗はできても、一度でも受け入れれば……。
(…………できぬ。それだけは、何があっても)
「…………悪いが、断らせてもらおう」
テイアの返事にルルクスは眉を顰める。
「なぜかしら。あなたに他の選択肢は無いはずよ」
「うむ。おぬしのいう通り、すでに妾に神としての力などないに等しい。我が使徒が消えれば、妾は世界そのものが滅ぶまで地の底に封じられたままじゃろうて」
「わかってるじゃない。なぜ滅びを待つの?」
「妾は神じゃからの。魔は撃滅すべき穢れであり、相反するもの。たとえ妾が穢されこの身が魔に浸ろうと、受け入れることなどありえぬわ」
それは、ルルクスの逆鱗を逆撫でするような言葉だった。
しかしそれでもテイアは言わねばならなかった。
力も及ばない神とは名ばかりの存在になっても。カトリーナという使徒が出来た。彼女を通して信仰を得た。微々たるものだが力も得た。神とはとても呼べないかもしれない。それでもテイアは、たった一人の使徒の神だ。
「妾は使徒カトリーナの主神、地母神テイアである。たとえおぬしに及ばぬとしても、神として、魔に屈することは断じてありえぬ!!」
ルルクスが目を細める。
急激に唸り高まっていく魔。
彼女の作り出した領域が更に色濃く渦巻いていく。
先ほど一瞬で霧散したはずの空間が、室内を丸ごと飲み込んだ。僅かな夜空の煌めきだけが照らす世界。魔の主にして月の主。背後に浮かぶ上がる巨大な月を背負い、ルルクスは告げる。
「そう。なら死になさい」
己の逆鱗をなぞられたこと。
邪神としての性質に加え、己を見捨てて逃げ出した神への憎悪が入り混じり、ルルクスの殺意は歯止めなく膨れ上がる。
精一杯の抵抗としてテイアは力を振り絞る。
己が力を全て肉体の防護に回した。
それだけでは守れるはずもない。
ゆえに、テイアは己の命も代償にする。
(すまぬな、カトリーナ。だが安心するがよい。おぬしの身体には傷一つ付けさせはせん)
神としての存在そのものを使用した防護。
それを用いたとて、どれだけ無事な可能性が増すか。
それでも使わない手はなかった。
テイアは神として、主神として、使徒のことを守らねばならぬと思ったから。
(遅かれ早かれ妾は滅んでいた。ならば、こうして直々に引導を渡されるのも悪くないのう)
この後に待ち受けている末路を考えればマシな終わり方だ。
エスペランサに負ければ良くて瞬殺、悪くて陵辱。
ルルクスに屈すれば魔に浸り神としての尊厳を失う。
とうに失ったものだったとしても、それでもテイアは己が女神だと自負していた。だから受け入れられない。魔と融合するくらいならば、この場で死を選ぶ。
(妾は、主神としても失格じゃの)
この無駄な意地をあの時使えていれば。
陵辱され魔に浸されたとしても、今頃は消滅できていたのでは無いか。結局のところ、テイアは怖かったのだ。勝ち目のない戦いに挑むことが、陵辱され、穢れに染まり狂うのが。
恐怖に負けたテイアは逃げ出した。
逃げて惨めに生き残ることを選んだ。
神としての力も失ったが女神としての尊厳は守った。
──そんなものに、なんの意味がある?
守り続けたものは、この世界で誰一人として知ることはない。
里だけがテイアの存在を知っている。
更にそれでも実在を疑われているのだ。
使徒を選定できなくなってから、彼女の力はみるみる衰えていった。こんなはずではなかった。こんなはずでは。だが、それと同時に、安堵もした。
これでもう、妾は誰にも見つからず、ここで朽ちることができる。
己の甘えた思想に吐き気がした。
(カトリーナ。妾は、おぬしの神であり続けられたかの)
全てを吸い込む漆黒に、銀の煌めきが混じる。
ルルクスの手に集まったそれが、今まさに放たれようとしている瞬間──テイアは、確かに聞いた。
(────いえ全然。話は聞かないし、一方的だし、私の不幸を笑ってるし、神様っていうより意地の悪い理外の存在です。……ていうか私の身体で何してるんですか!? このままじゃ私も死んじゃうじゃないですかぁ!! もおおおぉおおぉぉっっ!! いい加減にしろよ引きこもり!!)
「ほげぇっ!!!!?!?」
使徒から放たれた罵倒に思わず気を緩めたその瞬間、闇が膨れ上がる。
(あっ!! し、しまった! これでは守れぬ!)
(い、いやああーーーっ!! こんな、こんな形で死ぬなんていやあぁーー!)
一柱と一人が叫ぶ。
しかしその声は届かない。
ルルクスの領域の中で支配されている彼女たちには、迫りくる死を待つことしか出来ない。
今まさに、放たれようとしたその瞬間──声が遮った。
「闇マリ。そこまでにしてくれ」
男の声が発せられると、すぐに闇は消失する。
室内を塗り替えていた領域も消え失せ元の部屋が戻って来た。
「はーっ、はーっ、ふっ、あ、あれ、戻って来た……?」
尻もちをつき荒い呼吸を繰り返すカトリーナ。
そんな彼女を見下ろしながら、ルルクスは不服そうに言う。
「……我が使徒。邪魔しないでちょうだい」
「いや、流石にその場の流れでやっていいことじゃない。確かにテイア様は闇マリの心を抉るようなことを言ったが、だからと言って殺すというのはやりすぎだ」
その言葉にルルクスはプイッと顔をそむける。
まるで拗ねた子供のような態度にフィンは苦笑するが、それを見ているカトリーナは気が気でなかった。
(あ、あんな、とんでもない神様に、よくもまあ、そんなことを……)
戦慄する。
先程もそうだが、こんな力の差を見せつけられてどうしてそんな風に接することが出来るのか、理解が出来ない。男女の関係だとか、なんだとか、邪神に関係があるのか? カトリーナは、目の前の主従を畏れることしかできない。
そんな彼女の畏怖も知らずに、二人は話を進める。
「というか、百歩譲ってちょっと悪戯するとしたって、カトリーナが可哀想だろ。やるなら本……本神? だけにしてやれ」
(エッ、そ、そこ!?)
庇って貰えたのは嬉しいが、出来れば悪戯を許容しないで欲しいと思った。
「……もう、面倒くさいわね。人形作ってぶち込んじゃだめかしら?」
「あれだけ嫌がってるのにそんなことしたら、本気で敵対するぞ」
「さっきのは敵対発言として受け取ってるわ。ねぇ、そこの使徒」
「は、はいっ!」
心臓が高鳴り胸がキュッと痛む。
頬を引き攣らせながらカトリーナは必死に返事をした。
「テイア、堕としてもいいかしら」
邪神が、主神を堕とすと言った。
カトリーナは使徒だ。
女神テイアを幼い頃から信奉してきたし、唯一声を聞ける者として長年仕えて来た。歴史の真実や、【超滅】での冒険でも時折役に立つアドバイスをくれた。生命の危機に瀕している時は神の視点から言葉を一方的に投げかけ、人の不幸で愉悦を味わう。更に今回、強引にカトリーナの身体に憑依したとはいえ、使徒の身体で圧倒的格上の神に喧嘩を売り消し飛ばされそうになった。
正に神と言わんばかりの言動を繰り返していたテイアだが、カトリーナなりに女神のことを慕っている。
そんな彼女が、主神を売り渡せと邪神に嘯かれた。
答えはもう、決まっていた。
「──はい!」
迷いのない即答だった。