(────ハァッ、ハッ、ふっ、はあぁっ……!!)
テイアは必死に意識を落ち着かせた。
彼女の長い生の中で、あれほど危機的状況に陥ったことは前例にない。
エスペランサが襲来した時すら逃げ出すことは容易だった。
自分より圧倒的な上位者が、己が最も忌み嫌う力を振るい染めようとしてきた。逃げ場はない。逃げる手段もない。染まるか死ぬか。染まることは選べなかったテイアは、いっそここで死ぬ方がマシだと決断し逆鱗に触れた。
そして迫り来る死。
回避の出来ない死に、せめて使徒の身体くらいはと全力を尽くそうとして、普通に使徒にお前ふざけんなよと言われた事に動揺して失敗し、南無三というタイミングで──領域が解かれ、テイアは命からがら逃げだした。
(ふぅっ、はっ、くっ、く、くくっ、くくくっ、わははははっ!!)
肉体すらない意識だけの状態。
最早彼女にとってはこちらの方が慣れ親しみつつある無力な状態だというのに、それでも笑い飛ばして見せた。
(ふはははっ!! 生きておる! 生きておるぞ妾は! あのルルクスから逃れたのだ!)
それはここ数千年で最も大きなカタルシスだった。
かつては月の女神として支配者の一角に君臨していたルルクス。
プライドが高く、しかし民への慈悲は深く、その美貌と月の魅力が合わさり数多の神々をも魅了していた女神。エスペランサが襲来した際も、誰よりも早く戦い始め、誰よりも長く抵抗を続けた。気高さと強さの両方を持った、正に崇拝されるべき女神。
魔を撒き散らす存在に成り果ててもなお、強大な力を有するかの神から、テイアは生き残った。
(命運は尽きとらん! 妾はまだ生きていける!)
カトリーナとの線も薄くなってしまったが、逆にそれはよい影響を与えるとすら思った。
彼女との線を辿られて召喚されたわけだが、それさえなくなれば如何にルルクスと言えども己を引きずり出す事は困難。カトリーナから得られる力も減ったが、それでも死なない程度には供給される。
(こうなっては仕方あるまいて。とにかく溜め込み、次の世代の芽を待つのみよ。カトリーナを超える才覚を持つ者が現れるやもしれないのじゃ。まだ、まだ妾は負けておらん……!)
窮地を脱したことで、テイアの精神は一気に前を向いた。
戦うことすらせずに逃げた敗北者、人々に忘れ去られた神。
自尊心というものを削られ続け、それでも己が神であると啖呵を切ったことで彼女は女神としての自己を取り戻した。今はまだ勝ち目など無い。相手も強くなり続けている。それでもあきらめる理由にはならない。
神は滅ばない。
ならば、滅ぶその時まで抗うのみだ。
(ルルクスよ。妾は、負けぬぞ)
大地の上で支配者が決まりつつある現在の情勢は苦しい。
それでも、テイアは大地の奥底で生きている。
(必ず…………必ず妾は、返り咲いてやるのじゃ……!?)
──そう息巻いた瞬間だった。
テイアの意識が一瞬だけ引っ張られる様な感覚がして、次に意識が戻った時には、先程まで見ていた一室の中にいた。
己を取り囲む三人の人影。
一人は宙にプカプカ浮いており、一人は腕組をして見下ろしており、一人は冷たい瞳でテイアを見つめていた。
「……ほひ?」
「おかえりなさい、テイア。随分ご機嫌だったみたいね?」
「ひょ!!!?!?!??」
宙に浮く神、ルルクスにニッコリと微笑まれテイアは動揺する。
(ひょえええ!!? なっ、なぜ、なぜここに!? 妾を追ったのか!? どのように!? カトリーナとの線はほぼ途切れていたではないか!!)
「そんなの、貴女自身にマーキングしてるに決まってるじゃない」
(しっ、思考がっ、読まれ……!?)
絶句した。
自分が感知できないようにマーキングまで施され強引に引きずり出された挙句、思考まで読まれている。このままではまずい。逃げる手段がない上に、先程の様に使徒の肉体に居るわけでもない。そうだ。なぜ肉体がある? なぜ顕現できている。これは妾の力ではない。ではなんだ? 何を依り代にしておる。わからぬ。じゃが、思考まで読まれている以上、下手なことを考えるのはまずい……
「何がまずいのかしら。言ってみなさい」
(ひ、ひいいぃっ!!)
──このままでは殺される!
いや、それより酷い目に遭わされる。
相手は邪神で魔が入り混じった悪神じゃ。きっと大昔にエスペランサめにやられたことをそのまま妾にするつもりに違いない。きっと犯されて孕ませられるのじゃ。魔に浸されて尊厳を奪われて、最後には下民に、そう、正にそこの男に下げ渡されて遊ばれて、死ぬのじゃ。いやじゃ、死にとうない。そんな死に方はしとうない。
「……あ、あのねぇ……私を何だと思ってるのかしら」
「わ、私の主神がすみません……」
「むぅ……それも中々……」
「あ、我が使徒は黙ってて」
「おほっ!」
「…………(絶句)」
き、きっと神としての尊厳を散々に踏みにじるのじゃ。里にいって全員奪い妾を完全に無抵抗にしてから、死ぬことも許さぬようにされるのじゃ。い、いやじゃっ! そんな目に遭いとうない!
全員に思考が筒抜けなことにすら気が付かず、テイアはひたすら絶望する。
どうすればいい?
どうすれば生き残れる?
この状態では勝ち目どころか逃げ場もなく、引導を渡されるのがわかりきっている。どうすればいい。どうすれば許される? でも魔は嫌じゃ。染まりとうない。どうすれば……
「……なんか面白くなってきたわ」
「闇マリ、趣味悪いぞ。……俺もだが」
「あ、あ、あは、あはは……うぷっ……」
邪神と使徒が邪悪な笑みを浮かべておる。
カトリーナの顔が青褪めておる。
おぬしも脅されておるのか?
すまぬ、妾にはおぬしを助ける力はない。
許してたもれ、許してたもれ……無力な主神を、どうか、許してたもれ……。
「…………あ……」
「……カトリーナ? 大丈夫か?」
「…………わ、私、あ、や、やっちゃったんだ、私、売ったんだ、神様を、あ、ああ、私、私っ、な、なんてことを……」
嘆くでない、カトリーナ。
妾は怒っておらぬ。
致し方ないことじゃ。
おぬしも生き残るため、仕方なかったのだろう。
驚いたし、動揺もした。
情けない姿を晒してしもうたが、おぬしを見ていると不思議と落ち着いた。
あの里は我が総本山であるが、既に忘れ去られて久しい。
いや、信仰自体は届いておる。
しかし妾が姿を見せられるほどの余力は出せぬ。
数千年もの間、ずっとそうだったのだ。
もう妾も終わりだと思うておった。
じゃが、おぬしが現れた。
カトリーナ。
おぬしが居たから妾はもう一度夢を見ることが出来た。
礼をいう。
おぬしは妾の誇りじゃ。
「て、テイア様っ……!!」
「……闇マリ。流石にこれを引き裂くのは、ちょっと……」
「……今、女神の私と邪神の私が喧嘩してるから待ちなさい」
妾とおぬしはここで道を分かたれるじゃろう。
しかし、妾はいつまでもおぬしのことを誇らしく思っておるぞ。
そのことだけは、忘れるでない。
「はい、はいっ……!」
さて、そろそろやるかの。
カトリーナ、よく見ておくがよい。
妾の女神としての、最後の振る舞いじゃ。
「っっ……!!」
カトリーナは、涙で滲んだ視界の中で、じっとテイアのことを見つめた。
色々あったけど、最後の最後にテイアは女神らしい姿を見せた。
女神とは、母性と慈悲の権化である。
慈しみ、愛し、庇護する。
それこそが女神たる所以。
地母神テイアは既に力を喪失していたが、それでもその魂に刻まれたものは消えていなかったのだ。
そして、テイアは己の使徒が見つめている中、ゆっくりと姿勢を正した。
東方で言うところの正座へと変化し、そのままゆっくりと前に身体を倒す。
床に触れた額の横に手が添えられ、それは正しく、土下座と呼ばれる姿勢であった。
「許してたもれ! 妾は死にとうないし魔を孕みとうない! そこの使徒! カトリーナを好きな様にしていいから、どうか妾のことを助けてたもれ!」
「ルルクス様、やってください」
「我が使徒、やりなさい」
「汚れ役は俺がやる、か。……フッ、興奮してきたな」
「もぎゃああああああああっ!!? き、汚らしいものを見せるでないわこの変態が!」
「おほぉっ!! め、女神様の暴言……! キくなぁ……!!」
「ひいっ!!? な、なぜ更に大きくなるのじゃ!? かっ、カトリーナ!? 助けよ! 神が犯されそうになっておるのだぞ! どこへいく!? 出ていくな! 妾を置いていくなああああっ!! い、いやじゃあっ!! 犯されとうない! 孕みとうな────」
カトリーナは部屋を出た。
主神との繋がりは若干保たれているが、向こう側から送られてこない限り無害だ。
これまで何度も声をかけても反応がなかったことが幸いして、これから起きる惨劇(笑)からは身を置いて静かにしていられる。
「……さて。アニカのところにでも、行きますか……」
そう呟くカトリーナは、晴れやかな表情だった。