深い絶望に包まれたセラフィーヌ。
重く歪む心に頭には霧のようなものがかかり、彼女の思考と意志を圧し折ろうとする。
──この世界は絶望で満ち溢れている。
矮小な人間がどう足掻こうが解決できない無理難題が次々と襲い掛かり、理不尽を押し付けてくる。権力者、自然災害、モンスター、そして、何もかもを捻じ伏せる個人の腕力。
両親を陰謀で亡くしエスペランサ教の政治闘争という本質を理解した彼女は、世界に救いがないことを悟った。
力がなければ何も出来ない。
価値がなければなにもしてくれない。
隣人を思いやることすら出来ない世界だと知って、彼女は深く傷ついた。
なぜ、誰かを虐げるのか。
どうして、誰かを弄ぶのか。
どうすれば、人は人を愛するようになるのか。愛するだけではダメだ。たとえ自分にとって無関係で交わることのない人であったとしても傷付けてはいけないのに。自分の知らない誰かは、同じ一人の人間なのに。
世界は優しくない。
それは決して変わらない。
どうしようもないことだとわかってから、セラフィーヌは悩み、思いついた。
他人に救いを求めるのは良くないことだと。
なぜなら、人によって生きる目的も違いやりたいことも違うから。生きるために必死になって働いているだけなのに他人の食い扶持を奪ってしまうこともあるのに、全ての人が他人を傷付けないようにすることなど不可能だと気が付いた。
なら、自分がなればいい。
自分が全ての人間に平等な救いを与えればいい。そしてそれは権力や腕力に縛られない生きることを目的としたものにすればいい。
病で亡くなる人、怪我で亡くなる人、動けない老人、手足を失った兵士、身体を売って生きて行かなければならない娼婦、痩せ細りカビたパンを食べ泥水を啜って生きる子供。
全ての人を助けることはできない。
それでも救いの手を差し伸べない理由にはならない。助けてと言えない誰かを助けなくていい理由にはならない。例え救いのない世界であったとしても、自分まで他人を助けなくていい理由にはならない。
修道院で学んだ治癒の腕を貧民街で磨き、魔力が枯渇してもなお治癒を続けた。ギュッと胸と頭が締め付けられるように痛みを抱えながら、毎日毎日治癒をし続けた。
そうしなければならないという使命感があった。
他の誰かにやらせるわけでもない、ただ、自分がそうしたいから。
そうしなければならないと思ったから、彼女はひたすらに自分を犠牲に治癒の技量を磨き上げ、魔力の効率も治癒の精度も底上げし、血反吐を吐きながら誰かを癒す力を鍛え続けた。
──世界は絶望で満ちていて、理不尽に溢れている。
それを変えることはできない。
だけど、抗うことはできる。
世界の理不尽を消すことが出来ないのならば、理不尽に襲われた人を全て救う。そうすれば理不尽にもう一度立ち向かえるかもしれない。理不尽から逃げられるかもしれない。逃げることすら出来ない人の手を強引に引き上げられるような、そんな人間になりたい。
そうするためなら聖女号だって必要ない。
地位や名誉なんてものは誰かを助ける手段を倒すための方便に他ならず、滅私奉公の精神で生きているセラフィーヌは誰かを救うために生きているのだ。
だからこそ──彼女が認めた人が、認められない所業を犯していることが、深い絶望を齎す。他人に救いを強要することはできない。手を取り合うことが出来る人は稀で、フレデリカはその一人だと思っていた。
辛い過去を乗り越え、やり方に少々問題はあるが、強きを挫き弱者を結果的に救う。自分には出来ないやり方で人を救っている聖女だと認めていた。
そんな彼女がフィンを虐げる中に参加していることは、セラフィーヌの心を蝕むには十分すぎた。
「どう、して……なんで、あなたが……」
「あ? なんのことだよ。おいアストレア、どこまで話した?」
「何も言ってないわよ。ねえ、フィン。そうでしょ?」
「あ、ああ。何も言ってない……」
「お前の言うことは信用できねえんだよ」
そう吐き捨て、フレデリカはセラフィーヌに目線を向けた。
まるでフィンのことを欠片も信用していないような態度。セラフィーヌに対する態度とは違う冷徹な一言だった。
「セラ。どこまで聞いた?」
「…………それより先に、教えてください……」
(……それでも。もしかしたら、勘違いかも、しれないから……)
か細く枯れ果てた声色でセラフィーヌは続ける。
「フレデリカさん。あなたは、フィンさんのことを……知ってたんですか?」
「……なんの話だ? こいつの尻穴がガバガバだってことか?」
「──っっっ……!!!」
(──うそ。うそだ。どうしてあなたまで!!?)
ギュッと歯を食いしばる。
そうでもしないと、倒れてしまいそうだったから。
後ろに庇った人を助けられないかもしれないから。
今気が付いた自分がいなくなったら、誰もフィンのことを救えなくなるから。
「どうしてっ!? なんであなたがっ!?」
「あ? どうしてってそりゃ……知っちまったからな。そうすると決めていることをやらずに逃げるわけにゃいかねえよ」
フレデリカは気に入らない相手──理不尽を他者にぶつける非道な権力者など──に対し、さらに上の理不尽を押し付けることを好む。
特に男性の場合顕著で、ちょっとしたセクハラくらいであっても制裁の対象となっている。その制裁がどれだけ悲惨か、セラフィーヌは知っている。
「なぜですか!? フィンさんはそんなことをされるような人ではないのに、よりにもよって、どうしてあなたが!?」
「あ……? んん……?」
「あなたは、あなたは理不尽と戦うと言っていたではないですかっ! なぜ!? なんでフィンさんを苦しめるの!? あんなに辛い目に遭って、それでも負けずに立ち上がって、もう治らない身体で献身し続けているのに、なんであなた達はっ!! 誰よりも、あなた達がフィンさんのことを優しく包み込まないといけないのにっ!!」
怪訝な表情だったフレデリカの表情が変わる。
「──おいアストレア。お前何言った?」
「何も言ってないわよ。ねえ、フィンもそう思うでしょ?」
そう尋ねられたフィンは無言で頷く。
その動きを遮るように、セラフィーヌは立ち塞がり続ける。
「言わせないで! フィンさんを力づくで従わせようとするのは、もうやめてっ!」
「……何か言ってねえとここまで拗れねえだろ! 何言ったアストレア!」
「ほ、本当に何も言ってないって!」
「嘘つけェ!」
焦ったフレデリカが一歩前に出た。
「セラ、一回落ち着け。多分勘違いしてんぞ。フィン・デビュラの尻穴がガバガバなのは事実かもしれねえが、それは別に私達が何かやったわけじゃ……」
「それじゃあ、それじゃあどうしてここに来たんですか!? 私は誰にも言わなかったのに! 共謀してるからでしょう!?」
「……あぁ~~…………そういう……」
そして今度は困った顔をする。
その視線はセラフィーヌの身体を超えて、フィンに向けられていた。
「フレデリカさんのこと、信じてたのに……! 私と同じだって、思ってたのにっ!」
「……はあ。おい、フィン・デビュラ」
そうして彼女は、諦観を含んだ瞳でじっと見つめる。
「もういいだろ。こうなっちまったらどうしようもねえ。ちゃんと言うべきだ」
「……だがな……」
「これ以上拗れる方が悪い結果になる。いいから任せとけよ」
フレデリカが一歩踏み出す。
セラフィーヌの身体の魔力が高まる。
アストレアとぶつかり合っていた魔力が部屋の中を満たし輝きだす。
「フレデリカさんっ! フィンさんに乱暴するようなら、私はここであなたと戦います!」
決して戦闘向きの能力ではない。
誰かを癒す事だけを考えて来た彼女はフレデリカと戦えば勝つことは絶対にありえない。何があっても自分を治せるだけで、勝てないのだ。
それでも彼女は戦う意思を見せる。
そうすることこそが、セラフィーヌの信念だから。
「……セラ。お前に一つ、言わなくちゃいけねえことがある」
フレデリカはそんな彼女を眩しそうに見つめた。
その瞳にあったのは敵意や隔意ではなく、ただ純粋に尊いものを見るような感情だった。それがゆっくりと同情するような、申し訳なさそうな色に変わってから、口を開いた。
「フィン・デビュラは────マゾだ」
「……………………はい?」
「お前の庇ってる男は、マゾだ。どうしようもねえマゾ、ドマゾだ」
何を言われているのか理解できなかった。
「フィン・デビュラは……マゾなんだよ……」
しかし、そう告げるフレデリカの表情が真剣そのもので、騙そうとしているものではないとわかってしまった。
(…………マゾ? どうしようもないマゾ、ドマゾ……?)
セラフィーヌはゆっくり後ろに振り向いて、フィンのことを見た。
フィンは吹っ切れたような清々しい表情で彼女を見つめていた。