「……フィン、さん……?」
セラフィーヌは、スッキリした表情で佇むフィンの名を呼んだ。
つい先程まで自分の中にあった怒りや絶望が一瞬にして吹き飛んで、ただひたすら困惑だけが心を埋め尽くしている。
なぜフィンがそんな顔をしているのか?
なぜフィンはマゾだと言われて否定しないのか?
なぜフレデリカはこの状況でそんなことを言い出したのか?
なぜフレデリカはセラフィーヌのことを追い詰めるわけでもなく、フィンについて語り始めたのか?
それが理解できずに、しかし、なんとか理解しようとして、理解したくなくて、セラフィーヌは言葉を絞り出した。
「…………うそ、ですよね? フィンさんが、マゾ、どうしようもないマゾ、ドマゾ? どういう、意味ですか?」
「苦痛で気持ちよくなっちまうマゾなんだよ、こいつは。盾役として活躍してる理由の半分くらいはそれだ」
フレデリカの補足がセラフィーヌの脳を揺らす。
世界有数の盾役。
実力者であり、紳士的な態度も評価されている。
一部の冒険者からは『お高く止まってるハーレム野郎』とありもしない噂を好き放題流されているが、わかる人がみればそんなのは全て嘘だとわかることだ。
セラフィーヌは知っていた。
フィン・デビュラという青年がどれだけ高潔な人間かを。仲間達のために、仲間達に認められたいから、すごい人達に追いつきたいから、並び立ちたいから。そう言いながらひたすら己の身体を犠牲に食らいついて生きてきたことを、知っている。
ずっと見てきたのだ。
三年以上もの間、文字通り血反吐を吐きながら、仲間には言わないでくれと懇願し身体を痛めつけ続ける姿を。
──マゾ?
マゾヒストの略。
性的行為の際に痛みを伴う暴力を浴びることで興奮を催す特殊性壁。軽度のマゾヒズムを有している者は意外と多く、多感な時期にそういった快楽を浴びせられ性癖として根付くパターンが多い。
神官として、聖女として多くの患者と接してきた彼女は深い見識を持っていた。
どうしようもないマゾ?
誰よりも人の穢れた部分を見てきたフレデリカ・ブラッドフォージが『どうしようもない』と表現するマゾ?
それは一体どんなマゾなのか。
痛みで快感を得る?
ならばこれまでの行為は?
肛門に杖を突っ込まれて掻き回され、大量出血しながら治癒をされる行為は?
いや、それよりも大事なことを言っていた。
盾役として活躍している理由の半分はそれ。
盾役、マゾ、怪我、苦痛。
セラフィーヌの聡明な頭脳は、それらのピースを組み合わせていく。女性の集団に囲われ共有されているのではないかという確信に、マゾであるという疑惑が混ざる。そうなると、それが特別変なことを言っているわけではないのではないかと思えてしまった。
マゾであるのならば、そういう扱いをされても、喜んでしまうのではないか?
「…………フィン、さん……。そう、なんですか……?」
「…………そうだ。俺は……マゾなんだ……」
ガツンと、頭を殴られたような衝撃が奔る。
かつて、瀕死の──いや、最早死体同然の状態で生かされていたフィンを見た時以来の衝撃。強引に生かされている状態の人間を見た時と同じショックが彼女を襲った。
よろめいて、その場にへたり込む。
「ずっと、ずっと隠してきた。誰にもバレたくなかった。俺がドマゾだってことは、墓まで持っていくつもりだったんだ」
それはまるで罪の告白だった。
アストレアはなんとも言えない顔で、フレデリカはため息を吐いて、セラフィーヌは目を見開いて呆然と聞いている。
「けど、ある日露見してしまった。バレてしまった。俺がマゾだってことが、隠してきたことが、知られてしまった。終わったと思った。もう、どうすることもできないって思った。だけど──受け入れられたんだ……」
フィンの表情は明るい。
だけど、それがどうにも不気味だった。
「俺はおかしい奴なんだ。自覚がある。だからずっと隠していた。だけど、それがバレた挙句、受け入れられてしまったんだ。セラさん、俺は、頭がおかしいんだよ。わかってる。だけどそれは内側で終わらせておけば、誰にもおかしいって思われないだろ? だから、ずっと隠してたんだ」
「フィン、さ……」
笑顔のフィンが膝をついて、セラフィーヌの手を取る。
温かい手だった。
傷だらけで、ゴツゴツしていて、男らしい手だった。
「俺はマゾだ。マゾで、頭のおかしい男だ。セラさんには伝えたくないと思っていた。貴女に嫌われたくなかった。俺のことを想ってくれて、治療をしてくれていた貴女の想いを踏み躙るようなことを、したくなかったから」
「え、あっ、え……」
「俺は、貴女の治療すらも気持ちよかったんだ。気持ち悪いだろ? 穴をほじくられる感覚が、治療行為だからと顔色ひとつ変えない貴女に尻の穴をぐちゃぐちゃにやられて元通りにされるのが、気持ちよくて仕方なかったんだ。気持ち悪いんだ、俺は」
畳み掛けられる言葉に処理が追いつかない。
ただ、握った手を振り払ってはならないと、セラフィーヌは必死に握り返した。
強く、強く、ぎゅっと力の限り握り続ける。
「セラさん。俺は、貴女の優しさを受けるに値しない人間なんだ。本当はマゾで、エロいことが好きで、複数の女性とエロいことがずっとしたくて、でも出来なくて燻り続けて、師匠の顔に泥を塗らないように抑えてきただけの男なんだ」
「…………で、でも……フィンさんは、そうだとしても、私は……」
「いいんだ。俺は穢れた男だ。本当は、貴女の手をこうやって触ることだって許されない。それくらい穢れてるんだ」
「──そ、そんなことないっ。そんなことありませんっ! フィンさんは、立派な人です!」
離れようとしたフィンの手を引っ張る。
力で勝てるわけがないのに、それでもフィンはセラフィーヌに大人しく手を掴まれたままだった。
「私は、フィンさんのことを診てきました! たとえフィンさんがマゾで、変態で、どうしようもない人だと自分を責めても、私は責めません!」
「ンオッ……セラさん……」
「マゾだから!? マゾだから、これまでの人生の全てを楽しく過ごしてきたんですか!?」
そう叫ぶと、フィンが目を見開く。
「そんなわけない! フィンさんの人生が苦しくなかったわけない! 少し考えればわかることなのにっ、どうして自分を卑下するんですかっ!?」
「俺が……苦しかったって、なんでそう思うんだ?」
「わからないわけないじゃないですかっ! あんな目に遭って、噂は好き放題流されて、身体まで壊したのに、誰にも庇ってもらえないままずっと頑張って……! 例えお腹の痛みが気持ちよかったとしても、貴方が追い出されたくないと思っていたのは本心でしょう!?」
「それは…………」
言葉に詰まったフィンの手を、さらにぎゅっと掴んで引き寄せ、胸元で掻き抱く。
「だから、だから私はっ、貴方が楽しく生きられるのなら、どうだっていい! 苦しまなくて済むならそれでいいんですっ! 苦痛に苛まれて心を壊してしまうようなら、そうなるくらいなら、苦痛を少しでも和らげられる方がいいに決まってる!」
治せない患者を見てきた。
身体は健康でも心が壊れてしまった人は、二度と元に戻らない。
モンスターに陵辱され心を壊した女冒険者は、治療された後人知れず姿を消す。故郷に戻ったのか、娼婦になったのか、それとも……。
人の身体は治せる。
だけど、心は治せない。
そうならないように、身体を治せる段階でなんとかしたいとセラフィーヌはずっと考えてきた。
だけどどうにもならなかった。
心を壊してしまうような人は、他人を頼れる状況にいないから。
だから──自分を守るために心がおかしくなってしまった人がいることを、セラフィーヌは知っている。
マゾだから。
マゾになってしまった。それはきっと、自分を守るための防壁だと思った。
それを否定する権利は、誰にもないのだ。
「フィンさんが苦しまないならそれでいい! 貴方のことを、決して、否定しないから…………どうか、どうか自分を責めないで…………」
セラフィーヌは、フィンの手を力の限り強く抱きしめ、祈るように呟いた。