交流を始めて五年ほど。
ヴァシリからすれば大したことのない短期間であり、里のダークエルフ達も特別気にも留めないような、けれど人からすれば生活環境を変えていてもおかしくない時間を過ごしたある日。
いつも通り正午に出向いたヴァシリは、寝床──動物の皮を縫い合わせ綿のようなものを詰めたお手製ベッド──で、ピクリとも動かないヨハンを見つけた。
『……寝坊か? 珍しい』
そう呟き、ヨハンの様子を見る。
目は閉じられ、動きが無い。
ふと、鼻に嗅ぎなれない匂いが入った。
(────死臭? なんだ……?)
『……おい。おい、ヨハン。起きろ』
声をかけても起きない。
揺らしても起きない。
少し焦ったヴァシリは、ヨハンの頬に触れる。
まるで熱を感じなかった。
冬ならばこんな冷たさになることもわからなくはないが、季節は夏。こんな風になるなど、普通ではない──そこまで考えて気が付く。
色白い肌。
動かない身体。
呼吸の上下すらなく、まるで死んでいるかのようで……
『…………おい。ヨハン。お前……』
返事はない。
“ただのしかばね”のようだ。
いつだったか、ヨハンが口にしていたフレーズを思い出した。
『…………なに、死んでるんだ。まだ、これからだったじゃないか……』
皮肉にも、ヴァシリがヨハンのことを完全に信じたのは、この瞬間だったのかもしれない。
人は八十年も生きられない。
五十歳まで生きてれば長生きで、大抵それまでに死ぬ。
星々が煌めく漆黒の夜空にまで手を伸ばしていたヨハンの前世でさえも、病や怪我によって命を落とすことは避けられなかった。
日々の食事に苦心し、健康に気を遣うことも出来ないこの世界では、五十歳で長生き。
ヨハンとて気を遣っていた。
だが所詮はただの人間に過ぎない彼に、全てうまく行くような天運は向かなかった。
『…………ゆっくり眠れ。三千年後に、また会おう』
────
──
────
ヨハンの遺したものはそう多くないが、その内容を理解するにはかなりの時間を費やした。
彼が優先して教えて来たこととは別に、死んだら読めと言われていたものがいくつかある。
ヨハンが木の皮を使って紙を作ると言い出して作った自家製の手記には、これまでの五年間で書きだした知識が詰まっていた。
まずはこの世界のこと。
〈リョナエロ! ~強い女達が凌辱NTRされる世界~〉なんてふざけた物語が元となっているという話は、現状、信じざるを得ない。
信じなくてもいいが、どの道三千年もあとの話だ。
今すぐに動くというより、それに向けて動く為に準備をするのが大事になる。
それに加えて人間社会の有様は醜く、見た目の整ったエルフ種が紛れ込もうものなら即座に悪意を向けられるだろうとも。ヨハンがそういう目を向けてくることがほとんどなかった為にヴァシリの危機感は薄いのだが、致し方ないことでもあった。
『私の死因は、〈魔王軍幹部による能力メタで手も足も出ず敗北すること〉。だが、肝心の未来の私の能力というのがハッキリしないな……』
他にも“ふらぐ”やら“CG対象キャラ”やら“登場キャラ”、そして登場した魔術や技などが書いてある。まあ、そこを読むのはまだ先で良いだろうと判断しヴァシリは自分のページだけ確認することにした。
『“げえむ的には弓と魔術を高水準で使ってた”。今と大して変わらんが、他にも修めた方がいいか』
武器や技術体系に関しても、ヨハンが知る限り手記に書いてある。
弓と魔術は現時点でそこそこ扱えるが、まだ一人前には程遠い。
格闘に剣、槍、斧、弓……里で扱われるものは剣や斧くらいのもので、あとは知らない。
幸いな事にイラストも──あまり上手ではない──手記には書いてあるため、これを参考にすることにして、ヴァシリは次の項目に目を移した。
次に人間社会に関して。
いずれ人類は海を渡る船というものを作り出し世界中に広がるが、その際に争いごとや弾圧が起きる可能性が高い。そうなる前に介入し、人間社会そのものをヴァシリがコントロールできる状態を作っておけ。
『……無茶を言うな、無茶を』
思わず苦笑する。
だがヨハンはこれを大真面目に、現実的な案として書いていた。
ゆえに、どうすればいいのか、どうやっていけばいいのかという彼なりに考えたものが続いている。
『……“国家が出来る前に、国家に依存しない組織を作る。俺のようなあぶれものをひと纏めにして、世界中に影響を及ぼせるような組織を”……』
ヨハンとヴァシリはまるで別の存在だ。
ヨハンは生まれながらにして知識があり、生まれに恵まれなかった。
知識を活かすことも、試行錯誤することすら容易ではない環境にありながら腐ることなく自分の最善を選んで生きて、己の全てを授ける誰かに会い、果てた。
ヴァシリは生まれに恵まれたが知識はなかった。
だが、ヨハンに出会い知識を授けられたことで膨大な時間を使い試行錯誤する機会を得た。遠い未来で死ぬ運命を覆すために、永い刻をこれから一人で戦っていく。
『……“警戒するべきは原作だけじゃない。〈転生者〉にも気を付けろ”』
ヨハンが今よりもっと後の時代で、そして身分の高い人間に生まれていれば、世界は変わっていたかもしれない。
それだけ彼が遺した手記には世に出せない〈知識〉が詰まっている。
そして、ヨハンの前世と同じ世界で生きていたものならば、ある程度の内容は見知ったものになるであろうこともわかっていた。
『“特によくわからん異次元の力を使う奴には近寄るな。チートオリ主だけはやめとけ”……まるで意味がわからんが、これから学んでいけばわかるのか?』
ヨハンの手記は、〈意味がわからないがその内わかるようになる大事なこと〉が度々出てくる。
これを解読することも仕事の内かと苦笑せざるをえなかった。
他にも開発しておくべき魔術や技術、ヨハンも詳しくないがあれば便利と言ったものが無数に書き綴られている。
そこに込められているのは、彼女に対しての気遣いなんて生易しいものではない。
無念。
ただひたすらに、無念であり、遺憾であり、慚愧だ。
前世でうだつの上がらない人生を過ごし、日銭を稼ぐ労働を終えれば僅かな時間を食事や娯楽に費やす日々。先人たちの創り上げた血と屍の極致である現代社会で生きながら、人生は不平等だと嘆く。
奇跡か魔法か、異世界に転生したはいいものの、知識は何一つ生かせない。
人生を豊かにする賢さよりも暴力が優先される世界。
ヨハンはそれがひたすらに憎かった。
他者を捻じ伏せることばかりが優先される世の中で、少しでも希望を胸に抱いていたのは、きっと、人間を嫌いになりたくなかったからだ。
結局、彼は自分のそういった感情を直接吐露することはなかった。
ヴァシリには散々世界の醜さを伝えたが、ならばそれと同じ数だけ美しい世界を見つけようと言った彼女に対して何を考えていたのか。
手記の最後には、たった一文だけ書かれていた。
【お前に笑われる日を待っている】、と。
それからヴァシリの日々は多忙を極めた。
悠久に近い刻を生きるエルフ種は基本的に生活リズムがゆっくりしている。
何かに焦る、ということがないと言うべきか。
ゆえに、里内でも慌ただしく過ごしている様子を隠さなくなったヴァシリは訝しまれながらも、まあそんな年頃かと生暖かい目で見られていた──最初の方は。
里の者がわからない言葉を話すようになった。
経済やら貨幣やら、とにかく、試しにやってみたいということで物々交換ではなく貨幣通貨による生活が始まった。無論、鉱石は彼女が山から掘り出して滅茶苦茶に溶かしたものを使用した。
食事も狩りだけでは安定しないので行商人や狩人に頼み手に入れた種を植えて育て始め、食べられる野菜を発見し品種改良を重ねていった。
主食となる穀物も数十年かけて探し集め、ヨハンの言う小麦に最も近いものを育て、実際に食し、試していく。
勿論、その間に研鑽も忘れない。
弓や剣は当然として、金属加工に関しても学んだ。複数の鉱石を混ぜ合わせることで新たに作れる金属があると手記に記されている以上、探らぬわけにはいかなかった。
そして何より最も大事だと思ったのは、魔術に関してだ。
ヨハンは何よりも魔術をもっと極めるべきだと言っていた。
理由は最も自由度が高いから。
水や火、風など肉体のみで数多のエネルギーに変換できるのはあまりにも有用すぎるんだとか。実際に色々試行錯誤し始めてから、その万能さに驚いたのは言うまでもない。
攻撃に使用する魔術は、ヨハンの手記によって開発に成功した。
温度の概念や水圧の概念を理解した彼女は、理を無視するような魔法を除き最も強力な魔術師になった。それでも満足せず、夜空に浮かぶ月にすら手が届いていたというヨハンの前世に追い付く気持ちでひたすら積み上げ続けた。
──転生者ヨハンの死後五百年。
それが、ヴァシリが設けた準備期間だ。
ヨハンの授けた〈知識〉の八割は理解した彼女は、この世界における生きるオーパーツ。長寿故に経済闘争も起きなかったが、それでも基本となる概念は理解した。
大陸全土に存在する亜人に貨幣制度が行き渡り、ヴァシリが結婚しなくても誰も違和感を抱かなくなるような頃。
彼女は里を出た。
理解に五十年近くかけてようやく生み出した空間魔法──ヨハンが欲しがっていた四次元ポケットとやらに大切なものを詰め込んで。
大陸全土を旅した。
海の上を魔術で歩き、別の大陸を探した。
幾つもの島を経て見つけた大陸にはヨハンと似た人間がいて、国は生まれ始めたばかりだった。
権力や地位に関係なく身を寄せ合える、冒険者ギルドを設立した。
異世界と言えば冒険者ギルドだろーがというヨハンの遺言に従い作った組織は瞬く間に拡散し、争いと弾圧に晒されながらも守り抜いた。里から持ち込んだ穀物や野菜を冒険者ギルド経由で拡散し影響力を増大させた。
大乱の裏で被害が甚大にならないように尽力した。
船を作り、信頼できる人間を連れて大陸を渡った。
いち早く入植し拠点を作った。
一つ一つ丁寧に、〈知識〉の記す未来にならないように潰していく。
なにが正解で、何が間違っているのか。
誰にも相談できない状態で、ヴァシリはがむしゃらにやりつづけた。
己の行為が正しいのか。
これで間違いないのか。
もっといいやり方があったんじゃないか。
詳しい歴史が記されてない以上、出来ることは全部自分で考えていかなければならない。
それでも、悩みながらも彼女は前進し続けた。
亜人の住んでいた大陸全土に人類が進出した。
東方、西方、北方、南方。
それぞれ特徴的な気候と地形を持つそれらに無数の国が生まれ、消えていく。
ヴァシリの故郷もいつの間にか滅んでいた。
強力なモンスターが無数に湧くようになり住んでいられなくなったのだ。ヴァシリがいずれそうなるかもと言い含めていたことで全滅は免れたが、少なくない犠牲者が生まれた。
ジワジワと迫る期限。
〈知識〉に記された出来事を完全に防ぐことは出来ていない。
エルフやドワーフに対する迫害は抑えられても、一時期発生した差別意識は取り切れなかった。エルフにだっているのだから、人間にも【人間こそが至高】と考える者が出てもおかしくない。
この世界は、物語を土台とした世界だ。
ヨハンに言葉が真実味を帯びていく。
彼の手記が力を発揮し続けていることもそれに拍車をかけている。
既に現れていたアストロガノフに聞いた預言も、〈知識〉から外れてはいない。
あなたは死ぬ。
主役と観測者を絶望させるための存在。
絶望と屈辱、災禍の果てに死ぬのだと。
【預言者】の言葉は外れない。
ゆえに、彼女は半ば諦めた。
ここまでやってダメなら、それこそが運命というものだろう、と。
(──これはもう、止められないのかもしれん……)
残り百年になって、ヴァシリは“原作知識”についてより深く考え始めた。
魔王軍の到来は予期できない。
必ず止めることはできない。
ならば、必ず仕留める手段を確保すればいいのではないか?
物語の性質上序盤から終盤にかけて主人公は成長していき、後半で手に入れる装備や魔術は相応に強力なものとなる──最初から強い装備や魔術を教えてしまえば、私を殺す相手だって倒せるのではないか、と。
主人公の【勇者】を覚醒させるのは【聖剣】と呼ばれる剣だ。
仲間だってフライングして集めてしまえばいい。
その為に私がいる。
ここまで世界に積み上げてきたものがある。
ヨハンの手記を頼りに聖剣を探し回り、残り二十年までになったタイミングで見つけた時は思わず感極まって泣いてしまった。
(あとは、西方の村に暮らす少女……アリアンロッドを見つけるだけだ)
特徴は金髪。
それしかないが、名前と髪色が分かっていれば十分だった。
西方にある村を巡り懸命に探していく。
焦燥と絶望がジリジリと彼女の心を焼いていく。
それまで気にもしていなかった、一日の短さに怯えるようになる。
二十年。
十九年。
十八年。
十七年、十六年十か月、十六年五か月……
あと何年だ?
あと何日だ?
あとどれくらいの時間、私はこうしていられる?
どうにもならなかったら、どうなる。
死ぬのか。
弄ばれ、凌辱の限りを尽くされ、死ぬしかないのか?
旅の途中で嫌と言うほど見て来た。
犯され屈辱に塗れた姿から、幾度となく救った。
それは手が届く範囲だったから。自分が助けてやれるなら助けてやりたいと思ったから。
ヨハンがこの世に絶望した理由も、わかった。
それでも、ヴァシリは知っている。
絶望と悪意に満ちた世界でも、明るく眩しい場所だってあるのだと。
(──だから、まだ、折れるわけには、いかない……)
まだ未来は終わらない。
己の運命は、まだ、決まっていない。
その人に出会うまでは、決して決まらないんだと言い聞かせて。
迫る死に折れかけの心を奮い立たせ、探し回った。
────転生者ヨハンの死後、およそ二千九百九十年。
ヴァシリは、
出会ってしまった。