『っ……へ、いき。これくらい、なんともない……っ』
ヴァシリは、そう答える少年に何も言えなかった。
フィン・デビュラ。
手記にない少年。将来アリアの道を妨げる可能性があって、敵に回る可能性があっただけの、少年。アリアのようになりたいと言った度胸を買って育てるのも一興かと考えたが、フィンにアリアと同じ強度のトレーニングを耐える素養はない。
ヴァシリの持つ技術とて、一朝一夕で身に付くものではないのだ。
どう育てるかと考えた時、一つしかないと思った。
肉体の強度を上げ、近接戦闘に特化させる。
技術は後から身に付けていくしかないが、とにかく優先されるのはその強度だ。
この世界のモンスターは、人類にとって天敵と言っていい。
ヨハンの手記曰く、〔往年の鬼畜エロゲ世界並に理不尽〕。
往年の鬼畜エロゲってなんだよと思わなくもなかったが、どうせロクでもないんだろうなとヴァシリは思考を放棄した。与えられた〈知識〉には未だ理解の及ばない単語が幾つもあるのだ。考えていてもキリがない。
とにかく、ただの一般人が夢を見て強くなろうとしたところで限界がある。
(……〔レベルはあるか否か〕。結局検証も出来ていないが、今もなお私に並び立つ者が現れないのだからないと思っていいだろう)
ゆえに。
フィン・デビュラは、アリアのような勇者にはなれない。
そもそも聖剣を起動することだって出来ないのだからなれるはずもない。強くなれば勇者になれるなら、ヴァシリは喜んで聖剣と手にしていた。
特別にはなれない。
そうわかっているのに、君はアリアに並べるんだと教え導くのは良くないと思ったヴァシリは、まずは諭すことを選んだ。
君では彼女に並ぶことはできない。
どれだけ努力しても、アリアに追い付くことはできない。
血反吐を吐こうが、文字通り死ぬような思いをしてもなお追い付くことはできないんだと。
『それでもいい』とフィンが言う。
なぜ? どうして?
もしや、これすらも〈知識〉の言う通り、邪な感情を基にしているのか。ヴァシリには最早わからない。
だから試したのだ。
これからどんな目に遭うか、これよりもっと酷い目にあって、それでもアリアには追い付けないんだと分からせる為に。
腕を折った。
子供の、少年の腕を、折った。
それも、まだ何の罪も犯していない、ヴァシリが豊かにした世界の影響を受け健やかに暮らしている少年の腕を。
これで諦めてくれ。
君では意味がないんだ。
将来敵になったところで、聖剣を手にしたアリアに一刀両断されて終わりなのだから。
『これをつづければ、ああなれる?』
折れた腕を押さえることすらせず、涙目になってフィンが言う。
『…………なれないんだ。君がどれだけ努力しても、どれだけ痛い思いをしても……』
『な、んで?』
『そういう、世界なんだ……』
『でも、やりたいよ』
真っ直ぐに見つめる瞳に、口を噤む。
何を言えばいいかわからない。
この世界で強くなれる者は長寿種、もしくは選ばれた一握りの者だけ。
〈知識〉にある聖女や剣聖などで、それ以外の者は皆情け容赦なく蹂躙されるだけの弱者でしかない。
やれるだけのことをやっても、きっとその定めは変わらない。
『やっちゃ、だめ?』
だが────ヴァシリには、否と言えなかった。
なぜならば、他ならぬ彼女こそが、世界に最も抗おうとしているのだから。
やることを無駄なんて言えるわけがなかった。
『…………どうして、そこまでしてやりたいんだ?』
『……アリアを、かなしませたくないから。お、おれがそうしたいんだ』
『……それは、君が、〈原作知識〉を持つからか?』
『……? げんさ……?』
『──いや、いいんだ。忘れてくれ。君の覚悟は伝わった』
そう言いながら、ヴァシリは負った腕を治していく。
おもわず聞いてしまったが、フィンにその手の知識があるようには見えない。転生者ならばこの問いかけをされて動揺しないわけがないと、ヨハンも言っていた。
つまるところ、このフィン・デビュラという少年は、自分を殺しかけた幼馴染に対し怒りや恐怖を抱くどころか純粋な心で悲しませたくないがゆえに同じくらい強くなりたいのだ。
腕を折られても泣き言一つ言わない。
それどころか、強くなれなかったとしても、それはやらない理由には、ならないとまで言ってのける。
(──この子に賭けるべきだ。アリアの心を救えるのは、この子だけかもしれない)
この日、フィン・デビュラは正式にヴァシリの弟子となった。
それから先に待ち受ける、苦難を全て受け入れて。
────
──
────
アリアは復活した。
フィンとの交流を重ね、従来の快活さを取り戻した。
これには両親も、そしてヴァシリも心底安堵した。
両親はアリアに大事な使命があると理解していて、ヴァシリのことも信用している。責められることはなかったが、内心どう思っていたのかは、恐ろしくて聞けない。
なによりここにきて最悪な意味での原作崩壊を引き起こさなくて済んだ。
最も大事な主人公の精神がここで折れてしまえばこの先どうなる?
世界は滅ぶのだ。
人類はモンスターに弄ばれ、地獄のような現世で隠れ潜みながら生きていくことになる。そんな未来を自分が決定づけたとなれば、ヴァシリは最早正気ではいられないだろう。
自分で築いて来たこの世界が滅ぶ。
恐ろしい。
恐ろしくて、虚しくて、悔しくてしょうがなかった。
それが元の形に戻ったのだから、安堵せずにはいられない。
しかし、アリアが元通りになっても、フィンは一緒にやっていくことはできなかった。
勉強ではついていけず、肉体の強度も足りないのだ。
元は村人に過ぎないのだから仕方ないとも言えるし、何より時間が足りない。今のアリアに追い付くのにすら年単位でかかるのに、アリアも同じ時間を与えればその分成長していく。
アリアに余計な負担をさせないためにも、山奥で、魔術で音を遮ってやることにした。
如何に覚悟が決まっていたとしても痛いものは痛い。
骨折させた時は何とも言わなかったフィンも、折れた手足を甚振るように攻撃されれば絶叫し白目を剥く。したくてやっているわけではないヴァシリも辛く苦しいが、何よりも受けている当人が最も苦しいんだと言い聞かせ、心を鬼にした。
『ぎゃああああああああっっ!!!』
『あがあああああッ!!? ごええええっ!!』
『うげっ!!? ごえぇっ!!』
一切の容赦のない攻撃。
魔術を用いず鍛えた身体だけを使った鍛錬だが、だからこそ余計、肉や骨を打ち砕く感触が残る。
嫌な感触だ。
まだ子供の少年を一方的に蹴る殴るの暴行を加え、それを修行だと、鍛錬だと言い張らねばならない。治していようが痛みは消えない。果たしてどれだけ心が傷付いているのだろう。
叫び声も悲痛そのもの。
これを聞き流せる程ヴァシリの心は麻痺していない。
長寿がゆえに、心が移ろいゆくのにも時間がかかるのだ。自分が死ぬ危機感ならばまだしも、これが決して必要な行為ではないとわかっているから余計辛い。
──この行為にどれだけの意味がある。
意味がなくてもやると決めたのはフィンだ。
この世界が終わった時、自分の歩んできた三千年を否定するのか。
自問自答を繰り返しながら重ねられていく鍛錬で、フィンは少しずつ成長していく。
アリアのことが解決してもヴァシリの心は落ち着かない。
結局、彼女にとって最も重荷となっていたのは、協力者がいないことだった。
自分が死ぬのを避ける。
その目的を知っているのは自我を喪失したアストロガノフと、とっくに死んだヨハンのみ。他の〈転生者〉もおらず責任を分け合える人物もいないため、全てがヴァシリへとのしかかっている。だが、仕方ないことでもある。
〈知識〉はそれだけ劇薬だった。
もしも彼女が人でなしだったのなら、手段を選ばず非道な手を使ってでも運命を避ける道を選んでいた。
それこそ、世界が滅んでも自分だけは生きてやると言うような性格だったならこんな苦労はしなかっただろう。ヴァシリがヨハンから学んだのは知識だけではないのだ。
彼女が人として優しい心も持っていたからこそ、苦しみの日々が続く。
そして、フィンが弱音を一切上げないまま半年の時が経ったとき、またもやアクシデントが発生した。
アリアが二人の鍛錬を見てしまった。
張っていた筈の障壁内に当たり前のように入って来ていた彼女は、フィンが打ちのめされる姿を見た。躊躇いなく攻撃し続けるヴァシリを見た。手足が圧し折れ血だらけになりながら立ち上がるフィンを見た。
結果、アリアはまたもや寝込んでしまった。
無理もないことだ。
あんな光景を見て正気でいられる方がおかしい
そういう意味ではフィンの精神力は常軌を逸している。
だが、今回はあまり心配していなかった。
理由はフィンがいるから。
フィンならばきっとアリアの心も癒せるだろう──これまでの半年間でフィンのことをすっかり信じるようになっていたヴァシリは、普通に丸投げした。
ダメだったらその時考えよう、と。
世界に選ばれたが心が村娘のアリア。
世界に選ばれないが心が強いフィン。
いい組み合わせだと思った。
休養日を作り引き合わせた日の晩。
フィンに対しちらちら目線を送りながら、しかしフィンに見られれば慌てて顔を逸らす。まるで生娘……いや、生娘なのだが、恋をしたばかりの少女のような行動ばかり取るのは、見ていて微笑ましい。
ここらで、ヴァシリは思うようになる。
アリアはごく普通の少女だ。
精神的にも優れてるわけではなく、ただ勇者という運命を背負わされてしまっただけの村娘。
色んな壁に当たりながら、彼女は成長を続けている。
時に折れ、寝込んで、塞ぎ込んでも──そんな彼女を奮い立たせられる友がいる。それは何よりもいい変化だったのではないかと。
(フィンが居てくれたのは、奇跡だな)
この少年が、本来は敵に回るような役割だったとは信じ難い。
それほどまでに歪んでしまうのは一体何があったのか?
それを知る術はないが、少なくとも、自分が関わっている間はそんな歪み方はさせない。
この真っ直ぐで直向きな少年を歪ませてはならないと考えるほどに、ヴァシリはフィンを気に入っていた。
アリアが人を撥ねたときはどうしたものかと頭を悩ませたが、結果としては綺麗に収まった。
全て、フィンがいたからだ。
『えっと……フィ、フィン、これたべる?』
『おお。たべる。代わりにこれやるよ』
『あああありがとうっ!!』
『……大げさだな』
(──微笑ましい……こんな風に、思えるとはね)
運命に絶望し打ちひしがれている自分が、己の破滅を確定させたとも言える勇者をこんな感情で見れるとは。
──二人の姿を見ていると、自分が死んでも仕方ないんじゃないかと思えてくる。
三千年は軽くない。
されど変わらなかったのならば、それは正しく運命と言うしかないのではないか。
ヨハンは己の人生を後悔していたが、死に顔は安らかだった。
それは、自分の全てを託せたからか?
生まれた意味があったと思えたから?
ヴァシリにヨハンの心を知る方法はない。
だが、この三千年で積み上げてきたものは無駄ではなかった。
(……そっちに行ったら、またお前に会えるだろうか。そのときは是非とも聞いてみたいものだな)
なぜ安らかに眠れたんだ、と。
苦しみの果てに死ぬとして、死んだ後もなお苦しむとは思いたくない。
もしそうだとしたら救いがなさすぎる。
少しでもいい。
死ぬことが決まっているのならば、せめて、死んだ後くらいは……安らかに眠りたい。
そう思った。