『アリシアさん……俺……』
『だ……だめよフィンくん。アストレアに悪いわ』
『俺とアストレアはただの仲間だ。男女関係なんてないのに何を遠慮してるんだ?』
『それはっ……アリアとヴァシリはどうするの?』
『師匠をそんな目で見るわけないし、アリアはただの幼馴染。なあ……俺の本命は、あなたなんだ』
『あぁっ! だめっ、いやっ……!』
『アリシア……好きだ、愛してる……』
『フィ、フィンくん……』
太い腕で抱きしめられて身動きが取れない。
体の力が抜けて、腰が砕けたような感覚すらする。
よくない、いけないこと。
わかっていても、力強く抱きしめられて逃れることができない。
これが、男に捕まるってことなのね……
でも、それも悪くない。
だってフィンくんは運命を変えた英雄で、私達姉妹を救った人物で、〈預言〉すらも超えた男の子なんだから。そんな男の子に目をつけられて、どうしようもなくなるのは──仕方ないこと。
(だから……ええ。これは、仕方ないの。私じゃ、抵抗できないから……)
心の中で言い訳をしながら、フィンくんの抱擁を受け入れる。
男らしいゴツゴツとした体。
筋肉の重み。
そして、彼との抱擁で潰れる私の体。
『アリシア……!』
『フィンくんっ……!』
そして、フィンくんは私をベッドに引き倒し──なぜかその場で全裸になって紐と鞭と蝋燭を持ってきた。
『アリシア。まず俺の手足を縛って身動きを取れなくした後にこの鞭で叩いて蝋燭を垂らしながら全力で罵ってほしい。大丈夫、痛みはあるが、俺は痛みで快楽を得られる性質なんだ。いわゆるマゾヒストってやつだ。口では嫌だとかやめろとか言うかもしれないが、めちゃくちゃ悦んでるから遠慮なくやってくれ。アリシアさんならわかるよな?』
『エッ、エッエッ……あわわわ……』
『さあ来い! 俺は逃げも隠れもしない。尻を叩いてついでに尻に××××でくれ! 苦しみあえぐ無様な俺の姿を見て更にアリシアさんが奮起して──くくっ、最高だ……! たまんねぇ……!』
うそ、うそよ……フィンくんが……マゾヒストで痛みで気持ちよくなってるなんて……
──ケーキをぶっかけた時の興奮。
──腹をぶち抜かれてる時の興奮。
──今、お茶をかけられてる興奮。
ぐにゃあ、と歪むアリシアの視界と思考の中で点と点が結びつく。
まさか、まさかまさか──そんなはずはない。
だってフィンくんは、〈預言〉を覆して、死を覆して、世界の命運を変えた英雄で…………
────
──
────
「…………さいっあく……」
アリシアは目を覚ました。
手足を縛って鞭を振るったあたりで意識が現実に引き戻されたアリシアは、ゲンナリとした表情で起き上がる。
「……ここは……ああ、そっか、フィンくんと話すために借りたところがまんま民家で……」
「──目を覚ましたか?」
「ンヒッ」
ビクッと肩を震わせる。
声の主はベッドの傍で椅子に腰掛けながら本を読んでいた。
「フィ、フィンくん……えっと、ごめんなさい。何があったのかしら」
「む……忘れたのか。アリシアさんは話し合いの最中に突然気を失ったから大事があるとまずいと思ってとりあえずここに寝かせたんだ。ああ、勿論邪なことはしていない。意識のない女性に好き放題するような下衆じゃないからな」
「え、ええ、そうね。私もそれは信じてるわ。…………」
(…………夢、なのよね?)
直前まで見ていた悪夢が鮮明に蘇る。
強引に抱きしめられ、無理やり言いくるめられ、それを悪くないと思ってしまったこと。誰に言うまでもない言い訳を心の中で唱えながら、まるで浮気に燃える醜い女の如き興奮をしてしまったこと。
そしてなぜか、フィンがマゾヒストになっていたこと。
両手足を縛り鞭を手にしたところあたりで興奮はすっかりおさまっていたが、みたこともないフィンのフィンがものすごい大きさをしていたことだけは覚えている。
(夢……ええ、史上最悪の悪夢だった。何がどうなったらフィンくんがそんな趣味になるのかしら。ありえないでしょ)
眉間を押さえ頭を横に振り、悪夢を消し去った。
「具合はどうだ?」
「問題ないわ。ごめんねいきなり」
「大丈夫。こう見えて他人の世話をするのは慣れてるんだ」
「知ってる。アリアと一緒に暮らしてたんでしょ?」
「流石はアリシアさん。丸裸にされてる気分だ」
「オッ」
「ん?」
「なんでもないのよ」
(ま、丸裸……ううっ! 変な夢を見たせいで変な想像しちゃうじゃないの! 確かに文字通り丸裸だったけど!)
「……もう少し寝ていた方がいい。あんまり調子がよくなさそうだ」
「いいえ! そんなことないわ! これは……そう! ちょっと頭によくないものが……」
「頭によくないもの……?」
「えぇ! いやー、変な夢見たからでしょうね! でも大丈夫、夢は所詮夢だから!」
「そ、そうか……」
勢いに押されたフィンが頷く。
(すごい純粋に心配してくれてるのよね。やっぱりあれは変な夢よ。フィンくんが罵られて喜ぶとか、ありえないもの)
「あまり熱いのも嫌かと思って、ぬるい水を用意した。これでも飲んで落ち着いてくれ」
「ありがと。助かるわ」
差し出された水を飲んで、一息。
「それで、俺の欲望を発散するための方法だが」
「ブフゥッ!!」
アリシアは盛大に水を吹き出した。
飛沫が毛布に染み渡る。
「ゲホッゲホッ!」
「む……遠慮せず俺の方にかけてくれればいいのに」
「!!!?!?!?!??!」
(ん!!!! んぇ!? 今なんて言った!? 今なんて言ったの!?)
背中を優しく摩りながらとんでもないことを口走ったフィンに対しアリシアは内心で混乱する。
「言っただろう、アリシアさん。俺は他人に蔑まれたり酷い扱いを受けたり、苦痛を受けることで興奮する。アリシアさんほどの美人に水を吹き掛けられれば、それは極上の快楽になるんだ」
「……………………(絶句)」
「以前、ケーキをぶち撒けられたな。あの時は最高だった。その感情も貴女には読み取られていた通り、俺はそんなことにも興奮してしまう性質なんだ。どうしようもない人間であることは自覚している。でも、今更普通にはなれない。俺はもうとっくにおかしくなってる。自覚はある。だから、誰にも悟られないようにしてきた……」
そして、フィンはアリシアの隣に腰掛けた。
「だが、バレてしまった。墓場まで持っていくつもりだった性癖が見抜かれた。生涯隠し通して、誰にも知られぬまま死のうと思っていた秘密が……」
(見抜いてない! 見抜いてないわ! 暴露された側! ぶちまけられてる側なの!)
「くくっ……俺の理解者はただ一人しかいないと思っていたのに、まさか現れるなんてな。バレてしまった以上、隠し通すことはできない。きっと、貴女も醜い俺の本性を知れば気持ち悪いと蔑むようになるだろう。そうしてアリアや師匠を始め、徐々に身近の女性達に本性を知られて蔑まれ遠ざけられるようになり……やがては俺のような醜い男を追放し、代わりとなる見た目の整った男や成長した殿下が入って、栄光の道を歩んでいくみんなを俺は遠巻きに悔し涙を流して見送るんだ……ああ、興奮する……!!」
「……………………(絶句)」
「はははッ! 俺の人生は間違いなく終わりだ! だが始まりでもある! もう戻れない道を歩む覚悟は出来ているッ! アリシアさん、貴女が俺を終わらせるんだ!」
────嘘偽りない、本音。
アリシアは、あまりの衝撃に言葉を失った。
暴くべきではなかった。
突っ込むべきではなかった。
フィンの心が壊れているから、それをなんとかしなくちゃいけない、などと意気込んだのは間違いなく失敗だった。藪蛇だ。虎の尾を踏んだ。するべきではなかった。
フィンは、壊れていながらも、類まれな精神力で己を強靭に律していた。
自分がおかしくなっていることなど承知の上。
おかしくなっている自分を抱えながら、理想で作り上げた人格で覆い隠す。
ヴァシリという〈転生者〉の薫陶を受け世界を発展させてきた人物に導かれた結果、フィン・デビュラという少年は幼い頃から強烈な自己を確立することに成功。
どれほどの苦難であろうがそれを『気持ちいい』と解釈することで心が溢れないようになり、苦難の道だろうがなんだろうが『現実をそうしなければ乗り越えられないのならそうするべきだ』と合理的な手段を即座に取ることができるようになった。
無論、それが全て正しいわけではない。
感情を大事にした上でそう振る舞っている。
異常な己を知覚したのならば、異常ではないようにすればいい。果たして、どれだけの人間がこのようなことができる?
(フィンくんは……間違いなく、英雄なのね……)
そうでなければ、ここまで生きて来れなかった。
全てはあの日、アリアがフィンを轢いた時に始まったのだ。
「…………なあ、アリシアさん。俺は、気持ち悪いだろ?」
「っ……そんなこと、ない。そんなこと、ないわ」
「いいや、気持ち悪いに決まってる。常識的に考えて、他人に蔑まれたり酷い扱いを受けたりすることを悦んでる成人男性は気持ち悪いだろう」
「ま、まあ常識的に考えればね? でも君はフィン・デビュラでしょ」
「────……」
キョトン、とした表情でフィンは目を丸くする。
「確かに、私もすごく驚いた。今でもまさか、そんな嘘よって思うもの。でも私は感情を悟れるから、君のいうことが嘘じゃないってわか……アッ急に興奮しないで」
「すまない。つい癖で……」
「よくそれで一切表に出さないでこれたわね……」
「子供の頃からの癖なんだ」
「そ、そう……話を戻すわ。フィンくんが、その……俗にいうマゾヒストだったとしても……ねぇ興奮しないで?」
「す、すまん……」
「……興奮しないで! お願い!」
「つ、つい……俺がキモいと理解した人にマゾとか言われると……」
「……………………本当に、重症ね……」
アリシアはそんなフィンのあり方を、幼い頃からの苦労に原因があると見た。
ヴァシリやアリアから話は聞いている。
フィンはアリアが聖剣の力を知らずに振り翳した被害者だ。
遊びに混ざった幼馴染に、人智を超えた力で衝突して全身がぐちゃぐちゃになり手足が捻じ曲がり這いずって逃げようとしたほどの怪我をした。
(──多分この時にフィンくんの心は壊れてしまったのね。現実とは思えない、とてつもない大怪我をして、心の均衡が壊れてしまった……)
痛みは気持ちいいもの。
心がそう認識せねば生きていけないとねじ曲がってしまったのだろう。彼女は人の構造に詳しいわけではないが、【星天】での経験で心が壊れてしまった人に何度も出会った。
故にわかる。
わかってしまう。
フィン・デビュラの心は、壊れきっているのだと。
その上で己の社会性を守ろうと出来るほど、強い心なのだと。
「────フィンくん。私は感情がわかるからこそ言えることだけど……あなたは立派な人よ」
「……俺が、立派?」
「ええ。動機はどうであれ、常人ではありえない力を持ってしまった幼馴染を一人にしないように、苦痛を味わいながら修行をした。どんな内容だったかは私も知ってる。辛かった……辛かったのよね?」
「あの頃はまだそれが何なのかよくわかっていなかったから、苦しくて死にたくなるのと同時に心地よさがあって混乱していたな。アリアのことは大切だったが、それを知りたくて弟子入りしたというのもある」
「ああ、トドメを刺したのはヴァシリなんだ……これは言えないわね。絶対に言っちゃダメよ」
「わかってるさ。師匠の弟子がどうしようもないマゾだなんて公表できん」
「ンン〜〜……! ンンンンン……!」
そこはマゾと関係なく自己評価が低いんだ、とは言えなかった。
「……よし、それはまた今度でいいとしましょう。あなたの本性はさておき、フィンくんが成し遂げてきたことはどれもとてつもない偉業ばかり。【払暁】の三人は命を救われ、ヴァシリは死を回避して、アリアも無事に旅を終えた。私だって、君に救われた内の一人なのよ?」
「俺が……? いや、そんなことはない。俺なんかが居なくても皆どうにかしていただろう。大した影響力はない」
「ぐぬぬ……頑固ね……」
「名声のある三人と比べて俺は何段も格落ちする。その事実は揺らがない」
「ええいだまらっしゃい! いいことフィンくん!」
「はい」
びしっと指を眼前に突きつけて、アリシアは言う。
「あなたの本性がどれだけ醜かろうが、あなたは【払暁】にとって欠かせない人で、私達にとっても命の恩人! 特殊な性癖があったところで誰もあなたのことなんて見捨てないし、むしろ余計気に病むの! わかった!?」
「エッ、そ、それは俺が気持ち悪すぎて病むってことか……?」
「違うし興奮しない!」
喜色を滲ませるフィンに一喝。
すると益々興奮したので、アリシアは矯正するのは不可能だと理解した。
「いいこと!? フィンくんはハイエルフの姫に聖女やヴァシリを助けた英雄で、他人のために自分を犠牲にしてでも戦えてしまう人で、幼馴染のために自分の人生を投げ打てるような男の子! それが他人から見たフィン・デビュラで、君がこれまで成し遂げてきた道。事実でしょ?」
「…………否定はしない」
「なら、胸を張っていいじゃない。今回は私に非がある。君の隠したかった秘密を暴いて自暴自棄にさせたのは紛れもなく私の罪よ」
だから、と一言区切る。
「──せ、責任を取るわ。誰にも言えないけど、その……フィンくんが、そういうことを望むなら……私が相手してあげるから……」
(フィンくんの隠しておきたかったことを暴いたのは私……いやまあ暴いたというか暴露されたというか……で、でもこの場を用意してなければ一生知ることはなかったでしょうし、それは間違いなく私の所為。だから、フィンくんがこれまで通り過ごせるようにするためには、こうするしか……)
「エッ……それは、
「え、えぇ。
(うわっすっごい興奮してる……急に落ち込んだ!? いや性癖がわかった程度じゃ理解できないんだけど!? また興奮した!?)
「それは…………素敵だ……」
「も、もちろん私はそう言う経験ないから! その、へたっぴよ? あんまり気持ちよくないかもしれないし……フィンくんにとっては、あんまり楽しい時間じゃないかも……」
「むしろそれがいい。稚拙な責でこそ感じることもあるだろう」
「……そ、そっか…………」
「恥ずかしながら、俺も未経験だ。娼館に通うのが常識の冒険者のくせに、ほら……仲間が美人だから……」
「ああ……確かに、それはやりにくいわね……」
「昔のカルラやアストレアは……うん。言わずともわかるだろうが」
「…………それも歪んだ一因かぁ……」
アリシアは頭を抱えた。
フィンがおかしくなっていく理由が鮮明にわかった。
いや、むしろここまで抑圧されてよくもまあ暴発しないものだと感心すらする。
やはりフィン・デビュラの精神性は異常なまでに強靭だ。
そうでなければ、間違いなく途中でもっと手に負えない形に壊れていただろう。
傑物であることに間違いはない。
強いて言うなら、ヴァシリが巻き込んだことが間違いだったと言うべきか……。
そこまで考えて、詮なき事だと思考を切り替える。
「……なら、アリシアさんに一つお願いがある」
「な、何かしら。最初は軽めでお願いね? 私もそう、行き遅れだから、経験なんてないし」
「大丈夫、無理なお願いをするつもりはない」
真剣な表情でフィンはアリシアの手を取る。
思わず触れた手に、ドキンと胸が高鳴った。
「──どうか俺を罵ってほしい。『ドマゾきも童貞』と言ってくれ。その後に『英雄の君がこんな趣味を持ってるなんて知られたら皆んなどうするでしょうね?』と言葉責めしてくれ」
「ごめんなさい。私には難易度が高すぎるわ……」
「!!!?!? そ、そんな……こんなの序の口なのに……!」
「フィンくんの中で私はどんな鬼畜扱いされてるの……?」
一回頭の中を覗いてみたいと思ったが、興奮したり落ち込んだりと忙しいフィンの頭の中を覗いたらそのまま正気を失いそうな気がしてすぐにそんな思いは消える。
(…………想像してた以上のもの、踏んじゃったわね……)
アリシアは遠い目で窓の外を見た。
これから待ち受ける苦労の日々を考えて、腹部がキュウキュウ痛んだ。