第一話:生誕
――最初に感じたのは、"臭い"だった。
腐った肉に、湿った土と、鉄錆を混ぜたような、喉の奥に絡みつく不快な悪臭。目を開けようとした瞬間、その臭いが“嗅覚”ではなく、全身にまとわりついていることに気づき、思わず身をよじった。
「……な、なんだこれ……?」
声を出そうとして、言葉にならない羽音のような振動しか発せられないことに気づく。驚いてさらに動こうとすると、視界がぶれる。いや、違う。視界が複数ある。
上下左右、斜め――あらゆる方向から、割れたガラスのような映像が一斉に流れ込んでくる。
「……は?」
理解が追いつかないまま、視界の端に映った“自分”らしきものを、反射する水たまり越しに見た瞬間。
――思考が、完全に停止した。
そこに映っていたのは、人間ではなかった。
黒く濁った複眼。ぶよぶよとした肉塊のような頭部。歪に生えた脚と、背中で不快な音を立てて震える半透明の羽。形容するなら、巨大な蝿と人型の中間。だが、どちらにもなりきれない、失敗作のような存在。
「……嘘だろ……」
心の中でそう呟いた瞬間、理解が遅れてやってきた。
――呪霊だ。
それも、最下級。
人間の恐怖や嫌悪が形を持った末端中の末端。
「……
どこからか、知識が流れ込んでくる。
特級でも一級でもない。呪術師にとっては“数合わせ”にもならない雑魚。術式どころか、まともな知能すら持たないとされる存在。
「……なんで、よりによって……」
思い出す。
直前まで、確かに自分は人間だった。
夜遅く、スマホで漫画を読みながら、呪術廻戦の最新話に一喜一憂して――
気づいたら、ここだ。
「転生……? いや、ふざけんな……」
もしこれが異世界転生なら、剣と魔法とか、チート能力とか、そういうのじゃないのか。
なんで最初から討伐対象なんだ。
愚痴を言っても、世界は何も答えない。
周囲を見渡すと、ここは廃ビルの地下らしかった。コンクリートの壁はひび割れ、天井からは水が滴っている。人間の気配はないが、嫌な気配がそこかしこに漂っている。
――呪霊の気配だ。
理解した瞬間、背筋に走る本能的な恐怖。
捕食者に囲まれた、小動物のそれ。
「やばい……ここ、やばい……」
蝿頭の身体は、思った以上に脆弱だった。脚は細く、力を入れるだけで千切れそうだ。羽音を立てると、自分の存在を周囲に知らせることになる。
逃げなきゃ。
そう思った瞬間、壁の影から別の蝿頭が現れた。
……同じだ。
同じ醜悪な姿。だが、その複眼は、確かにこちらを“見て”いる。
次の瞬間、理解が流れ込んだ。
――餌だ
自分が、あいつの。
そして同時に、あいつも、自分の。
恐怖が頂点に達するより早く、身体が勝手に動いた。
腹の奥から、黒い衝動が湧き上がる。
――食え。
――生き残れ。
――喰らえ。
「……く、くそっ……!」
理性が悲鳴を上げる前に、脚が地面を蹴った。
ぶつかる。粘ついた肉と肉が絡み合い、羽音が激しく響く。
抵抗らしい抵抗はなかった。
相手も同じ最下級。力任せに押し倒し、口――いや、口器を突き立てる。
――不快感。
――快感。
腐臭と共に、黒い何かが体内に流れ込んでくる。
嫌悪と同時に、確かな充足感。
数秒後、そこに残っていたのは、消えかけた残穢だけだった。
「……はぁ……はぁ……」
息をしている感覚はない。だが、確かに“満たされた”。
その瞬間、世界がわずかに鮮明になった。
複眼のノイズが減り、身体の輪郭がはっきりする。
「……え?」
理解する。
――食えば、強くなる。
呪霊は、人間の負の感情から生まれ、
呪霊は、呪霊を喰らって成長する。
原作知識が、ここで役に立つとは思わなかった。
「……最初は蝿頭でも……」
壁に映る自分の姿は、確かにまだ醜い。
だが、さっきより、ほんのわずかに“存在感”が増している。
この世界は、弱者に容赦がない。
だが同時に、
喰えばいい。
生き残りたければ、上へ行けばいい。
脳裏に浮かんだのは、強者たちの顔だった。
五条悟。宿儺。特級呪霊。
「……待ってろよ……」
羽音を抑えながら、闇の奥へと進む。
まだ弱い。まだ最下級。だが――
「呪霊王に……おれは、なる」
誰に聞かせるでもない宣言が、地下に溶けていった。
その日、名もなき廃ビルの地下で。
一匹の蝿頭が、確かな意志を持って蠢き始めた。