できるだけワクワクする展開にしたいですねぇ。
廃ビルの階段を上りきったところで、空気が変わった。
ビルの探索をしていた時は意識していなかったが、明確に違う。
地下の空気は、濡れていた。
湿気と腐臭と、古いコンクリの粉と、呪力の澱み。
吸うという感覚すら曖昧でも、身体の内側がそれを“飲み込んでいた”のは分かる。
だが今、目の前にある空気は――乾いている。
薄い。軽い。雑味が少ない。
それだけで、俺は一瞬足が止まった。
出口は、崩れたシャッターの隙間だった。アルミの歪みの向こうから、白い光が刺してくる。地下の闇では想像できない強さの光。
俺は黒い靄を薄く纏わせ、慎重にその隙間へ身体を滑り込ませた。
――眩しい。
目があることを、ここで初めて実感した。
地下では、暗闇を呪力の濃淡で見ていた。目は補助でしかなかった。
だが外の光は、呪力の影に頼る隙を与えない。世界を強引に“色”で塗りつぶしてくる。
俺は反射的に腕で顔を庇った。
(……太陽?)
白さの奥に、熱がある。
皮膚を焼く熱じゃない。温度としての熱。暖かい、と呼べるもの。
呪霊の身体にとってそれは必須じゃないはずなのに、胸の奥が妙にざわついた。
数秒、慣らしてから腕を下ろす。
そこに広がっていたのは――別の世界だった。
空がある。
上に、広い。
天井がないというだけで、落ち着かない。身体の輪郭が空に溶けていくような錯覚。
風が吹いている。ビルの隙間を抜け、乾いた匂いを運び、俺の黒い靄をゆらゆらと揺らした。
建物が並んでいる。
低い家と、少し高いマンション。遠くに見える電柱と電線が、蜘蛛の巣みたいに空を区切っている。道路が伸び、白い線が引かれ、信号が点滅している。
そして――人間。
俺は思わず息を止めた。
いないと思っていたわけじゃない。だが、地下で感じた“人間の気配の不在”に慣れすぎていた。
外には普通に人間がいる。歩いている。話している。笑っている。スマホを見ている。自転車に乗っている。車が走り、エンジン音が空気を震わせている。
(……多い)
それだけで、背中の靄が少し濃くなった。
俺は呪霊だ。人間には見えない。だが、これだけ多ければ"見える"人間もいるかもしれない。
もし見つかれば騒ぎになる。騒ぎになれば呪術師が来る。呪術師が来れば――
(……殺される)
俺は反射的に、廃ビルの影へ身を寄せた。
この建物自体は、相変わらず薄汚れていて、窓ガラスは割れ、壁には落書きがある。外から見ても“危ない場所”だと分かる。
人間は近寄らない。近寄りたくない。
その感情が、薄い呪いとして空気に漂っている。
(……俺の居場所は、まだこういう場所だ)
だが、視線を外へ向けると、世界は平然と回っている。俺の存在なんて知らない顔で、人間が行き交う。
その無関心さが、妙に腹立たしい。
だが同時に、安心感もあった。
(まだ、社会は回っているんだな……)
今が呪術廻戦のどの時期なのか分からないため、最悪、日本が既に滅びている可能性も考慮していた。が、どうやらそうはなっていないようで、ひとまず胸をなで下ろす。
(とにもかくにも、まずは情報収集だな……)
俺は、周囲を観察した。
電柱に貼られた広告。
コンビニの看板。
遠くの駅らしき建物。
そして、道路脇に立つ掲示板。
そこには紙が貼られていた。色あせているが、文字は読める。
“春の交通安全運動”。
日付――
2018年4月。
俺は、固まった。
(……2018…!?)
呪術廻戦の原作時間軸。
俺が人間だったころに読んでいた、あの世界の“今”が2018年。
(……やばい)
口から、声が漏れた。
「……マジ、か」
カタコトのはずなのに、今のはかなり繋がった気がした。
だがそれより、頭の中が一気に騒がしくなる。
(4月ってことは――おそらくまだ序盤だ。渋谷事変、まだ先……いや、でも、近い。あの世界は“近い先”が一番怖い。)
原作を知っているからこそ、焦る。
呪いの世界は、平穏に見える時ほど危険が近い。
今はまだ、街が普通に動いている。だが、その普通が一気に壊れる未来がある。俺はそれを知っている。
(死滅回遊……って、いつだ? いや、細かい時期は曖昧だ。でも確実に、世界は壊れる方向に進む。)
しかも、俺は呪霊だ。
平時ですら狙われる存在が、災厄の渦に巻き込まれたらどうなる?
(……もっと強くならないと。今のままじゃ、運が悪ければ終わる)
焦りが、靄を濃くする。
俺は深く息を吐くような仕草をして、無理やり呪力を沈めた。
落ち着け。
焦って動けば、見つかる。
見つかれば、殺される。
まずは、状況確認だ。
§
現在地を知る必要がある。
俺は廃ビルの影から、少しずつ外へ出た。人間の目線を避けるため、壁際を這うように移動する。
道端の草むらに身を潜めると、草の匂いが鼻に刺さった。青臭い。春の匂いだ。
どこかに花の匂いも混じっている。桜かもしれない。俺は花の名前を思い出しながら、苦笑した。
(呪霊が春を感じるとか、笑えるな)
だが、笑えない。
俺は今、外にいる。
世界の表面に出た。
俺は近くの道路標識を見た。
漢字が読める。人間の知識が残っている。
そこには地名が書かれている――だが、具体的にどこかまではまだ分からない。
もっと情報が必要だ。
遠くの駅らしき建物に、人が流れているのが見える。
駅名が分かれば、場所が絞れる。
俺は人間に近づきたくない。
だが、遠くから看板を見るだけならできる。
黒い靄を薄くし、存在感を落とす。
人間の視線の外側を縫うように移動する。
人間の視界は意外と狭い。スマホを見ていれば前しか見ないし、急いでいれば周囲に注意を払わない。
俺はその隙を、狩りの要領で使った。
駅前に近づくほど、呪いの匂いが少し濃くなる。
人が多いからだ。
不安、苛立ち、疲労、焦り、嫉妬。小さな負の感情が無数に漂っている。
(……こんだけ人がいたら、そりゃ呪いも出るわ)
俺は人間の感情を“味”として感じ取った。
だが、どれも薄い。
影の美味さには到底及ばない。
駅の入り口の上に、看板があった。
俺は少し距離を取った場所から目を凝らす。
――読めた。
地名。
路線。
そして、周囲の広告に書かれた“東京都”の文字。
(東京……だ)
さらに細かい地名。
だが、中心部ではない。人の密度、建物の高さ、街の雰囲気。
ここは都心じゃない。
いわゆる“郊外”。
(東京の郊外……俺、こんなとこにいたのか)
確かに、廃ビルが放置されるには都合がいい。
都会のど真ん中なら再開発で潰される。人の目も多い。
郊外なら、誰も気にしない。怖いから近寄らない。
呪霊にとっては、隠れやすい。
だが――
それも永遠ではない。
(呪術高専……)
俺は原作知識を思い出す。
呪霊が発生し続ければ、呪術師は調査に来る。
特に、同じ場所で下級呪霊が溜まるような“溜まり場”は、いずれ見つかる。
俺がいた廃ビルは、まさにそれだ。
人の恐怖が溜まり、蝿頭が湧き、俺が支配し、影まで生まれた。
普通の流れなら、あそこはいつか“掃除”される。
呪術高専か、近くの術師が気づく。
(……時間の問題だったな)
俺は背中の靄をゆらりと揺らした。
廃ビルを出た判断は正しかった。
あそこに居座っていたら、どれだけ呪霊を喰って強くなっても、呪術師に見つかって終わる可能性が高い。
しかも、時間軸が2018年。
これから先、呪術師たちの動きは活発になる。災害の兆候が強まる。
平時の掃除ですら危険なのに、これからは“異常”が増える。
(隠れてるだけじゃ、生き残れない)
俺は改めて理解した。
強さが必要だ。
逃げるためにも、立ち向かうためにも。
§
俺は一度、駅から離れた。
人が多い場所は落ち着かない。
だが同時に、確かな手応えがあった。
都心に近づけば近づくほど、人は増える。
人が増えれば、負の感情も増える。
負の感情が増えれば、呪霊が湧く。
そして、強い呪いが溜まる場所もある。
(美味いのは、そっちだ)
俺の腹の奥が、じわりと鳴った。
影を喰ったあの甘さを思い出す。
あの濃度の呪力を、もう一度味わいたい。
そして、もっと上を知りたい。
けれど、欲だけで動けば死ぬ。
都心には呪霊だけじゃなく、呪術師もいる。
強い呪霊がいるなら、それを狩る強い術師も近くにいる。
(……でも、行く)
俺は決めた。
郊外に留まっても、雑魚しか喰えない。
雑魚を喰って積み上げることはできる。
だが時間がかかる。その間に俺の巣は見つかる。
そして、原作が進む。災害が近づく。
(死滅回遊……あれが来たら、どうなる)
俺は具体的な時期を覚えていない。
だが、災害が起きることだけは知っている。
“あの規模”の混乱の中で弱ければ、食われる側になる。
逃げるにしても、力がいる。
立ち向かうなら、もっと力がいる。
だから俺は、都内へ向かう。
呪いが濃い場所へ。
美味い獲物がいる場所へ。
生き残るために、上へ行くために。
俺は遠くに見える線路の方向を見た。
電車。
人間の流れ。
それに乗れば早い――だが、俺は乗れない。
呪霊が電車に乗ったら、さすがに目立つ。
(歩くか……夜に動く)
昼の光は眩しい。
だが、夜になれば影が増える。人の目も減る。
俺の靄は、闇の中でより自然に溶ける。
俺は道を選んだ。
人の少ない裏道。
川沿い。
木の多い場所。
街灯の陰。
「……とかい、いく」
口に出すと、決意が固まった。
カタコトでもいい。
音になった意志は、もう後戻りを許さない。
俺は、廃ビルのある郊外を背にした。
都会の中心へ。
呪いが濃い場所へ。
強い呪霊がいる場所へ。
そして――
これから来る“災害”に備えるために。
黒い靄が、ゆらゆら揺れる。
春の風が、それを撫でる。
世界は明るい。
人間は多い。
2018年の春は、平然と始まっている。
その明るさの下で、俺は静かに歩き出した。
ここまでが第一章みたいな感じかな。
次回、主人公くんシティーボーイになる。