呪霊王におれはなる!!   作:トックー0322

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第十二話:誘い火

 

 

 新宿の上空は、夜なのに息苦しい。

 

 闇があるはずなのに、闇が薄い。

 街が発する光が、空気そのものを白く濁らせている。ネオン、看板、車のヘッドライト、ビルの窓――無数の人工の光が重なって、夜空を“灰色”に塗りつぶしている。

 

 俺はその灰色の中を、羽を震わせて滑るように飛んだ。

 黒い靄を薄くまとい、輪郭を夜に溶かす。飛ぶたびに風が肌を撫で、都市の熱と匂いが喉の奥へ流れ込んでくる。

 

 下を見れば、人間が溢れている。

 

 駅前の広場は巨大な胃袋みたいだ。人が飲み込まれ、吐き出され、また飲み込まれる。足音が波になって地面を叩き、笑い声や怒鳴り声が混ざり合って、ひとつの騒音になる。

 横断歩道の信号が変化するたび、群衆が一斉に動き出す。その動きは滑稽なほど揃っていて、しかし一人一人の顔には別々の感情が貼りついている。

 

 欲。

 焦り。

 期待。

 諦め。

 酔い。

 虚勢。

 孤独。

 

 新宿は、負の感情だけでできているわけじゃない。むしろ、陽の感情も濃い。楽しさ、興奮、欲望。

 ただそれらの“陽”は、強いほど裏返りやすい。楽しさは空虚に変わり、興奮は苛立ちに変わり、欲望は焦燥へ転ぶ。

 この街は、その反転の速さが異常に速い。

 

 だから呪いが溜まる。

 

 ビルの谷間を抜ける風に、香水、油、煙草、汗、排気ガス、雨上がりのアスファルトの匂いが混ざっている。

 地下の空気は単調だった。湿気と腐臭が支配していた。

 ここは違う。味が多すぎる。刺激が多すぎる。

 

 (……まるで腹いっぱいの宴会場だな)

 

 そんな感想が浮かんで、自分で自分が気味悪い。

 俺は呪霊で、捕食者で、獣だ。

 街を“宴会場”だと思ってしまう感覚が、もう元に戻れないことを教えてくる。

 

 それでも――胸の奥がわくわくする。

 

 危険がある。

 強い獲物がいる。

 それに近づけば近づくほど、俺はもっと強くなれる。

 

 俺は低く飛びすぎないように気をつけた。ビルの屋上の高さを縫うように、看板の光を避けるように、街灯の円を踏まないように。

 人間には見えないはずでも、“見える人間”がいるかもしれない。呪術師だけじゃない。勘の鋭い一般人もいる。

 

 (ここで油断したら、郊外とは危険度が段違いだ)

 

 そんな自制の言葉を胸に置きながら、俺は街を舐めるように眺めた。

 

 すると――

 路地裏の一角に、黒い溜まりが見えた。

 

 人の波から少し外れた場所。光が届かない狭い通路。飲み屋の裏口、ゴミ袋が積み上がり、湿った壁。

 そこに、“人の嫌悪”が固まってできたような気配がある。

 

 下級呪霊。

 

 姿は、俺の目にははっきりと輪郭を持って見える。

 暗闇に溶けるような黒い人型。だが体表はベタついていて、紙くずや髪の毛や油が貼りついている。背中にいくつも裂け目があり、そこから細い手が生えては引っ込む。顔はなく、首から直接歯が生えている。

 まるでこの街の“捨てられたもの”を寄せ集めて作った生き物だ。

 

 (……新宿、初めての餌)

 

 腹の奥が、熱を持った。

 

 俺は上空で一度、羽を畳んだ。

 落下する。

 風が耳のない側頭部を叩く。

 黒い靄が尾を引く。

 

 (一撃で仕留める)

 

 そう思った。

 

 そして、それが慢心だった。

 

 下級呪霊が――俺の落下に気づいた。

 いや、気づいたというより、空気の“圧”を感じた瞬間に反射した。

 体をねじり、壁に張り付き、口を開く。

 

 次の瞬間、背中から細い手が一斉に伸びた。

 ゴミ袋を裂くような速度。

 俺の胸元に、爪みたいな指が突き刺さる。

 

「……っ!」

 

 思わず声が漏れた。

 痛みは浅い。靄が薄い防御になって、胸部を貫かせなかった。

 だが、驚きがでかい。

 

 (反応が良い……!)

 

 廃ビルの下級呪霊は、もっと鈍かった。逃げるか固まるか、どちらかだ。

 こいつは違う。

 “狩られる”と分かった瞬間に、“狩り返す”動きをした。

 

 俺は地面を蹴って距離を取った。

 呪霊は路地の壁にへばりついたまま、口を開いてこちらを睨むような仕草をする。

 裂け目から伸びた手が、空を掻く。

 獲物を逃がさないように、通路の出口に向かって広がっていく。

 

 (……俺、恥ずかしいな)

 

 胸の奥が熱くなった。怒りじゃない。

 羞恥。

 “都心に来た初手で油断した”自分への羞恥心。

 

 獅子は兎を狩るのにも全力。

 だったら俺も、下級呪霊相手でも全力で行くべきだ。

 

 俺は、靄を濃くした。

 

 黒い外套が揺れ、俺の周囲の空気が微かに歪む。

 腐食の性質が滲み出る。触れれば削れる、という圧が外側に広がる。

 

 「……ころす」

 

 口から出た言葉は、カタコトのまま。

 でも、意思は明確だった。

 

 俺は羽を一瞬だけ開き、短く加速した。

 直線ではなく、斜め。

 呪霊の手の射程の外から入り、壁を蹴って角度を変える。

 

 呪霊の手が追ってくる。

 速い。

 だが、動きは単純だ。

 

 俺は指先に靄を集め、小さな腐食の雫を作った。

 雫を手の群れへ弾く。

 

 じゅう、と音がした。

 伸びた手が一本、溶けて落ちる。

 呪霊がぎくりと震えた。

 反射で手を引っ込める。――それが隙。

 

 俺は一気に距離を詰め、顎で噛みついた。

 

 硬い。

 ゴミと油と呪力の塊を噛む感触。

 だが顎は強い。歯が食い込み、核に届く。

 

 俺は喰った。

 

 呪力が流れ込む。

 味が――違う。

 

 (……美味い)

 

 廃ビルの下級呪霊は、薄い泥水みたいだった。量はあっても質が軽い。

 こいつは、濃い。

 嫌悪と欲が混じって、複雑な味になっている。

 影の美味さには及ばない。でも、“食べてる”という実感がある。

 

 俺は核を噛み砕き、残りを吸い込むように喰い尽くした。

 

 路地裏に残ったのは、湿った匂いと、薄い残穢と、溶けたゴミ袋だけ。

 

 俺は深く息を吐いた。

 胸元に刺さった痕はもう塞がりかけている。

 痛みは消えた。

 でも、羞恥の熱は残った。

 

 (ここは激戦区だ)

 

 たかが下級呪霊でも油断できない。

 反応が速い。

 生き残るために研ぎ澄まされている。

 

 そして――味がいい。

 この街には、かなり濃い呪いが溜まっている。

 もっと美味い獲物がいる。

 

 俺は口を、少しだけ歪めた。

 

 (来て正解だな、新宿)

 

 

 

 

 

 

   §

 

 

 

 

 

 

 それから俺は、数時間かけて街を渡り歩いた。

 

 大通りの上空は避ける。看板の光が強すぎる。

 代わりに、ビルとビルの隙間を縫い、屋上と屋上を繋ぎ、暗い路地へ降りる。

 人間の視線の外側で、呪いの匂いを嗅ぎ続ける。

 

 新宿は“層”の街だ。

 表面には観光客やサラリーマンの笑い声がある。

 その下に酔いがある。

 さらに下に疲労がある。

 もっと下に諦めがある。

 そして最下層に、誰にも言えない欲と孤独が沈んでいる。

 

 呪霊は、その最下層に生まれる。

 だから、繁華街の裏の裏が一番濃い。

 

 俺は下級呪霊を見つけては狩った。

 

 舌のない口で味を確かめるように、呪力を飲み込む。

 触手みたいな呪霊。

 顔がいくつもある呪霊。

 靴だけでできたみたいな呪霊。

 どれも下級だが、味が違う。街の負の感情は種類が多いから、呪霊の味も多彩になる。

 

 一匹目は驚き。

 二匹目は確認。

 三匹目は確信。

 四匹目からは、楽しくなった。

 

 (……これ、観光じゃん)

 

 自分でそう思って笑いそうになる。

 新宿という街を“味見”している。

 看板じゃなく、呪霊を。

 名所巡りじゃなく、路地裏巡りで。

 

 狩りは順調だった。

 

 七匹目を喰い終えた頃、俺の靄は少し濃くなっていた。

 力が増し、呪力の“締まり”が良くなった感覚。

 舐めれば味が分かる。

 匂いを嗅げば方向が分かる。

 街のどこが“濃い”か、肌で分かる。

 

 (……最高だな)

 

 俺はまるで旅行者みたいに浮かれていた。

 

 そして――その浮かれが、隙になった。

 

 路地裏。

 人の気配が薄い場所。

 ビルの裏口とゴミ置き場。

 湿った壁に、古いポスター。

 遠くでだけ、歌声と笑い声が漏れてくる。

 

 俺はそこに降りて、呼吸を整えるように靄を薄くした。

 その時。

 

「ねえ」

 

 声がした。

 

 俺は、固まった。

 

 (……今、声?)

 

 真横。

 人間の声。

 

 俺は反射的にそちらを向く。

 路地の入口に、女性が立っていた。

 懐中電灯を持っている。白い光が路地の奥を照らして、壁の湿り気を浮き上がらせている。

 

 女は、見た目が“整いすぎていた”。

 夜の路地裏に似合わないほど肌が白く、髪が艶めいている。服装も妙に上品で、汚れがない。明らかに"ただ者"ではない雰囲気を醸し出していた。

 

 (呪術師…!?)

 

 焦りが胃の奥を掻き回した。

 俺が見えている?

 俺を狙っている?

 相手の力量が上だったら、終わる――そう思った瞬間、呪力が勝手に立ち昇る。

 

 だが、女は怯えない。

 驚きもしない。

 ただ、微笑んだ。

 

「こっちにおいで」

 

 その声は、甘い。

 だが甘いだけじゃない。

 不自然に整っている。

 感情の起伏が薄い。

 

 俺は一歩下がった。

 

 「……おまえ、だれ」

 

 カタコトで返す。

 喉が乾く。

 前世ぶりに“人間と会話”している感覚が、妙に胸を刺した。

 嫌悪じゃない。

 懐かしさに似た痛み。

 

 地下で、ずっと一人だった。

 喰って、狩って、支配して。

 誰とも会話せず、ただ上へ行くことだけを考えてきた。

 だから今、この“会話”に、どこか惹かれている。 

 

 (……俺、孤独だったのか)

 

 女は懐中電灯を少し上げて、俺を照らそうとした。

 俺は反射的に影へ動く。

 光が当たりかけて、靄が揺れる。

 

 女は、それでも笑っている。

 

「大丈夫。ついてきて」

 

 「……なんで」

 

「ついてきて」

 

 噛み合わない。

 質問への答えがない。

 まるで――決まった文言を繰り返しているみたいに。

 

 (……変だ)

 

 そもそも、なぜ今の新宿で懐中電灯?

 スマホのライトで十分だ。

 なぜ女性がこんな路地裏に一人で?

 そして、なぜ俺に“ついてきて”と繰り返す?

 

 女の目が、やけに暗い。

 美人なのに、視線の奥が空っぽに見える。

 人間の目じゃないような――

 

 嫌な予感が、背中を撫でた。

 

 (距離を取る…)

 

 俺は半歩、後ろへ下がった。

 女は一歩、前へ出た。

 距離が縮まる。

 

 俺はさらに下がろうとした。

 

 その瞬間――

 

 背後の空気が、裂けた。

 

 生臭い圧。

 巨大な影。

 俺の視界の端に、黒い口が迫る。

 

 (――後ろ!?)

 

 俺は反射的に飛び上がり、身体を捻った。

 

 間一髪。

 

 巨大な何かが、俺のいた場所を噛み潰した。

 風圧が背中を叩き、路地の壁が振動する。

 地面に落ちたのは、ぬるりとした水滴。

 腐食じゃない、ただの粘液。生臭い。

 

 俺は距離を取って、振り返った。

 

 そこにいたのは――

 

 巨大なチョウチンアンコウみたいな呪霊だった。

 

 体は膨れた袋みたいに丸く、表面は湿って光っている。

 小さな目が複数あり、口は異様に大きく、裂け目の奥に針みたいな歯が並ぶ。

 そして頭部から伸びる“提灯”――その先が、淡い光を放っている。

 

 息が詰まる。

 

 (……提灯?)

 

 さっきまで、路地の入口に立っていた女。

 懐中電灯を持っていた女。

 

 俺は、その女の方を見た。

 

 ――いない。

 

 いや、違う。

 

 提灯の光の揺れが、女の笑みと同じ形をしている。

 光の中に、彼女の顔が浮かんでいる。

 いや、顔“だった”ものが、揺れている。

 

 提灯の先端は、女の姿を模した餌だった。

 

 (……騙された)

 

 胸の奥が冷たくなった。

 驚き。

 怒り。

 そして、理解。

 

 呪霊の世界は弱肉強食。

 騙された方が悪い。

 俺がずっとやってきたことだ。誘導し、追い込み、喰う。

 それを今、俺がやられかけただけ。

 

 巨大なアンコウ呪霊が、湿った息を漏らす。

 提灯の女が、ニヤニヤ笑いながらさっきとは異なる声で囁いた。

 

『こっちにおいで』

 

 その瞬間、俺はようやく悟った。

 

 この街の獲物は、ただ強いだけじゃない。

 狡い。あくどい。容赦がない。

 

 俺は、黒い靄を濃くした。

 楽しむ余裕は消えた。

 観光は終わりだ。

 

 狩りが、本番になる。

 

 




今回のチョウチンアンコウ呪霊は"六月の銀杏"さんからのアイデアです(設定は少し変えました)。ありがとうございます。

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