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新宿の上空は、夜なのに息苦しい。
闇があるはずなのに、闇が薄い。
街が発する光が、空気そのものを白く濁らせている。ネオン、看板、車のヘッドライト、ビルの窓――無数の人工の光が重なって、夜空を“灰色”に塗りつぶしている。
俺はその灰色の中を、羽を震わせて滑るように飛んだ。
黒い靄を薄くまとい、輪郭を夜に溶かす。飛ぶたびに風が肌を撫で、都市の熱と匂いが喉の奥へ流れ込んでくる。
下を見れば、人間が溢れている。
駅前の広場は巨大な胃袋みたいだ。人が飲み込まれ、吐き出され、また飲み込まれる。足音が波になって地面を叩き、笑い声や怒鳴り声が混ざり合って、ひとつの騒音になる。
横断歩道の信号が変化するたび、群衆が一斉に動き出す。その動きは滑稽なほど揃っていて、しかし一人一人の顔には別々の感情が貼りついている。
欲。
焦り。
期待。
諦め。
酔い。
虚勢。
孤独。
新宿は、負の感情だけでできているわけじゃない。むしろ、陽の感情も濃い。楽しさ、興奮、欲望。
ただそれらの“陽”は、強いほど裏返りやすい。楽しさは空虚に変わり、興奮は苛立ちに変わり、欲望は焦燥へ転ぶ。
この街は、その反転の速さが異常に速い。
だから呪いが溜まる。
ビルの谷間を抜ける風に、香水、油、煙草、汗、排気ガス、雨上がりのアスファルトの匂いが混ざっている。
地下の空気は単調だった。湿気と腐臭が支配していた。
ここは違う。味が多すぎる。刺激が多すぎる。
(……まるで腹いっぱいの宴会場だな)
そんな感想が浮かんで、自分で自分が気味悪い。
俺は呪霊で、捕食者で、獣だ。
街を“宴会場”だと思ってしまう感覚が、もう元に戻れないことを教えてくる。
それでも――胸の奥がわくわくする。
危険がある。
強い獲物がいる。
それに近づけば近づくほど、俺はもっと強くなれる。
俺は低く飛びすぎないように気をつけた。ビルの屋上の高さを縫うように、看板の光を避けるように、街灯の円を踏まないように。
人間には見えないはずでも、“見える人間”がいるかもしれない。呪術師だけじゃない。勘の鋭い一般人もいる。
(ここで油断したら、郊外とは危険度が段違いだ)
そんな自制の言葉を胸に置きながら、俺は街を舐めるように眺めた。
すると――
路地裏の一角に、黒い溜まりが見えた。
人の波から少し外れた場所。光が届かない狭い通路。飲み屋の裏口、ゴミ袋が積み上がり、湿った壁。
そこに、“人の嫌悪”が固まってできたような気配がある。
下級呪霊。
姿は、俺の目にははっきりと輪郭を持って見える。
暗闇に溶けるような黒い人型。だが体表はベタついていて、紙くずや髪の毛や油が貼りついている。背中にいくつも裂け目があり、そこから細い手が生えては引っ込む。顔はなく、首から直接歯が生えている。
まるでこの街の“捨てられたもの”を寄せ集めて作った生き物だ。
(……新宿、初めての餌)
腹の奥が、熱を持った。
俺は上空で一度、羽を畳んだ。
落下する。
風が耳のない側頭部を叩く。
黒い靄が尾を引く。
(一撃で仕留める)
そう思った。
そして、それが慢心だった。
下級呪霊が――俺の落下に気づいた。
いや、気づいたというより、空気の“圧”を感じた瞬間に反射した。
体をねじり、壁に張り付き、口を開く。
次の瞬間、背中から細い手が一斉に伸びた。
ゴミ袋を裂くような速度。
俺の胸元に、爪みたいな指が突き刺さる。
「……っ!」
思わず声が漏れた。
痛みは浅い。靄が薄い防御になって、胸部を貫かせなかった。
だが、驚きがでかい。
(反応が良い……!)
廃ビルの下級呪霊は、もっと鈍かった。逃げるか固まるか、どちらかだ。
こいつは違う。
“狩られる”と分かった瞬間に、“狩り返す”動きをした。
俺は地面を蹴って距離を取った。
呪霊は路地の壁にへばりついたまま、口を開いてこちらを睨むような仕草をする。
裂け目から伸びた手が、空を掻く。
獲物を逃がさないように、通路の出口に向かって広がっていく。
(……俺、恥ずかしいな)
胸の奥が熱くなった。怒りじゃない。
羞恥。
“都心に来た初手で油断した”自分への羞恥心。
獅子は兎を狩るのにも全力。
だったら俺も、下級呪霊相手でも全力で行くべきだ。
俺は、靄を濃くした。
黒い外套が揺れ、俺の周囲の空気が微かに歪む。
腐食の性質が滲み出る。触れれば削れる、という圧が外側に広がる。
「……ころす」
口から出た言葉は、カタコトのまま。
でも、意思は明確だった。
俺は羽を一瞬だけ開き、短く加速した。
直線ではなく、斜め。
呪霊の手の射程の外から入り、壁を蹴って角度を変える。
呪霊の手が追ってくる。
速い。
だが、動きは単純だ。
俺は指先に靄を集め、小さな腐食の雫を作った。
雫を手の群れへ弾く。
じゅう、と音がした。
伸びた手が一本、溶けて落ちる。
呪霊がぎくりと震えた。
反射で手を引っ込める。――それが隙。
俺は一気に距離を詰め、顎で噛みついた。
硬い。
ゴミと油と呪力の塊を噛む感触。
だが顎は強い。歯が食い込み、核に届く。
俺は喰った。
呪力が流れ込む。
味が――違う。
(……美味い)
廃ビルの下級呪霊は、薄い泥水みたいだった。量はあっても質が軽い。
こいつは、濃い。
嫌悪と欲が混じって、複雑な味になっている。
影の美味さには及ばない。でも、“食べてる”という実感がある。
俺は核を噛み砕き、残りを吸い込むように喰い尽くした。
路地裏に残ったのは、湿った匂いと、薄い残穢と、溶けたゴミ袋だけ。
俺は深く息を吐いた。
胸元に刺さった痕はもう塞がりかけている。
痛みは消えた。
でも、羞恥の熱は残った。
(ここは激戦区だ)
たかが下級呪霊でも油断できない。
反応が速い。
生き残るために研ぎ澄まされている。
そして――味がいい。
この街には、かなり濃い呪いが溜まっている。
もっと美味い獲物がいる。
俺は口を、少しだけ歪めた。
(来て正解だな、新宿)
§
それから俺は、数時間かけて街を渡り歩いた。
大通りの上空は避ける。看板の光が強すぎる。
代わりに、ビルとビルの隙間を縫い、屋上と屋上を繋ぎ、暗い路地へ降りる。
人間の視線の外側で、呪いの匂いを嗅ぎ続ける。
新宿は“層”の街だ。
表面には観光客やサラリーマンの笑い声がある。
その下に酔いがある。
さらに下に疲労がある。
もっと下に諦めがある。
そして最下層に、誰にも言えない欲と孤独が沈んでいる。
呪霊は、その最下層に生まれる。
だから、繁華街の裏の裏が一番濃い。
俺は下級呪霊を見つけては狩った。
舌のない口で味を確かめるように、呪力を飲み込む。
触手みたいな呪霊。
顔がいくつもある呪霊。
靴だけでできたみたいな呪霊。
どれも下級だが、味が違う。街の負の感情は種類が多いから、呪霊の味も多彩になる。
一匹目は驚き。
二匹目は確認。
三匹目は確信。
四匹目からは、楽しくなった。
(……これ、観光じゃん)
自分でそう思って笑いそうになる。
新宿という街を“味見”している。
看板じゃなく、呪霊を。
名所巡りじゃなく、路地裏巡りで。
狩りは順調だった。
七匹目を喰い終えた頃、俺の靄は少し濃くなっていた。
力が増し、呪力の“締まり”が良くなった感覚。
舐めれば味が分かる。
匂いを嗅げば方向が分かる。
街のどこが“濃い”か、肌で分かる。
(……最高だな)
俺はまるで旅行者みたいに浮かれていた。
そして――その浮かれが、隙になった。
路地裏。
人の気配が薄い場所。
ビルの裏口とゴミ置き場。
湿った壁に、古いポスター。
遠くでだけ、歌声と笑い声が漏れてくる。
俺はそこに降りて、呼吸を整えるように靄を薄くした。
その時。
「ねえ」
声がした。
俺は、固まった。
(……今、声?)
真横。
人間の声。
俺は反射的にそちらを向く。
路地の入口に、女性が立っていた。
懐中電灯を持っている。白い光が路地の奥を照らして、壁の湿り気を浮き上がらせている。
女は、見た目が“整いすぎていた”。
夜の路地裏に似合わないほど肌が白く、髪が艶めいている。服装も妙に上品で、汚れがない。明らかに"ただ者"ではない雰囲気を醸し出していた。
(呪術師…!?)
焦りが胃の奥を掻き回した。
俺が見えている?
俺を狙っている?
相手の力量が上だったら、終わる――そう思った瞬間、呪力が勝手に立ち昇る。
だが、女は怯えない。
驚きもしない。
ただ、微笑んだ。
「こっちにおいで」
その声は、甘い。
だが甘いだけじゃない。
不自然に整っている。
感情の起伏が薄い。
俺は一歩下がった。
「……おまえ、だれ」
カタコトで返す。
喉が乾く。
前世ぶりに“人間と会話”している感覚が、妙に胸を刺した。
嫌悪じゃない。
懐かしさに似た痛み。
地下で、ずっと一人だった。
喰って、狩って、支配して。
誰とも会話せず、ただ上へ行くことだけを考えてきた。
だから今、この“会話”に、どこか惹かれている。
(……俺、孤独だったのか)
女は懐中電灯を少し上げて、俺を照らそうとした。
俺は反射的に影へ動く。
光が当たりかけて、靄が揺れる。
女は、それでも笑っている。
「大丈夫。ついてきて」
「……なんで」
「ついてきて」
噛み合わない。
質問への答えがない。
まるで――決まった文言を繰り返しているみたいに。
(……変だ)
そもそも、なぜ今の新宿で懐中電灯?
スマホのライトで十分だ。
なぜ女性がこんな路地裏に一人で?
そして、なぜ俺に“ついてきて”と繰り返す?
女の目が、やけに暗い。
美人なのに、視線の奥が空っぽに見える。
人間の目じゃないような――
嫌な予感が、背中を撫でた。
(距離を取る…)
俺は半歩、後ろへ下がった。
女は一歩、前へ出た。
距離が縮まる。
俺はさらに下がろうとした。
その瞬間――
背後の空気が、裂けた。
生臭い圧。
巨大な影。
俺の視界の端に、黒い口が迫る。
(――後ろ!?)
俺は反射的に飛び上がり、身体を捻った。
間一髪。
巨大な何かが、俺のいた場所を噛み潰した。
風圧が背中を叩き、路地の壁が振動する。
地面に落ちたのは、ぬるりとした水滴。
腐食じゃない、ただの粘液。生臭い。
俺は距離を取って、振り返った。
そこにいたのは――
巨大なチョウチンアンコウみたいな呪霊だった。
体は膨れた袋みたいに丸く、表面は湿って光っている。
小さな目が複数あり、口は異様に大きく、裂け目の奥に針みたいな歯が並ぶ。
そして頭部から伸びる“提灯”――その先が、淡い光を放っている。
息が詰まる。
(……提灯?)
さっきまで、路地の入口に立っていた女。
懐中電灯を持っていた女。
俺は、その女の方を見た。
――いない。
いや、違う。
提灯の光の揺れが、女の笑みと同じ形をしている。
光の中に、彼女の顔が浮かんでいる。
いや、顔“だった”ものが、揺れている。
提灯の先端は、女の姿を模した餌だった。
(……騙された)
胸の奥が冷たくなった。
驚き。
怒り。
そして、理解。
呪霊の世界は弱肉強食。
騙された方が悪い。
俺がずっとやってきたことだ。誘導し、追い込み、喰う。
それを今、俺がやられかけただけ。
巨大なアンコウ呪霊が、湿った息を漏らす。
提灯の女が、ニヤニヤ笑いながらさっきとは異なる声で囁いた。
『こっちにおいで』
その瞬間、俺はようやく悟った。
この街の獲物は、ただ強いだけじゃない。
狡い。あくどい。容赦がない。
俺は、黒い靄を濃くした。
楽しむ余裕は消えた。
観光は終わりだ。
狩りが、本番になる。
今回のチョウチンアンコウ呪霊は"六月の銀杏"さんからのアイデアです(設定は少し変えました)。ありがとうございます。