人間形態の主人公くんのAPPは15くらいです(謎の真っ黒ローブでこれなので、ちゃんとオシャレしたらもっと高い)。
路地裏の湿った闇から一歩踏み出すと、世界の温度が変わった。
新宿の夜は、空の暗さのわりに地面が明るい。
看板の光が反射したアスファルトは濡れたように光り、車のライトが通り過ぎるたび、壁の影が伸びたり縮んだりする。
遠くの喧騒は絶えないのに、ここはほんの少しだけ音が薄い。まるで、巨大な海の岸辺に立っているみたいに――波の音だけが遠くで鳴っている。
俺は無意識に、自分の手を見た。
細い。
指が長い。
爪は短く、硬い鉤爪の名残は見えない。
掌には血管のような陰影がうっすら浮かぶが、そこを流れているのは血じゃない。呪力だ。
肌が白いのに、どこか作り物めいた“冷たい白”で、触れれば温度がないことを悟られそうな気がする。
(……落ち着け)
俺は歩く。
歩き方も、体の使い方も、今までと違う。
脚が長くなり、重心が高い。足の裏で地面を掴む感覚が浅い。
一歩が軽い。その軽さが不安を呼ぶ。虫の体躯のときは、地面を踏むたびに「俺がここにいる」と確かめられた。今はそれが希薄だ。
(力は落ちてる……でも、これでいい)
今は試す時間だ。
戦うことじゃない。溶かすことでもない。
“紛れる”こと。
いきなりメインストリートに出るのは危険だ。
人が多すぎる場所は、それだけ異物を感じ取る触覚も多い。
だからまずは脇道。
人の少ない場所で、この体がどこまで人間として機能するか。
どこまで“普通”に見えるか。
どこで綻ぶか。
俺は、路地裏からもう一本外れた細道へ入った。
そこは急に生活の匂いが濃くなる。
飲み屋の裏口。ゴミ置き場。段ボール。生ゴミの甘ったるい匂い。油の焦げた匂い。煙草の吸い殻の湿った匂い。
壁に貼られたチラシは破れ、文字が半分消えている。
換気扇がぶおん、と低い音を吐き続け、排気が夜気に混ざっていく。
人影はまばらだった。
通り過ぎるのは、ほとんどが酔っぱらいだ。足元がふらつき、笑い声がやたら大きく、言葉が意味を成していない。
肩を組んで歩く二人組。
電話しながら壁にもたれるスーツ姿。
タクシーを探してきょろきょろする女。
視線が合いそうで合わない。合っても、すぐにぼやける。
(……ここなら、バレにくいだろう)
俺は自分の靄を限界まで薄くした。
靄はローブのように纏っているが、今はそれすらただの“布”に見えるはずだ。
この姿なら、呪霊としての圧は隠せる。
少なくとも、一般人の目には。
フードはかぶらない。
あえて顔を出す。
目が合うかどうかを確かめたい。
俺は歩いた。
人間の真似をするように。
肩をすぼめ、目線を落とし、夜の街に馴染むように。
……すれ違った男が、ちらりと俺を見た。
目が合った。
ほんの一瞬。
だが確かに、合った。
(見えてる)
予想通りだ。驚きはない。
チョウチンアンコウの擬餌が“美しい人間の女”だった以上、人間に見えないなら意味がない。
見えないものを美しく見せる必要はない。
俺は淡々と歩き続けた。
次にすれ違った女も、俺を見た。
驚いたように目を見開き、歩きながら振り返る。
(……振り返る?)
胸の奥が少し冷えた。
一人。
また一人。
視線が絡むたび、相手が振り返る確率が高い。
ただの確認じゃない。
思わず振り返ってしまったような視線だ。
(俺が……人間じゃないと気づかれてる?)
背中に汗――ではないが、嫌な冷たさが走る。
呪術師ならまだ分かる。
でも、一般人が俺を見て違和感を覚える?
そんなことがあるのか?
心臓がないはずなのに、胸の奥が落ち着かない。
歩幅が乱れそうになる。
不自然になるのが一番まずい。
俺は無理やり足を揃え、呼吸の代わりに呪力を沈めた。
そのとき――
「ねえ、ちょっと君!」
陽気な声が飛んできた。
俺は反射的に身構えた。
足を止め、肩が硬直する。
声の主は、若い男が二人。
二十歳前後。大学生くらいか。
顔が赤い。息が酒臭い。
片方は肩を揺らしながら笑っていて、もう片方はスマホを持ったままふらふらしている。
「こんな時間にさー、子ども? 大丈夫? 迷子?」
「や、てか、君、なにしてんの? 家は? 親は?」
言葉は軽い。
善意なのか、酔っぱらいの気まぐれなのか、判別がつかない。
だが敵意は薄い。危険な匂いもしない。
(……会話だ)
胸の奥が、別の方向に揺れた。
人間と話したい。
前世ぶりの“普通の会話”をしてみたい。
孤独が匂いとして残っていたことを、チョウチンアンコウに利用された。
それが悔しいのに――それでも、この欲は消えない。
俺は意気込んだ。
つっかえないように。
短く。
余計なことを言わない。
「……大丈夫。ただの散歩」
声が出る。
前より滑らかで、夜の空気に馴染む。
二人組が、同時に固まった。
「……え?」
「ちょ、声……男?」
二人の顔が、驚きと戸惑いで歪む。
まるで、想定していた答えが崩れたみたいに。
「え、まって。女の子だと思った」
「いや、でも顔……女じゃん……え? どっち?」
彼らは急に興味を失ったように笑い、視線が泳ぐ。
それは“面白がり”じゃない。
面倒ごとに触れたくない、という空気。
「……あ、まあ、うん。気をつけてね!」
「じゃ、じゃーね!」
二人は逃げるように去っていった。
笑いながら、でも足早に。
振り返りもせずに。
俺はその背中を見送った。
(……終わり?)
会話の手応えがない。
繋がらない。
短く答えただけで、相手は勝手に結論を出して去った。
(俺が……変だから?)
否定したいのに、否定できない。
確かに俺は変だ。呪霊だ。人間の皮を被っただけの異物だ。
一瞬、胸の奥が沈む。
さっきまでの視線の多さも、今の会話の途切れ方も、全部つながって見える。
俺はふと、街灯の光が反射する窓ガラスに顔を近づけた。
そこに映る自分は、やはり“綺麗”だった。
整った顔。
中性的で、年齢が曖昧で、どこか儚い。
しかも、夜の光の中で異様に映える。黒髪と黒目が、光を吸って際立つ。
(……そりゃ、振り返るか)
人間じゃないと気づかれてるんじゃない。
単純に、目を引くからだ。
そう思った瞬間、胸の奥の沈みが少しだけ軽くなった。
落ち込む理由を、別の場所に置けたから。
そして、理解する。
この美しさは、人間社会では突出している。
だからこそ危険でもある。
だが同時に――“人”として扱われる。
少なくとも一般人は、俺を呪霊だとは思わない。
変な子だと思うだけだ。
それなら、利用できる。
俺は一度、深く息を吐くふりをして、靄をさらに薄くした。
(よし……次だ)
§
場所を変えた。
新宿のメインストリート。
深夜0時はとうに過ぎている。
それでも街は眠らない。眠らせない。
光が強い。
看板が派手だ。
音が多い。
人が多い。
路地裏の静けさが嘘みたいに、ここは巨大な機械の内部だ。
人の流れが歯車みたいに噛み合い、止まらず回転している。
俺は黒いローブのフードを深くかぶった。
顔を隠すためだ。目を引きすぎる。
ただ、フードを深くかぶった人間――しかも黒い全身衣装を纏っている――なんて、どう見ても不審者だ。
だが新宿では、それが埋もれる。
奇抜な格好の人間は珍しくない。
酔っぱらいもいる。コスプレもいる。夜職もいる。
誰も他人を気にする余裕がない。
自分の欲、自分の時間、自分の仲間、自分のスマホ。
視線は常に“自分”に向いている。
俺はその中を歩いた。
群衆の肩が擦れる。
香水の匂いが鼻を刺す。
笑い声が耳のない頭に響く。
誰かの肘が当たる。
それでも、俺に誰も反応しない。
(……すげぇ)
感動に近いものが胸に湧いた。
今まで、俺は影に隠れて生きてきた。
地下で、暗闇で、路地裏で。
それが当たり前だった。
なのに今、俺は人の真ん中を歩いている。
光の中を歩いている。
誰にも止められない。
誰にも気づかれない。
(これが……擬態の力)
心の中で、何度も言葉を反芻する。
強さには種類がある。
殴って勝つ強さだけじゃない。
“見えない”強さがある。
そのときだった。
交差点の先。
人波の向こう側。
信号待ちの群衆の中に――違う匂いが立っていた。
呪力。
普通の人間からも負の感情の匂いはする。だがそれは薄い。
あれは違う。
呪力が、体から立ち昇っている。
細い煙のようにではなく、熱のように。空気が歪む。
(呪術師…!)
俺の背中が冷えた。
その人間の周囲に呪霊が取り憑いている様子はない。
呪霊に引っ張られている一般人でもない。
自分の呪力で立っている。
間違いない。
俺は一瞬、逃げようとした。
足が自然に後ろへ下がりそうになる。
だが、そこで思いとどまる。
(ここで逃げたら、逆に怪しい)
人混みの中で急に方向を変えたら、目立つ。
呪術師の感覚が鋭ければ、それを“違和感”として拾うかもしれない。
それに――
(呪力量は……そんなに多くない)
相手の呪力は強くない。
二級か、三級か。
少なくとも、俺が全力で逃げれば振り切れる。
バレても、即死はしない。
(……堂々と行け)
俺は決めた。
信号が変わる。
群衆が一斉に動く。
その波に、俺は乗る。
靄を薄く保つ。
ローブのフードをさらに深くかぶる。
呼吸のふりをして、呪力を沈める。
心臓のない胸が、妙にうるさい。
横断歩道の白線が足元を流れる。
人の肩がぶつかり、体温が一瞬だけ伝わる。
その体温が、俺には遠い。
生きてる温度。俺が持っていないもの。
呪術師が近づく。
視界の端で、顔が見える。
若い男。二十代前半くらい。黒髪。目つきは鋭いが、疲れている。
呪力は抑えているようで、外には漏れにくい。
それでも俺には見える。
(気づくな……気づくな)
心の中で祈るような言葉が出て、苦笑しそうになる。
俺は祈る側じゃない。呪う側だ。
すれ違う瞬間、俺はわざと視線を落とした。
ぶつからない程度に距離を取り、群衆の隙間に身体を滑り込ませる。
呪術師は――何も反応しなかった。
視線も動かさない。
足取りも変えない。
平然と歩き続ける。
俺の存在は、彼の世界に入っていない。
(……通った)
胸の奥が、熱くなった。
緊張がほどけて、代わりに笑いが込み上げる。
危険をすり抜けた快感。
それは狩りの成功とは別種の快感だ。
俺は交差点を渡りきり、群衆の流れに紛れたまま歩き続けた。
呪術師の背中が遠ざかる。
呪力の匂いも薄れる。
俺は、フードの下で小さく笑った。
(呪術師すら……欺ける)
この姿の強力さを、改めて実感する。
殴り合いでは弱くなった。
でも、この街では殴り合いだけが強さじゃない。
都心は、狩り場だ。
そして俺は今、狩り場の中を“人間の皮”で歩ける。
黒いローブが、群衆の風に揺れる。
ネオンがそれを照らして、ただのファッションの影にする。
俺は足を止めずに進んだ。
この能力がある限り、
俺はもっと深いところへ潜れる。
もっと濃い呪いへ近づける。
もっと美味い獲物へ辿りつける。
誰にも気づかれないまま、俺は夜の中心へ溶けていった。
人間社会に紛れ込める(呪術師ですら判別不可)呪霊とか呪術高専が発狂しちゃう!