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夜が明ける瞬間の新宿は、奇妙に静かだ。
ネオンが一斉に消えるわけじゃない。看板の光はまだ残っているし、街灯もついたままの場所が多い。コンビニの白い照明なんて、昼夜の区別を知らない顔で光っている。
なのに――空気だけが、明確に切り替わる。
夜の匂いが薄まっていく。
酒と汗と香水と油の混ざった濃い層が、風に飛ばされるように剥げていく。代わりに、朝の乾いた匂いが入ってくる。洗剤の匂い、コーヒーの匂い、どこかのビルが吐き出す温い換気の匂い。
空が青くなるにつれて、街の輪郭が硬くなる。夜の新宿は光で輪郭が曖昧だったのに、朝の新宿は逆に、ビルの角も道路の線もくっきりと主張してくる。
音も変わる。
夜は笑い声と怒鳴り声と音楽が層になって流れていた。
朝は、足音が支配する。
一斉に動き始める靴底の音。信号が変わるたびに発生する集団の移動。地下鉄の入り口へ吸い込まれていく人の波。
人間の“仕事”が街を動かしている音。
スーツの群れが現れる。
黒、紺、灰色。どれも同じ色に見えて、よく見ると微妙に違う。ネクタイの柄、シャツの白さ、靴の手入れ。
死んだ目のやつ、眠そうなやつ、イライラしているやつ、無表情のやつ。
夜の人間は欲望で顔が歪む。朝の人間は責任で顔が固まる。
それらを観察する俺は――高層ビルの屋上にいた。
柵の外側。風が直接当たる場所に座りながら、呪力で強化した目で朝の人々を観察していた。
呪霊に休眠は必要ない。眠らなくとも活動することは可能だ。
それでも昨夜は、情報が多すぎた。刺激が多すぎた。死にかけた戦いもあったし、姿を変える能力まで手に入れた。
心――と言っていいか分からないが、精神の奥がささくれていた。
それを、放っておくのが怖かった。
だからこうして、夜が明けるまで、ただ風に晒されていた。
屋上は安全だった。
人目がない。
呪霊の気配も薄い。
空を飛べる呪霊は多くない。新宿に呪霊は多いが、ほとんどが地面や建物の隙間にへばりついている。
この高さは“餌”が来ない代わりに、敵も来ない。
それに、俺はここを“拠点”にした。
人間形態では羽が出せなかった。だから昨夜、雑踏をひと通り歩いたあと、一度呪霊形態に戻り、ビルの外壁を風に乗って越え屋上まで飛んだ。
ビル内の屋上に出る扉のドアノブは、鍵穴ごと腐食で溶かした。
これでビルの中から屋上へ入るのは不可能だ。管理会社が気づけば取り替えるだろうが、今朝の時点ではまだ何も起きていない。
(……しばらくは使えるな)
俺は立ち上がり、屋上の外周へ歩いた。
足――呪霊形態のため現在は鉤爪――がコンクリを掴む感触。
風が靄を揺らし、朝の光が靄の縁を薄く照らす。
手すり越しに、新宿が広がっている。
夜の新宿は人の欲を喰らう胃袋だった。
朝の新宿は、巨大な機械だ。
人間がパーツみたいに動いている。信号の点灯が合図で、群れが流れる。地下へ吸い込まれ、高架へ吐き出され、ビルへ飲まれる。
それが整然としているようで、どこか無理をしているようにも見える。無理の匂いは、呪いになりやすい。
でも――夜ほど濃くない。
夜の欲望の渦が沈み、街の呪いの気配が薄まっている。
昨日の夜に感じた“甘い臭気”が、今は遠い。
残っているのは、薄い疲労と焦りの匂い。悪くないが、派手ではない。
(……夜まで、狩りは控えるか)
そう判断できる程度には、俺も学んだ。
昼間に派手に動けば、事故が増える。目撃が増える。呪術師が寄ってくる。
なら、今日は別の目的にする。
(人間社会に溶け込む)
言葉にすると、少し滑稽だ。
呪霊が“溶け込む”。
でも、この姿を手に入れた以上、それを使わない手はない。
それに――
(……観光もしたい)
昨夜、俺は“観光客みたいだ”と思っていた。
笑える話だが、無視できない感情だった。
人間だったころ、何かに憧れていたのかもしれない。都会の光。人の波。朝のコーヒーの匂い。
前世の記憶は薄いのに、そういう“やりたかった感じ”だけが残っている。
俺は自分のその甘さに、少しだけ眉を寄せた。
だが、否定しきれない。
(今日だけだ。夜になればまた狩る)
自分に言い訳して、俺は手すりを蹴った。
羽が開く。
風を掴む。
屋上から、朝の新宿へ滑り降りる。
§
空から降りる途中、俺は人目を避けた。
ビルの谷間を通り、屋上の影を渡り、看板の裏へ潜る。
朝の光は強い。夜空に紛れるみたいな誤魔化しは効かない。
だからこそ“角度”と“影”が重要だった。光の届かない場所へ。人間の視線が向かない場所へ。
そして、人の少ない場所へ辿り着く。
駅から少し外れた裏通り。朝の飲み屋街の裏口。まだシャッターが半分降りた店。ゴミ置き場。
ここなら人の密度が薄い。
俺は壁の影に身を潜め、しばらく待った。
人間が通るのを。
(財布……いけるか…?)
倫理? そんなもの、呪霊に必要か。
俺は生き残るために動いている。人間社会に溶け込むには“金”がいる。食べ物を買うにも、移動するにも。
昼間に人間形態の俺が、真っ黒のローブでフラフラ歩いていたら、それだけで目立つ。
目立たないための道具を手に入れるには、金がいる。
俺は自分に言い聞かせながら、心の奥の小さな罪悪感を押し潰した。
押し潰さないと、逆に気持ち悪い。
俺はもう“人間”じゃない。
しばらくして、足音が近づいた。
革靴の音。
一定のリズム。
急いでいるが、走ってはいない。
通りかかったのは、身なりのいい男だった。
スーツの仕立てが良い。靴も磨かれている。髪も整っている。
そして――歩き方が自信に満ちている。周囲を気にしていない。俺みたいな影に目を向けない。そういう人間は、財布の扱いも雑になりがちだ。
(……カモが来た)
俺は無音で背後についた。
呪霊形態の俺は、ただの人間には見えない。
存在していても、“気配”としてしか感じない。
俺は空気の一部だ。
男のズボンの後ろポケット。
そこに財布の角がわずかに覗いている。
(……簡単すぎる)
俺は指先を伸ばした。
ポケットの縁を滑らせ、布の摩擦を殺し、財布をつまむ。
抜き取った瞬間、男は何も気づかない。
歩き続ける。
俺はその後ろ姿を見て、妙な感覚を覚えた。
(……俺、今、盗んだ)
人間だったころの道徳の残骸が、胸の奥で小さくざわつく。
でも、それはすぐに薄くなる。
代わりに、冷静な計算が浮かぶ。
(必要だ。必要ならやる。それだけだ)
俺は路地の影で財布を開いた。
中は、異常だった。
万札が――束になって詰まっている。
十枚、二十枚、ではない。
もっとある。
ぱっと見で、百枚以上。
(……は?)
思わず固まった。
呪霊の俺でも、金の価値くらいは知っている。
万札百枚は――百万だ。
人間が尻のポケットに入れて持ち歩く額じゃない。
(なんだこいつ……怖)
人間の世界の怖さが、別の方向から刺してくる。
この男は何者だ。
夜の街で何をしていた。
あるいは、今から何をする。
俺は一瞬だけ、全部抜き取ってやろうかと思った。
そうすれば今後の“溶け込み”が楽になる。
だが――
(目立つ)
欲張ったら終わる。
男が気づけば騒ぎになる。警察が動く。
その流れが呪術師に繋がるとは限らないが、余計な火種は要らない。
俺は万札を三枚だけ抜いた。
三万円。
観光には十分。
“変な動き”をしないための最低限。
財布を閉じ、男の背後に戻る。
そして、何事もなかったように後ろポケットへ差し戻した。
男はまだ気づかない。
歩き続ける。
俺は一歩下がり、その背中を見送った。
(……助かったよ)
口に出さず、心の中だけで呟いた。
感謝ではなく、区切りみたいなものだ。
人間のルールから、もう少し遠ざかるための。
§
人目の少ない場所へ移動して、俺は人間形態へ変身した。
呪力を捻り、輪郭を細く整える。
背中の羽が消え、爪が丸まり、顔の線が滑らかになる。
黒い靄は体に巻き付き、ローブのように残る。
俺は三万円を握りしめた。
紙の感触。
ざらりとした繊維。
人間の世界の“価値”が、指先に詰まっている。
(……俺、金持ちだ)
その感覚が妙に新鮮で、少し笑いそうになる。
俺はフードを目深にかぶった。
全身真っ黒は目立つが、俺の顔はより目立つ。面倒事はごめんだ。
朝の新宿へ繰り出す。
夜より少し空気が軽い。
それでも人は多い。
スーツの波が駅へ吸い込まれていく。
俺はその波の端を歩きながら、目的地へと向かう。
そして俺は、新宿駅前の有名な牛丼チェーン店へ入った。
ガラス扉が開く音。
油と醤油の匂いが、いきなり鼻の奥を殴ってくる。
腹が鳴る――わけじゃないのに、舌の奥が反応する。
そう、
店内の客は、ほとんどがスーツ姿だった。
急いで食べて、急いで出る。
その空気が店全体を支配している。
俺は隅の席に座った。
フードをかぶったまま。
視線が少し刺さる気がする。
(完全に浮いてる…)
自覚がある。
周囲の“社会の一部”の中に、俺だけが異物として座っている。
人間は俺を見ても、深く考えない。仕事があるから。
でも、見られている気はする。薄く。
俺はメニューを見て、適当に「牛丼・並盛り」を頼んだ。
注文の仕方は、少しだけ手間取った。
まだこの体の動かし方が下手で、言葉が一瞬詰まる。
店員が困った顔をしそうになって、俺は慌てて指差しで誤魔化した。
(……もっと練習しとけばよかった)
心の中で自嘲しながら、届いた牛丼を受け取って箸を割る。
湯気。
薄い肉の匂い。
玉ねぎの甘さ。
白米の熱。
俺は一口食べた。
――美味い。
呪霊を喰った時の“呪力の甘さ”とは違う。
これは、脂と塩と糖が混ざったジャンキーな味。
脳を直接殴るみたいな快感がある。
濃い。早い。分かりやすい。
(癖になるな、これ)
もうどうでもよくなった。
周囲の視線も。自分が浮いていることも。
俺は牛丼を一気にかき込んだ。
味が口の中で広がり、舌が幸せで鈍くなる。
食べ終わって、金を払って、店を出る。
朝の光が目に刺さる。
腹――というより胸の奥が満たされている。
呪霊の俺が人間の食事で満足するという事実が、また可笑しい。
そしてその直後――
俺は、気配を感じた。
新宿駅の方向。
呪霊の気配。
下級呪霊とは違う。
薄いが、明確に“変”な圧が混じっている。
(……駅からか?)
俺は歩き出した。
§
新宿駅は、怪物だった。
人が多い。多すぎる。
朝の新宿駅は“運搬装置”だ。人間を運ぶためだけの巨大な臓器。
階段、改札、ホーム、電光掲示板。
人間がそこいらに吸い込まれ、流れ、吐き出される。
俺はフードの下から目を細め、気配を探った。
基本的に呪霊の気配は、人の恐怖が溜まる場所に留まる。
だけど今感じている気配は、固定されていない。動いている。
まるで――乗り物の中にあるみたいに。
(電車……か)
俺はホームの方向へ進んだ。
切符を買う必要があることに気づいて、券売機の前で少し固まる。
画面の文字を読み、手順を思い出すのに時間がかかった。
後ろに並ぶ人間の気配が刺さる。
焦りが喉を締める。
俺は結局、適当な金額の切符を買った。正しいかどうかは分からない。だが改札は通れた。
それだけで胸の奥が少しだけ軽くなる。
(……なんなんだこの緊張感は)
呪霊を喰うより、切符を買う方が緊張する。
自分で笑いたくなるが、笑えない。
人間社会のルールは、呪霊にとって別種の戦場だ(果たして自分以外にルールに従う呪霊がいるのかは置いといて)。
ホームに入ると、電車が滑り込んできた。
車体が風を切る。
扉が開き、乗客が吐き出され、乗客が飲み込まれる。
俺は気配がする車両へ乗り込んだ。
車内は揺れる。
吊り革が揺れる。
人間の体が微妙にぶつかり合い、無言の苛立ちが漂う。
俺はフードの下の目で索敵した。
そして見つけた。
様子のおかしい女性。
スーツを着ている。容姿は整っている。髪も綺麗にまとめている。
だが、動きが妙だ。
何度も、つり革を握り直している。
指が震えている。
脂汗が額に浮かび、頬を伝っている。
呼吸が浅い。胸が上下し、喉がひくつく。
明らかに苦しそうなのに、周囲の人間は気づかないふりをしている。都市の朝の冷たさがそこにある。
(……呪いが憑いてる?)
俺の背中が少しだけ冷えた。
そして、女性の立っている場所の前――
荷物を置く網棚の上に、ありえないものがあった。
小さな老人。
茶色い着物のような服を着て、白い髭を垂らし、自分の身の丈ほどの壺を掲げるようにして、そこにいる。
普通ならありえない。そんな小さな人間がいることも。人間が網棚に立つことも。
なのに誰も騒がない。見えていないからだ。
老人は――人間じゃない。
呪霊だ。
あるいは、呪詛師側の何か。
少なくとも、呪いの存在。
老人は壺を掲げたまま、苦しむ女性を見下ろしていた。
ニヤニヤと笑っている。
その笑みの粘つきが、俺の喉の奥に嫌な味を残した。
(獲物だ…)
女性を助けるのではない、あくまで俺の欲のため、副次的に女性が助かるだけだ。
そう自分に言い聞かせて、俺はその老人に近づいていった。
今回の後半に出てきたちっちゃい老人は、"ステーキ大好き"さんからのアイデアです(設定は少し変えました)。ありがとうございます。