呪霊王におれはなる!!   作:トックー0322

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第十五話:人間として

 

 

 夜が明ける瞬間の新宿は、奇妙に静かだ。

 

 ネオンが一斉に消えるわけじゃない。看板の光はまだ残っているし、街灯もついたままの場所が多い。コンビニの白い照明なんて、昼夜の区別を知らない顔で光っている。

 なのに――空気だけが、明確に切り替わる。

 

 夜の匂いが薄まっていく。

 酒と汗と香水と油の混ざった濃い層が、風に飛ばされるように剥げていく。代わりに、朝の乾いた匂いが入ってくる。洗剤の匂い、コーヒーの匂い、どこかのビルが吐き出す温い換気の匂い。

 空が青くなるにつれて、街の輪郭が硬くなる。夜の新宿は光で輪郭が曖昧だったのに、朝の新宿は逆に、ビルの角も道路の線もくっきりと主張してくる。

 

 音も変わる。

 

 夜は笑い声と怒鳴り声と音楽が層になって流れていた。

 朝は、足音が支配する。

 一斉に動き始める靴底の音。信号が変わるたびに発生する集団の移動。地下鉄の入り口へ吸い込まれていく人の波。

 人間の“仕事”が街を動かしている音。

 

 スーツの群れが現れる。

 

 黒、紺、灰色。どれも同じ色に見えて、よく見ると微妙に違う。ネクタイの柄、シャツの白さ、靴の手入れ。

 死んだ目のやつ、眠そうなやつ、イライラしているやつ、無表情のやつ。

 夜の人間は欲望で顔が歪む。朝の人間は責任で顔が固まる。

 

 それらを観察する俺は――高層ビルの屋上にいた。

 

 柵の外側。風が直接当たる場所に座りながら、呪力で強化した目で朝の人々を観察していた。

 呪霊に休眠は必要ない。眠らなくとも活動することは可能だ。

 それでも昨夜は、情報が多すぎた。刺激が多すぎた。死にかけた戦いもあったし、姿を変える能力まで手に入れた。

 

 心――と言っていいか分からないが、精神の奥がささくれていた。

 それを、放っておくのが怖かった。

 だからこうして、夜が明けるまで、ただ風に晒されていた。

 

 屋上は安全だった。

 

 人目がない。

 呪霊の気配も薄い。

 空を飛べる呪霊は多くない。新宿に呪霊は多いが、ほとんどが地面や建物の隙間にへばりついている。

 この高さは“餌”が来ない代わりに、敵も来ない。

 

 それに、俺はここを“拠点”にした。

 

 人間形態では羽が出せなかった。だから昨夜、雑踏をひと通り歩いたあと、一度呪霊形態に戻り、ビルの外壁を風に乗って越え屋上まで飛んだ。

 ビル内の屋上に出る扉のドアノブは、鍵穴ごと腐食で溶かした。

 これでビルの中から屋上へ入るのは不可能だ。管理会社が気づけば取り替えるだろうが、今朝の時点ではまだ何も起きていない。

 

 (……しばらくは使えるな)

 

 俺は立ち上がり、屋上の外周へ歩いた。

 足――呪霊形態のため現在は鉤爪――がコンクリを掴む感触。

 風が靄を揺らし、朝の光が靄の縁を薄く照らす。

 

 手すり越しに、新宿が広がっている。

 

 夜の新宿は人の欲を喰らう胃袋だった。

 朝の新宿は、巨大な機械だ。

 

 人間がパーツみたいに動いている。信号の点灯が合図で、群れが流れる。地下へ吸い込まれ、高架へ吐き出され、ビルへ飲まれる。

 それが整然としているようで、どこか無理をしているようにも見える。無理の匂いは、呪いになりやすい。

 

 でも――夜ほど濃くない。

 

 夜の欲望の渦が沈み、街の呪いの気配が薄まっている。

 昨日の夜に感じた“甘い臭気”が、今は遠い。

 残っているのは、薄い疲労と焦りの匂い。悪くないが、派手ではない。

 

 (……夜まで、狩りは控えるか)

 

 そう判断できる程度には、俺も学んだ。

 

 昼間に派手に動けば、事故が増える。目撃が増える。呪術師が寄ってくる。

 なら、今日は別の目的にする。

 

 (人間社会に溶け込む)

 

 言葉にすると、少し滑稽だ。

 呪霊が“溶け込む”。

 でも、この姿を手に入れた以上、それを使わない手はない。

 

 それに――

 

 (……観光もしたい)

 

 昨夜、俺は“観光客みたいだ”と思っていた。

 笑える話だが、無視できない感情だった。

 人間だったころ、何かに憧れていたのかもしれない。都会の光。人の波。朝のコーヒーの匂い。

 前世の記憶は薄いのに、そういう“やりたかった感じ”だけが残っている。

 

 俺は自分のその甘さに、少しだけ眉を寄せた。

 だが、否定しきれない。

 

 (今日だけだ。夜になればまた狩る)

 

 自分に言い訳して、俺は手すりを蹴った。

 

 羽が開く。

 風を掴む。

 屋上から、朝の新宿へ滑り降りる。

 

 

 

 

 

 

   §

 

 

 

 

 

 

 空から降りる途中、俺は人目を避けた。

 

 ビルの谷間を通り、屋上の影を渡り、看板の裏へ潜る。

 朝の光は強い。夜空に紛れるみたいな誤魔化しは効かない。

 だからこそ“角度”と“影”が重要だった。光の届かない場所へ。人間の視線が向かない場所へ。

 

 そして、人の少ない場所へ辿り着く。

 

 駅から少し外れた裏通り。朝の飲み屋街の裏口。まだシャッターが半分降りた店。ゴミ置き場。

 ここなら人の密度が薄い。

 俺は壁の影に身を潜め、しばらく待った。

 

 人間が通るのを

 

 (財布……いけるか…?)

 

 倫理? そんなもの、呪霊に必要か。

 俺は生き残るために動いている。人間社会に溶け込むには“金”がいる。食べ物を買うにも、移動するにも。

 昼間に人間形態の俺が、真っ黒のローブでフラフラ歩いていたら、それだけで目立つ。

 目立たないための道具を手に入れるには、金がいる。

 

 俺は自分に言い聞かせながら、心の奥の小さな罪悪感を押し潰した。

 押し潰さないと、逆に気持ち悪い。

 俺はもう“人間”じゃない。

 

 しばらくして、足音が近づいた。

 

 革靴の音。

 一定のリズム。

 急いでいるが、走ってはいない。

 

 通りかかったのは、身なりのいい男だった。

 スーツの仕立てが良い。靴も磨かれている。髪も整っている。

 そして――歩き方が自信に満ちている。周囲を気にしていない。俺みたいな影に目を向けない。そういう人間は、財布の扱いも雑になりがちだ。

 

 (……カモが来た)

 

 俺は無音で背後についた。

 呪霊形態の俺は、ただの人間には見えない。

 存在していても、“気配”としてしか感じない。

 俺は空気の一部だ。

 

 男のズボンの後ろポケット。

 そこに財布の角がわずかに覗いている。

 

 (……簡単すぎる)

 

 俺は指先を伸ばした。

 ポケットの縁を滑らせ、布の摩擦を殺し、財布をつまむ。

 

 抜き取った瞬間、男は何も気づかない。

 歩き続ける。

 俺はその後ろ姿を見て、妙な感覚を覚えた。

 

 (……俺、今、盗んだ)

 

 人間だったころの道徳の残骸が、胸の奥で小さくざわつく。

 でも、それはすぐに薄くなる。

 代わりに、冷静な計算が浮かぶ。

 

 (必要だ。必要ならやる。それだけだ)

 

 俺は路地の影で財布を開いた。

 

 中は、異常だった。

 

 万札が――束になって詰まっている。

 十枚、二十枚、ではない。

 もっとある。

 ぱっと見で、百枚以上。

 

 (……は?)

 

 思わず固まった。

 呪霊の俺でも、金の価値くらいは知っている。

 万札百枚は――百万だ。

 人間が尻のポケットに入れて持ち歩く額じゃない。

 

 (なんだこいつ……怖)

 

 人間の世界の怖さが、別の方向から刺してくる。

 この男は何者だ。

 夜の街で何をしていた。

 あるいは、今から何をする。

 

 俺は一瞬だけ、全部抜き取ってやろうかと思った。

 そうすれば今後の“溶け込み”が楽になる。

 

 だが――

 

 (目立つ)

 

 欲張ったら終わる。

 男が気づけば騒ぎになる。警察が動く。

 その流れが呪術師に繋がるとは限らないが、余計な火種は要らない。

 

 俺は万札を三枚だけ抜いた。

 

 三万円。

 観光には十分。

 “変な動き”をしないための最低限。

 

 財布を閉じ、男の背後に戻る。

 そして、何事もなかったように後ろポケットへ差し戻した。

 

 男はまだ気づかない。

 歩き続ける。

 俺は一歩下がり、その背中を見送った。

 

 (……助かったよ)

 

 口に出さず、心の中だけで呟いた。

 感謝ではなく、区切りみたいなものだ。

 人間のルールから、もう少し遠ざかるための。

 

 

 

 

 

 

   §

 

 

 

 

 

 

 人目の少ない場所へ移動して、俺は人間形態へ変身した。

 

 呪力を捻り、輪郭を細く整える。

 背中の羽が消え、爪が丸まり、顔の線が滑らかになる。

 黒い靄は体に巻き付き、ローブのように残る。

 

 俺は三万円を握りしめた。

 

 紙の感触。

 ざらりとした繊維。

 人間の世界の“価値”が、指先に詰まっている。

 

 (……俺、金持ちだ)

 

 その感覚が妙に新鮮で、少し笑いそうになる。

 

 俺はフードを目深にかぶった。

 全身真っ黒は目立つが、俺の顔はより目立つ。面倒事はごめんだ。

 

 朝の新宿へ繰り出す。

 

 夜より少し空気が軽い。

 それでも人は多い。

 スーツの波が駅へ吸い込まれていく。

 俺はその波の端を歩きながら、目的地へと向かう。

 

 そして俺は、新宿駅前の有名な牛丼チェーン店へ入った。

 

 ガラス扉が開く音。

 油と醤油の匂いが、いきなり鼻の奥を殴ってくる。

 腹が鳴る――わけじゃないのに、舌の奥が反応する。

 そう、牛丼屋(ここ)が俺の目的地だ。前世ぶりに人間の作る飯を食べてみたかった。

 

 店内の客は、ほとんどがスーツ姿だった。

 急いで食べて、急いで出る。

 その空気が店全体を支配している。

 

 俺は隅の席に座った。

 フードをかぶったまま。

 視線が少し刺さる気がする。

 

 (完全に浮いてる…)

 

 自覚がある。

 周囲の“社会の一部”の中に、俺だけが異物として座っている。

 人間は俺を見ても、深く考えない。仕事があるから。

 でも、見られている気はする。薄く。

 

 俺はメニューを見て、適当に「牛丼・並盛り」を頼んだ。

 注文の仕方は、少しだけ手間取った。

 まだこの体の動かし方が下手で、言葉が一瞬詰まる。

 店員が困った顔をしそうになって、俺は慌てて指差しで誤魔化した。

 

 (……もっと練習しとけばよかった)

 

 心の中で自嘲しながら、届いた牛丼を受け取って箸を割る。

 

 湯気。

 薄い肉の匂い。

 玉ねぎの甘さ。

 白米の熱。

 

 俺は一口食べた。

 

 ――美味い。

 

 呪霊を喰った時の“呪力の甘さ”とは違う。

 これは、脂と塩と糖が混ざったジャンキーな味。

 脳を直接殴るみたいな快感がある。

 濃い。早い。分かりやすい。

 

 (癖になるな、これ)

 

 もうどうでもよくなった。

 

 周囲の視線も。自分が浮いていることも。

 俺は牛丼を一気にかき込んだ。

 味が口の中で広がり、舌が幸せで鈍くなる。

 

 食べ終わって、金を払って、店を出る。

 

 朝の光が目に刺さる。

 腹――というより胸の奥が満たされている。

 呪霊の俺が人間の食事で満足するという事実が、また可笑しい。

 

 そしてその直後――

 

 俺は、気配を感じた。

 

 新宿駅の方向。

 呪霊の気配。

 下級呪霊とは違う。

 薄いが、明確に“変”な圧が混じっている。

 

 (……駅からか?)

 

 俺は歩き出した。

 

 

 

 

 

 

   §

 

 

 

 

 

 

 新宿駅は、怪物だった。

 

 人が多い。多すぎる。

 朝の新宿駅は“運搬装置”だ。人間を運ぶためだけの巨大な臓器。

 階段、改札、ホーム、電光掲示板。

 人間がそこいらに吸い込まれ、流れ、吐き出される。

 

 俺はフードの下から目を細め、気配を探った。

 

 基本的に呪霊の気配は、人の恐怖が溜まる場所に留まる。

 だけど今感じている気配は、固定されていない。動いている。

 まるで――乗り物の中にあるみたいに。

 

 (電車……か)

 

 俺はホームの方向へ進んだ。

 切符を買う必要があることに気づいて、券売機の前で少し固まる。

 画面の文字を読み、手順を思い出すのに時間がかかった。

 

 後ろに並ぶ人間の気配が刺さる。

 焦りが喉を締める。

 俺は結局、適当な金額の切符を買った。正しいかどうかは分からない。だが改札は通れた。

 それだけで胸の奥が少しだけ軽くなる。

 

 (……なんなんだこの緊張感は)

 

 呪霊を喰うより、切符を買う方が緊張する。

 自分で笑いたくなるが、笑えない。

 人間社会のルールは、呪霊にとって別種の戦場だ(果たして自分以外にルールに従う呪霊がいるのかは置いといて)。

 

 ホームに入ると、電車が滑り込んできた。

 車体が風を切る。

 扉が開き、乗客が吐き出され、乗客が飲み込まれる。

 

 俺は気配がする車両へ乗り込んだ。

 

 車内は揺れる。

 吊り革が揺れる。

 人間の体が微妙にぶつかり合い、無言の苛立ちが漂う。

 

 俺はフードの下の目で索敵した。

 

 そして見つけた。

 

 様子のおかしい女性。

 

 スーツを着ている。容姿は整っている。髪も綺麗にまとめている。

 だが、動きが妙だ。

 

 何度も、つり革を握り直している。

 指が震えている。

 脂汗が額に浮かび、頬を伝っている。

 呼吸が浅い。胸が上下し、喉がひくつく。

 明らかに苦しそうなのに、周囲の人間は気づかないふりをしている。都市の朝の冷たさがそこにある。

 

 (……呪いが憑いてる?)

 

 俺の背中が少しだけ冷えた。

 

 そして、女性の立っている場所の前――

 荷物を置く網棚の上に、ありえないものがあった。

 

 小さな老人。

 

 茶色い着物のような服を着て、白い髭を垂らし、自分の身の丈ほどの壺を掲げるようにして、そこにいる。

 普通ならありえない。そんな小さな人間がいることも。人間が網棚に立つことも。

 なのに誰も騒がない。見えていないからだ。

 

 老人は――人間じゃない。

 

 呪霊だ。

 あるいは、呪詛師側の何か。

 少なくとも、呪いの存在。

 

 老人は壺を掲げたまま、苦しむ女性を見下ろしていた。

 

 ニヤニヤと笑っている。

 

 その笑みの粘つきが、俺の喉の奥に嫌な味を残した。

 

 (獲物だ…)

 

 女性を助けるのではない、あくまで俺の欲のため、副次的に女性が助かるだけだ。

 そう自分に言い聞かせて、俺はその老人に近づいていった。

 

 

 





今回の後半に出てきたちっちゃい老人は、"ステーキ大好き"さんからのアイデアです(設定は少し変えました)。ありがとうございます。
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