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車内の空気は、薄い膜みたいに張りつめていた。
朝の通勤電車の中は、いつもならもっと無機質だ。
誰もが自分の体温だけを守るように俯き、スマホの画面を見つめ、吊り革にぶら下がって揺れに耐える。
他人に興味がないというより、興味を持つ余力がない。見ないふりをすることで、日常を保つ。
そういう“冷たい秩序”がある。
なのに今日のこの車両は、違った。
何かが、いびつに歪んでいる。
俺はフードを深くかぶったまま、揺れる車内の端に立っていた。
吊り革を掴む手は落ち着いているふりをしているが、意識は別の場所に張りついている。
苦しむ女性。
その前の網棚。
網棚の上で壺を掲げている小さな老人呪霊。
女性は、目に見えて“苦しんでいた”。
スーツ姿で、容姿は整っている。髪はきちんとまとめられていて、メイクも崩れていない――はずなのに、額と鼻筋のあたりだけが不自然に濡れていた。脂汗。
頬はこわばり、唇が薄く震えている。
呼吸は浅く、胸が小刻みに上下していた。息を吸っても吸っても足りないみたいに、喉の奥で空気が引っかかっている。
何度も吊り革を握り直す。
指先が痙攣するように動き、爪が白くなるほど力が入る。
膝が微かに折れそうになり、何とか踏ん張って戻す。
足が落ち着かない。片足に体重をかけては戻し、またかけ直す。
それが、“ある一点”を中心にした我慢だと分かってしまうのが、前世が人間である自分の嫌なところだった。
(便意……か)
俺は喉の奥で息を飲んだ。
呪いの気配は確かにあるのに、恐怖や憎しみの匂いとは違う。もっと俗っぽい、生活に絡みついた負の感情。
そしてそれを“楽しむ”気配が混じっている。
周囲の人間は、気づいているのか気づいていないのか分からない顔をしていた。
近くに立つ男はスマホを見続け、画面をスクロールする指の動きだけが生きている。
座席の端に座る女はイヤホンをして目を閉じ、眠っているふりをしている。
別の男は新聞を広げているが、目が文字を追っていない。
誰もが“視線の置き場”を誤魔化している。
苦しんでいる人間がいるのに、助けない。
それは悪意からじゃない。
助け方が分からない。関わりたくない。関わった瞬間、面倒になる。
都市の人間は、そういう選別を一瞬でやる。
俺はその無関心の海の中で、女性の方へ少しずつ近づいた。
体を斜めにし、人の揺れに合わせて位置を変える。
押し合いへし合いの流れを利用する。
“自然に近づく”。
そして――網棚の上を見上げた。
老人呪霊は、小さかった。
人間の幼児ほどの背丈。
茶色い着物のような服をだらしなくまとい、禿げ上がった頭がつるりと光っている。
長い白髭が胸元まで垂れていて、その顔つきは能面の「翁」を思わせた。
笑っているように見えるのに、目の奥が冷えている。
祝福の面のはずなのに、そこにあるのは祝福じゃない。人の“困窮”を味わうための仮面だ。
老人は網棚の上で、身の丈ほどの壺を掲げていた。
壺は土色で、表面にひび割れのような模様が走っている。
その中から、薄い呪力がもやもやと漏れている。
(あれが元凶だ)
俺は確信した。
女の呼吸がさらに浅くなる。
唇が噛み締められ、頬の筋がぴくぴくと動く。
汗がこめかみから耳の前を流れ落ちる。
“限界”が近い顔だ。
俺は一歩踏み出した。
(近づいて――壺を壊せば)
呪霊を祓うのは、昨夜の俺なら即決だった。喰えばいい。
だが今の俺は、人間の姿で、満員電車の中だ。
派手に動けば目立つ。目立てば厄介が増える。
だから、“静かに終わらせる”必要がある。
その時。
電車が、減速した。
ブレーキの音が車内に広がり、人々の身体が一斉に前へ傾く。吊り革が揺れ、荷物が小さく跳ねる。
そしてアナウンス。
『まもなく――新大久保、新大久保です。お降りの方は――』
機械の声が流れると同時に、車内の空気が“出口”へ向かって動き出す。
駅に停車した。人が降りる。
ドアが開いた瞬間、朝の空気が流れ込んだ。
ホームの匂い。金属の匂い。少し冷たい風。
人間が次々と吐き出されていく。
女も動いた。
ぎこちない――ながらも、やたら早い歩き方だった。
走りたいのに走れない人間の歩き方。
腰が固く、肩が前に出て、足だけが早い。
顔は必死だ。目は一点を見つめ、そこにしか生きる道がないみたいに、出口へ向かう。
(トイレ……)
俺はその背中を見て、なぜか胸の奥が嫌な気持ちになった。
呪いに苦しめられているのに、周囲の人間はそれを“体調不良”として処理し、誰も関わらない。
女性は助けを求めない。求めても意味がないと知っているから。
女性がドアを抜けていった。
その瞬間、網棚の上の老人呪霊が、舌打ちした。
「ちっ……惜しかったなぁ」
乾いた声。
まるで人間の老人が、競馬のハズレを嘆くみたいな口調。
俺は――固まった。
(喋った…!?)
今まで会ってきた呪霊の中にも、人語を操るのはいた。影もそうだったし、チョウチンアンコウもそうだった。
でも、こいつの“喋り方”は別だ。
カタコトじゃない。決まった演技でもない。
日常会話の軽さがある。
感情の層がある。
そして何より、嗜好が透けて見える。
(……完全に、知能がある)
俺は一瞬で判断を更新した。
パッと見、下級呪霊。壺を掲げているだけ。攻撃性も薄い。
そんなふうに見えていたのに――こいつは“趣味”を持っている。まるで人間だ。
その時、老人呪霊がこちらを見た。
目が合った。
俺の背筋が凍りつく。
(気づいた? 俺が……呪霊だって?)
フードの影に隠したはずの目。
人間の群れの中に混じったはずの異物。
それを、こいつが嗅ぎ取った?
さっきまで下級だと思っていた相手が、急に“とてつもない実力者”に見えてくる。
知能が高い=強い、とは限らない。
でも、強者ほど余裕がある。余裕があるほど、喋り方が人間に近い。
そういう偏見が、俺の中で勝手に出来ていた。
電車は停車している。
車内の人間はどんどん降りていく。
空間が広くなる。
逃げ場が減る。隠れ場所が減る。
(やばい)
俺は動けなかった。
動けば“反応”だ。反応すれば、相手に情報を渡す。
老人呪霊は、網棚から飛び降りた。
小さな体が音もなく床へ降りる。
壺は相変わらず掲げたまま。
そのまま、俺の真下まで来た。
近い。
老人は――フードの中を、下から覗き込んだ。
まじまじと。
目の奥に、粘ついた好奇心を溜めて。
俺の喉が鳴る。
汗はかかないはずなのに、皮膚の外側がひやりとする。
逃げたい。でも動けない。
“見られている”という感覚が、こんなにも身体を縛るのかと驚く。
老人呪霊が、ニヤリと笑った。
そして――壺を掲げた。
俺の体に、何かがまとわりつくのを感じた。
呪力が、粘っこい糸みたいに絡みついてくる。
皮膚の表面を撫で、腹の奥へ潜ろうとする。
(来る……!)
俺は身構えた。
便意の呪い? いや、俺は呪霊だ。人間の臓器はない。
でも呪いは“概念”で刺してくることもある。なら、呪霊にも効く可能性は――
……何も起こらない。
腹の奥が、静かなままだ。
呼吸も乱れない。
呪力の糸は絡みつこうとして、途中でほどけて消える。
老人呪霊が眉をひそめた。
「……あ?」
もう一度壺を掲げる。
俺の身体に同じ粘つく呪力がまとわりつく。
だがやっぱり、何も起こらない。
老人呪霊が焦ったように壺を何度も掲げ始めた。
「おい、なんでだ……!おかしいだろ!効けよ!ほら!効けって!!」
声が上ずっている。
さっきまでの“余裕ある老人”の雰囲気が崩れていく。
焦りが露骨だ。
その焦りが――逆に、俺の中の恐怖を剥がした。
(……あ)
気づいた。
(こいつ、弱い)
知能が高いから強い、なんて勝手な思い込みだった。
こいつは術式を持っている。厄介な、卑怯な、生活に食い込む術式。
でもその術式は、人間にしか効かない。
そして、身体能力そのものは低い。呪力量も少ない。
俺が本気を出せば、簡単に潰せる。
さっきまでの緊張が、嘘みたいに消えた。
肩の力が抜ける。
胸の奥が静かになる。
恐怖が、興味に変わる。
(……今度は俺の番だ)
俺は手を伸ばし、老人呪霊の首根っこを掴んだ。
「ひっ――!?」
老人呪霊が情けない声を上げた。
小さな体がぶら下がり、壺が傾く。
俺は壺も一緒に掴んで固定し、外へ向かった。
ドアはまだ開いている。
ホームに人はいるが、今の俺は人間の姿だ。
手に持っているのは――普通の人間には見えない呪霊だ。
俺が何かを掴んでいるようには見えない。
俺はそのまま電車を降りた。
老人呪霊は喚き散らす。
「やめろ!やめろぉ!降ろせ!降ろせって!俺は……俺は……!」
声は人間には聞こえない。
誰も振り返らない。
朝のホームは忙しい。見えないものの騒ぎに反応するほど暇じゃない。
§
ホームの端へ行く。
人の流れから外れた、黄色い線のさらに奥。
風が少し強く、線路の下から鉄と油の匂いが上がってくる。
電車が発車すれば、空気が一気に吸われる場所。
改札へ続く階段から遠く、人間があまり来ない場所。
俺は老人呪霊を床に下ろさず、首根っこを掴んだまま問いかけた。
「おまえ、なんだ」
老人呪霊は喚き続けた。
「おま……お前、女じゃなかったのか!?騙された! 騙されたぁ!ちくしょう! ちくしょう!!」
(女?)
俺は眉をひそめた。
こいつ、俺を女だと思っていたのか?
まさか、そのためにフードの中を覗いた?
俺は理解し、納得する。
術式の対象として“女を選ぶ”嗜好があるから、フードを覗き、顔を確認して、俺を勝手に女と決めつけたのか。
(気持ち悪い…)
俺は声を低くした。
「さっきの女に、何してた」
老人呪霊はまだ喚く。
自分の状況が分かっていない。
俺は面倒になって、呪力を少しだけ漏らした。
ローブの一部が黒い靄になり、肩から波のように広がる。
腐食の刺が空気を削り、老人呪霊の顔の前でひゅう、と冷たい圧になる。
老人呪霊は、ぴたりと黙った。
目が丸くなる。
口が歪む。
さっきまでの卑屈な笑みが消え、恐怖が浮かぶ。
「……じゅ、呪術師……?」
俺は心の中で笑いそうになった。
呪術師だと思われている。
まあ、俺が呪霊だと気づかないなら、その方が都合がいい。
俺は言い直した。
「答えろ。おまえはなんだ。あの女に何をした」
老人呪霊は、唾を飲み込み、急に“素直”になった。
「……お、俺は……電車の中が縄張りでな……ああいう、綺麗な女が……困ってるのを見るのが……好きで……」
嫌な予感がした。
俺は眉間を寄せたまま、黙って続きを促した。
老人呪霊は壺を抱え込み、早口で言った。
「俺の術式は……便意を増幅させる……。女が、腹の奥を……ぎゅうって締めて……我慢してる顔が最高でな……。限界まで我慢して……足がもじもじして……汗をかいて……それでも耐える姿が……たまらんのだ……。耐えきれずに、漏らしちまうのも……また……」
俺は途中から、聞いているのが苦痛になっていた。
(……最悪だ)
呪霊は人間の負の感情から生まれるため、その嗜好は必然的に歪む。
でもこれは歪み方が汚い。
“好み”の方向が、嫌だ。
俺は思わず、顔をしかめた。
老人呪霊はそれを“怒り”と解釈したのか、慌てて手を振った。
「ま、待て!待て待て!正直に話した!話したから!見逃してくれ!なっ!?もうやらん!やらんから!」
俺は冷たく言った。
「迷惑だ。祓う」
喰う気はない。
喰ったら、なんか変な味がしそうだ。
汚い呪いが体に残りそうで、嫌だった。
俺が腕に靄を集め、腐食の膜を作ろうとすると、老人呪霊の顔が引きつった。
「ま、待て! 俺は……呪術高専とも関わりがある!俺を殺すと、奴らが黙ってないぞ!」
俺は目を細めた。
「……は?」
老人呪霊は必死に言葉を紡ぐ。
「ほんとだ! ほんとほんと!たまに見つかっても……見逃されるんだ!俺は情報を持ってる!弱い呪霊なら代わりに祓ってもいる!だから……だから……!」
(信じるかよ)
俺は鼻で笑いそうになった。
こんな汚い趣味の呪霊を高専が放置する理由があるとしたら、確かに“情報源”として飼っている可能性はある。
でも、それを今この場で確かめる術はない。
俺が腕に力を入れ直した時、老人呪霊が突然、俺の後ろを指さした。
「ほら!ほら、あれだ!ここら辺には、俺より明確に人間に危害を加える奴もいる!例えば、
俺はため息をついた。
あまりにも古典的すぎる。
(そんなのに引っかかるか)
俺は首根っこを掴む手を緩めないまま、ゆっくり振り向いた。
念のためだ。
万が一がある。都心は万が一だらけだ。
そして――そこにいた。
フラフラと千鳥足で歩く、スーツ姿の人間。
肩が落ち、ネクタイが緩み、目が虚ろだ。
酔っているのか、疲れているのか、薬が回っているのか分からない。
ただ、足取りが地面を確かめていない。
その背後に――同じようにフラフラと歩く“何か”。
呪霊。
スーツを着たミイラだった。
全身に包帯が巻かれている。
包帯は黄ばんで湿り、ところどころから黒い血が滲み出ている。
頭部は包帯でぐるぐる巻きで、顔の形がぼんやりとしか分からない。
それでも口の位置だけが裂けていて、そこから乾いた息が漏れている。
そして――そのミイラ呪霊は、電話をしていた。
片手にスマホを持ち、包帯だらけの指で耳に当てながら、
もう片方の手を後頭部に添え、ぺこぺこと何度も頭を下げている。
まるで、会社に謝罪の電話をしているサラリーマンみたいに。
その滑稽さが、逆に不気味だった。
(…なんだ…こいつは…)
老人呪霊が、俺の手の中で小さく震えた。
「な? な? 分かるだろ?あいつは……やばいぞ……」
俺は目を細めたまま、千鳥足の人間とミイラ呪霊を見つめた。
呪力の匂いが、老人呪霊とは違う。
もっと濃い。
もっと乾いている。
そして、どこか“諦め”の味がする。
新宿の朝は、まだ始まったばかりだというのに。
最後に出てきたスーツミイラ呪霊は"mirusenn"さんからのアイデアです(設定は少し変えています)。ありがとうございます。