呪霊王におれはなる!!   作:トックー0322

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第十六話:網棚の翁

 

 

 車内の空気は、薄い膜みたいに張りつめていた。

 

 朝の通勤電車の中は、いつもならもっと無機質だ。

 誰もが自分の体温だけを守るように俯き、スマホの画面を見つめ、吊り革にぶら下がって揺れに耐える。

 他人に興味がないというより、興味を持つ余力がない。見ないふりをすることで、日常を保つ。

 そういう“冷たい秩序”がある。

 

 なのに今日のこの車両は、違った。

 

 何かが、いびつに歪んでいる。

 

 俺はフードを深くかぶったまま、揺れる車内の端に立っていた。

 吊り革を掴む手は落ち着いているふりをしているが、意識は別の場所に張りついている。

 苦しむ女性。

 その前の網棚。

 網棚の上で壺を掲げている小さな老人呪霊。

 

 女性は、目に見えて“苦しんでいた”。

 

 スーツ姿で、容姿は整っている。髪はきちんとまとめられていて、メイクも崩れていない――はずなのに、額と鼻筋のあたりだけが不自然に濡れていた。脂汗。

 頬はこわばり、唇が薄く震えている。

 呼吸は浅く、胸が小刻みに上下していた。息を吸っても吸っても足りないみたいに、喉の奥で空気が引っかかっている。

 

 何度も吊り革を握り直す。

 指先が痙攣するように動き、爪が白くなるほど力が入る。

 膝が微かに折れそうになり、何とか踏ん張って戻す。

 足が落ち着かない。片足に体重をかけては戻し、またかけ直す。

 それが、“ある一点”を中心にした我慢だと分かってしまうのが、前世が人間である自分の嫌なところだった。

 

 (便意……か)

 

 俺は喉の奥で息を飲んだ。

 呪いの気配は確かにあるのに、恐怖や憎しみの匂いとは違う。もっと俗っぽい、生活に絡みついた負の感情。

 そしてそれを“楽しむ”気配が混じっている。

 

 周囲の人間は、気づいているのか気づいていないのか分からない顔をしていた。

 

 近くに立つ男はスマホを見続け、画面をスクロールする指の動きだけが生きている。

 座席の端に座る女はイヤホンをして目を閉じ、眠っているふりをしている。

 別の男は新聞を広げているが、目が文字を追っていない。

 誰もが“視線の置き場”を誤魔化している。

 

 苦しんでいる人間がいるのに、助けない。

 それは悪意からじゃない。

 助け方が分からない。関わりたくない。関わった瞬間、面倒になる。

 都市の人間は、そういう選別を一瞬でやる。

 

 俺はその無関心の海の中で、女性の方へ少しずつ近づいた。

 体を斜めにし、人の揺れに合わせて位置を変える。

 押し合いへし合いの流れを利用する。

 “自然に近づく”。

 

 そして――網棚の上を見上げた。

 

 老人呪霊は、小さかった。

 人間の幼児ほどの背丈。

 茶色い着物のような服をだらしなくまとい、禿げ上がった頭がつるりと光っている。

 長い白髭が胸元まで垂れていて、その顔つきは能面の「翁」を思わせた。

 笑っているように見えるのに、目の奥が冷えている。

 祝福の面のはずなのに、そこにあるのは祝福じゃない。人の“困窮”を味わうための仮面だ。

 

 老人は網棚の上で、身の丈ほどの壺を掲げていた。

 壺は土色で、表面にひび割れのような模様が走っている。

 その中から、薄い呪力がもやもやと漏れている。

 

 (あれが元凶だ)

 

 俺は確信した。

 

 女の呼吸がさらに浅くなる。

 唇が噛み締められ、頬の筋がぴくぴくと動く。

 汗がこめかみから耳の前を流れ落ちる。

 “限界”が近い顔だ。

 

 俺は一歩踏み出した。

 

 (近づいて――壺を壊せば)

 

 呪霊を祓うのは、昨夜の俺なら即決だった。喰えばいい。

 だが今の俺は、人間の姿で、満員電車の中だ。

 派手に動けば目立つ。目立てば厄介が増える。

 だから、“静かに終わらせる”必要がある。

 

 その時。

 

 電車が、減速した。

 

 ブレーキの音が車内に広がり、人々の身体が一斉に前へ傾く。吊り革が揺れ、荷物が小さく跳ねる。

 そしてアナウンス。

 

『まもなく――新大久保、新大久保です。お降りの方は――』

 

 機械の声が流れると同時に、車内の空気が“出口”へ向かって動き出す。

 駅に停車した。人が降りる。

 

 ドアが開いた瞬間、朝の空気が流れ込んだ。

 ホームの匂い。金属の匂い。少し冷たい風。

 人間が次々と吐き出されていく。

 

 女も動いた。

 

 ぎこちない――ながらも、やたら早い歩き方だった。

 走りたいのに走れない人間の歩き方。

 腰が固く、肩が前に出て、足だけが早い。

 顔は必死だ。目は一点を見つめ、そこにしか生きる道がないみたいに、出口へ向かう。

 

 (トイレ……)

 

 俺はその背中を見て、なぜか胸の奥が嫌な気持ちになった。

 呪いに苦しめられているのに、周囲の人間はそれを“体調不良”として処理し、誰も関わらない。

 女性は助けを求めない。求めても意味がないと知っているから。

 

 女性がドアを抜けていった。

 

 その瞬間、網棚の上の老人呪霊が、舌打ちした。

 

 「ちっ……惜しかったなぁ」

 

 乾いた声。

 まるで人間の老人が、競馬のハズレを嘆くみたいな口調。

 

 俺は――固まった。

 

 (喋った…!?)

 

 今まで会ってきた呪霊の中にも、人語を操るのはいた。影もそうだったし、チョウチンアンコウもそうだった。

 でも、こいつの“喋り方”は別だ。

 カタコトじゃない。決まった演技でもない。

 日常会話の軽さがある。

 感情の層がある。

 そして何より、嗜好が透けて見える。

 

 (……完全に、知能がある)

 

 俺は一瞬で判断を更新した。

 パッと見、下級呪霊。壺を掲げているだけ。攻撃性も薄い。

 そんなふうに見えていたのに――こいつは“趣味”を持っている。まるで人間だ。

 

 その時、老人呪霊がこちらを見た。

 

 目が合った。

 

 俺の背筋が凍りつく。

 

 (気づいた? 俺が……呪霊だって?)

 

 フードの影に隠したはずの目。

 人間の群れの中に混じったはずの異物。

 それを、こいつが嗅ぎ取った?

 

 さっきまで下級だと思っていた相手が、急に“とてつもない実力者”に見えてくる。

 知能が高い=強い、とは限らない。

 でも、強者ほど余裕がある。余裕があるほど、喋り方が人間に近い。

 そういう偏見が、俺の中で勝手に出来ていた。

 

 電車は停車している。

 車内の人間はどんどん降りていく。

 空間が広くなる。

 逃げ場が減る。隠れ場所が減る。

 

 (やばい)

 

 俺は動けなかった。

 動けば“反応”だ。反応すれば、相手に情報を渡す。

 

 老人呪霊は、網棚から飛び降りた。

 

 小さな体が音もなく床へ降りる。

 壺は相変わらず掲げたまま。

 そのまま、俺の真下まで来た。

 

 近い。

 

 老人は――フードの中を、下から覗き込んだ。

 

 まじまじと。

 目の奥に、粘ついた好奇心を溜めて。

 

 俺の喉が鳴る。

 汗はかかないはずなのに、皮膚の外側がひやりとする。

 逃げたい。でも動けない。

 “見られている”という感覚が、こんなにも身体を縛るのかと驚く。

 

 老人呪霊が、ニヤリと笑った。

 

 そして――壺を掲げた。

 

 俺の体に、何かがまとわりつくのを感じた。

 呪力が、粘っこい糸みたいに絡みついてくる。

 皮膚の表面を撫で、腹の奥へ潜ろうとする。

 

 (来る……!)

 

 俺は身構えた。

 便意の呪い? いや、俺は呪霊だ。人間の臓器はない。

 でも呪いは“概念”で刺してくることもある。なら、呪霊にも効く可能性は――

 

 ……何も起こらない。

 

 腹の奥が、静かなままだ。

 呼吸も乱れない。

 呪力の糸は絡みつこうとして、途中でほどけて消える。

 

 老人呪霊が眉をひそめた。

 

 「……あ?」

 

 もう一度壺を掲げる。

 

 俺の身体に同じ粘つく呪力がまとわりつく。

 だがやっぱり、何も起こらない。

 

 老人呪霊が焦ったように壺を何度も掲げ始めた。

 

 「おい、なんでだ……!おかしいだろ!効けよ!ほら!効けって!!」

 

 声が上ずっている。

 さっきまでの“余裕ある老人”の雰囲気が崩れていく。

 焦りが露骨だ。

 その焦りが――逆に、俺の中の恐怖を剥がした。

 

 (……あ)

 

 気づいた。

 

 (こいつ、弱い)

 

 知能が高いから強い、なんて勝手な思い込みだった。

 こいつは術式を持っている。厄介な、卑怯な、生活に食い込む術式。

 でもその術式は、人間にしか効かない。

 そして、身体能力そのものは低い。呪力量も少ない。

 俺が本気を出せば、簡単に潰せる。

 

 さっきまでの緊張が、嘘みたいに消えた。

 

 肩の力が抜ける。

 胸の奥が静かになる。

 恐怖が、興味に変わる。

 

 (……今度は俺の番だ)

 

 俺は手を伸ばし、老人呪霊の首根っこを掴んだ。

 

 「ひっ――!?」

 

 老人呪霊が情けない声を上げた。

 小さな体がぶら下がり、壺が傾く。

 俺は壺も一緒に掴んで固定し、外へ向かった。

 

 ドアはまだ開いている。

 ホームに人はいるが、今の俺は人間の姿だ。

 手に持っているのは――普通の人間には見えない呪霊だ。

 俺が何かを掴んでいるようには見えない。

 

 俺はそのまま電車を降りた。

 

 老人呪霊は喚き散らす。

 

 「やめろ!やめろぉ!降ろせ!降ろせって!俺は……俺は……!」

 

 声は人間には聞こえない。

 誰も振り返らない。

 朝のホームは忙しい。見えないものの騒ぎに反応するほど暇じゃない。

 

 

 

 

 

 

   §

 

 

 

 

 

 

 ホームの端へ行く。

 

 人の流れから外れた、黄色い線のさらに奥。

 風が少し強く、線路の下から鉄と油の匂いが上がってくる。

 電車が発車すれば、空気が一気に吸われる場所。

 改札へ続く階段から遠く、人間があまり来ない場所。

 

 俺は老人呪霊を床に下ろさず、首根っこを掴んだまま問いかけた。

 

 「おまえ、なんだ」

 

 老人呪霊は喚き続けた。

 

 「おま……お前、女じゃなかったのか!?騙された! 騙されたぁ!ちくしょう! ちくしょう!!」

 

 (女?)

 

 俺は眉をひそめた。

 こいつ、俺を女だと思っていたのか?

 まさか、そのためにフードの中を覗いた?

 

 俺は理解し、納得する。

 

 術式の対象として“女を選ぶ”嗜好があるから、フードを覗き、顔を確認して、俺を勝手に女と決めつけたのか。

 

 (気持ち悪い…)

 

 俺は声を低くした。

 

 「さっきの女に、何してた」

 

 老人呪霊はまだ喚く。

 自分の状況が分かっていない。

 俺は面倒になって、呪力を少しだけ漏らした。

 

 ローブの一部が黒い靄になり、肩から波のように広がる。

 腐食の刺が空気を削り、老人呪霊の顔の前でひゅう、と冷たい圧になる。

 

 老人呪霊は、ぴたりと黙った。

 

 目が丸くなる。

 口が歪む。

 さっきまでの卑屈な笑みが消え、恐怖が浮かぶ。

 

 「……じゅ、呪術師……?」

 

 俺は心の中で笑いそうになった。

 呪術師だと思われている。

 まあ、俺が呪霊だと気づかないなら、その方が都合がいい。

 

 俺は言い直した。

 

 「答えろ。おまえはなんだ。あの女に何をした」

 

 老人呪霊は、唾を飲み込み、急に“素直”になった。

 

 「……お、俺は……電車の中が縄張りでな……ああいう、綺麗な女が……困ってるのを見るのが……好きで……」

 

 嫌な予感がした。

 俺は眉間を寄せたまま、黙って続きを促した。

 

 老人呪霊は壺を抱え込み、早口で言った。

 

 「俺の術式は……便意を増幅させる……。女が、腹の奥を……ぎゅうって締めて……我慢してる顔が最高でな……。限界まで我慢して……足がもじもじして……汗をかいて……それでも耐える姿が……たまらんのだ……。耐えきれずに、漏らしちまうのも……また……」

 

 俺は途中から、聞いているのが苦痛になっていた。

 

 (……最悪だ)

 

 呪霊は人間の負の感情から生まれるため、その嗜好は必然的に歪む。

 でもこれは歪み方が汚い。

 “好み”の方向が、嫌だ。

 

 俺は思わず、顔をしかめた。

 

 老人呪霊はそれを“怒り”と解釈したのか、慌てて手を振った。

 

 「ま、待て!待て待て!正直に話した!話したから!見逃してくれ!なっ!?もうやらん!やらんから!」

 

 俺は冷たく言った。

 

 「迷惑だ。祓う」

 

 喰う気はない。

 喰ったら、なんか変な味がしそうだ。

 汚い呪いが体に残りそうで、嫌だった。

 

 俺が腕に靄を集め、腐食の膜を作ろうとすると、老人呪霊の顔が引きつった。

 

 「ま、待て! 俺は……呪術高専とも関わりがある!俺を殺すと、奴らが黙ってないぞ!」

 

 俺は目を細めた。

 

 「……は?」

 

 老人呪霊は必死に言葉を紡ぐ。

 

 「ほんとだ! ほんとほんと!たまに見つかっても……見逃されるんだ!俺は情報を持ってる!弱い呪霊なら代わりに祓ってもいる!だから……だから……!」

 

 (信じるかよ)

 

 俺は鼻で笑いそうになった。

 こんな汚い趣味の呪霊を高専が放置する理由があるとしたら、確かに“情報源”として飼っている可能性はある。

 でも、それを今この場で確かめる術はない。

 

 俺が腕に力を入れ直した時、老人呪霊が突然、俺の後ろを指さした。

 

 「ほら!ほら、あれだ!ここら辺には、俺より明確に人間に危害を加える奴もいる!例えば、()()()とか!!」

 

 俺はため息をついた。

 あまりにも古典的すぎる。

 

 (そんなのに引っかかるか)

 

 俺は首根っこを掴む手を緩めないまま、ゆっくり振り向いた。

 念のためだ。

 万が一がある。都心は万が一だらけだ。

 

 そして――そこにいた

 

 フラフラと千鳥足で歩く、スーツ姿の人間。

 肩が落ち、ネクタイが緩み、目が虚ろだ。

 酔っているのか、疲れているのか、薬が回っているのか分からない。

 ただ、足取りが地面を確かめていない。

 

 その背後に――同じようにフラフラと歩く“何か”。

 

 呪霊

 

 スーツを着たミイラだった。

 全身に包帯が巻かれている。

 包帯は黄ばんで湿り、ところどころから黒い血が滲み出ている。

 頭部は包帯でぐるぐる巻きで、顔の形がぼんやりとしか分からない。

 それでも口の位置だけが裂けていて、そこから乾いた息が漏れている。

 

 そして――そのミイラ呪霊は、電話をしていた。

 

 片手にスマホを持ち、包帯だらけの指で耳に当てながら、

 もう片方の手を後頭部に添え、ぺこぺこと何度も頭を下げている。

 

 まるで、会社に謝罪の電話をしているサラリーマンみたいに。

 

 その滑稽さが、逆に不気味だった。

 

 (…なんだ…こいつは…)

 

 老人呪霊が、俺の手の中で小さく震えた。

 

 「な? な? 分かるだろ?あいつは……やばいぞ……」

 

 俺は目を細めたまま、千鳥足の人間とミイラ呪霊を見つめた。

 

 呪力の匂いが、老人呪霊とは違う。

 もっと濃い。

 もっと乾いている。

 そして、どこか“諦め”の味がする。

 

 新宿の朝は、まだ始まったばかりだというのに。

 

 




最後に出てきたスーツミイラ呪霊は"mirusenn"さんからのアイデアです(設定は少し変えています)。ありがとうございます。
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