地下は、静かだった。
だが、それは安らぎではない。
羽音を潜め、呼吸すら存在しないはずの空間で、あらゆる“意志”が獲物を探して蠢いている、そんな静寂だった。
廃ビルの地下二階。
崩れた天井の隙間から滴る水が、コンクリートに黒い染みを作っている。その水たまりに映る自分の姿を、主人公は何度も確認していた。
「……やっぱ、少し変わってるな」
複眼の焦点が、以前より合う。
視界のノイズが減り、遠近の把握ができるようになっていた。
身体も、わずかだが重い。
それは鈍さではない。密度が増した感覚。呪力の“量”が増えている証拠だと、直感的に理解できた。
──一体、喰っただけで、ここまで変わるのか。
人間だった頃の倫理観が、まだ心の奥に残っている。
だが、その倫理は、この世界では無意味だった。
生きるために喰う。
喰わなければ、喰われる。
それが、呪霊の世界だ。
ふと、空気が揺れた。
――来る。
羽音を殺し、壁に張り付く。
視界の端に、二つ、三つの影。
蝿頭だ。
だが、さっき喰った個体よりも、明らかに
「……縄張り、か」
理解した瞬間、背筋に冷たいものが走る。
ここは、誰かの“場所”だ。
呪霊にも縄張りがある。
強い個体が中心となり、弱い個体がその周囲に集まる。餌場を共有し、外敵から身を守るための、本能的な集合。
問題は――
その中心にいる存在だった。
影の奥から、一回り大きな蝿頭が姿を現す。
羽の色が違う。
半透明だったはずの翅が、黒く濁り、硬質化している。複眼の数も多く、身体の輪郭が人型に近い。
「……あいつが、ボスか」
相手も、こちらに気づいた。
複眼が、ぎょろりと動く。
次の瞬間。
――圧。
目に見えない呪力の波が、空気を震わせた。
脚が、勝手に後退る。
「……くそ……」
本能が告げている。
今は勝てない。
逃げろ。
そう判断した瞬間、別の蝿頭が回り込んできた。
――挟まれた。
羽音が一斉に響く。
逃げ場を塞ぐ、連携。知能が低いはずの蝿頭が、"狩り"をしている。
「……っ!」
人間の思考が、ここで生きた。
真正面からの突破は無理。
なら――
天井だ。
羽を全力で震わせ、斜め上へ跳ぶ。
崩れかけた梁に体当たりし、無理やり身体を引っ掛ける。
追ってきた一体が、遅れた。
その瞬間を狙って、俺は噛みついた。
――喰う。
悲鳴にもならない振動が響き、呪力が流れ込む。
だが、長居はできない。
群れのボスが、こちらを睨んでいる。
怒りの感情が、空気を歪ませる。
「……覚えてろよ」
言葉にならない呪詛を残し、梁から落下し、そのまま闇の奥へ逃げ込む。
背後で怒り狂った羽音が響いたが、深追いはしてこなかった。
――生き延びた。
物陰で身を潜めながら、身体の変化を確認する。
さっきの一体分。
だが、先ほどとは違う。
呪力の流れが、より滑らかだ。
まるで、身体が“慣れてきている”ような感覚。
「……喰い方、か」
ただ喰うだけじゃない。
どう喰うか。どの相手を選ぶか。
これは、ただの捕食じゃない。
戦略だ。
理解した瞬間、胸の奥に、奇妙な高揚が生まれた。
怖い。
気持ち悪い。
醜い。
だが――
「……面白い」
思考できる呪霊。
計算できる呪霊。
そんな存在が、この世界にどれほどいる?
あの群れのボスも、いずれ喰う。
だが、今じゃない。
まずは、一匹ずつだ。
視線を巡らせると、遠くに微弱な呪力反応がある。
群れから弾かれた個体。
孤立した弱者。
「……次は、お前だ」
羽音を殺し、闇に溶ける。
この地下は、狩場だ。
そして――
蝿頭のサバイバルは、まだ始まったばかりだった。