今回ちょっと短いかも
朝の仙台は、東京よりも少しだけ素直だ。
光の落ち方が、真っ直ぐだ。ビルの谷間にねじ曲げられて届く都会の朝日と違い、ここでは空がちゃんと空として機能している。雲が薄いところは淡い青が広がり、雲の厚いところは白く鈍い。朝の冷気がまだ地面に残っていて、息を吐くとほんの少しだけ白くなる気がした。
駅前の歩道は広い。植え込みがあり、街路樹の枝先が小さな芽を準備している。通勤の人間は急ぎ足だが、東京のそれほど攻撃的じゃない。焦っているのに、どこか余裕がある。喧騒はある。けれど、耳を刺すノイズの密度が薄い。
コンビニの前でコーヒーを飲む男がいて、信号待ちの学生が笑いながらスマホを覗き込んでいる。パン屋の前から焼けた小麦の匂いが流れてきて、そこに車の排気が混じる。朝の匂いは、どの街も似ているようで、微妙に違う。
その朝の仙台で、俺はとにかく逃げていた。
さっきの女子高生の群れ。
甲高い声と笑いとスマホのカメラ。興味と無邪気な好意が、雪崩みたいに押し寄せてくる。呪霊相手の殺気や恐怖と違って、あの手の“好奇心”は扱いづらい。拒絶すれば騒ぎになる。無視しても追ってくる。
俺は裏道へ滑り込み、建物の影を使い、視線を切って距離を稼いで、ようやく静かな場所に落ち着いた。
そして、急いでローブのフードを被った。
深く。
目深に。
視界が狭くなり、布の内側に自分の呼吸が反響する。布越しに外の音が少しだけ鈍り、安心と息苦しさが同時に来る。
(…どうしたもんか)
俺は立ち止まり、内心で思案した。
俺の狙いは虎杖悠仁の在籍する高校だ。そこに宿儺の指がある。原作知識で分かっている。分かっている、はずだった。
だが致命的な欠陥がある。
高校の名前を覚えていない。
場所は仙台。百葉箱。そこまでは覚えているのに、肝心の学校名が抜け落ちている。記憶の引き出しに、ラベルだけ残って中身がないみたいな感覚だ。
というか、原作の序盤にしか出てこない高校の名前なんて覚えてる訳がない。俺は呪術廻戦は好きだが、マニアではないのだ。
だから、とりあえず人間形態で聞き込みをしようと思っていた。
虎杖悠仁は目立つ。身体能力が異常で、見た目も派手だ。噂になる。街のどこかで名前が出る。そう踏んでいた。
……だが。
フードを目深に被った不審者が話しかけたら、誰だって警戒する。
今の俺は、真っ黒なローブにフード。
どう見ても怪しい。
なのに、フードを取ればこの顔面だ。
絶対に騒ぎになる。さっき既に証明している。話しかける前に“反応”される。情報を引き出す以前に、周囲がうるさくなる。
俺は右往左往する。
壁に背をつけ、通りを覗き、また引っ込む。歩き出しては立ち止まり、また引き返す。自分でも無駄だと分かる動きなのに、考えがまとまらない。
横では糞爺が壺をいじりながら、他人事みたいに仙台の街をキョロキョロと見ていた。
こいつは相変わらずだ。観光気分。人間の看板を読もうとして、漢字が読めなくて首を傾げたりしている。危機感が薄い。いや、薄いふりをしているのか。
俺がイライラを噛み潰した、その時。
声がかかった。
「えっと……大丈夫ですか?」
……話しかけてきた?
こんな真っ黒ローブにフードを被った不審者に?
俺は反射でそちらを見た。
そこにいたのは──探していた張本人だった。
虎杖悠仁。
桃色がかった髪。明るい表情。身長はそこそこだが、体格が良い。見た目は普通の高校生といった風貌なのに、身体の芯が“運動するために作られている”感じがする。全身の筋肉の付き方、立ち方、重心の置き方。無意識の姿勢だけで、運動の才能が分かる。
(マジかよ…)
俺は内心でかなり驚いた。
こんな偶然があるのか。
いや、偶然じゃない。ここが仙台で、この時間帯なら、虎杖悠仁は通学しているだろう。それに鉢合わせる可能性はある。理屈ではそうだが、実際に目の前に現れると話が違う。
虎杖は俺の様子を見て、少し困ったように笑う。
「道、迷ってます? なんか……ずっと同じとこ行ったり来たりしてたっぽいんで」
俺はフードの内側で眉をひそめた。
観察されていたのか。面倒だ。
虎杖は続ける。
「目的地どこですか? ……うおっ」
虎杖は俺のフードの隙間から覗いた顔に、露骨に驚いた。
目が見開かれ、口が半開きになる。驚き方が素直すぎて、逆に面白い。
「え、……すっげ。俳優さん? なんかロケ地とか?」
俺は一瞬、返答に詰まった。
俳優。
ロケ地。
意味が分からないが、虎杖の頭の中では“そういうこと”になっているらしい。一般人の発想だ。呪霊なんて存在しない世界の論理。
俺はすぐに口からでまかせを作った。
「道に迷っているわけじゃない」
虎杖が「え」と小さく言う。
「俳優でもない」
「……え、そうなんだ」
虎杖の顔が少し赤くなる。勝手に勘違いして、勝手に恥ずかしがる。人間らしい反応だ。
俺はさらに言葉を重ねた。
「人を待っている」
虎杖は納得したように頷いた。
「そっか。俺、余計なことしてすみません」
律儀だ。
俺は首を横に振る。
「気にしなくていい」
早く引き離したかった。
俺は淡々と言う。
「早く学校に行った方がいいぞ」
虎杖は「あ、やべ」と言って時計を見た。
「マジだ、遅れる。……じゃあ、待ってる人、来るといいっすね!」
「ああ」
適当に返す。
虎杖は軽く手を振って走り出した。走り方が綺麗だ。無駄がない。地面を蹴る音が小さい。身体が軽い。
俺は虎杖の背中を見送った。
そして、確認する。
虎杖の視界に糞爺は入っていない。
すぐそばにいるのに、虎杖は糞爺を見ていない。反応もない。
つまり、虎杖はまだ呪いに関わっていない。
やはり、原作開始前。
俺の腹の底が、静かに熱を帯びた。
今なら、指を食える。
虎杖が飲み込む前に、俺が先に。
その瞬間、横で糞爺が「お、アイツいい動きしてんな」とか意味のないことを言っているのが耳に入った。
俺は未だキョロキョロと観光気分の糞爺の首根っこを掴んだ。
「うおっ!? いきなりはやめろ!」
糞爺が喚く。
俺は無視して、呪霊形態へ変身した。
骨格が変わり、羽が背から開く。視界の色が少し変わり、空気の呪力の流れが濃淡として見える。
そして、空へ跳ぶ。
虎杖悠仁を追跡する。
今度は迷わない。狙いは宿儺の指だ。
§
上空は冷たかった。
朝の風は夜より柔らかいが、それでも高いところは容赦がない。羽根の間を冷気が通り抜け、体温のない呪霊の身体でも“冷たい”と感じる。冷たさが骨に染みる感じがする。
虎杖悠仁は、走りながら人混みを抜けていく。
上から見ると、街はパズルみたいだ。道路が線になり、建物が箱になり、人間が点になる。その点のひとつが、異様に速い。
虎杖は速い。普通の高校生の走りじゃない。信号待ちで止まり、青になるとまた走る。その繰り返しが、やけに機械的で滑らかだ。
糞爺は、俺に掴まれながら空を眺めていた。
「なんか俺、空飛ぶのに慣れてきたぜ」
さっきまで叫んでいた奴の台詞とは思えない。
「景色いいな。やっぱ上から見ると違うな」
「だまれ」
「冷てぇな!」
言い返してくるのが、逆に余裕の証拠だろう。確かに、糞爺の声色は少し楽しそうだった。慣れというのは怖い。こいつは何にでも慣れそうだ。
虎杖が向かった先に、学校が見えた。
校舎。グラウンド。体育館らしき建物。フェンス。朝の生徒たちが流れ込んでいく。制服の群れが、門へ吸い込まれていく。
そして──分かる。
空からでも分かるほど、強大な呪力反応。
敷地の一角から、濃い呪力が漏れ出している。まるで地面の下に黒い呪力溜まりがあって、それが間欠泉みたいに立ち上っているかのような濃度だ。
俺は思わずぼやいた。
「……べつに、いたどりをさがすひつよう、なかったな」
糞爺が「は?」と声を上げる。
俺は高度を落とし、高校の敷地内へ滑り込んだ。
屋根の影。校舎の裏。人間の視線が届きにくい場所を選び、静かに降り立つ。
糞爺が不満そうに言った。
「もうちょっと飛んでいたかったんだけどな」
「またこんど、な」
俺は呪霊の気配を薄めながら、敷地内を歩く。
登校中の生徒たちが続々と学校へ入っていく。靴音。笑い声。挨拶。自転車のブレーキ音。朝の学校特有の“生きている”感じがある。呪力の濃さとは相反して、表面は平和だ。
俺は呪力反応の元を探した。
すぐに見つかる。
学校の外れ。
校舎から少し離れた場所に、ぽつんと百葉箱が立っていた。
白く塗られた木の箱。格子の隙間から、黒い呪力が漏れている。漏れているというより、滲んでいる。箱が呪力を抑えきれず、呼吸みたいに吐き出している。
──ここだ。
俺は確信した。
宿儺の指がある。
糞爺が横で顔をしかめた。
「……気分悪ぃ」
糞爺の声が掠れる。呪力の濃さが、糞爺の器を圧迫しているのだろう。糞爺は強くない。こういう呪物の前では、息苦しそうだ。
俺は百葉箱へ近づいた。
指を手に入れるために。
百葉箱の前に立つと、呪力が肌にまとわりつく。甘い。苦い。鉄の味がする。古い血の匂いがする気がする。
喉の奥が勝手に唾を飲み込む。食欲と警戒が同時に湧く。
俺が手を伸ばした、その瞬間。
とてつもない呪力が弾けた。
空気が裂ける。温度が落ちる。光が一瞬だけ鈍る。
そして、巨大な木が──まるで最初からそこに存在していたかのように、唐突に出現した。
巨木。
否、ただの巨木じゃない。
根が地面を掴み、黒い枝が空を裂き、しめ縄が巻かれた幹が人間の胴体みたいに歪み、括れている。皮の隙間から黒い呪力が溢れ、節が目のようにこちらを見ている気がした。
俺は反射で飛び退く。
(羂索が用意した、守護者か…!)
宿儺の指の周りに、こんなものが付いているのか。
俺は息を吐く。
仙台は、思った以上に“準備”されていた。
というわけで原作主人公の虎杖悠仁くんとの邂逅です(とりあえず顔合わせしとけばあとでいろいろ便利やろの精神)。
後半に出てきた巨木呪霊は"ヒメコロノミコン"さんからのアイデアです。ありがとうございます。
羂索が宿儺の指の周りになんも用意してない訳がないんですよね。