主人公くんが荒れてます。
巨木呪霊から逃げて、一週間が経っていた。
時間は、やけにあっさり流れていく。勝てなかった悔しさも、喉を締めた縄の感触も、あの幹に覗いた黒い目も、全部まだ鮮明なのに、日付だけが勝手に進む。腹が立つほど平等に朝が来て、夜が来る。
場所は岩手県の山奥。
人の気配が薄い。電波も弱い。風の音が壁に当たってうなり、木々が擦れて鳴る。たまに鹿のような獣の足音が遠くでして、すぐに消える。人間の世界から外れた場所だ。
俺たちが潜んでいるのは廃墟だった。
かつては誰かが暮らしていたのだろう。古い木造の家が点々と残り、崩れた屋根が空を覗かせている。雨で腐った柱が斜めに傾き、障子は破れて、畳は黒く湿っていた。床板は踏むと軋み、場所によっては抜けそうになる。壁には煤が染みつき、台所の名残が、焦げた匂いとして残っている。
外には、錆びた農具が転がっていた。柄の折れた鍬、土に刺さったままの鎌、朽ちた一輪車。どれもが“もう使われない”という静かな諦めをまとっている。庭だった場所は草が伸び放題で、雑草が腰の高さまで伸び、蔦が建物に絡みついている。
空は広いが、木が高い。
杉の林が周囲を囲み、日差しを細く切る。日中でも薄暗い。日が傾けば、森の影がすぐに廃墟を飲み込む。湿った土の匂いが鼻を刺し、苔の匂いが喉の奥に残る。
俺はその廃屋の中で、呪霊を喰らっていた。
人間形態で。
フードをかぶり、足音を抑え、呼吸を殺す。呪力を抑えて、気配を小さくして、狩りを繰り返す。羂索に少しでもバレないように、できるだけ“目立たない”動きで。
……だが、得られるものは薄かった。
下級呪霊は弱い。
人間形態でも、まるで相手にならない。腐食を使うまでもない。殴れば潰れ、蹴れば砕ける。逃げようとしたところを掴んで、口に押し込んで終わりだ。
味は悪い。
砂を噛んだみたいにざらつく。甘さがない。苦味ばかりが舌に残る。呪力としては、ほんの少し増える。増えている、はずだ。
だが、その増え方があまりにも微細で、ほとんど分からない。
たまに、少し歯ごたえのあるやつが出る。
それでも人間形態で問題なく祓える程度。二級にも満たないくらいの個体。動きが速い、呪力が濃い、術式らしき癖がある。そういうのを見つけると、俺は無意識に期待してしまう。
──能力が手に入るかもしれない。
だが、喰っても何も起きない。
胃の底に甘さが落ちることもない。新しい呪力の流れが身体に馴染むこともない。味だけが悪く、記憶だけが薄く、ただ腹が満ちるだけ。
俺は考察した。
おそらく、俺の術式は──“自分よりも上だと思う相手”を食らった時、その能力を奪う。
そう考えれば辻褄が合う。
影の呪霊も、チョウチンアンコウ呪霊も、スーツミイラ呪霊も、スマホ型呪霊も、落ち武者呪霊も。いずれも当時の俺から見れば“自分より強い”と感じた相手だった。負けるかもしれないと恐怖した。だから必死に戦った。
そして喰った。
喰ったから、手に入った。
逆に言えば、今の俺が余裕で狩れる相手を喰っても、何も起きない。俺の中の何かが“価値がない”と判断している。
……俺は、詰んでいる。
数々の廃墟の中を巡回し、狩りを繰り返し、気配を消して生き延びる。
それだけの日々。
無為に時間が過ぎていく中で、俺の心は荒れていった。
何もできず巨木呪霊から敗走した。
未だに勝てる
どれほど呪霊を食おうとも、一向に強くなる兆しがない。
最初は“我慢”だった。耐えれば機会が来ると思っていた。呪術の世界は運もある。偶然、強い呪霊に出会うかもしれない。食えるチャンスがあるかもしれない。
だが、一週間。
似たような山。似たような廃屋。似たような弱い呪霊。
飢えは満たされても、渇きは満たされない。
俺は下級呪霊たちの残穢の中で、ふと、廃墟の壁を殴った。
木の壁が鈍い音を立てる。
拳がめり込み、ひび割れが走った。乾いた木が裂け、粉が舞う。天井から煤がはらはら落ちて、俺の肩や髪に降りかかる。煤は黒く、指で払うと皮膚に汚れが残った。
静寂が戻る。
壁のひび割れだけが、俺の苛立ちの痕としてそこに残る。
俺は大きな苦悩に直面していた。
特級呪霊を倒すには、特級呪霊を食ってその力を手に入れるしかない。
だが、特級呪霊を食うには特級呪霊の力が必要。
堂々巡り。
輪を描くように、同じところを回っている。
もう特級呪霊以外を喰っても新たな能力は手に入らない。
俺は──中途半端に強くなりすぎてしまった。
弱いものを食っても意味がない。
強いものには勝てない。
俺はどこにも行けない。
その背中を、糞爺が心配そうに見守っていた。
あいつは最近、余計なことを言わない。茶化すような言葉も減った。俺の苛立ちを刺激しないように、距離を取っているのが分かる。
その視線が、逆に辛かった。
俺はふと、つぶやいてしまった。
「……人間を、食えば……」
声は自分でも驚くほど低かった。
言葉が口から出てきた瞬間、胸の奥の暗い場所がざわついた。
人間は負の感情を生む。
呪霊を産み出す。
なら、人間そのものを食えばいい。
下級呪霊を食うよりも呪力が増えるかもしれない。
しかも人間なら大量にいる。
大量に、食える。
能力が増えずとも、呪力が圧倒的に増えれば──あの巨木呪霊にも攻撃が通じるかもしれない。
筋道が作られていく。
利点ばかりが見える。
呪霊の思考が、俺を支配しようとする。
その時。
糞爺の声が、廃墟の中に響いた。
「それだけはダメだ」
糞爺は真剣な眼差しで俺を見ていた。
「それをしたら、お前さんはただの呪霊になっちまう」
「ただの、呪霊…」
……理解はできた。
できたからこそ、腹が立った。
「じゃあどうすればいい…!」
声が強くなる。
「俺はどうすれば、
糞爺に当たっているのは分かる。
分かっているのに、止まらない。
糞爺は怯まない。怒りもしない。ただ、少しだけ目を細めた。
俺は我に返った。
息を吐く。煤の匂いが鼻を刺す。胸の奥の熱が、少しだけ冷える。
「……悪い」
俺が謝ると、糞爺は肩をすくめた。
「気にするな。理由は分からんが、お前さんが焦ってるのは分かる」
そして糞爺は言った。
「俺に、
「当て……?」
俺が聞き返すと、糞爺はニヤリと笑った。
「お前さんの当てが外れたなら、今度は俺の当てを確かめにいこうぜ」
糞爺は俺の足をパチンと叩いた。
背が小さいせいで背中は叩けない。だから膝の辺りを叩く。妙に間抜けな動作なのに、その音だけがやけに現実味を持って響いた。
糞爺は廃墟を出て、昇り始めた日の光の下へ向かって歩き出した。
俺は少し遅れて、その背中を追った。
§
昼過ぎ。
糞爺に案内されて来たのは、岩手県の遠野市という場所だった。
さっきまでいた廃墟から数十キロメートル。移動は早かった。俺が飛んだわけじゃない。今は人間形態で呪力を抑えている。目立つ動きは避けた。山道を抜け、人気の薄い道を選び、途中で何度か隠れてやり過ごしながら来た。
市、といっても、都会のそれとはまるで違う。
建物は疎らだ。店も少ない。車はたまに通るが、渋滞なんてものはない。道の脇には田んぼが広がり、面積でいえば建物より田んぼの方が圧倒的に多い。
水を張った田んぼが、空を映している。
春の光が水面で揺れ、風が吹くと細かい波が走る。土の匂いが濃い。どこか懐かしい匂いだ。遠くには山が重なり、稜線が霞んでいる。鳥が低く飛び、農道を軽トラがのんびり走っていく。
空が広い。
視界の端まで、余計なものが少ない。
糞爺は勝手知ったるように歩いた。
迷いがない。曲がり角で立ち止まらない。まるで昔からここに住んでいたみたいに、田んぼの間の細い道を抜けていく。俺はその背中を見ながら、どこでそんな情報を得たのか考えるが、答えは出ない。糞爺は時々、こういう“説明しない情報”を持っている。
やがて、寺にたどり着いた。
寂れている。
門は古く、木が黒ずんでいる。瓦の一部が欠け、苔が生えている。境内の砂利は雑草に侵食され、踏むと小さく鳴るはずの音が草に吸われて鈍い。
それでも、敷地は広い。
木々が並び、石灯籠が点々と立ち、苔むした石段が奥へ続いている。空気が少し冷たく、厳かな雰囲気が漂っていた。人の気配はない。鐘も鳴らない。寺なのに静かすぎる。
糞爺は裏へ回った。
俺もついていく。
寺の裏は、さらに人気がない。木の根が地面を盛り上げ、落ち葉が厚く積もっている。湿った土が靴に絡む。木漏れ日が斑に落ち、風が吹くたびに光が揺れる。
そこに、小川が流れていた。
細い川だ。
幅はせいぜい数メートル。水は透明で、底の小石が見える。流れは速くない。ささやくような音で、絶え間なく下へ滑っていく。水面に光が散り、魚の影が一瞬だけ走った。
小川の周囲だけ、空気が少し澄んでいる。
湿り気が心地いい。苔の匂いが柔らかく、木の香りが鼻を満たす。風が通ると、水音が増して、耳の奥が洗われるみたいな感覚になる。
神秘的な雰囲気。
そう表現するしかない場所だった。
……なのに。
糞爺は、ざぶざぶと川に入っていった。
「おい」
俺はさすがに驚いた。
川の中に入る? わざわざ? 意味が分からない。
糞爺は振り返って、平然と言う。
「どうした? 早く来いよ」
まるで散歩の延長だ。
俺は言葉を失った。
糞爺は川の中を歩く。水が膝に当たり、着ている着物のようなものが濡れるはずなのに、糞爺は気にしない。水は流れているのに、糞爺の足元だけ妙に抵抗が少ないように見える。
俺は呆れながらも、足を入れた。
冷たい。
水が足首を包み、骨にまで冷たさが染みる。だが、嫌な冷たさじゃない。目が覚める冷たさだ。水流が足を撫で、砂が少しだけ動く感触がある。
俺は糞爺についていく。
一歩一歩、川底の小石を踏みながら進む。水音が近くなり、外の音が遠のく。頭の中の雑音が薄くなる。
そして、向こう岸に辿り着いた瞬間──
景色が変わった。
さっきまで見えていた向こう岸とは、まるで違う。
そこには、大きな池が広がっていた。
水面は広く、風を受けてゆっくり揺れている。空を映して、青と白を抱えている。池の縁には草が生え、遠くに木々が影を落としていた。
俺は思わず立ち止まった。
川を渡っただけなのに。
たった数歩なのに。
(……ここは、どこだ)
池は疑問に答えず、ただ揺れていた。
もしここで糞爺がいなかったら、主人公くんは人類敵対ルートへ進んでました。いつかその展開もifとして書きたいですね。