河童みたいな妖怪が呪霊になるのって、なんかいいですよね。
川を越えるという行為は、単なる移動じゃない。
日常から非日常へ。生から死へ。現実から異界へ。
そういう“決定的な境界”を跨ぐことだ──と、俺は前世の曖昧な知識の隅で聞いた覚えがある。呪術の世界は、境界が物を言う。線一本で世界が変わる。門ひとつ、鳥居ひとつ、川ひとつで、呪いの濃度も、理屈も、住人も変わる。
呪術廻戦の原作でも、川を跨ぐことには呪術的に大きな意味がある、と誰かが言っていた気がする。誰だったかは思い出せない。けれど、その“言われていた”という事実だけが、今の状況と妙に噛み合っていた。
俺が川を越え、向こう岸に足を踏み入れた瞬間。
そこにあったはずの向こう岸は、消えた。
まるで幕が引かれたみたいに。
視界の端にあった木々も、土手の草も、岸の石も、全部が“なかったこと”になる。代わりに現れたのは、見渡す限りに広がる大きな池だった。
池は、広い。
広いというより、果てが分からない。向こう岸が見えない。水面が空を映し、青と白を抱えたまま、遠くへ溶けていく。風が吹くたびに水面がゆっくりと波打ち、その波が光を砕いて散らす。光の欠片が、細かい鱗みたいに揺れていた。
水の匂いが濃い。
生臭さではない。湿った土の匂いと、植物の匂いが混ざった、静かな匂いだ。湿気が肌に薄い膜のようにまとわりつく。喉の奥が少し冷える。空気が柔らかいのに、どこか重い。
鳥の声が遠い。
それも、現実の鳥の声と違う。距離感が曖昧で、どこから鳴いているのか分からない。音が水面に反射しているのか、空に溶けているのか、耳が判断できない。
俺は思わず硬直した。
さっきまで寺の裏の小川だったはずなのに。
数歩歩いただけなのに。
ここは、別の世界だ。
その硬直を置き去りにするように、糞爺は特に気にした様子もなく池へ向かって進んでいった。
その背中が、妙に自然だった。
まるでここが当たり前の場所であるかのように、足取りが軽い。俺が戸惑っていることすら想定済み、みたいな歩き方だ。
俺は後を追いながら声を掛けた。
「……ここは何だ」
糞爺は振り返らずに答える。
「俺の古い知り合いの住処だ」
「知り合い?」
「そう。ここのことは本来、誰にも教えるつもりはなかった」
糞爺はそこで少しだけ間を置いた。水面の光が糞爺の輪郭を揺らし、言葉の端が湿った空気に滲む。
「けど、お前さんがあまりにも荒れてて、見てられなかったからな。特別だ」
俺の胸の奥が、僅かにざわついた。
荒れていた、という自覚はある。自分の中に湧いた“人間を食う”という発想が、いまだに消えていないのも分かっている。そんなことを口に出した自分が、まだ胃の底で腐っている。
糞爺は、その腐りかけを見ていたのかもしれない。
俺は黙って歩く。
池のほとりへ近づくほど、水面が近づき、波の音が大きくなる。足元はいつの間にか湿った土から滑らかな石へ変わっていた。石は黒く、濡れているように光っている。踏むと冷たい感触が靴裏に伝わる。
池のほとりにたどり着いた瞬間。
水面が、動いた。
ぶくり、と何かが浮かび上がる音がして、巨大な蓮の葉が一枚、二枚と現れた。大きい。俺の胴体が余裕で乗れるほどの大きさだ。さらにそれが続く。蓮の葉がいくつも浮かび上がり、通路のように連なっていく。
水面に浮いた緑の円が、まるで誰かがそこに道を描いたみたいに一直線に並ぶ。
糞爺は迷いなくその上に足を乗せた。
蓮の葉は沈まない。体重を受けてもふわりと揺れるだけで、しっかりと重さを支える。糞爺はそのまま池の中央へ向かって歩き出した。
俺も後を追った。
蓮の葉の上は柔らかい。足元が少し沈み、葉がたわむ。水が葉の縁を舐める音がする。池の水面がすぐ下に見え、深さが分からない暗さが揺れている。落ちたらどうなる、という想像が一瞬よぎるが、糞爺が平然としているのを見ると、今さら引き返すのも馬鹿らしい。
池の中央に近づくにつれ、周囲の景色が静かに変わった。
岸の気配が遠のく。空の色が少し濃くなる。水面の光が柔らかくなる。音が減る。水音すら、遠くの出来事みたいになる。
やがて、小さな小島が見えた。
小島といっても、草が生えているわけじゃない。丸い石のような地面が水面から盛り上がっていて、その上に小さな社がぽつんと建っている。社は木造で、古びているのに崩れていない。小さい。驚くほど小さい。人間の家の物置くらいの大きさしかない。
糞爺はその社の前に立ち、戸を叩いた。
コン、コン、と乾いた音。
しばらく沈黙。
そして、社の戸が開いた。
中から出てきたものを見た瞬間、俺は思わず息を止めた。
現れたのは──一体どこに収まっていたのかと思うほどの巨漢。
社の中はあまりにも小さいのに、そこから現れた存在は、外の世界のスケールを壊すような大きさだった。
緑色の肌。
筋骨隆々の裸。
褌を締めた腰。
肩幅が広く、胸板が厚い。腕が丸太みたいだ。腹の筋肉が浮き出ていて、立っているだけで空気が押されるような圧がある。
そして──頭には皿。
日の光を反射して輝く、真っ平らな皿が、頭頂部に乗っている。
俺は思わず呟いた。
「……河童……?」
巨漢は、こちらを睨みつけた。
目が鋭い。黒目が小さい。仲間を見る目ではない。獲物を見る目に近い。
「人間……?」
巨漢は俺を人間だと思っているらしい。
その瞬間、糞爺が気心知れたように手を振った。
「よう、
巨漢──一と呼ばれた存在は、一拍置いてから顔を崩した。
「久しぶりじゃねぇか
声がでかい。
池の空気が揺れる。水面が震える。耳が痛いほどの声量だ。距離が近いとかいう問題じゃない。存在そのものがうるさい。
糞爺は眉をひそめた。
「ちっこくなっちまったは余計だ」
言いながら糞爺は俺の方を指す。
「こいつは俺の仲間だ」
巨漢の雰囲気が少し柔らかくなる。
目の鋭さが減り、口元が緩む。
「京鬼の仲間なら俺の仲間だな! よし! 歓迎するぜ!」
そして、いきなり社の中を指して叫ぶ。
「入れ入れ!」
俺は内心で思った。
(そんな小さな社の中に入っても、暑苦しいだけだろ…)
あの巨体が出てきた時点で社の内部の物理法則は信用できない。できないが、それでも、外観の情報に脳が引っ張られてしまう。
だが糞爺は躊躇いなく中へ入っていった。
俺は溜息をついた。
結局、俺もその後を追って社の中へ足を踏み入れることにした。
§
中は、外観からは想像もできないほど広かった。
広い、という言葉が軽く感じるほどだ。
学校の体育館ほどの広さ。いや、それ以上かもしれない。社の戸をくぐった瞬間、視界が一気に開け、空間が飲み込んでくる。外の池の光は消え、代わりに柔らかい灯りが空間を照らしていた。
内装は寺のお堂の中のような風情だった。
太い柱。木の床。梁が見える天井。壁には古い紙が貼られ、ところどころに札のようなものがぶら下がっている。線香の匂いが薄く漂い、木の匂いと混ざって、落ち着くのに妙に湿っぽい。
そして──そこかしこに、緑色の裸に褌を締めて、頭に皿がある存在がくつろいでいた。
巨漢のように大きくはない。
むしろ小さい。
子どもくらいの大きさの河童たちが、床に寝転んだり、柱にもたれたり、輪になって座ったりしている。
酒のようなものを飲んでいるやつ。
きゅうりを齧っているやつ。
賭け事のようなことをして、札や小石を賭けているやつ。
笑っているやつ。
喧嘩しているやつ。
ざわざわとした生活の音がある。人間の町とは違う、湿った声と、笑いと、水音が混ざったような喧騒。
俺は言葉を失った。
さっきまで山奥の廃墟で、煤の匂いを嗅いでいたのに。
今は河童の集落みたいな場所で、酒ときゅうりの匂いを嗅いでいる。
巨漢は歩きながら、河童たちに声を掛ける。
「おう! お前ら!」
「親分!」
「親分だ!」
河童たちは巨漢を“親分”と呼び、慕っているようだった。手を振り、頭を下げ、きゅうりを差し出そうとするやつまでいる。巨漢は豪快に笑ってそれを受け取り、丸かじりする。咀嚼音がやけに大きい。
俺が呆然としていると、糞爺が横から話しかけてきた。
「驚いただろ?」
「……驚くに決まってる」
糞爺は肩をすくめた。
「ここだけじゃねぇ。外の池も含めて、この空間はあいつの生得領域だ。見た目よりずっと広いのは、そのせいだ」
生得領域。
それをさらっと言う。
つまり、この巨漢──一とやらは、領域を持っているということだ。しかもそれを維持し、こんな広さを“日常”として使っている。
俺は糞爺の横顔を見た。
こいつは、そんな存在と旧知の仲らしい。
糞爺は一体何者なのだ。
俺が疑問を飲み込むより先に、糞爺は歩き出した。
俺はその後をついていった。
§
社の中の最奥部。
広間とは襖で隔てられた空間に入る。
そこは少し静かだった。外のざわめきが襖に吸われ、木の匂いが濃くなる。床は綺麗で、座布団がいくつも並んでいる。
巨漢は大きな座布団の上にどかりと胡座をかいて座った。
その動きだけで空気が揺れる。座布団が沈み、床がきしむ。
「座れ」
巨漢は顎で座布団を指した。
俺と糞爺も座る。
糞爺は胡座。俺も胡座。座布団が柔らかく、少し沈む。足が痺れる感じがないのが助かる。
巨漢が問う。
「で? 何しに来た」
糞爺は即答した。
「"アレ"の浄化を手伝いに来た」
巨漢の顔がぱっと明るくなる。
「ついにその気になってくれたか! 京鬼ほどのヤツが手伝ってくれんなら百人力だぜ!」
京鬼。
さっきから出てくるその言葉が、俺の中で引っかかっていた。
俺は堪えきれずに聞いた。
「京鬼って何だ」
巨漢は目を丸くした。
「お前、コイツのこと知らねぇのか?」
俺は首を縦に振る。
「知らない」
糞爺が慌てて口を挟んだ。
「やめろ。恥ずかしいから過去の話はするな」
そして糞爺は、俺の膝を叩いた。
「それに、今回手伝うのは俺じゃなくてコイツだぜ」
一瞬で、空気が変わった。
巨漢の明るさが消える。
笑みが引っ込み、目が細くなる。巨体が微かに前へ傾く。圧が増す。呼吸が重くなる。
巨漢は剣呑な顔つきで俺を見た。
「……こんなやつが、あの京鬼の代打だぁ!?」
凄む声が低く、腹の底に響く。
俺はわけが分からなかった。
京鬼。
浄化。
代打。
糞爺。
河童の親分。
何も繋がらない。
誰か説明してくれ、と本気で思った。
俺は天井を見上げる。
寺のお堂のような梁が見える。その木目が、妙に鮮明だった。
(……どうしてこう、俺はいつも行き当たりばったりになってしまうんだ…)
心の中でそう呟きながら、俺はただ、息を整えるしかなかった。
巨漢の一さんは人間ではなく呪霊です。分かりづらかったらすみません。
今回出てきた河童や一さんは"まこらゆらゆら"さんからのアイデアです(設定は少し変えました)。ありがとうございます。