相撲だぁーーーーーーー!!!
社の中の広間は、妙に熱かった。
木の床に座る河童たちの体温と、酒の匂いと、湿った空気が混ざって、肌にまとわりつく熱。笑い声が跳ね、足音が鳴り、どこかで水の入った桶が揺れてちゃぷちゃぷと音を立てる。
柱に背を預けて寝転ぶやつ、きゅうりを齧りながら賭け札を数えるやつ、肩を組んで大声で歌っているやつ。どいつもこいつも、他人の距離感で生きていない。
その喧騒の中心に、縄で作られた土俵があった。
縄は太く、ねじれている。土俵の内側に敷かれた土は湿り、踏めば少し沈む。土の匂いが濃く、そこに汗と酒が混ざった匂いが乗る。周囲には、輪になるように河童たちがぎっしりと座っていて、目がぎらついていた。
期待と興奮と、他人の勝負を面白がる無責任さ。
それらが一箇所に凝縮されて、空気をぶ厚くしている。
俺は、土俵の中に立っていた。
人間形態のまま。
ローブはまくられ(最初は無理やり脱がされそうになった)、フードも取られていた。俺の顔を見た河童たちは最初、ざわっとして、すぐに「客人のくせに面がいいな」とか訳の分からないことを言い始めて、今はもうそれすら勝負の興奮に塗り潰されている。
対面には、巨漢の河童──
裸に褌。緑の肌が灯りを吸い、筋肉が硬そうに盛り上がっている。肩が広い。首が太い。手が大きい。立っているだけで土俵が狭く見える。
その頭の皿が、広間の灯りを反射して鈍く光っていた。
周りの河童が、やいやいと騒ぐ。
「親分いけぇ!」
「客人ぶっ飛ばせ!」
「いや客人勝て!面白ぇぞ!」
「賭けだ賭け!六十七、俺は親分に二枚!」
「うるせぇ、俺は客人に全部!」
数字の名前が飛び交い、きゅうりが空を飛び、酒がこぼれる。誰かの笑い声が耳の奥に刺さる。
土俵の脇に、小柄な河童が立っていた。
行司役らしい。手には扇子のようなものを持ち、頭の皿に水を張っている。声を張り上げるとき、その皿の水がぷるりと揺れた。
「はっけよい……!」
その声を聞いた瞬間、俺の胸の奥から疑問が浮かび上がる。
──なんでこんなことになってる。
そして、記憶が巻き戻るように過去へ沈んだ。
§
俺が天井を見上げた後。
寺のお堂のような梁の木目を眺めながら、訳の分からない状況を噛み砕こうとしていた、あの瞬間。
巨漢は俺を睨みつけて、鼻を鳴らした。
「こんなヤツに、お前の代打なんか務まらねぇよ京鬼!」
京鬼。
それが糞爺の呼び名であることは、この短いやり取りの中で嫌でも理解した。だが、意味は分からない。糞爺が名乗った覚えもない。
糞爺はため息をついた。
「お前な、声がでけぇんだよ」
「うるせぇ!」
巨漢が怒鳴り返すと、襖の外の広間までざわめきが波打つのが分かった。河童たちが「親分怒ってるぞ」とか「客人大丈夫か」とか囁き合っている。
糞爺は胡座のまま、俺を顎で示した。
「こいつにはすげぇ力がある。その力があれば、“アレ”もなんとかできるはずだ」
巨漢が目を細める。
「力ぁ? 見たところ、ただの人間じゃねぇか。呪力も薄い。腹も据わってねぇ顔してる」
俺は内心で舌打ちした。
呪力を抑えているだけだ。薄いんじゃなく、隠している。だが、説明する気にもならない。そもそもここに来た経緯からして意味不明だ。
二人はやいのやいのと言い合う。
「お前がやれ!」と巨漢が言い、
「俺はもうとっくに衰えた」と糞爺が返し、
「衰えてても京鬼は京鬼だ!」と巨漢が食い下がる。
俺はようやく気力を取り戻して口を挟んだ。
「……そもそも、“アレ”って何だ」
巨漢が俺を一度見てから、糞爺を見る。
糞爺が「説明してやれ」と顎をしゃくった。
巨漢は大きく息を吐いて、座布団の上で背筋を伸ばした。
「"アレ"ってのはな。
その言葉だけで、広間のざわめきが一瞬遠のいた気がした。
水虎。
聞き慣れないのに、嫌な響きがある。
巨漢は続ける。
「大昔に産まれた水虎って呪霊が封じられてる玉だ。水害の恐怖と、悪い妖怪としての河童への恐怖。それらが混ざって産まれたのが水虎だな」
水害。
人間が自然に踏み潰される恐怖。
堤防が崩れ、家が流され、水と瓦礫が迫ってくる。助けを呼んでも声が届かない。足元が消え、息ができなくなる。
その恐怖は、簡単に呪いになる。
俺はそう理解している。
巨漢は低い声で言った。
「水虎は、呪霊も人間も区別しねぇで捕食する。水辺に寄ったやつは、全部持っていかれる。喰われたやつは骨も残らねぇ」
“喰われる”という単語が、俺の腹の底を刺した。
巨漢の言う捕食は、俺のやってきた“喰う”と同じ匂いがする。効率。欲。生存。
そして、暴力。
「これ以上、呪霊たちが食われるのを防ぐために、俺が水虎を封印した。命がけでな」
巨漢が言い切る。
その顔に、自負と苦さが同居しているのが分かった。自慢しているようで、思い出したくない傷を触っているようでもある。
「だが今、その封印が解けかけてる。だから今度は封印じゃねぇ。確実に祓う。ぶっ殺して終わらせる。そのために強ぇ仲間が要る」
俺は喉が乾くのを感じた。
特級呪霊を倒すには、特級呪霊が必要。
その堂々巡りを、俺は一週間、廃墟で噛み砕けずにいた。
だが、この話は──堂々巡りを外から壊せる可能性がある。
水虎という、おそらく特級呪霊。
それを食う。
もし食えれば、俺は……。
そんな考えが浮かびかけた瞬間、糞爺が俺の膝を叩いた。
「だから、こいつだ。こいつを連れてきた」
俺は糞爺を見る。
糞爺は俺を見ない。視線を巨漢へ向けたまま、淡々と言う。
「お前の封印が解けかけてんなら、対処しなきゃならねぇ。俺が衰えてるのも事実だ。こいつが適任だ」
巨漢は納得していない顔だった。
むしろ苛立ちが増している。
「納得できねぇ。こんな人間に何ができる。お前が手伝え、京鬼」
糞爺は首を振った。
「俺じゃねぇ。こいつだ」
巨漢が唇を歪め、俺を指差した。
「そこまで言うなら、勝負して力を見せろ!」
俺は反射で口を開けた。
「……は?」
その間に、巨漢はもう立ち上がっていた。
「勝負だ! 河童の勝負といえば相撲に決まってんだろ!」
「いや、待て」
俺が言う間もなく、襖が勢いよく開かれ、外の広間へ声が響く。
「相撲だぁ!!」
河童たちが沸いた。
「親分が相撲!?」
「客人とやるのか!?」
「賭けろ賭けろ!」
俺の意見は聞かれなかった。
糞爺は小さく笑って、俺の足を軽く叩いた。
「まぁ、そういうことだ」
俺はその時、言い返す気力すらなかった。
気がつけば土俵が用意され、行司が用意され、逃げ道がなくなっていた。
§
回想はそこで終わり、時間が現在へ戻る。
行司役の河童が叫んだ。
「のこった!!」
相撲が始まる。
俺はとりあえず、やるからには全力でいこうと腹を括り、巨漢へぶつかった。
肩から。
腰を落として。
地面を蹴って、土を噛む勢いで。
……だが。
巨漢は、ビクともしなかった。
まるで山にぶつかったみたいに、俺だけが跳ね返る。
巨漢は鼻で笑った。
「そんなもんか?」
そして、その一言と同時に、俺の身体が宙を舞った。
力の方向が読めない。腰を持たれたわけでもない。脚を払われたわけでもない。ただ、腕を掴まれ、俺の重心が“持っていかれた”。足元の土が一瞬で消え、視界が回転し、背中から壁へ叩きつけられる。
鈍い衝撃。
息が詰まる。
壁の木が軋み、埃が舞う。
俺が床に落ちたところで、河童たちが大声で笑う。
「親分強ぇ!!」
「客人吹っ飛んだ!」
「もう一回!」
巨漢は俺を見下ろし、糞爺へ言った。
「こんなんじゃ何の役にも立たねぇぞ」
糞爺は肩をすくめた。
「まぁ待て。ここからがアイツの全力だ」
その言い方が、妙に腹立たしかった。
俺は床に手をついて起き上がる。
胸の奥が熱い。悔しさが喉の奥を焼く。俺は自分が“負ける側”にいることに慣れていない。慣れていないくせに、最近は負けてばかりだ。
巨木に負けた。
逃げた。
時間だけが過ぎた。
そして今、河童に投げられた。
(──ふざけるな…!)
俺は人間形態から呪霊形態へ変身した。
骨格が変わり、羽が背から開く。空気の呪力の流れが、線と濃淡として見える。
周囲の河童たちがざわっとする。
「うおっ!?」
「客人……呪霊!?」
「人間じゃねぇのかよ!」
巨漢も目を見開いた。
だが、すぐに口角を上げる。
「……面白ぇ」
俺は土俵へ戻った。
羽を畳み、腰を落とす。
行司の河童が扇子を振り上げ、声を張る。
「はっけよい……!」
「のこった!!」
その瞬間、俺は落ち武者呪霊の術式を発動した。
他の術式は使わない。その時間が勿体ない。
(反応する前に、仕留めるっ…!)
超高速で、巨漢へ突撃する。
世界が伸びる。
姿が消える。
土俵の土が後ろへ飛び散る。
俺の肩が巨漢の胸板にぶつかった。
──一瞬、巨体が浮いた。
確かに浮いた。
だが、巨漢はすぐさま腰を落とし、耐えてくる。
足が土を掴む。膝が沈む。筋肉が硬く膨らむ。まるで地面そのものと一体化したみたいに、動かなくなる。
それでも俺は押した。
加速で押す。
体重で押す。
呪力で押す。
土俵際まで巨漢を押し込める。
あと一歩。
あと一歩で外だ。
だが、足りない。
その“足りない”が、俺の中で苛立ちになった瞬間。
巨漢の脚が、俺の脚へ伸びた。
足を刈る。
地面を掬うように、俺の片脚が持ち上げられた。
視界が傾く。
──負ける。
そう思った瞬間、俺はもう一本の足に全てを込めた。
耐える。
地面を噛む。
土俵の土が沈む。
膝が悲鳴を上げる。
だが、倒れない。
巨漢の目がわずかに見開かれた。
驚き。
その隙を、俺は見逃さなかった。
俺の手が巨漢の脚へ伸びる。
刈り取る。
今度は俺が、地面を奪う。
巨漢の巨体が揺れる。
重心が浮く。
そして──倒れた。
地面に叩きつけられた瞬間、土俵が震え、土埃が舞い上がった。
河童たちが爆発したように騒ぎ出す。
「うおおお!!」
「あの親分を倒しやがった!!」
「マジかよ!!」
「六十四以来だぞ!?!」
俺は肩で息をしながら、巨漢を見下ろした。
倒れた巨漢は、すぐに笑った。
豪快に。
腹の底から。
「……やるじゃねぇか」
俺は手を差し出した。
巨漢はその手を取って立ち上がる。
握力が痛いほど強い。骨が軋む。だが、その痛みは嫌じゃなかった。認められた、という感覚がそこに混じっている。
俺は息を整えながら、内心で思った。
(これで、話が進む…)
§
数時間後。
話はまったく進んでいなかった。
広間は宴会場の様相を呈していた。
いや、元から賑やかな場所だったが、今は完全に“祭り”だった。酒の匂いが濃く、床にはきゅうりの残骸が転がり、桶がいくつも並び、誰かが太鼓のように柱を叩いている。河童たちは肩を組み、踊り、歌い、笑う。笑い声が天井にぶつかって反響し、木の梁が振動している気がする。
客人が親分相手に相撲で勝った。
その事実だけで、彼らの興奮は冷める気配がない。
まさに、どんちゃん騒ぎ。
酒は甘い匂いがする。人間の酒とは少し違う。舌に乗ると、ぬるりとした水の感触があり、喉を通った後に腹の底が熱くなる。匂いの割に度数が高いのか、飲むほどに頭がふわふわしてくる。
巨漢も既に酔っぱらっていた。
頬が赤くなっているわけじゃない。緑の肌だから分かりづらい。だが、声がでかくなり、笑い方がさらに豪快になっている時点で十分だ。
巨漢は俺の肩をバンバン叩きながら言った。
「俺が相撲で負けるのなんざ、六十四の他にお前だけだぜ!」
六十四。
この場所には五百体以上の河童がいるらしい。
それぞれ、ここに来た順番の数字が名前になっている。だから一が親分で、六十四が古参で、他にも百とか二百とかが普通にいる。慣れる気がしない。
俺は酒を飲みながら、少し得意になっていた。
勝った。
認められた。
久しぶりに“前に進めた”気がした。
だが──隣にいた糞爺が、酒を飲みながらぽつりと言った。
「お前、一切呪力を使ってなかったじゃねぇか」
その一言で、血の気が引いた。
……そういえば。
巨漢からは呪力をほぼ感じていなかった。
術式も感じなかった。
つまり──呪力を使わずに、俺と相撲をとって、あそこまで拮抗していたのか。
俺は喉の奥が冷えた。
勝ったことが、急に軽くなる。
巨漢の河童は笑いながら言った。
「そんなこたぁどうでもいい! 勝負は勝負だ!」
周囲の河童たちも「そうだそうだ!」と騒ぐ。
だが、俺は喜ぶ気になれなかった。
酔いの熱が、腹の底でじわりと冷えていく。
──呪力なしで、あれ。
じゃあ、こいつの言う“水虎”は。
俺の脳裏に、杉沢台三高校の巨木の目が浮かんだ。
あの、感情のない黒い瞳。
首に巻きついた縄の感触。
そして、今ここで笑っている河童の親分の握力。
俺は、酒を一口飲んだ。
甘さが舌に広がったのに、胸の奥は妙に苦かった。
特級はみんな化け物です。
オリジナル呪霊紹介
【仮想怨霊:河童】
(アイデア元:"まこらゆらゆら"さん)
等級:二〜四級
全国各地に存在する河童の伝承への畏怖から生まれた呪霊。
河童は全国各地に存在しており、この呼び名は術式を持たない低級の河童の総称である。
個体によって姿、体格、知能、力などに違いはあるが、基本的に緑の肌、頭頂部の皿とその周りの長い頭髪、嘴の様な口、亀の甲羅、手足の水掻き、人間の子供程の体格に知能、泳ぎを得意とする、きゅうりや相撲を好む、水辺に生息する、頭の皿が乾くと力を失うなどの特徴を持つ。
高専にも存在は認知されているが、人に対して危害を与えることはあまりなく、友好的な個体もいる程だ。
被害と言っても、殆どがきゅうりを盗むなどイタズラ程度のことであるため基本的には放置されている。
討伐される事もあるが、稀に人を水に引き摺り込んで溺死させるなど人間に危害を与える危険な性格の個体が討伐されるくらいである。
特殊個体
【特級仮想怨霊:大河童】(個体名:一)
河童への畏怖から生まれた特級呪霊。恐怖ではなく畏怖のため、あまり凶暴性は高くない。
人間を大きく超える体格に高い知能を持つ河童。他の河童たちのまとめ役を担っており、自らの生得領域内に多くの河童を住まわせている。生得領域を常時展開しているため、慢性的な呪力不足に陥っているが、本人は"アイツらのためなら"と全く気にしていない。
人間のことはあまり良くは思っていないが、かつて、自身の住処に迷い込んだ里親のいない呪力を持った人間の子供を息子として育てたことがある(三代六十四)。
術式は『万水操術』
ありとあらゆる水を操ることができるが、出力は強くない(あくまで呪力量に対しての話であり、大河童が全力を出せばかなりの出力を出せる)。また、水を産み出すことは出来ない。