狩りには、音がある。
羽音。
肉が裂ける音。
呪力が溶け合う、粘ついた感覚。
だが何よりも――
沈黙の音がある。
俺はそれを、ようやく聞き分けられるようになっていた。
廃ビル地下三階。
ここは以前、別の呪霊の縄張りだったらしい。だが今は、空気が澱み、主のいない場所特有の落ち着かない静けさが漂っている。
「……いい場所だ」
誰に聞かせるでもなく、心の中で呟く。
天井は低く、視界は悪い。
人間なら嫌がる環境だろうが、俺にとっては都合がいい。蝿頭は視覚よりも、呪力の揺らぎに敏感だ。遮蔽物が多いほど、近づくまで気づかれにくい。
――まずは、確認。
羽を微細に震わせ、周囲の呪力を探る。
点々と、弱い反応。
そのほとんどが、俺と同種――蝿頭だ。
「……いるな」
数は、多い。
だが、群れではない。バラバラだ。
以前、この階層を支配していた主が討伐されたか、別の階へ移動したのだろう。結果、残されたのは、取り残された下級呪霊たち。
――狩場としては、理想的だった。
俺は壁を這い、天井に張り付き、ゆっくりと移動する。
羽音は立てない。
脚の一本一本に、神経を集中させる。
人間だった頃には考えもしなかったが、動かないという行為は、ここでは立派な戦術だ。
少し先。
コンクリートの割れ目に、蝿頭が一体、うずくまっている。
呪力は弱い。
警戒もしていない。
「……お前だ」
距離、三メートル。
角度、真下。
俺は落ちた。
――衝撃。
蝿頭が何かに気づく前に、俺の脚がその身体を押さえつける。
抵抗。
だが、遅い。
口器を突き立てる。
呪力が、流れ込んでくる。
相変わらず、気持ちのいいものじゃない。
腐臭。
ざらつく感覚。
それでも、俺はもう、目を逸らさない。
「……生きるためだ」
数秒で、終わる。
身体が、また少し重くなる。
だが今回は、変化がはっきりわかった。
――脚の踏ん張りが、強い。
――羽の震えが、安定している。
「……効率が、上がってるな」
まだ一体目。
休まない。
次だ。
通路を進むと、別の蝿頭が壁を舐めるように這っている。
呪力は、さっきのより少し強い。
だが、動きが鈍い。
――空腹だ。
俺は、あえて姿を見せた。
複眼がこちらを捉え、羽音が乱れる。
逃げるか、向かってくるか。
結果は、後者。
愚直。
だが、それでいい。
正面衝突の瞬間、俺はわずかに身体を捻り、相手の突進をいなす。
勢い余った蝿頭が、壁にぶつかる。
そこへ――
「……不味い」
二体目。
流れ込む呪力が、さっきより多い。
質も、わずかに違う。
ただの呪力じゃない。
“癖”のようなものが、混じっている。
「……見た目は同じ蝿頭でも、個体差があるのか」
理解が深まるたびに、世界が少しずつ、立体的になっていく。
三体目。
四体目。
狩りは、作業になる。
待つ。
測る。
動く。
喰う。
その繰り返し。
だが、五体目を喰ったあたりで、異変が起きた。
――気配が、重なる。
複数。
近い。
「……群れか?」
身を低くし、影に潜む。
通路の向こうから、羽音が重なって聞こえてくる。
蝿頭が、三体。
だが、連携している。
以前遭遇した群れほどじゃないが、無秩序ではない。
「……面倒だな」
一対三。
今の俺なら、勝てなくはない。
だが――
怪我をする可能性がある。
俺はまだ、弱い。
不用意な損傷は、死に直結する。
だから――
待つ。
群れが、通路を抜けるのを待ち、最後尾の一体が角を曲がった瞬間。
――出る。
背後から、急襲。
悲鳴が上がる前に、喰う。
残りの二体が気づいた時には、距離がある。
蝿頭が逃げる。
だが俺は追わない。
「……一匹ずつだ」
それが、俺のやり方だ。
この日だけで、俺は十を超える蝿頭を喰った。
身体は、明らかに変わっている。
複眼の数が増え、視界が広がる。
脚は太くなり、壁を掴む力が強い。
呪力の総量も、最初とは比べものにならない。
だが――
「……まだ、だ」
心の奥に、奇妙な感覚がある。
満足しない。
足りない。
これは、空腹じゃない。
欲だ。
もっと喰える。
もっと強くなれる。
俺は、天井に張り付き、静かに羽を震わせる。
地下の奥には、まだ蝿頭がいる。
弱い呪霊が、無数に。
狩りは、終わらない。
俺が――
喰われる側に戻らない限り。
暗闇の中で、俺は思った。
この世界で、生き残るために必要なのは、力だけじゃない。
選ぶことだ。
誰を喰うか。
いつ喰うか。
どこで喰うか。
それを間違えなければ――
「……俺は、上に行ける」
羽音を殺し、次の獲物へ向かう。
廃ビル地下三階。
ここは、俺の狩場になりつつあった。