夜が明けた。
館の中は厚いカーテンと重い空気で外の気配が薄く、朝日が差し込むというより、光がゆっくり染みてくる感じだった。窓の外が明るいことだけが、時間の流れを教えてくれる。
客室は相変わらず格調が高く、気を抜くと背筋が伸びる。柔らかい絨毯に足音が吸われ、時計の針の音が遠くで一定に鳴っている。静けさが、逆に落ち着かない。
糞爺は落ち着かない俺とは対照的に、ずっとベッドでゴロゴロしていた。
枕を抱きしめたり、シーツを指で撫でたり、ふかふかのマットレスに体を沈めて「これ、最高だな」とか言っている。人間の寝具に感動する呪霊って何なんだ、と内心で思うが、突っ込むだけ無駄だ。
俺は椅子に腰を下ろし、昨夜から引っかかっていることを反芻していた。
零子の右手。
祖母。
家。
どれも俺には関係がないはずなのに、関わってしまった。関わった以上、扱いを誤れば面倒なことになる。羂索に見つかるのも嫌だが、こういう呪術界の人間同士の揉め事に巻き込まれるのも勘弁だ。
その時。
コン、コン、と控えめなノックが鳴った。
糞爺がベッドの上で「お、飯か?」みたいな顔をする。
俺は立ち上がり、扉の方へ目を向けた。
「どうぞ」
扉が開く。
そこには、零子が立っていた。
昨日と同じ人形みたいな佇まいだが、服装が違う。白のゴスロリドレス。黒とは逆に、白が館の暖かな灯りを受けて柔らかく光っている。フリルの縁が細かく波打ち、レースが影を落とす。頭には白いフリルのカチューシャ。昨日と違い、今日は右手まで袖が覆っている。
零子は一礼し、静かに言った。
「もうすぐ祖母が戻って参りますわ。客間まで来て、そこでお待ちいただけますかしら」
俺は頷いた。
「分かった」
糞爺はベッドの上で起き上がり、しぶしぶ降りる。名残惜しそうにシーツを撫でてから、俺の後ろに付いてきた。
§
零子の案内で客間へ向かう。
廊下の壁に掛かった絵画が、朝の光で昨日より鮮やかに見える。古い時計の針の音が規則正しく鳴り、床に敷かれた絨毯が足音を飲む。館の中はどこも整いすぎていて、息を吐くことすら躊躇うような圧がある。
客間は広かった。
天井が高く、窓が大きい。外の庭が見えるが、庭もまた整えられていて、自然というより管理された景色だ。高そうなソファが向かい合うように置かれ、中央には低いテーブル。光沢のある木材が、朝の光を受けて鈍く輝く。
俺はソファに腰掛けた。
柔らかい。沈み込むのに、姿勢が崩れない。座り心地が良すぎて逆に疲れる。
零子は向かいのソファに座った。
糞爺は……俺の足元ではなく、ソファの横の床にちょこんと座った。壺を膝に抱え、ぼーっとしている。
誰も何も喋らない。
空間には、時計の針の音だけが響いていた。
こんな時に限って糞爺が大人しい。いつもなら「うおー天井たけー!」とか騒ぐくせに。
気まずさが、水みたいにじわじわ広がる。
俺は耐えきれず、零子に聞いた。
「……家の中でも、そんな格好なのか」
零子は瞬きし、少しだけ首を傾げた。
「はい。これは祖母の趣味でもございますけれど……わたくし自身が自発的にやっていることでもありますわ」
言いながら、スカートのフリルの端を軽く摘む。仕草が自然だ。嫌々着せられている感じが薄い。
「口調も含めて、幼い頃になりたかったお姫様のようで……苦ではございませんわ」
俺はなんとも言えない気持ちになった。
嘘をついているようには聞こえない。だが何処か、何かを諦めているような声に聞こえる。
俺が黙っていると、零子が言った。
「それから……祖母の前では、フードをお被りになるのはおやめになった方がよろしいかと」
「……何故だ」
零子は目を伏せ、淡々と続ける。
「そういったことにうるさい方でございますの。何度も……折檻されましたわ」
いちいち暗い過去を混ぜるな。
そう言いたくなったが、言っても意味がない気がした。
俺は溜息を飲み込み、フードを上げた。
顔が露出する。
窓からの光が頬のラインを拾い、鏡のようなガラスに自分の輪郭が薄く映る。相変わらず作り物みたいな美形だ。自分の顔なのに、他人の顔にしか見えない。
零子が息を呑む音がした。
俺が彼女を見ると、零子は慌てたように視線を逸らす。
「……男性との関わりが乏しいものでございますから。あまり、こちらを見ないでいただけますと……」
心なしか、頬が赤い。
俺は何も言えず、視線を外した。
糞爺がニヤニヤする。
「モテるねぇ、お前さん」
俺は拳骨を落とした。
「痛ぇ!」
糞爺が喚いた、そのタイミングで。
扉の外から足音が聞こえた。
高いヒールが床を叩く音。リズムが苛立っている。足音の主が誰か分からなくても、機嫌が悪いことだけは分かる。
その足音に混じって、声が聞こえる。
「まったく……こちらは忙しいのに、こんな朝から来るなんて礼儀のなっていない客だこと」
おそらく、貴秀という執事に愚痴っている声だ。
扉が開いた。
そこに立っていたのは、一見して気品のありそうな老婦人だった。
まるでパーティーから帰ってきたかのような、高そうなフォーマルドレス。光沢のある布に宝飾品が散りばめられ、首元に真珠のようなものが揺れる。髪は白く、きっちりまとめられているのに、肌は不自然に張っていて、年齢の割に若作りに見える。香水の匂いが一瞬で客間に広がった。
老婦人は、まず糞爺を見た。
露骨に嫌な顔をする。
次に、俺の顔を見る。
態度が変わった。
劇的に。
「まあ……ようこそいらっしゃいましたわ!」
声が甘くなる。笑顔が開く。さっきまでの苛立ちが、まるで存在しなかったみたいに消えている。
老婦人は俺の対面、零子の隣に座った。
足を組む。優雅に。だがその優雅さは、相手を値踏みする目とセットになっている。
老婦人は零子を見て、笑顔のまま言った。
「零子ちゃんが初めて連れてきたお客様だもの。うんとおもてなししなきゃ!」
そして執事に向かって、
「お茶を二つ──いえ、三つ持ってきて」
と言いかけた。
俺は遮った。
「要らない」
老婦人が瞬きし、笑顔を崩さずに言う。
「あら。遠慮なさらなくても──」
「要らないと言った」
俺の声は低いままだった。
老婦人の瞳が細くなる。だが、すぐにまた柔らかい顔に戻った。
「そうですか。では本題に──」
と言いかけて、ふと零子の右手に目が止まった。
老婦人の笑顔が、ほんの一瞬だけ歪む。
「……零子ちゃん。その右手はどうしたのかしら」
零子が言葉をつっかえながら答える。
「そ、それは……その……」
視線が揺れる。俺の方を一瞬見て、すぐに落とす。
「……この方が、治してくださったのですわ」
“治して”。
その単語に、老婦人の眉が僅かに動いた。
老婦人は穏やかな声で言う。
「"治して"……? 零子ちゃん、あの猿の手は、階肚家に代々伝わるとっても大切な家宝なのよ?」
老婦人は零子に微笑みかける。
「その手になれるのは、とても名誉なことなの。分かる?」
糞爺が鼻を鳴らした。
「ならお前がなりゃいいじゃねぇか」
その言葉を、老婦人は聞こえないふりをした。
視線が糞爺を一度も捉えない。存在そのものを“無視”する。そういう無視の仕方だ。
老婦人は続ける。
「幸いなことに、猿の手はまだあるわ。だから、また移植し直しましょう?」
途端に、零子の顔が強張る。
そして老婦人はさらりと言った。
「そうだわ! 今度は肘までじゃなくて、肩まで移植しちゃいましょ! 前よりとっても可愛くなるわよぉ」
空気が冷えた。
零子が立ち上がり、老婦人に詰め寄った。
「そんな……酷い……! そんなのあんまりですわ……お祖母様!」
その瞬間。
甲高い音が響いた。
老婦人が零子の頬を叩いたのだ。
音が客間に反響し、時計の針の音が一瞬だけ遠くなる。
零子の顔が横を向き、髪が揺れる。頬に赤い跡が浮かび、目が揺れた。
老婦人は笑顔のまま言う。
「…零子ちゃん、話の途中に立ち上がっちゃ駄目よ?」
零子は意気消沈して座った。
スカートを整える手が震えている。
「……すみません」
小さな声。
俺の中で、何かが軋んだ。
人間の事情だ。俺が口を出す筋合いはない。
そう思おうとした。
だが、老婦人のやり方があまりにも露骨で、あまりにも当然の顔をしていて、俺の中の“記憶”が嫌な形でリンクした。
水虎の記憶。
弱いものが飲み込まれる景色。
叫びが飲み込まれ、沈む景色。
それを“当たり前”として眺める視点。
俺は、それを自分の中の"当たり前"にしたくなかった。
老婦人が俺に向かって言った。
「見苦しいものをお見せいたしましたわ──」
その瞬間、俺は言い切った。
「俺はそこの女と、“この家の呪具を貰い受ける”という契約を交わした」
老婦人の笑顔が固まる。
「……契約?」
俺は続ける。
「お前が呪具庫の鍵を持ってるなら、早く寄越せ」
老婦人が少しだけ笑った。
「冗談ですか? 初対面で、家の──」
言い終える前に、俺は水を走らせた。
圧縮した水の刃。
透明で、線だけが見える。
それで老婦人の頬を切った。
赤い線が浮かび、血が一筋落ちる。
老婦人の目が見開かれる。
俺は言った。
「次、そんな口を利いたら耳を貰う」
静かな声だった。
声を荒げる必要はない。言葉は刃だ。刃は研ぎ澄ませるほど静かになる。
老婦人は一瞬だけ、俺を呪い殺すような目で睨んだ。
その目に、権力欲と執着が詰まっている。
だが次の瞬間、笑顔に戻った。
頬の血を指で軽く拭い、その指先を見つめるようにしてから、優雅に言った。
「……では、私が呪具庫の前まで案内いたしましょう。鍵は私の指紋ですので」
声が震えていないのが、逆に不気味だ。
だが俺は、それに従うしかなかった。
今さら引けない。
引けば、こいつのルールに飲まれる。
§
俺と糞爺は、老婦人の案内で地下へ向かった。
零子は……付いてこなかった。
客間に置き去りにされるように残った。老婦人が振り返りもしなかったのが答えだ。彼女は家の中で“物”として扱われている。
老婦人が黙って扉を開け、階段へ続く通路を示す。
地下へ降りると、空気が変わった。
館の上階の香水と木の匂いは薄れ、代わりに石の冷たさが鼻を刺す。湿気は少なく、乾いた空気。足音が硬く響く。壁は大理石で、灯りが規則的に埋め込まれている。
通路は方々へ分岐していた。
広い。
複雑だ。
迷路のように伸びる廊下。角を曲がるたびに似たような景色が続き、どこを歩いているのか分からなくなる。
糞爺が小声で言った。
「……広いな。迷わねぇようにしねぇと」
俺は答えない。
警戒していた。
こういう場所で一番怖いのは、“案内されている”という事実だ。
俺は呪力を抑えたまま、周囲の気配を探る。
壁の向こう。
天井の裏。
何かが潜んでいる気配が、何処かから薄く混じる。
老婦人は歩きながら、振り返らずに言った。
「階肚家には、東北全域からスカウトした術師たちが所属しております」
俺の背中が僅かに硬くなる。
老婦人は続ける。
「彼らは階肚家の様々な仕事を手伝っておりますわ」
“仕事”。
その言い方が嫌だった。
呪術師が、家の“仕事”をする。
つまり、汚れ役だ。
老婦人は唐突に立ち止まった。
俺と糞爺も止まる。
老婦人が振り返る。
笑顔のまま。
「その仕事には──このようなことも含まれます」
その瞬間。
俺の足首が掴まれた。
見えない手。
床の下からだ。
俺は驚愕した。
"上"と"横"は警戒していたが、地下のさらに“下”から来るのは想定外だった。冷たい指が足首に食い込み、骨の奥まで引く。
糞爺も同時に掴まれていた。
「うおっ!?」
糞爺の声が跳ねる。
掴まれた瞬間、床が消えた。いや、消えたわけじゃない。俺の身体が床を"通り抜けた"。
顔が床に飲み込まれ、視界が暗くなる。
次の瞬間。
俺たちは落ちた。
地下室の床の下にある、広い空間へ。
真っ白な石造りの空間。
壁も床も天井も白い。ところどころにLEDライトが埋め込まれていて、全体が明るい。影が薄く、逃げ場がない。白さが逆に圧迫してくる。
俺は着地し、すぐ周囲を見た。
そこに──術師がいた。
十人以上。
いや、もっといるかもしれない。
全員が待ち構えていた。配置が整いすぎている。偶然じゃない。最初からここへ落とすつもりだった。老婦人の案内は、やはり罠だった。
糞爺が俺の横で舌打ちした。
「……やっぱりろくなことにならねぇじゃねぇか」
俺は答えなかった。
目の前の術師たちの呪力の気配を測りながら、静かに息を吐いた。
呪力は抑えたまま。
だが、いつまでも抑えていられる状況じゃない。
(……面倒だな)
そう思いつつも、俺の口の端はわずかに上がっていた。
毒親…いや毒祖母?
オリジナル術師紹介
【階肚一子(かいばらかずこ)】
階肚家の実質的な支配者。見た目は気品のある老婦人だが、中身は妖怪。美しいものが好きで、絵画や美術品、美しい呪具などを集めている(そのせいで階肚家は財政難に陥っている)。他者を支配することに喜びを感じ、優秀な術式をもつ零子を幼少期から少しずつ支配していった。そのことに危機感を感じていた零子の父親を抹殺している(母親は零子が3歳の時に病死、これは関与していない)。
術式は持たない。一応、呪力は扱えるものの、戦闘ができるほどではなかった。そのため階肚家の当主になることができず、このことが自分よりも優秀な存在を支配することに喜びを感じる性格に繋がった。