前回とのサブタイトルの差よ。
地下空間を出た瞬間から、空気が変わった。
真っ白い広間の、あの均一すぎる明るさが脳裏に焼き付いているせいか、廊下の灯りがやけに薄暗く感じる。大理石の壁は冷たく、足音が硬く返ってくる。どこを歩いても同じような角度の曲がり角、同じ高さの照明、同じ幅の通路。館の地下は迷路というより、記憶を削ってくる装置みたいだった。
糞爺は俺の足元で小さく舌打ちしている。
「ったく……最悪だな。あんな叫び声、しばらく耳に残るぜ」
俺は返さず、呪力探知を広げた。
今さらだが、最初からこうすればよかったと思う。
動く呪力と、動かない呪力は違う。
人は歩けば揺れる。呼吸でも揺れる。呪具や呪物は、揺れない。置かれた場所で“澱んでいる”。その澱みがいくつも重なっている地点が、いわゆる“呪具庫”だ。
地下の奥。
空間を出てから右に曲がって、二つ目の分岐を左。
そこからさらに下。
……反応がある。
俺はその方向へ歩き出す。
糞爺が付いてくる。
進む。
曲がる。
進む。
同じ景色の繰り返しで、時間の感覚が薄れる。自分が今どこにいるか、壁の模様だけでは分からない。階段を降りたはずなのに、また同じ通路に戻ってきたような錯覚さえする。
糞爺がぼそっと言う。
「……おい。これ、本当に合ってんのか」
俺は即答した。
「合ってる」
呪力の澱みが、確かにここにある。
その澱みが、じわじわと濃くなっていく。湿度は感じないのに、皮膚の内側だけが濡れていくような感覚。呪力が集まっている場所は、空気が微妙に“歪む”。
やがて、通路の突き当たりが見えた。
そこにあるのは、分厚い鉄製の扉。
館の内装の趣味から浮いている。無骨で、装飾がない。取っ手すらない。扉の横に小さな液晶パネル。指紋認証らしき部分があり、赤いランプが点灯している。
糞爺が扉を見上げた。
「……あの婆さんの言ってたこと、マジだったのかよ」
そして首を捻る。
「どうすんだ。指紋だぞ、とりあえず殴ってみるか?」
俺は扉に手を置いた。
冷たい鉄の温度が、こちらの熱を奪う。いや、熱だけじゃない。ここには結界に近い“仕組み”がある。扉そのものに術が仕込まれている。生半可な衝撃ではびくともしないだろう。
俺は息を吐き、術式を起こした。
水虎の術式。
水を生み出し、操る。
掌の前に水が生まれる。透明な水の塊が空中に浮かび、球になる。直径一メートルほど。水の表面が揺れ、薄い光を反射する。
そこへ腐食の呪力を練り込む。
可能な限り。
透明だった水が、徐々に濁っていく。重油のような、墨汁のような、深い黒。それは光を通さず、向こう側が見えない。水面が不自然に粘り、波が遅くなる。腐食の呪力は、水の中で“牙”になる。触れたもの全てを噛み砕く。
全裸の男を溶かした時より、さらに強い。
今できる最大限。
呪力をふり絞る感覚がある。神経を一本一本張り詰めるような集中。水球の形を保つだけで頭が疲れる。腐食を混ぜると、さらに難しい。水が暴れようとするのを押さえ込み、腐食が自分の術式を食い破ろうとするのを抑える。
糞爺が呆れたように言った。
「ほんと何でもありだなお前さんは」
俺はゆっくりと返す。
「これは、想像以上に、呪力と、神経を使う」
余裕がないから、言葉も詰まる。
コントロールが崩れないように注意しながら、黒い水球を扉へ運ぶ。
表面が鉄に触れた瞬間、シュ、と軽い音がした。
鉄が溶ける音は、普通はもっと鈍いはずだ。だが超高濃度の腐食の呪力が混ざった水は、鉄を“溶かす”というより“消す”。鉄が薄くなり、穴が開き、穴の縁が泡立つように崩れていく。
焦げた金属の匂いが漂う。
黒い水球は、その穴を広げながらじわじわ進む。
俺は慎重に水球を制御した。広げすぎると中の呪具に影響が出るかもしれない。狙うのは人が一人通れるだけの穴。最小限。
十数秒。
その短い時間が、かなり長く感じた。
そして、穴が開通する。
向こう側の空間が見える。薄暗い部屋。冷たい空気がこちらへ流れてくる。呪力の澱みが、急に鮮明になる。
俺は穴から中へ滑り込んだ。
糞爺も続く。
中は──やはり呪具庫だった。
思ったより広い。
棚がいくつも並び、ガラスケースや木箱が積まれている。吊り下げられた呪符。錆びた鎖。骨のようなものを束ねた飾り。刀剣類が並ぶ台座。壺や面、指輪、数珠。布に包まれた何か。などなど、いくつもの珍品が集まっている。
どれも呪力を宿しているが、質はピンキリだ。
弱いものは、古びた雑貨みたいに軽い。
強いものは、そこにあるだけで存在を主張している。
呪具や呪物は、人の欲と恐怖の集積だ。ただの展示品じゃない。呪力の呼吸をしている。
糞爺が目を輝かせて棚に近づく。
「うお……これ、なんだ? これ、触っていいか?」
俺は即座に言った。
「やめろ」
糞爺は手を引っ込める。
次の棚へ行く。
「じゃあ、これは──」
「やめろ」
「じゃあ──」
「やめろ」
俺の口から同じ言葉が三回出たところで、糞爺が不満そうに頬を膨らませた。
「つまんねぇな……」
「子供かお前は」
拗ねる糞爺を放置して、俺は棚を見て回った。
呪力が強いものは、確かにある。
だが、俺の術式は“自分より上だと思う相手”を食った時に、能力を奪う。
ここにある呪物や呪具の中に、俺より上だと思える物は見つからない。やはり水虎玉を食って急激に強くなりすぎたのだろう。
ここにある物を食っても呪力が増えるだけ。
そして、その増える量もたかが知れている。むしろこれからを思うなら、自分の力量を上げすぎないために食わない方がいいまである。
(……外れだな)
そう思いかけた時、棚の一角で、何本もの猿の手が目に入った。
木箱に詰められている。一本、二本じゃない。十本以上。乾いた皮膚が皺だらけで、指が不自然に曲がっている。一本一本が呪力を持っていて、それぞれ微妙に色が違う。黒ずんだもの、灰色のもの、黄ばんだもの。爪が伸びているものもある。
老婦人は家宝だと言っていた。
その割に、やけに多い。
俺は内心で鼻を鳴らした。
家宝って言葉は便利だな。たくさん数があっても“家宝”だと言い張れば貴重に見える。
俺は他も見た。
呪符が束ねられた木箱。
赤い糸が巻かれた針。
釘だらけのぬいぐるみ。
骨の笛。
どれも妙な気配はあるが、“特級”のそれではない。
糞爺は壺型の呪具の意匠をまじまじと見ていた。
「これ、作りがいいな……土の流れが──」
呪具庫で芸術鑑賞を始めるな。
俺は糞爺の首根っこを掴みたくなったが、堪えた。
俺たちは出るべきだ。
ここに長居すれば、また術師が来る。老婦人が別の手を打ってくることも考えられるし、零子のこともある。今は動くべき時だ。
俺が糞爺を連れて出口へ向かおうとした、その時。
棚の奥、猿の手が集まる場所の隣に、目が止まった。
呪力は──あまり感じない。
正確には、呪力の“量”は薄い。
だが、雰囲気が尋常じゃない。
そこだけ空気が澄んでいるようで、同時に淀んでいる。視界が僅かに揺れる。目で見た瞬間、喉の奥が乾く。呼吸が一拍遅れる。存在が静かすぎて、逆に異常だ。
俺は近づいた。
何枚もの呪符に包まれた、細長い何か。
呪具庫の雑多な呪力の中で、そこだけ“異物”だった。
俺は思わず呟いた。
「これは……──」
§
消毒液の匂いが鼻を刺した。
地下の一室。
壁は白く、天井の灯りが眩しい。手術室のような医療器具が揃っていて、金属が整然と並んでいる。冷たい光が、物の輪郭を鋭くする。
零子は寝台に寝かされていた。
両手足は固定され、逃げられないようにされている。皮のベルトが骨に食い込み、少し動かすだけで痛い。だが痛みより、胸の奥の冷えの方が大きい。
逃げる気は、もう失せていた。
部屋には祖母と、手術着のようなものを着た男が一人いた。
祖母は笑顔だった。
あの笑顔は、零子にとっての恐怖そのものだ。
祖母は言う。
「零子ちゃん。これから移植手術を始めるわ。無意識に呪力で腕を守らないように……前回と同じく、麻酔はなしで行うからね。意識があるからって腕を守っちゃダメよ?」
零子の喉が鳴る。
祖母は申し訳なさそうなふりをして、続ける。
「ごめんなさいね…。私だってホントは零子ちゃんに痛い思いはしてほしくないの。…でも零子ちゃんなら耐えられるって信じてるから!」
信じている。
その言葉が、いちばん酷い。
前回の記憶が蘇る。
肉を裂かれる激痛。
骨を削られる異物感。
いくら叫んでも、助けてくれない祖母。
助けてくれない周囲。
助けてくれない世界。
息が浅くなる。
過呼吸。
胸が上下し、喉がひゅうひゅう鳴る。
無意識に、涙が溢れた。
祖母は零子の涙を見て、心配したような口を利く。
「零子ちゃん、泣かないで……堪えるのよ……!」
祖母の声はもう、届いていなかった。
零子は考える。
あの人は無事だろうか。
自分の醜い腕を治し、希望を与えてくれた人。
呪霊かも知れないが、零子にとっては、祖母と比べたらよっぽど人だった。
──あの人なら、もう一度自分を救ってくれるのでは。
……あまりにも都合のいい考えだ。
こんなことを考える自分に吐き気がする。
あの人はもう救ってはくれないだろう。
自分はあの人に何も返せていない。何も返せなかった。助けてもらって、ただ縋って、最後は置いていかれた。いや、置いていくしかなかったのだ。
あの人は今頃何をしているのだろう。
死んでしまっただろうか。
それとも、生きて逃げたのだろうか。
逃げてくれてたらいいな。
どんな形であれ、生きていてほしい。
零子の願いは、祈りにもならず、喉の奥で溺れる。
祖母が命令する。
「じゃ、始めてちょうだい。抵抗しても構わなくていいから」
男が頷く。
手術着の男がノコギリを腕に当てた。
刃が肌に触れる冷たさ。
零子は涙を流しながら、それでもなお考えていた。
あの人は──。
その時。
男が腹を押さえた。
「…ぐっ…は、腹が…!?」
顔色が変わる。
あまりの腹痛に立っていられず、膝をつき、さらに前のめりに倒れた。
床に額を打ち、呻き声が途切れる。
気絶。
祖母が動揺した。
「な、なにをしているの!?」
祖母の声に焦りが混じる。支配者の声が、初めて揺れる。
その瞬間。
部屋の扉が開かれた。
零子は濡れた瞳で扉を見る。
視界が滲んでいるのに、それでも輪郭が分かった。
黒衣の姿。
一度自分を救ってくれた存在。
──あの人が、扉の前で静かに立っていた。
堕ちたな(確信)。