日常回たくさん書きたいですねぇ
昼食という概念が、俺の知るそれと違っていた。
零子はおにぎりを“食べる”のではなく、“鑑定する”みたいに齧っていた。海苔の香り、米の甘さ、塩の輪郭──ひと口ごとに目を丸くして、世界が更新されていく顔をする。
菓子パンを手に取った時など、もはや儀式だった。
袋を開ける音にすら「繊細な音ですわ……」と呟き、ふわりと漂うバターの匂いを胸いっぱいに吸い込んで、それから恐る恐る齧る。甘さが舌に触れた瞬間、彼女の瞳は星みたいに光った。
「……これは、奇跡ですわ」
そう言いながら、二つ目を開ける。
俺は横で、無言で見守る。別に止める理由もない。
糞爺は後部座席で壺を抱えたまま、羨ましそうに見ていた。
「お嬢ちゃん、いちいち美味そうに食うなぁ…俺まで腹減ってきたぜ。……まぁ俺は脱糞してるときの呪力の方が好きだが」
「余計な情報を足すな」
零子は「脱糞……?」と首を傾げたが、俺が視線で黙らせると、素直に菓子パンへ戻った。素直で助かる。
昼食を済ませた後、車は昼の光の中を南へ南へと滑っていった。
零子の運転は相変わらず荒い。荒いが、午前中の“殺意”は薄れた。俺が助手席で膝に手を置き、静かに「落ち着け」と言うだけで、彼女は露骨に速度を落とす。
その落とし方が急なのは、まだ直っていない。
糞爺は何度も座席に転がり、「首がいてぇよぉ…なんとかしてくれぇ…」と呻いた。首の心配をするならまず運転に文句を言えばいいのに、こいつは俺に言う。どうも女には弱いらしい。
日が傾きはじめる頃、零子がハンドルを握ったまま少しだけ真面目な顔になった。
「今夜は、どこかで休むべきですわ」
車中泊でもいい、と最初は思った。
俺も糞爺も眠る必要はない。零子だって、呪霊に比べれば脆いとはいえ、こうして一日動ける程度の体力はある。車の中は狭いが、耐えられないほどではない。
ただ、厄介なのは人間社会の目だ。
どこかの駐車場で黒塗りの高級車が一晩止まっていたら、おそらく目立つだろう。通報する奴もいるかもしれない。俺たちは“説明できない存在”だから、説明を求められた時点で面倒になる。
それに零子は、俺の予想以上に“休むこと”にこだわった。
今から5年前──猿の手を移植された当初、身体が鉛みたいに重く、すこしでも休息を怠るとすぐに死にかけていた、と彼女は淡々と語った。淡々としている分だけ、本当の地獄が透ける。
「休息は贅沢ではなく、必要品ですの」
俺はそれ以上反論できず、どこか泊まれる場所を探すことにした。
だが、現在地である岩手県と宮城県の県境付近の道は暗く、周囲は山と畑と、時折見える集落だけだった。コンビニの光が遠ざかるほど、宿の気配も薄くなる。
零子は速度を落とし、道端の看板を目で追い始める。
「……あれは、宿泊可と書かれておりますわ!」
彼女が指さした先。
暗がりの中で、不自然に派手な光が瞬いていた。
城のような形をした建物。いや、城の皮をかぶった何か。尖った屋根、誇張されたアーチ、やたらと艶のある壁面。照明の色が多すぎて、目が疲れる。
俺の脳内で警報が鳴った。
(……ラブホテルじゃねぇか)
零子はその建物を見て少しテンションが上がっているらしい。
「まぁ……! 洋風で、素敵ですわ。お城みたい……!」
気づいていない。というより、知識がない。そういう種類の場所が存在すること自体、彼女の世界には無かったのだろう。
俺は葛藤した。
俺は呪霊だ。羞恥心とか、そういう感覚は薄い。薄いが、ゼロではない。今の俺たちの格好──黒ローブにフードの俺、ゴスロリの零子、これでラブホテルに入ったら、周囲の人間の脳内でどういう物語が生成されるか、想像するだけで胃が重くなる。
糞爺が後部座席から弱々しく言った。
「……もう…どこでもいい…早く…」
見ると、糞爺はまたグロッキーになりつつあった。なんども揺さぶられ魂が抜けつつある。
俺は短く息を吐いた。
「……ここでいい」
零子がぱっと笑顔になる。
「では、参りましょう!」
駐車場に車を止める。まだ夜更けでもないからか、駐車場は妙に空いていた。光に照らされたアスファルトが湿って見える。
俺は周囲を素早く確認し、零子の肩を軽く押す。
「急げ。見られると面倒だ」
「……? はい、わかりましたわ」
零子は首を傾げながらも、俺の勢いに押されて建物内へ入った。
受付は無人だった。タッチパネルが一台、静かに光っている。人間の気配が薄い。宿泊客と鉢合わせる可能性も低いだろう。
俺は画面を操作し、適当な部屋を選んだ。
受付で人と対面することがない。これは便利だ。
……これからも利用するかもしれない、それだけの価値はある。と冷静に考えてしまった自分に、少しだけ嫌気が差した。
俺はキョロキョロと辺りを見回す零子と糞爺を連れて、部屋へ向かった。
§
部屋は意外と広かった。
そして──意外と上品だった。
もちろん、ラブホテルらしさはある。ベッドは無駄に大きく、天井の照明は間接光でやたらと艶っぽい。壁紙は濃い色で、金の装飾がさりげなく入っている。鏡の位置も、意味深だ。意味深すぎる。
だが、全体としては落ち着いていた。
零子は部屋の中を物珍しそうに眺めている。普段、城のような屋敷に住んでいたはずなのに、ここは別種の"豪奢"らしい。
糞爺は入るなりダブルベッドへ飛び込んだ。
さっきまでグロッキーだったくせに元気だ。
「ベッドでけー!」
跳ねる。
転がる。
「でも、お嬢ちゃんの家のベッドほど柔らかくねぇなぁ」
「どこと比較してるんだ」
俺は空いているソファに座り、息をついた。
零子の運転にはだいぶ慣れたが、まだ体の奥に気持ち悪さが残っている。すこし休みたかった。
当の零子が隣に座った。
そして、少しずつ近寄ってくる。
距離が縮まる。
視界の端でこちらを見つめているのが分かる。
俺が零子を見ると、彼女はぱっと視線を逸らした。誤魔化すように部屋を見回し、「広いですわね」「照明が美しいですわ」と、適当に何かを言い続ける。
その視線が、目の前のローテーブルへ落ちた。
リモコン。
零子はそれを手に取った。
俺の中の嫌な予感が、形になって喉へ上がる。
「……おい、待──」
止める前に、零子がテレビのスイッチを入れた。
画面がつき──
音が出た。
そこそこ大きめの音量で。
“そういった声”が。
“そういった映像”付きで。
零子がフリーズした。
固まったまま、瞬きすらしない。顔が、ゆっくりと赤くなる。赤が、首筋へ流れ、耳へ溜まり、頬へ広がる。
さっきまで落ち着いた雰囲気だった空間は、一瞬にして喘ぎ声が響く"本来の空間"に変わった。
俺は固まった零子から即座にリモコンを奪い取り、テレビを消した。
静寂が戻る。
その静寂が、痛い。
一瞬の出来事に糞爺でさえ驚いたようで、ベッドの上で目を丸くしていた。こいつが驚くのは珍しいなと、どこか他人事のように思った。
零子は錆びついた人形のようにゆっくりと俺を見る。
正確には俺と俺越しの大きなダブルベットを見ている。
そして──理解したようだ。
今いる場所が“そういった場所”だと。
もともと赤かった彼女の顔が、タコみたいに真っ赤になった。
「……わ、わ……わtくし…あにょ…その…知らなくてございましてですので…」
言葉遣いがおかしくなる。お嬢様言葉のバランスが崩れ、語尾が迷子になる。動きもおかしい。両手を胸の前でわたわたさせ、目をぐるぐる回し、呼吸が浅くなる。
俺は頭を冷やして落ち着かせる必要があると判断した。
「…シャワーでも浴びてこい。頭を冷やせ」
零子の瞳がさらに揺れる。
「し、シャワー……!? そ、それは……その……! "そういう意味"ですわよね…!?」
……違う方向に捉えたな。
零子は急に立ち上がり、俺に深々と頭を下げた。
「わ、わたくし! そ、そういった経験はございませんので……どうか……ご指導のほどよろしくお願いいたします……!」
「おい、待て…おい…」
そして俺からの言葉も待たず、零子はいそいそとシャワールームへ向かっていく。
そして扉を閉める直前に「の、覗いちゃ嫌ですわよ…!」なんて言い放つ。
俺は微妙な顔になった。
糞爺もさすがに苦笑いをしている。
「……お前さん、罪作りだな」
「黙れ」
§
零子がシャワーを浴びている間、俺は糞爺とこれからについて話した。
俺たちが今南下しているのは糞爺の要望だった。
当初は、仙台へ戻って宿儺の指へ再チャレンジする案も頭にあった。だが、羂索がこちらの存在に気づいていないとは思えない。一度手を出した場所へ戻るのは愚かだ。今度はもっと露骨に殺しに来る。
糞爺は長野県へ向かいたいと言った。
古い知り合いの雪女がいるらしい。
河童の里で“一”が言っていた、一年ほど前に糞爺のことを探しに来た雪女のことのようだ。
糞爺は珍しく渋い顔をした。
「本当は、あんま会いたくねぇんだけどよ…」
「嫌いなのか」
「嫌いってより……おっかねぇ」
糞爺が怖いと言うのは、相当だ。こいつは普段、怖がるふりはしても本気で恐れる顔はしない。俺が知る限りは真人くらいだ。
「会わねぇのも、それはそれで後が怖いんだよ。あいつ結構根に持つからな」
俺は糞爺の横顔を見る。
小さな呪霊のくせに、少しだけ大きく見えた。こいつにも、背負っているものがある。今さらだが、俺は糞爺のことをほとんど知らない。
俺は糞爺の過去について想像する。こいつは一体どんな呪霊だったのだろう。
その時、シャワールームの扉が開く。
零子が出てきた。
バスローブを身に纏い、いつもの縦ロールは解かれている。腰あたりまで届く黒髪ロングが濡れて、肩に張り付いていた。水滴が、鎖骨の線をなぞって落ちる。
顔が赤い。
のぼせたのか、と見紛うほどに。
息も荒い。
そして、まっすぐ俺を見る。
「饕餮様……次は、あなたが……シャワーを……」
声が震えている。
そして糞爺の方を見る。
「おじ様には、少し席を外していただきたく……」
糞爺が「おっ!」と嬉しそうな声を出しかけたので、俺は視線で制した。
俺は冷静に言う。
「別にそういうことをするつもりはないぞ」
零子が、驚愕した。
「……へ?」
「ここは他に選択肢がないから選んだだけだ。そういった意図はない」
零子は一瞬、口を開けたまま固まった。
それから──へなへなと床へ座り込んだ。
「……よ、よかったですわぁ……」
全身から力が抜けるのが、目に見えて分かった。
どうやら、さすがに“早すぎる”と思っていたらしい。なら最初から落ち着けと言いたいが、そういう教育を受けてきたわけじゃないのだろう。彼女の知識は本から得た断片的なもので、現実に触れたことがない。
(箱入りにもほどがあるな…)
俺が内心で呆れていると、俺たちを見た糞爺がニヤニヤしながら言う。
「俺、出ていこうか? 2時間くらいでいいか?」
俺はデコピンで答えた。
「ぐぶぉっ!」
糞爺が派手に痛がる。
零子は顔を両手で覆って、しばらく固まっていた。赤い。ずっと赤い。バスローブの襟元まで赤い。
俺は、見ないふりをした。
そして──
深夜。
糞爺が寝静まった。呪霊は寝る必要はないが、こいつはよく寝る。寝るというか、意識を落としているだけかもしれないが。
俺は窓際のソファで背を預け、目を閉じていた。
ふと、テレビの方から微かな光が漏れているのを感じた。
音量は最小限。
それでも、耳のいい俺には分かる。
“そういった声”。
そして、くぐもった荒い吐息。
俺は目を開けず、ただ息を吐いた。
見てない。
俺は見てない。
見てないことにした。
この旅は、まだ始まったばかりだ。
雪の匂いがする長野へ向かう前に、俺たちは一晩、派手な城で誤解を燃やしながら休む。
少しくらいの遠回りも悪くないのかもしれない、と。
俺は自分の中の感情の輪郭を、そっと確かめるように沈めた。
零子ちゃんのことになると筆が止まらんねん!