地下三階は、もう“静か”だった。
いや、正確には――
俺にとっては、静かだった。
壁に染みついた呪力の匂い。
天井に張り付いた時の、重力の感覚。
羽を震わせたときに返ってくる、空間の反応。
それらすべてが、俺のものになっていた。
「……落ち着くな」
以前なら、気配のひとつひとつに怯えていたこの場所で、今の俺は“中心”にいた。
蝿頭が近づけば、わかる。
隠れれば、わかる。
逃げようとすれば――もっと、よくわかる。
地下三階に残っていた蝿頭の数は、もう数えるほどしかない。
俺が喰い尽くしたわけじゃない。
逃げたのだ。
俺を避けるように。
俺の呪力を感じ取って。
それは、ひどく心地よかった。
「……これが支配、ってやつか」
あまり覚えてないが、人間だった頃は無縁だったであろう感覚が、今は現実として腹の奥に落ちてくる。
恐怖を与える側。
避けられる側。
――俺は、もう“雑魚”じゃない。
そう確信した瞬間だった。
異変が、来た。
地下二階へ続くスロープの奥。
そこから、今までにない量の羽音が――押し寄せてくる。
「……来る」
直感が、はっきりと警鐘を鳴らした。
数が多い。
しかも、統率されている。
俺は天井から降り、崩れた柱の影に身を沈める。
隠れるためじゃない。
迎え撃つためだ。
やがて、姿を現した。
蝿頭。
十、十五……いや、それ以上。
群れの中央に、異質な存在がいた。
「……あの時の地下二階の、ボスか」
一目でわかった。
体格が違う。
羽は黒く硬質化し、音を立てずに空気を切っている。
頭部は人型に近く、口器も長く太い。
そして何より――
呪力の質が違う。
呪霊として成長した今なら分かる、圧がある。
俺が地下三階で感じていた“支配”に近いものを、あいつも纏っている。
群れが、広がる。
包囲。
「……なるほど」
地下二階の支配者が、領土を広げるべく縄張りを越えて攻めてきた。
普通なら、そう考える。
だが――
「……遅い」
動きが、どこか雑だ。
焦っている。
群れの配置も甘い。
統率はされているが、洗練されていない。
攻めてくる者の動きじゃない。
だが、今は考える必要はない。
「……ここは、俺の場所だ」
俺は、動いた。
正面から、堂々と。
蝿頭たちが、どよめく。
俺の姿を見て怯みが走る。
それだけで十分だった。
最前列の一体に、突進。
体当たりで壁に叩きつけ、そのまま喰う。
――一瞬。
呪力が流れ込むより早く、次。
二体目。
三体目。
俺は止まらない。
数の差?
もう、問題じゃない。
群れの蝿頭は、俺より弱い。
個体としても、精神としても。
恐怖が、伝染する。
逃げようとする個体が出た瞬間、ボス蝿頭が吠えた。
耳障りな振動。
命令。
「……無駄だ」
俺は、あえて群れの中心へ踏み込む。
喰う。
裂く。
押し潰す。
地下三階が、俺の呪力で満たされていく。
残ったのは、ボス蝿頭と、数体。
ボスが、動いた。
速い。
俺より速い。
衝撃。
壁が砕ける。
「……っ」
脚が、軋む。
一瞬、体勢が崩れる。
だが――
「……それだけか?」
俺は、倒れない。
今まで喰ってきた数が、違う。
狩り続けた経験が、違う。
ボス蝿頭は、力任せだ。
俺は――狩り方を知っている。
正面から受けない。
側面へ。
背後へ。
脚を削ぐ。
羽を裂く。
ボスが吠える。
焦りが、呪力に滲む。
「……やっぱりな」
確信が強まる。
こいつは、逃げてきたんだ。
最後は、呆気なかった。
動きが鈍った瞬間、俺は一気に距離を詰め、ボスの脳天に口器を突き立てた。
――喰う。
今までで、一番濃い呪力。
だが、混じっている。
恐怖。焦燥。屈辱。
「……地下二階で、何があった?」
問いかけても、答えはない。
ボス蝿頭は、溶けるように消えた。
ボスがやられた途端、群れは散り散りになり、完全に崩壊した。
地下三階に、再び静寂が戻る。
だが――
俺の中には、恐怖とも好奇心ともつかない重たい感情が残った。
「……攻めてきたんじゃない」
あいつは、逃げてきた。
追い出された。
地下二階から。
俺は、スロープの奥を見る。
暗闇の向こう。
そこから、別の気配が、微かに流れてきている。
重い。
粘つく。
今まで感じたどの蝿頭とも違う。
「……なるほど」
地下二階に、
それも――
「……おそらく、蝿頭の段階じゃ、ないな」
俺は、羽を震わせる。
恐怖は、ある。
だが、このまま地下三階にいても先はない。
狩りは、次の段階へ進もうとしていた。
地下三階の支配者として、
俺は、初めて上を見る。
「……行くか」
呟きは、闇に溶けた。
次に喰うべき獲物は、
もう――“同族”だけでは済まない。