呪霊王におれはなる!!   作:トックー0322

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第三十八話:積もった雪、怒り

 

 

 

 長野県。飛騨山脈の麓。

 

 地図の上ではただの線と塗りつぶしでしかないその場所は、実際に立つと「ここから先は別の世界だ」と言っているような空気を纏っていた。山の輪郭は近く、空は高い。街の空気が薄れ、音が減り、代わりに風の流れと木々の軋みが存在感を増していく。鼻の奥に刺さる冷気が、体温を静かに奪っていくのがわかる。

 

 ここに来るまで、車で数日。

 

 あの日の階肚邸を出てから、俺たちはひたすら南へ、そして内陸へ向かった。高速道路を走るたび、サービスエリアの明かりのたび、田舎のコンビニの白い蛍光灯のたび、零子は「初めて」を増やしていった。

 

 そして──何より、俺と糞爺は零子の運転に慣れた。

 

 最初の頃は地獄だった。カーブで身体が壁に貼りつき、ブレーキで内臓が前に飛び出す気がして、俺は何度も「人間だったら確実に吐いてる」と確信した。

 だが、慣れとは恐ろしい。今では多少の蛇行なら「いつものことだ」と流せる程度にはなった。糞爺も、天井を見上げて置物になる頻度は減った。

 

 ──それでも。

 

 糞爺は時折、自分の首を撫でる。

 

 指で喉元をなぞり、皮膚の感触を確かめるみたいに。伸びていないか、繋がっているか。トラウマはまだ治まっていないようだ。

 

 そして、今は別の問題があった。

 

 運転席の零子だ。

 

 車のハンドルを握る彼女は、いつものゴスロリに身を包んでいる。その横顔は綺麗だ。綺麗すぎる。作り物みたいに整っているのに、最近はそこに妙な“色っぽさ”が混ざってきた。

 

 その“色っぽさ”が、今は悪い方向に出ている。

 

 零子の目が、時々ぼやける。

 

 瞬きを忘れたみたいに一点を見つめ、視線が前の車線から僅かに逸れる。指先の動きが遅れる。ハンドルがほんの少しだけ遅れて戻る。致命的ではない。だが、積み重なると事故になりそうだ。

 

 寝不足だ。

 分かりきっている。

 

 ここに来るまでの数日間、俺たちは毎晩ラブホテルに泊まった。理由は単純だ。受付が無人で目立ちづらい。俺たちの格好がいかにも不審者でも、説明をする必要がない。人目を避けたい旅には便利すぎた。

 

 もちろん、“そういった行為”はしていない。

 

 していないが──零子は寝不足だった。

 

 理由も、俺には分かっている。

 

 深夜、糞爺が寝静まった後。音量を最小にして、テレビの前で小さく震えながら画面を凝視していた零子の背中。ここのところ毎晩だ。

 

 相変わらず俺は見なかったことにしている。

 

 呪霊だろうが人間だろうが、触れてはいけない領域はある。触れた瞬間、相手の恥と、戸惑いと、関係の歪みが同時に生まれる。俺はその歪みを恐れた。零子が「人形」をやめてやっと笑うようになった、わざわざ指摘してその笑いを曇らせたくない。

 

 ──それと関係があるかは分からないが。

 

 最近、零子の視線が熱っぽい。

 

 ふとした瞬間俺の顔を見て、すぐ逸らす。その逸らし方が下手だ。髪をいじり、爪を触り、指輪に触れる。距離も近い。車の中で肩が触れそうになると、わざとらしく身を寄せてくる。触れるか触れないかのギリギリの時、決まって触れてくる。

 

 当の零子はぼんやりした目で前を見ながら、ハンドルを握っている。

 

 危ない。

 

 俺はため息を飲み込み、運転席側へ身を寄せた。

 

「……おい」

 

 声を落とす。叱る声ではない。あくまで“現実に戻す”ための声。

 

 零子の膝に手を置く。

 布越しに伝わる熱。人間の体温。生きている温度。

 

「起きろ、零子」

 

 その言葉と触れた感覚が、同時に零子の身体へ刺さった。

 

「ひゃっ──!」

 

 変な声。

 

 驚きすぎて、喉から空気が抜けたみたいな声。零子の肩が跳ね、ハンドルが一瞬ぶれる。

 

 俺はすぐ手を離し、前を見たまま低く言う。

 

「運転中だ。寝不足なのは分かるが、ちゃんとしろ」

 

 零子は耳まで赤くして、慌てて首を振った。

 

「わ、わ、わたくしは全然寝不足などではございませんの! き、昨日も、それはもうぐっすり……!」

 

 語尾が揺れてる。目も泳いでる。反論の形をとっているが、内容は自白に近い。

 

 俺は何も言わず、ただ生暖かい目で見た。

 

 言及はしない。

 

 しないが、“バレている”という空気だけは置いておく。その程度がちょうどいい。

 

 やがて山の麓に、広い空き地が見えた。舗装されていない地面に小石が転がり、草がまばらに生えている。周囲の木々は背が高く、枝が空を狭くしている。空は明るいのに、山の影が地面に落ちて、ここだけ薄暗い。

 

 零子はそこに車を止めた。

 

 エンジンが切れると、急に世界の音が減った。風の音が前に出る。鳥の声が遠くに聞こえる。どこかで水が流れている気配。山は音を吸う。

 

「……ここからは歩きだな」

 

 俺が言うと、糞爺は車内で伸びをしながら、壺を抱え直した。

 

「やっとかよ。ケツが腐るかと思ったぜ」

 

 零子が荷物を整えるのを待ち、俺たちは車を降りた。空き地の冷たい空気が、肺に入ってくる。街の匂いが消えて、山の匂いが濃くなる。

 

 糞爺が先頭に立つ。

 

 小さな背中が迷いなく進んでいく。

 

「山奥にいるんだな?」

 

 俺が聞くと、糞爺は短く頷いた。

 

「いる。……いるはずだ」

 

 “はず”。

 

 その言葉に、糞爺の緊張が滲んだ。いつもなら確信満々に大口叩くのに。口の端が引きつっている。足取りもどこか硬い。

 

 雪女。

 

 糞爺の古い知り合い。河童の里の親分が言っていた、“糞爺を探しに来た雪女”。会いたくないが、会わないのも怖い──糞爺はそう言っていた。

 

 不安を胸に、俺たちは山へ入った。

 

 

 

 

 

 

   §

 

 

 

 

 

 

 山の中は、自然に溢れていた。

 

 木々の根が地面を盛り上げ、岩が道を割り、苔が滑りやすい膜を作る。陽は差しているのに、葉の影が網の目みたいに落ちて、足元の起伏を騙す。湿った土が靴底に絡み、踏み込むたびに微妙に滑る。

 

 零子は苦労していた。

 

 舗装路を歩くのとは違う。足場が不安定で、体幹を常に使う。呼吸も乱れる。運転席で座っていた時とは顔色が違う。頬が赤いのは恥ではなく疲労だ。

 

「……大丈夫か」

 

 俺が声をかけると、零子は意地を張ったように顎を上げる。

 

「だ、大丈夫ですわ。これしきのこと……」

 

 だが、その声は息で途切れた。

 

 糞爺はそんな零子とは対照的にスイスイ登っていく。経験があるのだろう。足の置き場を迷わない。小さいくせに、妙に安定している。両手に壺を抱えていても転ばない。

 

 俺は、山に違和感を感じていた。

 

 ──呪力が多い。

 

 単純に呪霊がいる、という意味ではない。空気に溶け込んでいる呪力の“濃度”が高い。湿度の高い空気が肌に貼りつくみたいに、呪力が皮膚の上に薄く膜を作っている感覚がある。

 

 一体なんの影響だ?

 

 俺は記憶を辿る。前世の記憶。原作の知識。だが、こんな描写は思い出せない。そもそも原作開始は六月だったはずだ。季節が違う。まだ原作は始まっていない。

 

 (……原作通りにいくと思うなよ、ってことか)

 

 俺は内心で舌打ちした。

 

 “知っている”という優位は、いつだって脆い。想定外が来た瞬間、知識は足枷になる。仙台の巨木呪霊で嫌というほど学んだはずだ。

 

 それでも、山の呪力の濃さは不気味だった。

 

 歩き続けるうちに、標高が上がっていく。風が冷たくなる。木々の種類も変わり、地面の色が暗くなる。やがて、雪が目立ち始めた。

 

 もう4月だが、陽が当たらない場所には白が残っている。凍った土が硬く、踏むと鈍い音がする。零子の歩幅が小さくなる。息が白くなる。肩が震える。

 

「…休むか?」

 

 俺が言うと、零子は首を横に振った。

 

「……だ、だいじょうぶですわ。饕餮様の、足を引っ張るわけには……」

 

 その言葉が健気すぎて、逆に胸の奥がざらつく。

 

 俺は、零子の肩に手を置き、軽く支えるようにした。呪霊の体は力加減が難しい。慎重に触れる。零子の身体は、思ったより軽い。骨が細い。あんな地獄で育って、あんな呪物を押し付けられて、それでも生きている。

 

 (……強いな)

 

 俺は心の中で認めた。

 

 数時間後。

 

 雪が増え、風が強くなり、空の色が青から薄い灰へ変わりかけた頃、遠くに洞窟が見えた。

 

 小さな洞窟だ。岩肌が口を開けている。中は暗い。入口の周りだけ雪が薄いのは、地熱か、風の流れか。

 

「お、あそこだ!」

 

 糞爺は躊躇いなく、その中へ入っていった。

 

 そして──声が消えた。

 

 音が、すっと途切れた。まるで糞爺が消えたかのように。

 

 零子が驚いて立ち止まる。

 

「え……? おじ様……?」

 

 俺は零子の手を掴み、落ち着くように言う。

 

「たぶん、そういうことだ」

 

 零子が「そういうこと?」と聞き返す前に、俺は洞窟へ足を踏み入れた。

 

 暗闇。

 湿った岩の匂い。

 

 そして次の瞬間──

 景色が、切り替わった。

 

 洞窟の壁も天井も消え、目の前には見渡す限りの雪原が広がっていた。

 白が、空まで続いているような錯覚。雪は降っている。細かい粉雪が、斜めに舞っている。風が頬を切る。冷気が骨に刺さる。

 

 零子が息を呑む。

 

「……っ!? こ、ここは……!」

 

 俺はさして驚かなかった。

 

 河童の里に続いて二回目。おそらく生得領域だ。境界を跨いだ瞬間、世界のルールが変わる。川でも洞窟でも、門になり得る。

 

 俺は目を凝らす。

 

 遠くに、家のようなものが見える。雪の中に小さな影。詳しくは分からない。だが、輪郭は確かに建物だ。

 

 糞爺は、その影へ向かって進んでいた。

 

 壺を頭の上に掲げて、短い足で積もった雪をかき分けるようにえっちらおっちら歩いている。

 

 俺と零子も歩き出す。

 

 雪は足を取る。歩くたび、ざくりと沈む。白い粒が足に絡まり、冷たさがじわじわと伝わってくる。零子は震えながらも、必死に足を動かす。唇が青くなりかけている。

 

 (まずいな…、あの家の中が暖かいといいんだが…)

 

 やがて、家が近づく。

 

 外観が見えてくる。

 

 昔の日本家屋──藁葺き屋根の小屋。雪が屋根に積もり、軒先に氷柱が垂れている。壁は古い木。窓は小さく、灯りは漏れていない。周囲の雪だけが妙に整っているのは、誰かが手入れしている証拠だ。

 

 糞爺が足を止める。

 

「……ここか?」

 

 俺が聞くと、糞爺は小さく頷いた。

 

「……そうだ」

 

 声が、普段より低い。

 

 その瞬間。

 

 小屋の引き戸が、静かに開いた。

 

 音は小さい。だが、雪原の静けさの中では、やけに大きく響いた気がした。

 

 そこに立っていたのは──女だった。

 

 真っ白な着物。雪の白とは違う、布の白。血の気のない白い肌。頬も唇も色が薄く、瞳だけが濃く見える。髪は濡羽色で、膝のあたりまで届きそうな長さ。雪が髪に触れても絡まない。まるで冷気そのものが形になったみたいに、周囲の温度が一段と下がる。

 

 一目見て分かる、妙齢の美女。

 

 美しい。だが、その美しさは“生きている美しさ”じゃない。氷の彫刻のような、触れたら指先が凍る種類の美だ。

 

 女はまず俺たちを見て、怪訝そうに眉を寄せた。

 

 次に糞爺を見て──目を見開いた。

 

 空気が変わる。

 

 雪の音が止まった気がした。

 

 糞爺が、気まずそうに笑った。

 

「よぉ……久しぶりだな、雪凪(せつな)

 

 雪凪と呼ばれた美女は、口をぱくぱくと動かした。

 

 言葉にならない。

 

 息が喉で詰まり、瞳が揺れ、全身がふるふると震え出す。

 

 そして──呪力が立ち昇る。

 

 雪原の白の上に青い炎が上がるみたいに、凍てつく呪力が噴き上がった。空気が痛い。肺が痛い。零子が息を詰める。

 

 美女は叫んだ。

 

「──今までどこ行ってやがったこの糞野郎ーーーーー!!!」

 

 そして、飛びかかった。

 

 白い足が雪を蹴り、髪が舞い、冷気が刃になる。怒りをそのまま形にした突進。糞爺は「うおおお!?」と声を上げ、壺を頭から落としそうになりながら、反射的に逃げ出す。

 

 俺は、その瞬間に思った。

 

 (……あぁ、糞爺が会いたくなかった理由、これだ)

 

 ただでさえ冷たい世界が、さらに凍りついた。

 

 

 

 

 

 

 





雪凪さんと糞爺は過去にいろいろありました。
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