地下三階に戻った静寂は、さっきまでの戦いが嘘みたいに重かった。
壁のひび割れに染み込んだ呪力の残り香が、じっとりと空気に浮いている。蝿頭の群れが掻き乱した澱みが、ゆっくりと沈殿して、やがて俺の“匂い”だけが部屋を満たしていく。
……勝った。
それは確かな事実だ。地下二階のボス蝿頭を喰って、群れを潰して、ここを守りきった。俺はもう、ただの蝿頭じゃない。支配者と呼ばれる側の存在になった。
なのに。
胸の奥――いや、呪力の核のもっと深い場所が、ざわざわと落ち着かない。
勝利の余韻じゃない。歓喜でもない。
不吉な予感だ。
「……逃げてきたんだよな、あいつは」
俺は壁に爪を立てて、崩れかけた柱の影に身を寄せた。思考を整理する癖は、人間だった頃の名残なのだろう。こういうとき、理屈は俺を助けるとなんとなく理解していた。
地下二階のボス蝿頭は、攻めてきたにしては雑だった。焦りが呪力に混ざっていた。群れもまとまりが悪かった。俺の縄張りを奪う“意思”が弱い。あいつらの中心にあったのは、征服欲じゃない。
生存本能だ。
俺は、さっき喰ったボス蝿頭の“味”を思い出す。呪力は濃かった。だが、重いだけじゃない。怯えと苛立ちが溶けていた。まるで背中を焼かれながら走ってきたみたいに。
……追われていた。
地下二階に何かが現れた。あいつが縄張りを捨ててでも逃げ出すほどの何かが。
それが、蝿頭の延長線上じゃないことだけは分かる。俺の感覚がそう言っている。さっきスロープの向こうから流れてきた気配――あれは、同族の小さい“羽音”とは別種の、もっと湿った圧だった。
考えるほどに、腹の奥が空く。
恐怖に似ているくせに、違う。
飢えに似ているくせに、まだ違う。
未知を前にしたときの、獣の衝動。
“確かめたい”という、たちの悪い欲。
「……行くか」
俺は立ち上がる。脚が床を掴む力は増していた。羽の震えも安定している。喰うたびにこの身体は確かに上へ積み上がっている。なら、次にやることは決まっている。
上へ。
地下二階へ。
俺は俺が支配者になったこの地下三階を、守るだけの存在で終わる気はない。
俺は――上に行く。
§
スロープへ向かう途中、俺はあえてゆっくり進んだ。
焦りは禁物だ。さっきのボス蝿頭が証明している。焦りは動きを粗くする。粗さは死を呼ぶ。俺は“狩り”でそれを学んだ。
壁を舐めるように進む。天井の陰を渡る。足場の弱い場所は避ける。羽音は殺す。全神経を、呪力の揺らぎに集中する。
スロープは、地下三階と二階を繋ぐ喉だ。
ここを通るとき、俺はいつも嫌な気分になる。上下の世界が混ざり合う場所。匂いも、気配も、淀み方が違う。境界に立つと、自分の存在が薄くなるような錯覚がある。
……だが今日は、違った。
境界に近づくほどに、空気が濃くなる。
ねっとりとした圧が、スロープの上から流れ込んでくる。
「……いるな」
断言できる。
地下二階に、何かがいる。
俺は途中で止まり、天井の割れ目に身体を押し込んだ。陰に隠れるというより、空間に溶け込む感覚。視界のノイズが、スッと消える。呪力の反応だけが浮かび上がる。
スロープの上。地下二階。
そこに――微弱な蝿頭の気配が、点々と散っている。
だが、その点々が、妙に遠慮している。
一定の距離を保って、同じ方向を避けている。
まるで、そこに“触れてはいけないもの”があるみたいに。
俺は気配の中心へ意識を伸ばす。
……来た。
さっき三階で感じた圧とは、違う。
もっと静かで、もっと冷たい。
音を立てないのに、皮膚の内側を撫でてくるような、嫌な質。
恐怖が、遅れてやってくる。
いや、正確には――
俺はそれを、初めて“恐怖だ”と認識した。
逃げろ、という本能の声が、腹の底から湧く。
だが同時に、喰え、という衝動も湧く。
両方がせめぎ合って、思考が裂けそうになる。
「……落ち着け」
俺は自分に言い聞かせる。
狩りだ。
狩りは、無謀じゃない。
確認。観察。選別。
そして、勝てると判断したら動く。
勝てないなら、退く。
それだけだ。
俺はスロープを上りきらず、二階の縁から、そっと覗いた。
地下二階は、三階より広い。通路が複雑で、部屋数も多い。天井は高いが、その分暗がりが深い。あちこちに崩れた壁があり、無数の死角がある。
残穢になりかけた蝿頭の死骸が、点々と転がっていた。
……いや、死骸というより、溶けた跡だ。
喰われた。
しかも、雑に。残骸が多い。喰い尽くすのではなく、つまみ食いして捨てたみたいな痕。
喉が鳴るような錯覚がする。
あれだけの数を、誰が?
俺は視線を滑らせた。
そして――見つけた。
通路の向こう、少し開けた空間。
そこに、影があった。
蝿頭のように小さくない。
人のように大きすぎない。
中間。
輪郭は、ぼんやりと歪んでいる。体表は湿っていて、皮膚の下に何かが蠢いている。頭部は――笑っているような、割れた口。そこから粘ついた糸が垂れて、床に黒い水たまりを作っていた。
最初に思ったのは、蜘蛛だった。
次に思ったのは、病室だった。
消毒液の匂いと腐敗が混ざったような、ありえない連想。
「……あいつが……?」
言葉にならない。
あれは蝿頭じゃない。
もっと上。
だが、特級みたいな分かりやすい“格”の圧でもない。
ただただ――異物だ。
その影が、ゆっくりと動き出した。
歩く、というより、這う。
地面に粘る糸を引きずりながら、滑るように進む。
そして突然、止まった。
頭部――いや、口が、こちらを向いた。
目もないはずなのに、見られたと分かった。
複眼でも、触覚でもない。
“気づかれた”という確信が、胃の奥を掴む。
空気が、一段重くなる。
「……っ」
俺は反射的に、身を引いた。
スロープの陰へ、滑り込む。
やばい。
そう思った瞬間――
びちゃり、と音がした。
スロープの壁に、何かが当たる。
粘ついた黒い液体が、コンクリに広がり、じゅう、と小さな音を立てて煙を上げた。
……腐食?
俺の脚が、その液体に触れかけた瞬間、皮膚の奥が焼けるように痛んだ。慌てて引く。触れていないのに痛い。呪力が拒絶反応を起こしている。
「……やばい」
あいつは、ここまで届く。
距離があっても攻撃できる。
俺は三階へ向かって後退した。羽を震わせることすら怖い。音じゃない。呪力の揺らぎを捕まえられたら終わる。そんな感覚が、背中を撫でる。
……逃げるのか?
悔しさが湧く。
だが、悔しさは生存本能に勝てない。
俺は狩りを続けてきた。
勝てる獲物だけを選んで、確実に積み上げてきた。
あいつは、今の俺の獲物じゃない。
その判断を下した瞬間、スロープの上から、また“音”がした。
びちゃ。
びちゃ。
粘液が床に落ちる音。
追ってきている。
しかも――速い。
俺は、初めて、背中が冷えるのを感じた。
人間だったころ、夜道で足音が近づいてきたときの、あの感覚に似ている。
理屈じゃない。
身体が拒絶している。
「……っ、くそ……!」
俺は羽を震わせ、全力で三階へ滑り降りた。
出来る限りの速度。
壁を蹴り、天井を掴み、落下し、また掴む。
スロープの途中、黒い粘液が壁を伝って流れてきた。避ける。触れたら終わる。呪力が、痛みを予告してくる。
やっとのことで三階へ戻り、俺は柱の影に潜り込んだ。
息はないのに、息切れみたいな感覚がある。
――静かにしろ。
――存在を薄くしろ。
俺は呪力を沈めた。
自分の輪郭を、空間に溶かす。
数秒。
数十秒。
スロープの上から、粘ついた音が聞こえた。
だが、二階の影は、三階には降りてこなかった。
降りてこれないのか。
降りる必要がないのか。
それすら、今は分からない。
ただ、確かなことが一つ。
地下二階は、もう“蝿頭の世界”じゃない。
俺は柱の影で、じっと考える。
あの影が現れたことで、二階の蝿頭たちは追われ、押し出され、三階へ雪崩れ込んだ。ボス蝿頭は、攻めてきたんじゃない。逃げてきた。群れを連れて、無理やりでも生き延びようとして。
だから動きが焦っていた。
だから統率が乱れていた。
「……なるほどな」
俺の腹の奥が、また空く。
恐怖で逃げたはずなのに、空腹が勝とうとしている。
あの影を喰ったら、どうなる?
俺は、どこまで行ける?
その問いが、俺の中で膨らむ。
だが、今はまだ早い。
俺は三階の空間を見回した。
ここは俺の狩場だ。俺の巣だ。俺の支配が届く場所だ。
守るだけじゃない。
整える。
逃げてくる蝿頭を喰う。
三階を満たして、俺の呪力を濃くする。
そして――次の段階へ進む。
俺は、壁に爪を立てた。
その感触が、以前より確かだ。硬いコンクリを削る感覚が、指先に伝わる。
強くなっている。
確実に。
「……待ってろよ、二階の影」
声に出して言ったつもりが、喉から漏れたのは羽音のような振動だけだった。だが、それでいい。言葉なんて、誰にも届かなくてもいい。
俺の意思は、俺が一番分かっている。
あの影は、俺にとって“壁”だ。
今の俺が超えられない、初めての明確な壁。
だからこそ――
超える。
狩りを積み上げて。
喰って。
変わって。
そして、上へ。
地下二階の闇が、まだ見ている気がした。
目がないはずなのに。
距離があるはずなのに。
まるで、次の獲物を待つみたいに。
俺は、その視線を背中に感じながら、三階の暗がりへ溶けていった。
狩りは、終わらない。
ただ――獲物の“格”が、変わっただけだ。
このくらいの文量の方が見やすいかな?