呪霊王におれはなる!!   作:トックー0322

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文量をちょっと増やしてみました。


第五話:壁

 

 

 地下三階に戻った静寂は、さっきまでの戦いが嘘みたいに重かった。

 

 壁のひび割れに染み込んだ呪力の残り香が、じっとりと空気に浮いている。蝿頭の群れが掻き乱した澱みが、ゆっくりと沈殿して、やがて俺の“匂い”だけが部屋を満たしていく。

 

 ……勝った。

 

 それは確かな事実だ。地下二階のボス蝿頭を喰って、群れを潰して、ここを守りきった。俺はもう、ただの蝿頭じゃない。支配者と呼ばれる側の存在になった。

 

 なのに。

 

 胸の奥――いや、呪力の核のもっと深い場所が、ざわざわと落ち着かない。

 

 勝利の余韻じゃない。歓喜でもない。

 

 不吉な予感だ。

 

「……逃げてきたんだよな、あいつは」

 

 俺は壁に爪を立てて、崩れかけた柱の影に身を寄せた。思考を整理する癖は、人間だった頃の名残なのだろう。こういうとき、理屈は俺を助けるとなんとなく理解していた。

 

 地下二階のボス蝿頭は、攻めてきたにしては雑だった。焦りが呪力に混ざっていた。群れもまとまりが悪かった。俺の縄張りを奪う“意思”が弱い。あいつらの中心にあったのは、征服欲じゃない。

 

 生存本能だ。

 

 俺は、さっき喰ったボス蝿頭の“味”を思い出す。呪力は濃かった。だが、重いだけじゃない。怯えと苛立ちが溶けていた。まるで背中を焼かれながら走ってきたみたいに。

 

 ……追われていた。

 

 地下二階に何かが現れた。あいつが縄張りを捨ててでも逃げ出すほどの何かが。

 

 それが、蝿頭の延長線上じゃないことだけは分かる。俺の感覚がそう言っている。さっきスロープの向こうから流れてきた気配――あれは、同族の小さい“羽音”とは別種の、もっと湿った圧だった。

 

 考えるほどに、腹の奥が空く。

 

 恐怖に似ているくせに、違う。

 飢えに似ているくせに、まだ違う。

 

 未知を前にしたときの、獣の衝動。

 “確かめたい”という、たちの悪い欲。

 

「……行くか」

 

 俺は立ち上がる。脚が床を掴む力は増していた。羽の震えも安定している。喰うたびにこの身体は確かに上へ積み上がっている。なら、次にやることは決まっている。

 

 上へ。

 

 地下二階へ。

 

 俺は俺が支配者になったこの地下三階を、守るだけの存在で終わる気はない。

 

 

 

 俺は――上に行く。

 

 

 

 

 

 

   §

 

 

 

 

 

 

 スロープへ向かう途中、俺はあえてゆっくり進んだ。

 

 焦りは禁物だ。さっきのボス蝿頭が証明している。焦りは動きを粗くする。粗さは死を呼ぶ。俺は“狩り”でそれを学んだ。

 

 壁を舐めるように進む。天井の陰を渡る。足場の弱い場所は避ける。羽音は殺す。全神経を、呪力の揺らぎに集中する。

 

 スロープは、地下三階と二階を繋ぐ喉だ。

 ここを通るとき、俺はいつも嫌な気分になる。上下の世界が混ざり合う場所。匂いも、気配も、淀み方が違う。境界に立つと、自分の存在が薄くなるような錯覚がある。

 

 ……だが今日は、違った。

 

 境界に近づくほどに、空気が濃くなる。

 ねっとりとした圧が、スロープの上から流れ込んでくる。

 

「……いるな」

 

 断言できる。

 地下二階に、何かがいる。

 

 俺は途中で止まり、天井の割れ目に身体を押し込んだ。陰に隠れるというより、空間に溶け込む感覚。視界のノイズが、スッと消える。呪力の反応だけが浮かび上がる。

 

 スロープの上。地下二階。

 そこに――微弱な蝿頭の気配が、点々と散っている。

 

 だが、その点々が、妙に遠慮している。

 一定の距離を保って、同じ方向を避けている。

 

 まるで、そこに“触れてはいけないもの”があるみたいに。

 

 俺は気配の中心へ意識を伸ばす。

 

 ……来た。

 

 さっき三階で感じた圧とは、違う。

 もっと静かで、もっと冷たい。

 音を立てないのに、皮膚の内側を撫でてくるような、嫌な質。

 

 恐怖が、遅れてやってくる。

 

 いや、正確には――

 

 俺はそれを、初めて“恐怖だ”と認識した。

 

 逃げろ、という本能の声が、腹の底から湧く。

 だが同時に、喰え、という衝動も湧く。

 

 両方がせめぎ合って、思考が裂けそうになる。

 

「……落ち着け」

 

 俺は自分に言い聞かせる。

 狩りだ。

 狩りは、無謀じゃない。

 

 確認。観察。選別。

 そして、勝てると判断したら動く。

 勝てないなら、退く。

 

 それだけだ。

 

 俺はスロープを上りきらず、二階の縁から、そっと覗いた。

 

 地下二階は、三階より広い。通路が複雑で、部屋数も多い。天井は高いが、その分暗がりが深い。あちこちに崩れた壁があり、無数の死角がある。

 

 残穢になりかけた蝿頭の死骸が、点々と転がっていた。

 

 ……いや、死骸というより、溶けた跡だ。

 喰われた。

 

 しかも、雑に。残骸が多い。喰い尽くすのではなく、つまみ食いして捨てたみたいな痕。

 

 喉が鳴るような錯覚がする。

 あれだけの数を、誰が?

 

 俺は視線を滑らせた。

 そして――見つけた。

 

 通路の向こう、少し開けた空間。

 そこに、影があった。

 

 蝿頭のように小さくない。

 人のように大きすぎない。

 中間。

 

 輪郭は、ぼんやりと歪んでいる。体表は湿っていて、皮膚の下に何かが蠢いている。頭部は――笑っているような、割れた口。そこから粘ついた糸が垂れて、床に黒い水たまりを作っていた。

 

 最初に思ったのは、蜘蛛だった。

 次に思ったのは、病室だった。

 消毒液の匂いと腐敗が混ざったような、ありえない連想。

 

「……あいつが……?」

 

 言葉にならない。

 

 あれは蝿頭じゃない。

 もっと上。

 だが、特級みたいな分かりやすい“格”の圧でもない。

 

 ただただ――異物だ。

 

 その影が、ゆっくりと動き出した。

 

 歩く、というより、這う。

 地面に粘る糸を引きずりながら、滑るように進む。

 

 そして突然、止まった。

 

 頭部――いや、口が、こちらを向いた。

 

 目もないはずなのに、見られたと分かった。

 複眼でも、触覚でもない。

 “気づかれた”という確信が、胃の奥を掴む。

 

 空気が、一段重くなる。

 

「……っ」

 

 俺は反射的に、身を引いた。

 スロープの陰へ、滑り込む。

 

 やばい。

 そう思った瞬間――

 

 びちゃり、と音がした。

 

 スロープの壁に、何かが当たる。

 粘ついた黒い液体が、コンクリに広がり、じゅう、と小さな音を立てて煙を上げた。

 

 ……腐食?

 

 俺の脚が、その液体に触れかけた瞬間、皮膚の奥が焼けるように痛んだ。慌てて引く。触れていないのに痛い。呪力が拒絶反応を起こしている。

 

「……やばい」

 

 あいつは、ここまで届く。

 距離があっても攻撃できる。

 

 俺は三階へ向かって後退した。羽を震わせることすら怖い。音じゃない。呪力の揺らぎを捕まえられたら終わる。そんな感覚が、背中を撫でる。

 

 ……逃げるのか?

 

 悔しさが湧く。

 だが、悔しさは生存本能に勝てない。

 

 俺は狩りを続けてきた。

 勝てる獲物だけを選んで、確実に積み上げてきた。

 

 あいつは、今の俺の獲物じゃない。

 

 その判断を下した瞬間、スロープの上から、また“音”がした。

 

 びちゃ。

 びちゃ。

 粘液が床に落ちる音。

 

 追ってきている。

 

 しかも――速い。

 

 俺は、初めて、背中が冷えるのを感じた。

 人間だったころ、夜道で足音が近づいてきたときの、あの感覚に似ている。

 

 理屈じゃない。

 身体が拒絶している。

 

「……っ、くそ……!」

 

 俺は羽を震わせ、全力で三階へ滑り降りた。

 出来る限りの速度。

 壁を蹴り、天井を掴み、落下し、また掴む。

 

 スロープの途中、黒い粘液が壁を伝って流れてきた。避ける。触れたら終わる。呪力が、痛みを予告してくる。

 

 やっとのことで三階へ戻り、俺は柱の影に潜り込んだ。

 息はないのに、息切れみたいな感覚がある。

 

 ――静かにしろ。

 ――存在を薄くしろ。

 

 俺は呪力を沈めた。

 自分の輪郭を、空間に溶かす。

 

 数秒。

 数十秒。

 

 スロープの上から、粘ついた音が聞こえた。

 だが、二階の影は、三階には降りてこなかった。

 

 降りてこれないのか。

 降りる必要がないのか。

 

 それすら、今は分からない。

 

 ただ、確かなことが一つ。

 

 地下二階は、もう“蝿頭の世界”じゃない。

 

 俺は柱の影で、じっと考える。

 あの影が現れたことで、二階の蝿頭たちは追われ、押し出され、三階へ雪崩れ込んだ。ボス蝿頭は、攻めてきたんじゃない。逃げてきた。群れを連れて、無理やりでも生き延びようとして。

 

 だから動きが焦っていた。

 だから統率が乱れていた。

 

「……なるほどな」

 

 俺の腹の奥が、また空く。

 

 恐怖で逃げたはずなのに、空腹が勝とうとしている。

 あの影を喰ったら、どうなる?

 俺は、どこまで行ける?

 

 その問いが、俺の中で膨らむ。

 

 だが、今はまだ早い。

 

 俺は三階の空間を見回した。

 ここは俺の狩場だ。俺の巣だ。俺の支配が届く場所だ。

 

 守るだけじゃない。

 整える。

 

 逃げてくる蝿頭を喰う。

 三階を満たして、俺の呪力を濃くする。

 そして――次の段階へ進む。

 

 俺は、壁に爪を立てた。

 その感触が、以前より確かだ。硬いコンクリを削る感覚が、指先に伝わる。

 

 強くなっている。

 確実に。

 

「……待ってろよ、二階の影」

 

 声に出して言ったつもりが、喉から漏れたのは羽音のような振動だけだった。だが、それでいい。言葉なんて、誰にも届かなくてもいい。

 

 俺の意思は、俺が一番分かっている。

 

 あの影は、俺にとって“壁”だ。

 今の俺が超えられない、初めての明確な壁。

 

 だからこそ――

 超える。

 

 狩りを積み上げて。

 喰って。

 変わって。

 

 そして、上へ。

 

 地下二階の闇が、まだ見ている気がした。

 目がないはずなのに。

 距離があるはずなのに。

 

 まるで、次の獲物を待つみたいに。

 

 俺は、その視線を背中に感じながら、三階の暗がりへ溶けていった。

 

 狩りは、終わらない。

 ただ――獲物の“格”が、変わっただけだ。

 

 

 

 

 




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