呪霊王におれはなる!!   作:トックー0322

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第六話:巣

 

 

 地下三階の空気は、俺の呪力で重くなっていた。

 

 壁のひび割れ、床に残った乾ききらない黒い染み、天井から垂れる水の滴――その一つ一つが、俺の存在を受け入れはじめている。ここに“住む”という感覚が、ようやく分かってきた。

 

 人間だった頃の俺は、家に帰れば靴を脱いで、服を脱いで、ベッドに倒れ込むだけだった。安心はそこにあるものだと思っていた。

 でも今の俺にとっての安心は、柔らかい布団でも閉じきった部屋の鍵でもない。

 

 逃げ場があること。

 隠れ場所があること。

 そして、俺がこの空間の頂点に立っていること。

 

 それだけだ。

 

 地下二階の“影”を見てから、地下三階は変わった。

 いや、俺が変わった。

 

 あの粘ついた圧を思い出すたびに、体の内側に冷たい針が刺さるような感覚が走る。触れていないのに痛い。近づいていないのに焼ける。あれは本能が告げる死の匂いだった。

 

 だが同時に――あの影は、俺の中の“飢え”を燃やした。

 

 喰えば届く。

 喰えば越えられる。

 喰えば、あの圧の向こう側へ行ける。

 

 その確信が、俺を落ち着かなくさせる。

 

「……まずは、準備だ」

 

 俺は壁を這い、天井の梁に身を潜めた。そこは三階の中央に近い広間で、遮蔽物が多い。通路が四方に伸びている。逃げるにも追うにも便利な場所だ。

 

 ここを、俺の“巣”にする。

 

 巣――そう呼ぶと、ひどく嫌な響きがする。だが、今の俺はそれを否定しない。俺はもう人間じゃない。気持ちの悪い生き物になったのだ。気持ちの悪い生き方をするしかない。

 

 そして、その巣に――今日も“餌”が来る。

 

 羽音がする。

 小さい。弱い。焦っている。

 

 スロープの方向から、蝿頭が一体、ふらふらと降りてくる。呪力が薄い。身体の一部が溶けたように欠けている。二階から逃げてきたやつだ。

 

 俺は動かない。

 ただ、見下ろす。

 

 蝿頭は広間に入った途端、立ち止まった。俺の匂いに気づいたのだろう。羽が震え、壁際へ寄る。逃げ道を探す目つき――複眼なのに、その焦りが分かるのが可笑しかった。

 

 姿を見せろ。

 でも、近づくな。

 

 あいつの体はそう叫んでいる。

 

 俺は、あえて姿を見せた。梁から、ゆっくりと降りる。羽音を抑え、脚の先だけで床に触れる。

 蝿頭が、びくりと跳ねた。

 

 それだけで、十分だった。

 

 俺は距離を詰めない。

 追い詰めない。

 ただ、通路の出口へ身体を寄せる。

 

 逃げ場を――“一つだけ”残す。

 

 蝿頭が、そこへ走る。

 

 俺は、そのタイミングを待っていた。

 

 出口の狭い通路に入り込んだ瞬間、飛びかかる。

 通路は狭い。横に避けられない。逃げられない。

 

 口器を突き立てる。

 呪力が流れ込む。焦燥が溶け込む。

 

 あの影に追われた恐怖が、ほんの少し混ざっている。

 それは苦くて、気持ち悪くて――なのに、どこか癖になる。

 

「……二階の匂いだ」

 

 喰い終わったあと、俺はしばらく動かなかった。体内に残る“逃走の味”を舌で転がすみたいに、呪力の余韻を確かめる。

 

 こういうものを喰い続ければ、俺はもっと二階の影に近づくのかもしれない。

 影の圧に慣れ、影の毒に耐え、影を喰うための器になる。

 

 俺は、自然と笑いたくなった。

 笑えない口でも、心の奥で笑う。

 

 ――俺は、餌を“待てる”ようになっている。

 

 狩りは、ただ飛びついて噛みつくだけじゃない。

 環境を作る。導く。仕組む。

 そして、確実に喰う。

 

 それが“支配者”の狩りだ。

 

 

 

 

 

   §

 

 

 

 

 

 逃げてくる蝿頭は、一体だけじゃない。

 

 日があるのかないのか分からない地下で、それでも時間は流れている。

 しばらくすると、また羽音が増えた。

 

 二体。三体。

 群れとは呼べない、小さな集団。

 

 怯えた蝿頭が、互いに距離を保ちながら降りてくる。二階のボスを失った今、まとまる中心がいない。皆が皆、自分の命だけを抱えて落ちてくる。

 

 その様子は、ひどく滑稽で――

 同時に、どこか哀れだった。

 

 俺はその“哀れな存在”を、喰った。

 

 まず一体。

 次にもう一体。

 残りは逃げようとするが、逃げ道は俺が押さえている。通路の出口を塞ぎ、代わりに“逃げられるように見える”隙間へ追い込む。

 

 そこには、崩れた鉄骨がある。

 羽が引っかかる。脚が絡まる。

 焦れば焦るほど動けなくなる。

 

 俺は、焦らず喰らう。

 一体ずつ、丁寧に。

 

 喰いながら、俺は気づく。

 喰う速度が上がっている。

 口器の動きが滑らかだ。

 呪力の吸い込み方が、無駄なく、速い。

 

 そして、身体のどこかが――変わりはじめている

 

 複眼が、さらに増えた。

 視界が広がるというより、世界の“揺らぎ”が見えるようになった。

 空気の震え、呪力の流れ、恐怖の濃淡。

 

 蝿頭は、ただの虫じゃない。

 呪霊、負の感情の塊だ。

 なら、その流れに敏感であるほど、上に行ける。

 

「……まだ足りない」

 

 喰っても喰っても、足りない。

 

 腹が満たされる感覚はある。

 だが、その直後に、もっと大きい穴が開く。

 

 埋めたい。

 塞ぎたい。

 もっと喰いたい。

 

 俺は自分の脚を見る。以前より太い。節が増え、掴む力が増した。

 羽を見る。硬くなっている。音が減った。

 身体の輪郭も、わずかに“人”へ寄っている気がする。

 

 気持ち悪い。

 でも、それがいい。

 

 俺は、俺のままで、俺じゃなくなっていく。

 

 それが進化なら、喜ぶべきだ。

 

 

 

 

 

   §

 

 

 

 

 

 ただ、良いことばかりじゃない。

 

 蝿頭が増えるほど、三階の空気は騒がしくなる。

 騒がしさは、外に漏れる。

 

 俺は何度もスロープの方へ意識を伸ばし、二階から流れてくる圧を確かめた。

 あの影は、まだ二階にいる。

 

 ……いや。

 

 正確には、“いる時”と“いない時”がある。

 

 あの圧はずっと同じ場所に留まっているわけじゃない。二階の通路を移動している。

 そして、移動するたびに、二階側の蝿頭の反応が変わる。

 

 怯え、散り、消える。

 気配が薄くなる。

 それはつまり――喰われている。

 

 そして、たまに。

 

 圧が、スロープの縁まで近づくことがある。

 三階へ降りては来ない。

 だが、境界のすぐ手前まで来て、じっと“覗く”ような感覚。

 

 その時、俺の体内が凍る。

 

 目がないのに見られている。

 耳がないのに聞かれている。

 皮膚がないのに触れられている。

 

 俺は息を潜める。

 呪力を沈める。

 三階の蝿頭たちも、何かを感じ取って黙る。

 

 その沈黙の中で、俺は思う。

 

 ――あいつは、三階を知らないわけじゃない。

 ――ただ、今は降りる理由がないだけだ。

 

 もし降りてきたら?

 

 俺は勝てるのか?

 

 答えは、まだ出ない。

 だからこそ、俺は急ぐべきなのに――急げない。

 

 焦れば死ぬ。

 焦りは粗さを生む。

 粗さはあの影に喰われる。

 

 矛盾が、俺の中で膨らむ。

 

 そんな時だった。

 

 スロープの上から、今までとは違う“匂い”が落ちてきた。

 

 恐怖だけじゃない。

 苛立ちでもない。

 もっと、粘り気のある負の感情――湿った憎悪のような匂い。

 

 俺は身構える。

 逃げてくる気配じゃない。

 

 重い。

 だが、影ほどじゃない。

 

 やがて、二階から降りてきたのは――蝿頭だった。

 ただし、普通の蝿頭じゃない。

 

 身体が、一回り大きい。

 羽が二対ある。

 脚の節が異様に長く、床を滑るように動く。

 

 そして、顔――複眼の配置が、どこか歪だ。

 不自然なほど“前”を向いている。

 

「……変異体、か?」

 

 俺は直感した。

 あいつは、二階の影から逃げる過程で、何かを喰ったのか、何かに触れたのか。

 恐怖だけでここまで形が変わるとは思えない。

 

 変異体の蝿頭は、俺を見るなり止まった。

 逃げない。

 怯えない。

 

 代わりに、粘ついた呪力を吐き出すように、じりじりと近づいてくる。

 

 ――狩る気だ。

 

 俺は、腹の奥が熱くなるのを感じた。

 久しぶりの“まともな獲物”。

 数を喰う作業じゃない。

 技術が要る狩り。

 

「……いい」

 

 俺はあえて後退する。

 通路へ誘導する。

 

 変異体はついてくる。

 羽音が少ない。動きが滑らかで、無駄がない。

 このまま正面でぶつかれば、俺でも傷を負うかもしれない。

 

 だから――仕組む。

 

 通路の曲がり角。

 崩れた柱。

 床に落ちた鉄筋。

 

 俺はそれらを“地形”として使う。

 壁を蹴り、天井へ。

 変異体が追い上げてきた瞬間、鉄筋の隙間を通るように誘導する。

 

 変異体の脚が、鉄筋に絡む。

 一瞬、動きが止まる。

 

 その瞬間だけでいい。

 

 俺は背後へ回り、羽の付け根を噛み切った。

 変異体が暴れる。壁にぶつかる。呪力が散る。

 

 痛みが走る。

 脚に裂け目が入った。

 だが、致命傷じゃない。

 

 俺は止まらない。

 口器を深く突き立てる。

 

 呪力が、流れ込む。

 

 ――湿った憎悪。

 ――焦燥。

 ―そして、ほんのわずか。

 

 腐食する感覚。

 

 あの影の粘液に似た、焼けるような質。

 それが、変異体の中に混じっていた。

 

「……やっぱり、触れてるな」

 

 俺は喰い尽くしながら、ぞくりとした。

 怖い。

 だが、同時に――嬉しい。

 

 この“質”を取り込めば、俺は影に近づける。

 耐えられる身体になれる。

 影の毒を毒として終わらせず、力に変えられる。

 

 喰い終わったとき、俺の身体の奥で、何かが()()()音がした。

 

 骨がないはずなのに、骨が組み替わるような感覚。

 肉がないはずなのに、肉が盛り上がるような感覚。

 

 脚の裂け目が、ゆっくりと塞がっていく。

 ただ治るのではない。

 治りながら、硬くなる。

 強くなる。

 

「……そうか」

 

 俺は理解した。

 

 俺は、ただ蝿頭を喰って積み上げてきた。

 だが、次の段階へ行くには、同族の数だけじゃ足りない。

 “質”が要る。

 

 二階の影に触れた呪力。

 それを、少しずつ取り込む必要がある。

 

 つまり――

 これから三階へ降りてくるのは、ただの餌じゃない。

 

 影の圧に晒され、変異し、歪み、そして“影の味”を含んだ餌だ。

 

 俺は、ゆっくりとスロープの方を見る。

 

 上から、微かな圧が流れてきた。

 あの影が、また境界へ近づいている。

 

 俺の中の呪力が、ぞわりと揺れた。

 逃げろ、と囁く本能。

 喰え、と叫ぶ飢え。

 

 どちらも、嘘じゃない。

 

「……まだだ」

 

 俺は天井へ上がり、広間の中央に戻った。

 巣を整える。

 餌を管理する。

 そして、影の味を少しずつ喰って、体を作り替える。

 

 それが、俺の“上層”への道だ。

 

 地下三階の支配者として、俺は初めて、自分が成長の節目にいることを、はっきり感じていた。

 

 上では、影が這い回っている。

 下では、俺が巣を広げている。

 

 境界は薄くなっている気がした。

 

 あの影が、いつか降りてくるのか。

 それとも、俺が上へ行くのか。

 

 どちらが先かは分からない。

 

 ただ一つ、確かなことがある。

 

 俺はもう、逃げるだけの存在じゃない。

 逃げた先で、巣を作り、餌を待ち、狩りを仕組む存在になった。

 

 なら――次は。

 

 次は、追う側に回る番だ。

 

 俺は暗がりの中で、静かに羽を震わせた。

 その音は、誰にも聞こえない。

 だが、俺の中の飢えだけが、確かに応えた。

 

 

 

 

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