地下三階の空気は、俺の呪力で重くなっていた。
壁のひび割れ、床に残った乾ききらない黒い染み、天井から垂れる水の滴――その一つ一つが、俺の存在を受け入れはじめている。ここに“住む”という感覚が、ようやく分かってきた。
人間だった頃の俺は、家に帰れば靴を脱いで、服を脱いで、ベッドに倒れ込むだけだった。安心はそこにあるものだと思っていた。
でも今の俺にとっての安心は、柔らかい布団でも閉じきった部屋の鍵でもない。
逃げ場があること。
隠れ場所があること。
そして、俺がこの空間の頂点に立っていること。
それだけだ。
地下二階の“影”を見てから、地下三階は変わった。
いや、俺が変わった。
あの粘ついた圧を思い出すたびに、体の内側に冷たい針が刺さるような感覚が走る。触れていないのに痛い。近づいていないのに焼ける。あれは本能が告げる死の匂いだった。
だが同時に――あの影は、俺の中の“飢え”を燃やした。
喰えば届く。
喰えば越えられる。
喰えば、あの圧の向こう側へ行ける。
その確信が、俺を落ち着かなくさせる。
「……まずは、準備だ」
俺は壁を這い、天井の梁に身を潜めた。そこは三階の中央に近い広間で、遮蔽物が多い。通路が四方に伸びている。逃げるにも追うにも便利な場所だ。
ここを、俺の“巣”にする。
巣――そう呼ぶと、ひどく嫌な響きがする。だが、今の俺はそれを否定しない。俺はもう人間じゃない。気持ちの悪い生き物になったのだ。気持ちの悪い生き方をするしかない。
そして、その巣に――今日も“餌”が来る。
羽音がする。
小さい。弱い。焦っている。
スロープの方向から、蝿頭が一体、ふらふらと降りてくる。呪力が薄い。身体の一部が溶けたように欠けている。二階から逃げてきたやつだ。
俺は動かない。
ただ、見下ろす。
蝿頭は広間に入った途端、立ち止まった。俺の匂いに気づいたのだろう。羽が震え、壁際へ寄る。逃げ道を探す目つき――複眼なのに、その焦りが分かるのが可笑しかった。
姿を見せろ。
でも、近づくな。
あいつの体はそう叫んでいる。
俺は、あえて姿を見せた。梁から、ゆっくりと降りる。羽音を抑え、脚の先だけで床に触れる。
蝿頭が、びくりと跳ねた。
それだけで、十分だった。
俺は距離を詰めない。
追い詰めない。
ただ、通路の出口へ身体を寄せる。
逃げ場を――“一つだけ”残す。
蝿頭が、そこへ走る。
俺は、そのタイミングを待っていた。
出口の狭い通路に入り込んだ瞬間、飛びかかる。
通路は狭い。横に避けられない。逃げられない。
口器を突き立てる。
呪力が流れ込む。焦燥が溶け込む。
あの影に追われた恐怖が、ほんの少し混ざっている。
それは苦くて、気持ち悪くて――なのに、どこか癖になる。
「……二階の匂いだ」
喰い終わったあと、俺はしばらく動かなかった。体内に残る“逃走の味”を舌で転がすみたいに、呪力の余韻を確かめる。
こういうものを喰い続ければ、俺はもっと二階の影に近づくのかもしれない。
影の圧に慣れ、影の毒に耐え、影を喰うための器になる。
俺は、自然と笑いたくなった。
笑えない口でも、心の奥で笑う。
――俺は、餌を“待てる”ようになっている。
狩りは、ただ飛びついて噛みつくだけじゃない。
環境を作る。導く。仕組む。
そして、確実に喰う。
それが“支配者”の狩りだ。
§
逃げてくる蝿頭は、一体だけじゃない。
日があるのかないのか分からない地下で、それでも時間は流れている。
しばらくすると、また羽音が増えた。
二体。三体。
群れとは呼べない、小さな集団。
怯えた蝿頭が、互いに距離を保ちながら降りてくる。二階のボスを失った今、まとまる中心がいない。皆が皆、自分の命だけを抱えて落ちてくる。
その様子は、ひどく滑稽で――
同時に、どこか哀れだった。
俺はその“哀れな存在”を、喰った。
まず一体。
次にもう一体。
残りは逃げようとするが、逃げ道は俺が押さえている。通路の出口を塞ぎ、代わりに“逃げられるように見える”隙間へ追い込む。
そこには、崩れた鉄骨がある。
羽が引っかかる。脚が絡まる。
焦れば焦るほど動けなくなる。
俺は、焦らず喰らう。
一体ずつ、丁寧に。
喰いながら、俺は気づく。
喰う速度が上がっている。
口器の動きが滑らかだ。
呪力の吸い込み方が、無駄なく、速い。
そして、身体のどこかが――変わりはじめている。
複眼が、さらに増えた。
視界が広がるというより、世界の“揺らぎ”が見えるようになった。
空気の震え、呪力の流れ、恐怖の濃淡。
蝿頭は、ただの虫じゃない。
呪霊、負の感情の塊だ。
なら、その流れに敏感であるほど、上に行ける。
「……まだ足りない」
喰っても喰っても、足りない。
腹が満たされる感覚はある。
だが、その直後に、もっと大きい穴が開く。
埋めたい。
塞ぎたい。
もっと喰いたい。
俺は自分の脚を見る。以前より太い。節が増え、掴む力が増した。
羽を見る。硬くなっている。音が減った。
身体の輪郭も、わずかに“人”へ寄っている気がする。
気持ち悪い。
でも、それがいい。
俺は、俺のままで、俺じゃなくなっていく。
それが進化なら、喜ぶべきだ。
§
ただ、良いことばかりじゃない。
蝿頭が増えるほど、三階の空気は騒がしくなる。
騒がしさは、外に漏れる。
俺は何度もスロープの方へ意識を伸ばし、二階から流れてくる圧を確かめた。
あの影は、まだ二階にいる。
……いや。
正確には、“いる時”と“いない時”がある。
あの圧はずっと同じ場所に留まっているわけじゃない。二階の通路を移動している。
そして、移動するたびに、二階側の蝿頭の反応が変わる。
怯え、散り、消える。
気配が薄くなる。
それはつまり――喰われている。
そして、たまに。
圧が、スロープの縁まで近づくことがある。
三階へ降りては来ない。
だが、境界のすぐ手前まで来て、じっと“覗く”ような感覚。
その時、俺の体内が凍る。
目がないのに見られている。
耳がないのに聞かれている。
皮膚がないのに触れられている。
俺は息を潜める。
呪力を沈める。
三階の蝿頭たちも、何かを感じ取って黙る。
その沈黙の中で、俺は思う。
――あいつは、三階を知らないわけじゃない。
――ただ、今は降りる理由がないだけだ。
もし降りてきたら?
俺は勝てるのか?
答えは、まだ出ない。
だからこそ、俺は急ぐべきなのに――急げない。
焦れば死ぬ。
焦りは粗さを生む。
粗さはあの影に喰われる。
矛盾が、俺の中で膨らむ。
そんな時だった。
スロープの上から、今までとは違う“匂い”が落ちてきた。
恐怖だけじゃない。
苛立ちでもない。
もっと、粘り気のある負の感情――湿った憎悪のような匂い。
俺は身構える。
逃げてくる気配じゃない。
重い。
だが、影ほどじゃない。
やがて、二階から降りてきたのは――蝿頭だった。
ただし、普通の蝿頭じゃない。
身体が、一回り大きい。
羽が二対ある。
脚の節が異様に長く、床を滑るように動く。
そして、顔――複眼の配置が、どこか歪だ。
不自然なほど“前”を向いている。
「……変異体、か?」
俺は直感した。
あいつは、二階の影から逃げる過程で、何かを喰ったのか、何かに触れたのか。
恐怖だけでここまで形が変わるとは思えない。
変異体の蝿頭は、俺を見るなり止まった。
逃げない。
怯えない。
代わりに、粘ついた呪力を吐き出すように、じりじりと近づいてくる。
――狩る気だ。
俺は、腹の奥が熱くなるのを感じた。
久しぶりの“まともな獲物”。
数を喰う作業じゃない。
技術が要る狩り。
「……いい」
俺はあえて後退する。
通路へ誘導する。
変異体はついてくる。
羽音が少ない。動きが滑らかで、無駄がない。
このまま正面でぶつかれば、俺でも傷を負うかもしれない。
だから――仕組む。
通路の曲がり角。
崩れた柱。
床に落ちた鉄筋。
俺はそれらを“地形”として使う。
壁を蹴り、天井へ。
変異体が追い上げてきた瞬間、鉄筋の隙間を通るように誘導する。
変異体の脚が、鉄筋に絡む。
一瞬、動きが止まる。
その瞬間だけでいい。
俺は背後へ回り、羽の付け根を噛み切った。
変異体が暴れる。壁にぶつかる。呪力が散る。
痛みが走る。
脚に裂け目が入った。
だが、致命傷じゃない。
俺は止まらない。
口器を深く突き立てる。
呪力が、流れ込む。
――湿った憎悪。
――焦燥。
―そして、ほんのわずか。
腐食する感覚。
あの影の粘液に似た、焼けるような質。
それが、変異体の中に混じっていた。
「……やっぱり、触れてるな」
俺は喰い尽くしながら、ぞくりとした。
怖い。
だが、同時に――嬉しい。
この“質”を取り込めば、俺は影に近づける。
耐えられる身体になれる。
影の毒を毒として終わらせず、力に変えられる。
喰い終わったとき、俺の身体の奥で、何かが
骨がないはずなのに、骨が組み替わるような感覚。
肉がないはずなのに、肉が盛り上がるような感覚。
脚の裂け目が、ゆっくりと塞がっていく。
ただ治るのではない。
治りながら、硬くなる。
強くなる。
「……そうか」
俺は理解した。
俺は、ただ蝿頭を喰って積み上げてきた。
だが、次の段階へ行くには、同族の数だけじゃ足りない。
“質”が要る。
二階の影に触れた呪力。
それを、少しずつ取り込む必要がある。
つまり――
これから三階へ降りてくるのは、ただの餌じゃない。
影の圧に晒され、変異し、歪み、そして“影の味”を含んだ餌だ。
俺は、ゆっくりとスロープの方を見る。
上から、微かな圧が流れてきた。
あの影が、また境界へ近づいている。
俺の中の呪力が、ぞわりと揺れた。
逃げろ、と囁く本能。
喰え、と叫ぶ飢え。
どちらも、嘘じゃない。
「……まだだ」
俺は天井へ上がり、広間の中央に戻った。
巣を整える。
餌を管理する。
そして、影の味を少しずつ喰って、体を作り替える。
それが、俺の“上層”への道だ。
地下三階の支配者として、俺は初めて、自分が成長の節目にいることを、はっきり感じていた。
上では、影が這い回っている。
下では、俺が巣を広げている。
境界は薄くなっている気がした。
あの影が、いつか降りてくるのか。
それとも、俺が上へ行くのか。
どちらが先かは分からない。
ただ一つ、確かなことがある。
俺はもう、逃げるだけの存在じゃない。
逃げた先で、巣を作り、餌を待ち、狩りを仕組む存在になった。
なら――次は。
次は、追う側に回る番だ。
俺は暗がりの中で、静かに羽を震わせた。
その音は、誰にも聞こえない。
だが、俺の中の飢えだけが、確かに応えた。