地下三階の空気が、俺のものになってどれくらい経ったのか――もう分からない。
この世界に“朝”も“夜”もない。あるのは、呪力の濃淡と、腹の奥が満ちたり欠けたりする感覚だけだ。
それでも、俺には確かな尺度ができていた。
喰った数。
喰った質。
そして、食った感覚。
最初は蝿頭一体を喰うだけで、吐き気みたいな嫌悪が全身を走った。
次は、喰う前に震えが来た。
その次は、喰い終わった後に、ほんの少しの満足感が残った。
そして今――
喰うことは、俺にとって呼吸みたいなものになった。
地下二階の“影”を見てから、三階に落ちてくる蝿頭たちは変わった。
ただ怯え、ただ逃げるだけの蝿頭は減った。代わりに、歪んだ蝿頭が増えた。
羽がやけに硬い個体。
脚の関節が増えて、蜘蛛のように這う個体。
口器が太く短くなって、噛みつくというより削る個体。
呪力の匂いに、あの影の粘つきが混じった個体。
最初は怖かった。
あの“毒”を喰ったら、俺の身体が壊れるんじゃないかと。
でも、俺は学んだ。
毒は毒のままじゃない。
薄めて、慣らして、取り込めば――力になる。
俺は巣を整えた。
逃げてきた蝿頭が集まりやすい場所に、わざと隙間を作った。
崩れた壁の陰、狭い通路の袋小路、天井の梁の裏――逃げ込めるように見せて、実際には逃げられない“餌箱”をいくつも作った。
餌が集まれば、俺が狩る。
狩られた蝿頭の呪力で、巣が濃くなる。
巣が濃くなれば、さらに餌が引き寄せられる。
この三階は、いつの間にか俺を中心に回る一種の“生態系”になっていた。
そして俺自身も、蝿頭という名前の枠から、じわじわと逸脱していった。
複眼は産まれた時の倍以上になった。
複眼が増えたことにより、視界が“面”になった。暗闇でも輪郭が見える。呪力の揺れが線として走る。恐怖がどこに溜まっているかが、匂いじゃなく“色”みたいに分かる瞬間すらある。
脚は太く長く、節は頑丈に。壁を削る爪が硬質化し、鉄骨に引っかけても折れなくなった。
羽は静かになった。全力で羽ばたかせても、昔みたいにバタついて存在を知らせない。羽は推進装置であり、制御装置であり、隠密の道具になった。
そして、何より――
俺の中の呪力が、変わった。
同族を喰って得た呪力は、軽い。量は増えるが、質は似通っている。
だが影の味を含んだ変異体を喰うと、呪力の奥に“刺”が混じる。
焼けるような腐食。
肌の内側を撫でる冷たさ。
触れただけで輪郭を削いでくる、あの粘ついた攻撃の気配。
最初は痛かった。
喰った瞬間、腹の奥が熱を持ち、脚の先が痺れた。
だが、回数を重ねるうちに、痛みは“違和感”になり、違和感は“慣れ”になり、慣れは“理解”になった。
理解できれば、制御できる。
俺は、巣の奥で何度も試した。
呪力を一点に集める。
粘ついた質だけを引き出す。
それを、床のひび割れに落とす。
びちゃり。
黒い雫が落ち、コンクリがじゅう、と小さく鳴る。
……腐食している。
俺は、笑いたくなった。
あの影の武器が、俺の中に芽を出しはじめている。
完全じゃない。威力も弱い。だが確かに――“同じもの”を出せる。
つまり、俺はもう、あの影の前で無力な餌じゃない。
「……そろそろだ」
そう思った瞬間、身体の奥が静かに震えた。
空腹でも恐怖でもない。
決意のような、重たい振動。
今すぐあの影を喰らえという本能。
だが、俺は急がなかった。
影に挑むのは、勝てると確信してからだ。
俺の狩りは、ずっとそうだった。勝てる獲物だけを選び、確実に喰ってきた。
だから最後に必要なのは、“勢い”じゃない。
確認だ。
俺はスロープの下、境界の手前に巣を広げた。
二階の圧が降りてくる一歩手前。
そこに身を潜め、何度も何度も、上から流れ落ちる空気を味わった。
あの影が近づくと、空気が変わる。
湿った圧が濃くなり、床が冷たくなる。
三階の蝿頭たちは息を潜め、羽音を殺す。
そして、俺の中の呪力も、勝手に固まる。
“見られている”感覚。
それに、どれだけ耐えられるか。
最初は数秒で限界だった。呪力を沈めても、輪郭が削られるような恐怖が来て、俺は巣の奥へ逃げた。
次は、十秒。
次は、三十秒。
次は、一分。
そして今日は――
影が境界へ近づいてきても、俺は逃げなかった。
震えはある。
嫌悪もある。
だが、飲み込まれない。
俺は天井の割れ目に張り付き、上を見た。
二階の闇が、じっとこちらを覗いている気配がする。
目はない。
顔も曖昧だ。
それでも確かに、そこには“意志”がある。
狩る意志。
壊す意志。
支配する意志。
そして、なにより――
俺を餌として認識する意志。
腹の奥が熱くなる。
それは怒りではない。
屈辱でもない。
同じ“支配者”としての、矜持。
「……見てろよ」
俺は、喉の奥で振動を起こした。言葉にはならないが、意思は伝わる気がした。
俺はここにいる。
逃げない。
喰われない。
お前を喰う。
影は、それに答えない。
ただ、粘ついた気配が揺れた。
――相手が、試しに落としてきた。
びちゃり。
黒い雫が、スロープの壁を伝って落ちた。
三階の床に当たった瞬間、じゅう、と腐食音。
以前なら、それだけで俺は引いた。
だが今は、違う。
俺は呪力を集め、脚の先へ流す。
硬質化した爪の表面に、粘ついた質を薄く纏わせる。
そして、雫に触れた。
――痛い。
それでも、耐えられる痛みだ。
爪の表面が、じわりと溶ける。
だが溶けきる前に、俺は呪力で固め直す。
溶ける、固める、溶ける、固める。
その反復で、腐食の感覚が“外”で止まる。
「……いけるな」
俺は、理解した。
影の腐食は強い。だが万能じゃない。
呪力で“膜”を作れば、ある程度は受け流せる。
少なくとも、触れただけで即死する類ではない。
これでいい。
必要な確認は揃った。
§
巣へ戻ると、逃げてきた蝿頭が数体、隅に固まっていた。
俺の匂いを恐れ、互いに距離を取りながら、じっとしている。
餌だ。
以前の俺なら迷わず喰っただろう。
だが今の俺は、それを見て思った。
――もう、こいつらじゃ足りない。
喰えば呪力は多少増える。
だが増えるだけだ。
影へ届くには、“質”が足りない。
俺は蝿頭を食わず、放置した。
餌が生きている限り、巣は回る。
俺がいなくても、蝿頭同士で喰い合い、勝手に“質”が混ざっていく。
俺は、収穫するだけでいい。
狩りは、巣作りの延長だ。
支配は、狩りの延長だ。
そして、その延長線上に――二階がある。
俺は、巣の一番奥へ向かった。
そこには、俺が積み上げてきた“残り香”が濃く溜まっている。喰った呪霊の残穢、腐食の練習で溶けた壁、削られた鉄骨。全部が俺の歴史だ。
俺は、その中心で静かに呪力を整えた。
広げすぎない。
荒れさせない。
一点に凝縮する。
それは戦うための準備であり、同時に――
俺自身の輪郭を確かめる儀式みたいなものだった。
俺は蝿頭だ。
そう言い切るには、もう形が違う。
俺は何だ?
その答えは、まだ名前にならない。
だが、名前なんて後でいい。
大事なのは、俺が“上へ行く”意志を持っていることだ。
そして、上へ行くために必要なのは――
俺はゆっくり立ち上がった。
脚が床を掴む感覚が、前より確かだ。
羽を震わせても、音はほとんど漏れない。
呪力の流れは滑らかで、腐食の質も引き出せる。
俺はスロープへ向かった。
歩くたびに、巣の空気が背中を押すように感じる。
まるで、“行け”と言っているみたいに。
§
スロープの下に立つと、二階から冷たい圧が流れてきた。
まだ、いる。
しかも近い。
境界の縁に、あの影がいる。
俺は、上を見上げた。
暗闇の向こうで、粘ついた気配がうごめいている。
……喰われる側のときは、見上げるだけで絶望だった。
でも今の俺は違う。
見上げるのは、恐怖じゃない。
標的を定めるためだ。
一段、上る。
呪力を沈め、輪郭を薄くしながら、しかし芯だけは固く保つ。
二段、上る。
床の腐食痕が増えている。
二階から落ちた雫が、通路を汚している。
匂いが濃い。
俺は、爪の表面に膜を作った。
粘ついた質を薄く纏わせ、腐食に対抗する準備。
三段、上る。
視界が開けた。
地下二階の暗闇が、俺を飲み込もうと待っている。
蝿頭の残骸。
溶けた跡。
黒い水たまり。
そして、そこに――影。
あの歪んだ輪郭。
割れた口。
床に垂れる粘糸。
以前よりも、はっきり見える。
俺の視界が進化したせいか、影の輪郭が濃くなったせいか――どちらでもいい。
影は、動かない。
ただ、そこにいる。
俺が来るのを知っていたみたいに。
“見られている”感覚が、刺さる。
だが、刺さっても倒れない。
俺は一歩、踏み出した。
床が、ぬるりと湿っている。
粘液だ。
腐食の匂いが鼻腔の奥に絡む。
影の口が、わずかに開いた。
びちゃり。
黒い雫が、俺の足元へ落ちる。
じゅう、と床が鳴る。
俺は避けない。
膜を作った爪で、雫を叩き払った。
――痛い。
だが、耐えられる。
影の気配が、揺れた。
驚きか、苛立ちか、あるいは――興味か。
俺は、そこでようやく確信した。
こいつは俺を餌として見ていた。
だが今は、餌ではないと気づきはじめている。
つまり――
戦いになる。
俺は羽を震わせ、低い振動を喉の奥から絞り出した。
宣戦布告代わりだ。
「……今度は、逃げない」
影が滑るように動いた。
床の粘糸が引きずられ、黒い水たまりが揺れる。
空気が重くなる。
腐食の匂いが濃くなる。
俺の呪力が、一点に凝縮する。
逃げない。
退かない。
狩る。
俺は一歩、さらに踏み込んだ。
影との距離が、決定的に縮まったところで――
世界が、戦闘の音で満ちる直前の、張り詰めた沈黙に変わった。
ここから先は、俺の狩りの時間だ。
そして俺は、迷いなくその沈黙を破るために、爪を構えた。