沈黙は、音よりも重い。
地下二階の闇は、俺が一歩踏み込んだだけで息を潜めたように静まり返った。壁のひびに溜まった湿気がじっとりと肌――いや、体表にまとわりつく。腐食の匂いが鼻腔の奥を刺し、舌の代わりに呪力の核がざらつく感覚を覚える。
目の前にいる“影”は動かない。
動かないのに、圧だけが増していく。
俺の視界は、複眼のノイズがほとんど消えている。暗闇の中でも、影の輪郭が、歪んだ黒い面として浮かび上がる。床に引かれた粘糸の一本一本が、細い線になって見える。俺がここまで来る前に喰った変異体の味が、体内で熱を持つ。
――やれる。
自分に言い聞かせるまでもない。俺の呪力は、もう逃げを選ばない方向へ固まっている。
影の口が、ぎし、と軋むように開いた。
そこから出た音は、言葉というより、湿った吐息だった。
それでも、次の瞬間――
「……い……る……い……る……い……る……」
声が出た。
俺は、思わず脚が止まった。
喋る呪霊はいる。知能のあるやつはいる。それは前世で読んだ呪術廻戦の知識としてある。だが、こいつが喋るとは思っていなかった。影は、俺の中で“異物”で、“意志のない圧”で、ただ這い回るものだった。
だから、喉の奥から言葉が漏れた瞬間、俺の感覚の地図が崩れた。
「……喋るのか、お前」
返事はない。当然だ、こちらは知能こそあれど、言葉を発せられず、ただの雑音を出すことしか出来ないのだから。
返事の代わりに、口がさらに開いた。
「……ぬ……れ……る……ぬ……れ……る……ぬ……れ……る……」
意味は分からない。
だが、不快さだけは分かる。
言葉が、床の粘液と同じ質で、空気にべったり貼りつく。
耳はないはずなのに、頭の内側が濡れるような感覚。
呪力の核が、ぞわぞわと掻き回される。
――気持ち悪い。
俺は一歩進む。
影の口が、ぐにゃりと歪んだ。
「……は……い……る……は……い……る……」
今度は、違う音が混ざった。
何かを噛み砕くような、ぬちゃぬちゃした音。
そして――
びちゃり。
黒い雫が、俺の顔面――複眼の前に飛んできた。
俺は反射的に身体を捻る。
雫が壁に当たり、じゅう、と煙を上げた。コンクリが溶け、穴が開く。
――速い。
距離があっても届く。
しかも狙いが正確だ。
影は動かないまま、口だけで攻撃している。
あの口が、武器だ。
あの歪んだ口は、腐食の呪力を吐き出す“砲口”になっている。
俺は呪力を集め、爪の表面に膜を張った。
薄い膜。
それでも、腐食を一瞬遅らせられる。
影が、また喋った。
「……た……べ……る……た……べ……る……」
意味不明の羅列の中に、はっきりした単語が混ざる。
“食べる”。
俺の背筋が、ぞくりとした。
俺が思っていることと同じ単語を、こいつの口が吐いた。
影が、ようやく動いた。
滑る。
這う。
床の粘糸を引きずりながら、距離を詰める。
その速度は、想像より速い。
見た目が重そうなのに、動きは軽い。
まるで水が流れるみたいに、抵抗がない。
――近接もできる。
俺は後退しない。
だが、真正面も選ばない。
床の粘糸を避けながら、柱の影へ移動する。
視界に入った鉄骨の残骸。
崩れた壁の穴。
地形を使う。
影の口が、きし、と音を立てる。
「……あ……し……あ……し……」
何だ?
足?
その瞬間、床の粘糸が――動いた。
俺の脚に、絡みつく。
粘り気が強い。引き剥がせない。しかも、触れた部分がじわりと熱を持つ。
――腐食が始まってる。
「……っ!」
俺は爪に張った膜を、脚全体へ広げる。
呪力を薄く伸ばし、外側に“殻”を作る。
じゅう……と、膜が焼ける。
だが、焼け切る前に俺は脚を捻り、粘糸を引きちぎった。
皮膚が削られる感覚。
痛み。
でも、まだいける。
影は喋り続ける。
「……ぬ……る……ぬ……る……ぬ……る……」
それは呪詛の言葉のようだった。
言葉の意味は薄いのに、響きだけで頭の内側が気持ち悪くなる。
まるで、思考が粘液に浸されていくような感覚。
――集中しろ。
俺は、影の動きを観察する。
口で吐く雫は強力。
粘糸は触れれば拘束される。
近づけば、口で噛みつくこともできるだろう。
だが――
影の身体そのものは、硬いのか?
柔らかいのか?
どこが弱点だ?
俺は一瞬、距離を詰めた。
影の口が大きく開き、雫ではなく、粘液の塊を吐き出す。
俺はそれを、柱に誘導するように動く。
塊が柱に当たり、柱の表面が溶ける。鉄骨が露出する。
――そうか。
影は“吐く”ことでしか、強い腐食を出せない。
粘糸は広範囲に張れるが、腐食は弱い。拘束が主だ。
つまり、脅威は――口。
口を潰せば、勝てる。
単純な結論が出た瞬間、俺の身体が軽くなった。
俺は影の周囲を回る。
粘糸を踏まないように、壁を蹴り、天井を掴み、柱の陰を渡る。
影は追う。
滑るように追う。
だが、曲がり角で一瞬、粘糸が絡む。
自分の粘液の上を移動しているせいで、動線が制限されている。
――巣に溺れてる。
俺はそれを利用した。
わざと粘糸が多い場所へ誘導する。
影は追ってくる。
追ってくるほど、自分の粘液が邪魔になる。
そして――
影の口が開く。
吐くために。
その瞬間が、隙だ。
俺は天井から落ちた。
影の頭部――口の上へ、真上から。
影が反応するより早く、俺の爪が口の縁に突き刺さる。
膜を厚くする。
腐食を受け止めるために、呪力を殻に変える。
影の口が閉じようとする。
俺の爪が挟まれる。
じゅう、と焼ける。
「……っ、くそ……!」
痛みが走る。
だが、俺は離さない。
口を裂く。
爪を横に引き、歪んだ口をさらに歪ませる。
粘液が溢れ、床に滴る。
腐食音が響く。
影が喋った。
「……い……た……い……い……た……い……」
その単語が出た瞬間、俺は確信した。
こいつは痛みを理解している。
痛みを言葉にできる。
つまり――
俺が今やっていることが、効いている。
影が暴れる。
身体がうねり、粘糸が周囲へ飛び散る。
俺の脚に絡む。
腐食が走る。
膜が焼ける。
でも、俺はもう、膜の作り方を知っている。
焼けても、作り直せる。
削られても、固め直せる。
俺は口の縁を足場にし、さらに深く爪を突き刺した。
影の内部は、思ったより柔らかい。
肉のようなものが、ぬちゃりと裂ける。
そして――
俺の口器を、影の傷の奥へ突き立てる。
喰う。
蝿頭を喰ったときの、腐臭と嫌悪。
あれとは違う感覚が、流れ込んできた。
熱い。
甘い。
濃い。
まるで、腹の奥にずっと開いていた穴が、初めて埋まるような――快感。
「……っ……」
俺は、自分が呻いたことに驚いた。
呪霊の身体が、快感で震える。
影の呪力は、毒じゃない。
いや、毒でもある。
でも、俺にとっては――
影が喋る。
「……あ……け……る……あ……け……る……」
意味は分からない。
だが声が弱くなる。
粘液の圧が薄くなる。
俺は喰う速度を上げた。
喰う。
喰う。
喰う。
影の身体が、ぬるりと縮む。
輪郭が崩れ、黒い面が剥がれ落ちる。
最後に、影の口が、確かに笑うように歪んだ。
「……お……な……じ……お……な……じ……」
何が同じだ?
俺とお前が?
食べることが?
考える暇はなかった。
影の呪力が、一気に流れ込む。
――甘い。
甘い。甘い。甘い。
蝿頭を喰ったときの、腐った泥の味じゃない。
これは、密度のある栄養だ。
喰うほどに、身体の輪郭が“定まっていく”感覚がある。
影が、消えた。
床に残ったのは、溶けた跡と、粘糸の切れ端。
空気が軽くなる。
圧が消える。
俺は、そこに立ち尽くした。
……勝った。
勝ったのに、息切れはない。
恐怖もない。
代わりに、腹の奥が――満ちている。
いや、満ちているだけじゃない。
幸せに近いものがある。
「……美味い」
言葉にして、俺は自分で驚いた。
蝿頭を喰っても、こんな言葉は出なかった。
満たされはした。でも、美味いなんて思ったことはない。
なのに、影は違う。
あれは、“上”の味だった。
上位の呪霊の味。
恐怖や嫌悪の濃度が、別次元だった。
俺の身体が変わりはじめる。
骨がないはずなのに、内側で何かが組み上がる感覚。
羽が震え、静かに畳まれる。
視界がさらに澄む。
そして、あの腐食の質が――俺の中で、完全に“俺のもの”になりはじめた。
爪に膜を張る。
腐食を受け流す。
腐食を吐く。
今なら、できる。
あの影がやっていたことを、俺はもっと洗練して使える。
俺は床に落ちていた粘糸を見下ろした。
それはもう、ただの残骸だ。
……食べ足りない。
影を喰って満ちたはずなのに、満ちた瞬間に、もっと大きい穴が開いた。
今度の穴は、空腹よりも鋭い。
もっと美味いものがあるはずだ。
もっと濃い呪力があるはずだ。
もっと上の呪霊がいるはずだ。
俺は、静かに笑った。
笑えない口でも、腹の奥で笑える。
「……次は、もっと強いのを喰ってみたい」
言葉にした瞬間、モチベーションが形になった。
ただ生き残るためじゃない。
ただ逃げないためじゃない。
俺は、喰うために上へ行く。
呪霊王になるために。
地下二階の空気は、もう俺を拒絶しなかった。
むしろ、俺を受け入れるように軽くなっていく。
俺は暗闇へ向かって歩き出した。
次の獲物の匂いを探しながら。
次の“美味さ”を想像しながら。
狩りは終わらない。
――いや。
狩りは、今ここからが本番だ。
今回倒した影の呪霊くんは等級でいえば3級呪霊くらいです。(腐食は術式ではなく呪力特性)