呪霊王におれはなる!!   作:トックー0322

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第八話:美味

 

 

 沈黙は、音よりも重い。

 

 地下二階の闇は、俺が一歩踏み込んだだけで息を潜めたように静まり返った。壁のひびに溜まった湿気がじっとりと肌――いや、体表にまとわりつく。腐食の匂いが鼻腔の奥を刺し、舌の代わりに呪力の核がざらつく感覚を覚える。

 

 目の前にいる“影”は動かない。

 動かないのに、圧だけが増していく。

 

 俺の視界は、複眼のノイズがほとんど消えている。暗闇の中でも、影の輪郭が、歪んだ黒い面として浮かび上がる。床に引かれた粘糸の一本一本が、細い線になって見える。俺がここまで来る前に喰った変異体の味が、体内で熱を持つ。

 

 ――やれる。

 

 自分に言い聞かせるまでもない。俺の呪力は、もう逃げを選ばない方向へ固まっている。

 

 影の口が、ぎし、と軋むように開いた。

 

 そこから出た音は、言葉というより、湿った吐息だった。

 それでも、次の瞬間――

 

「……い……る……い……る……い……る……」

 

 声が出た。

 

 俺は、思わず脚が止まった。

 喋る呪霊はいる。知能のあるやつはいる。それは前世で読んだ呪術廻戦の知識としてある。だが、こいつが喋るとは思っていなかった。影は、俺の中で“異物”で、“意志のない圧”で、ただ這い回るものだった。

 

 だから、喉の奥から言葉が漏れた瞬間、俺の感覚の地図が崩れた。

 

「……喋るのか、お前」

 

 返事はない。当然だ、こちらは知能こそあれど、言葉を発せられず、ただの雑音を出すことしか出来ないのだから。

 返事の代わりに、口がさらに開いた。

 

「……ぬ……れ……る……ぬ……れ……る……ぬ……れ……る……」

 

 意味は分からない。

 だが、不快さだけは分かる。

 

 言葉が、床の粘液と同じ質で、空気にべったり貼りつく。

 耳はないはずなのに、頭の内側が濡れるような感覚。

 呪力の核が、ぞわぞわと掻き回される。

 

 ――気持ち悪い。

 

 俺は一歩進む。

 影の口が、ぐにゃりと歪んだ。

 

「……は……い……る……は……い……る……」

 

 今度は、違う音が混ざった。

 何かを噛み砕くような、ぬちゃぬちゃした音。

 

 そして――

 

 びちゃり。

 

 黒い雫が、俺の顔面――複眼の前に飛んできた。

 

 俺は反射的に身体を捻る。

 雫が壁に当たり、じゅう、と煙を上げた。コンクリが溶け、穴が開く。

 

 ――速い。

 

 距離があっても届く。

 しかも狙いが正確だ。

 

 影は動かないまま、口だけで攻撃している。

 あの口が、武器だ。

 あの歪んだ口は、腐食の呪力を吐き出す“砲口”になっている。

 

 俺は呪力を集め、爪の表面に膜を張った。

 薄い膜。

 それでも、腐食を一瞬遅らせられる。

 

 影が、また喋った。

 

「……た……べ……る……た……べ……る……」

 

 意味不明の羅列の中に、はっきりした単語が混ざる。

 “食べる”。

 

 俺の背筋が、ぞくりとした。

 俺が思っていることと同じ単語を、こいつの口が吐いた。

 

 影が、ようやく動いた。

 滑る。

 這う。

 床の粘糸を引きずりながら、距離を詰める。

 

 その速度は、想像より速い。

 見た目が重そうなのに、動きは軽い。

 まるで水が流れるみたいに、抵抗がない。

 

 ――近接もできる。

 

 俺は後退しない。

 だが、真正面も選ばない。

 

 床の粘糸を避けながら、柱の影へ移動する。

 視界に入った鉄骨の残骸。

 崩れた壁の穴。

 地形を使う。

 

 影の口が、きし、と音を立てる。

 

「……あ……し……あ……し……」

 

 何だ?

 足?

 

 その瞬間、床の粘糸が――動いた。

 

 俺の脚に、絡みつく。

 粘り気が強い。引き剥がせない。しかも、触れた部分がじわりと熱を持つ。

 

 ――腐食が始まってる。

 

「……っ!」

 

 俺は爪に張った膜を、脚全体へ広げる。

 呪力を薄く伸ばし、外側に“殻”を作る。

 

 じゅう……と、膜が焼ける。

 だが、焼け切る前に俺は脚を捻り、粘糸を引きちぎった。

 

 皮膚が削られる感覚。

 痛み。

 でも、まだいける。

 

 影は喋り続ける。

 

「……ぬ……る……ぬ……る……ぬ……る……」

 

 それは呪詛の言葉のようだった。

 言葉の意味は薄いのに、響きだけで頭の内側が気持ち悪くなる。

 まるで、思考が粘液に浸されていくような感覚。

 

 ――集中しろ。

 

 俺は、影の動きを観察する。

 口で吐く雫は強力。

 粘糸は触れれば拘束される。

 近づけば、口で噛みつくこともできるだろう。

 

 だが――

 

 影の身体そのものは、硬いのか?

 柔らかいのか?

 どこが弱点だ?

 

 俺は一瞬、距離を詰めた。

 

 影の口が大きく開き、雫ではなく、粘液の塊を吐き出す。

 

 俺はそれを、柱に誘導するように動く。

 塊が柱に当たり、柱の表面が溶ける。鉄骨が露出する。

 

 ――そうか。

 

 影は“吐く”ことでしか、強い腐食を出せない。

 粘糸は広範囲に張れるが、腐食は弱い。拘束が主だ。

 つまり、脅威は――口。

 

 口を潰せば、勝てる。

 

 単純な結論が出た瞬間、俺の身体が軽くなった。

 

 俺は影の周囲を回る。

 粘糸を踏まないように、壁を蹴り、天井を掴み、柱の陰を渡る。

 影は追う。

 滑るように追う。

 

 だが、曲がり角で一瞬、粘糸が絡む。

 自分の粘液の上を移動しているせいで、動線が制限されている。

 

 ――巣に溺れてる。

 

 俺はそれを利用した。

 

 わざと粘糸が多い場所へ誘導する。

 影は追ってくる。

 追ってくるほど、自分の粘液が邪魔になる。

 

 そして――

 

 影の口が開く。

 吐くために。

 

 その瞬間が、隙だ。

 

 俺は天井から落ちた。

 

 影の頭部――口の上へ、真上から。

 

 影が反応するより早く、俺の爪が口の縁に突き刺さる。

 膜を厚くする。

 腐食を受け止めるために、呪力を殻に変える。

 

 影の口が閉じようとする。

 俺の爪が挟まれる。

 じゅう、と焼ける。

 

「……っ、くそ……!」

 

 痛みが走る。

 だが、俺は離さない。

 

 口を裂く。

 

 爪を横に引き、歪んだ口をさらに歪ませる。

 粘液が溢れ、床に滴る。

 腐食音が響く。

 

 影が喋った。

 

「……い……た……い……い……た……い……」

 

 その単語が出た瞬間、俺は確信した。

 

 こいつは痛みを理解している。

 痛みを言葉にできる。

 

 つまり――

 

 俺が今やっていることが、効いている

 

 影が暴れる。

 身体がうねり、粘糸が周囲へ飛び散る。

 

 俺の脚に絡む。

 腐食が走る。

 膜が焼ける。

 

 でも、俺はもう、膜の作り方を知っている。

 焼けても、作り直せる。

 削られても、固め直せる。

 

 俺は口の縁を足場にし、さらに深く爪を突き刺した。

 

 影の内部は、思ったより柔らかい。

 肉のようなものが、ぬちゃりと裂ける。

 

 そして――

 

 俺の口器を、影の傷の奥へ突き立てる。

 

 喰う。

 

 蝿頭を喰ったときの、腐臭と嫌悪。

 あれとは違う感覚が、流れ込んできた。

 

 熱い。

 甘い。

 濃い。

 

 まるで、腹の奥にずっと開いていた穴が、初めて埋まるような――快感

 

「……っ……」

 

 俺は、自分が呻いたことに驚いた。

 呪霊の身体が、快感で震える。

 

 影の呪力は、毒じゃない。

 いや、毒でもある。

 でも、俺にとっては――

 

 ()だった。

 

 影が喋る。

 

「……あ……け……る……あ……け……る……」

 

 意味は分からない。

 だが声が弱くなる。

 粘液の圧が薄くなる。

 

 俺は喰う速度を上げた。

 

 喰う。

 喰う。

 喰う。

 

 影の身体が、ぬるりと縮む。

 輪郭が崩れ、黒い面が剥がれ落ちる。

 

 最後に、影の口が、確かに笑うように歪んだ。

 

「……お……な……じ……お……な……じ……」

 

 何が同じだ?

 俺とお前が?

 食べることが?

 

 考える暇はなかった。

 影の呪力が、一気に流れ込む。

 

 ――甘い。

 

 甘い。甘い。甘い。

 

 蝿頭を喰ったときの、腐った泥の味じゃない。

 これは、密度のある栄養だ。

 喰うほどに、身体の輪郭が“定まっていく”感覚がある。

 

 影が、消えた。

 

 床に残ったのは、溶けた跡と、粘糸の切れ端。

 空気が軽くなる。

 圧が消える。

 

 俺は、そこに立ち尽くした。

 

 ……勝った。

 

 勝ったのに、息切れはない。

 恐怖もない。

 

 代わりに、腹の奥が――満ちている。

 

 いや、満ちているだけじゃない。

 幸せに近いものがある。

 

「……美味い」

 

 言葉にして、俺は自分で驚いた。

 蝿頭を喰っても、こんな言葉は出なかった。

 満たされはした。でも、美味いなんて思ったことはない。

 

 なのに、影は違う。

 

 あれは、“上”の味だった。

 上位の呪霊の味。

 恐怖や嫌悪の濃度が、別次元だった。

 

 俺の身体が変わりはじめる。

 

 骨がないはずなのに、内側で何かが組み上がる感覚。

 羽が震え、静かに畳まれる。

 視界がさらに澄む。

 

 そして、あの腐食の質が――俺の中で、完全に“俺のもの”になりはじめた。

 

 爪に膜を張る。

 腐食を受け流す。

 腐食を吐く。

 

 今なら、できる。

 あの影がやっていたことを、俺はもっと洗練して使える。

 

 俺は床に落ちていた粘糸を見下ろした。

 それはもう、ただの残骸だ。

 

 ……食べ足りない。

 

 影を喰って満ちたはずなのに、満ちた瞬間に、もっと大きい穴が開いた。

 今度の穴は、空腹よりも鋭い。

 

 もっと美味いものがあるはずだ。

 もっと濃い呪力があるはずだ。

 もっと上の呪霊がいるはずだ。

 

 俺は、静かに笑った。

 笑えない口でも、腹の奥で笑える。

 

「……次は、もっと強いのを喰ってみたい」

 

 言葉にした瞬間、モチベーションが形になった。

 ただ生き残るためじゃない。

 ただ逃げないためじゃない。

 

 俺は、喰うために上へ行く。

 

 呪霊王になるために。

 

 地下二階の空気は、もう俺を拒絶しなかった。

 むしろ、俺を受け入れるように軽くなっていく。

 

 俺は暗闇へ向かって歩き出した。

 

 次の獲物の匂いを探しながら。

 次の“美味さ”を想像しながら。

 

 狩りは終わらない。

 ――いや。

 

 狩りは、今ここからが本番だ。

 

 

 

 




今回倒した影の呪霊くんは等級でいえば3級呪霊くらいです。(腐食は術式ではなく呪力特性)
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