影が消えた後の地下二階は、嘘みたいに軽かった。
さっきまで空気を支配していた湿った圧が抜け、壁の染みや床の亀裂が、ただのコンクリの傷として目に入ってくる。粘糸の切れ端は乾きかけた泥みたいに縮れ、腐食の跡だけが黒い穴として残っていた。
なのに――俺の中は、まだ戦いの続きみたいに熱い。
腹の奥が満ちたまま、さらに満ちていく。
呪力が、流れ込むというより“居座る”。
異物として刺さっていたはずの腐食の質が、今は俺の血管みたいに馴染んで、俺の意志に合わせて脈打つ。
俺は自分の手――いや、前脚を見下ろした。
いつもならそこにあるはずの節くれだった虫の脚の輪郭が、揺らいでいる。
(……来る)
直感がそう告げた瞬間、内側から“裂ける”ような感覚が走った。
痛い、というより、違和感。
硬い殻が内側から押し広げられて、古い形が合わなくなる感覚。
俺の身体が、俺の器に収まりきらなくなる。
黒い靄が、ふわりと立った。
最初は吐息みたいに薄かったのが、次第に濃くなる。俺の体表から滲み出るように、肩のあたり、背中、腕の外側にまとわりつき、ゆらゆらと揺れる。
煙じゃない。呪力だ。
しかも、ただの呪力じゃない。
腐食の性質。
影が吐いた粘液の、あの焼けるような嫌な“刺”が、靄として俺の身体の周りに漂っている。
近づくものを拒む、触れたものを削る、粘ついた黒の圧。
(……術式じゃない。性質だ)
俺は理解した。
あの影の腐食は“技”じゃなかった。呪力そのものの性質だった。だからあいつは言葉を吐きながら、息を吐くみたいに腐食を撒けた。
今、その性質が――俺の呪力に染み込んでいる。
俺は、試しに靄を指先へ集めた。
靄は素直に従った。
腕――腕、だ。
いつの間にか俺は“腕”という形を持ち始めている。虫の脚の関節より滑らかな関節で、空間を掴むように動く。
指先――そこにも、爪がある。
ただの虫の鉤爪じゃない。硬い黒い爪。
俺が意識を込めると、その爪の周りに靄が絡み、薄い膜を作った。
(あの時、俺が必死に作ってた“膜”が……今は呼吸みたいに出せる)
俺は爪を床へ近づけた。
触れた瞬間――じゅう、と音がした。
コンクリートが、わずかに溶ける。
穴が、指先の形に小さく空く。
俺は腕を引っ込めた。穴はまだ浅い。だが、意識を強めれば深くできるだろう。
そして、“腐食させない”こともできる気がした。
(……制御できる)
この感覚は大きい。
腐食を撒けば、俺自身も巻き込まれる危険がある。だから今までは薄く、慎重に、膜として使うしかなかった。
でも今は違う。靄は俺の皮膚の外側にまとわり、俺を守る盾にも、敵を削る刃にもなる。
俺の身体は、さらに変わっていった。
まず、視界。
複眼の“面”が、ゆっくりと狭まる。
たくさんの映像が同時に流れ込むノイズが消え、一つの焦点へ集約されていく。
最初は怖かった。
複眼が減るのは退化に思えた。
でも違う。
視界は狭まった代わりに、深くなった。
距離が分かる。奥行きが分かる。輪郭が鋭い。
敵から逃げるための広い視野ではなく、獲物を捕らえるための深い視野に。
暗闇でさえ、呪力の濃淡が陰影として見える。
そして、そこに“瞳”が生まれた。
肉眼に近い目。
黒い虹彩。光を吸い込むみたいに濃い。
俺は水たまりを見つけ、覗き込んだ。
映っていたのは――虫と人の中間の顔だった。
顔、という形がある。
額があり、頬があり、顎がある。
まだ歪で、皮膚は黒ずみ、ところどころに虫の名残の筋が走っている。だが、輪郭は明確に“人”へ寄っていた。
口器も変わっている。
あの細い口器はなくなり、代わりに口がある。
人間のような口――と呼ぶには裂け目が大きいが、それでも、口の形だ。
そして顎が、異様に強靭だと分かる。噛む力がある。噛み砕ける。引きちぎれる。
(……喋れるか?)
俺は、恐る恐る息を吐くように声を出そうとした。
喉がある。舌がある。歯がある。
「……あ……」
音が出た。
それだけで、俺は一瞬固まった。
言葉ではない。たった一音。でも、確かに“声”だった。
「……お、れ……」
次の音は、少し繋がった。
喉の奥が擦れるような、ガラガラした声。
それでも、俺は笑いそうになる。
(やっと、世界に言葉で触れられる)
俺はもう一度、水たまりに映る自分を見る。
体躯は大きくなっている。蝿頭だった頃より明らかに高い。天井が少し近い。
四肢は長く、人間みたいに伸びているが、節々には虫の硬さが残る。背中の羽は縮んだのか、折り畳まれて見えなくなっている。
それでも、肩甲骨のあたりが僅かに震える。必要なら出せる。そんな予感。
そして、黒い靄。
俺の身体の周りで、常に揺れている。
まるで、あの影が俺の体に纏わりついているようだ。
(……影を喰った俺は、もう別物だ)
俺は、立ち上がった。
足――足だ。
床を踏む感覚が確かで、重心を移動できる。
歩ける。走れる。跳べる。
人間の動きに近い。
でも、人間よりも滑らかで、力がある。
「……い、い」
声が出たことが嬉しくて、俺は思わず口に出した。
短い。掠れている。
それでも、俺の意志が音になった。
§
地下二階を歩く。
影が支配していた空間は、広いようで狭かった。あいつの粘糸が張り巡らされ、蝿頭の残骸が散り、腐食の跡が床を穴だらけにしている。
俺はその中を、靄を薄く纏わせながら進む。靄が足元の粘液を嫌うように揺れ、危険な場所を教える。
(便利だな)
俺は気づく。
この靄はただの防御じゃない。感覚器だ。
腐食の質が外側に漂うことで、同じ質――影の残滓や粘液――に反応する。
俺の目が見えない暗がりでも、靄がわずかに濃くなる方向が分かる。
影のいた広間を抜け、通路へ。
その先には、蝿頭がいた。
一体。
壁に張り付いて、こちらを見ている。いや、見ていない。昔の俺なら分かった“嗅いでいる”動きだ。
呪力が弱い。影の味もない。
ただの最下級呪霊。
俺は、足音を立てずに近づいた。
蝿頭が気づく。羽が震える。逃げる。
昔なら追いかけるしかなかった。
でも今は違う。
俺は腕を伸ばし、指先へ靄を集めた。
小さな黒い雫が、靄の先端に生まれる。
(吹き出す、というより……滲ませる)
俺は軽く弾いた。
びちゃり。
雫は蝿頭の背中に当たり、じゅう、と小さく鳴った。
蝿頭は暴れ、壁から落ちる。
床で転がり、羽音が乱れる。
溶けていく。
削れていく。
俺は歩いて近づき、拾い上げて顎で噛み砕いた。
バキリ、と感触があった。
骨がないはずなのに、硬い核を噛み砕いた感覚。
呪力が流れ込むが、味は薄い。
(……弱い。美味くない)
それでも、確認はできた。
俺は“遠距離武器”を手に入れた。
腐食の呪力を、武器として投げられる。
あの影ほど強くはないだろうが、雑魚には十分すぎる。
通路を進む。
次は、二体の蝿頭。
俺を見て、逃げようとする。
俺は走った。
速い。
以前の俺の“這う”動きとは異なり、今の俺は足で地面を蹴れる。
瞬間的な加速が違う。
壁を蹴り、天井に触れ、落ちる。動線が自由だ。
蝿頭が角を曲がる。
俺は角を曲がらない。
壁を蹴ってショートカットする。
追いつく。
腕で掴む。
蝿頭の体は軽い。
俺はそのまま床に叩きつけた。
衝撃で羽音が止まり、複眼が割れる。
「……よ、わ」
思わず声が漏れた。
カタコトの、汚い発音。
でも、俺は確かに“弱い”と口にした。
もう一体が逃げる。
俺は指先の靄を少し濃くして、雫を撃つ。
蝿頭が溶け、転がる。
俺は歩いていって、噛み砕く。
(……俺、こんなに強くなってる)
認識が追いつかない。
地下三階で支配者になったつもりだった。
でも、それは“蝿頭の世界”での支配だった。
今の俺は――
蝿頭にとっての“影”に近い。
雑魚を見つけるたびに、狩りは作業になっていった。
狩り方を選べる。
殺し方を選べる。
喰うか喰わないかも選べる。
俺は廃ビルの階層を上へ探った。
地下二階から地下一階へ上り、さらに一階へ繋がる階段の方へ意識を伸ばす。
だが、そこにも“あの影”以上の圧はない。
俺はビルの上階まで探索した。
一階。二階。三階。四階。
廊下の奥、崩れた会議室、窓の割れた階段の踊り場。
どこにも、影以上の気配はない。
いるのは、蝿頭。
人影を歪めたような下級呪霊。
人間の恐怖の残り滓が形になったような、いびつで脆いものばかり。
俺はそれを喰い、時には喰わずに踏み潰し、時には腐食で溶かして遊んだ。
足元に雫を垂らし、床をじゅう、と溶かす。
壁に線を引き、腐食の筋を作る。
天井に飛び上がり、落下の勢いで蝿頭を粉砕する。
力を試すたび、俺は確信を深めていく。
俺はこのビルの中で、もう負けない。
あの影を喰った時点で、このビルの頂点は俺になった。
§
地下の奥深く、三階の広間へ戻った時、俺はしばらくそこに立っていた。
ここは俺の巣だった場所。
逃げてきた蝿頭を溜めて、喰って、管理して、濃くしていった場所。
いま見ると、狭い。
俺の体躯が大きくなったせいもある。
だがそれ以上に、俺の感覚が広がった。
俺の呪力が、この空間だけで収まりきらなくなっている。
黒い靄が、ふわりと揺れた。
まるで退屈そうに。
(……終わりか?)
俺は思った。
影を喰い、頂点に立ち、この廃ビルを支配した。
ここで生き続けるなら、たぶん安全だ。
上から落ちてくる雑魚を喰って、腐食を磨いて、さらに形を整えていける。
呪術師が来ない限り――ここは俺の城だ。
その考えに、最初は満足感が湧いた。
「……おれ、おうさま」
思わず口に出して、喉が擦れる音がした。
自分の声が気持ち悪い。
でも、嫌いじゃない。
しばらく、俺はその満足感に浸った。
巣の空気を味わい、壁の匂いを嗅ぎ、足元の感触を確かめる。
この場所に“俺”が染み込んでいる。
だが――
満足感は、すぐに腐った。
腹が空くわけじゃない。
喰えば満ちる。
雑魚はいくらでもいる。
喰おうと思えば、このビルの呪霊を全部喰い尽くせる。
なのに、満たされない。
影を喰った時に感じた、あの甘さ。
腹の奥に染み込むような美味さ。
あれを思い出すたびに、今喰っている雑魚の味が泥みたいに不味く感じる。
(……違う。これじゃない)
俺は、床に落ちていた蝿頭の残骸を蹴った。
ぼろり、と残穢が崩れる。
簡単すぎて、苛立つ。
(美味いのが、いない)
俺は、黒い靄を指先へ集めた。
雫が生まれ、床を溶かす。
それを見ても、心は動かない。
強い呪霊を喰いたい。
もっと濃い負の感情を喰いたい。
もっと、“上の味”を知りたい。
その欲は、影を喰った瞬間から生まれていた。
いや、影の口が「おなじ」と呟いた瞬間から、俺の中で増殖していたのかもしれない。
俺はスロープの方へ向かった。
二階へ。
一階へ。
地上へ。
このビルの中には、もう俺を満たす獲物はいない。
なら、外に出るしかない。
外には人間がいる。
人間がいるなら、呪霊が生まれる。
強い恐怖、強い憎しみ、強い絶望が溜まる場所がある。
そこには、きっと――
もっと美味い呪霊がいる。
もっと喰い応えのある呪霊がいる。
俺は階段を上る。
上へ行くほど空気が変わる。
湿気が減り、匂いが変わり、遠くの外気の気配が混ざる。
人間の世界が近い。
俺は一度だけ振り返った。
地下の闇。
俺が蝿頭として生まれ、狩り、支配し、影を喰った場所。
「……あり、がと」
誰に言ったのか分からない。
ビルにか。
影にか。
それとも、蝿頭だった頃の俺にか。
黒い靄が、外套のように背中で揺れる。
俺は、前を向いた。
「……もっと、つよいの、たべる」
カタコトでもいい。
言葉になっただけで、俺の欲はさらに輪郭を持った。
俺は廃ビルを出る。
次の獲物を探すために。
次の“美味さ”を求めるために。
呪霊王になるために。
脱皮後の主人公くんの姿は、万の虫の鎧をちっちゃくした感じを想像してください。