呪霊王におれはなる!!   作:トックー0322

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第九話:脱皮

 

 

 影が消えた後の地下二階は、嘘みたいに軽かった。

 

 さっきまで空気を支配していた湿った圧が抜け、壁の染みや床の亀裂が、ただのコンクリの傷として目に入ってくる。粘糸の切れ端は乾きかけた泥みたいに縮れ、腐食の跡だけが黒い穴として残っていた。

 

 なのに――俺の中は、まだ戦いの続きみたいに熱い。

 

 腹の奥が満ちたまま、さらに満ちていく。

 呪力が、流れ込むというより“居座る”。

 異物として刺さっていたはずの腐食の質が、今は俺の血管みたいに馴染んで、俺の意志に合わせて脈打つ。

 

 俺は自分の手――いや、前脚を見下ろした。

 いつもならそこにあるはずの節くれだった虫の脚の輪郭が、揺らいでいる。

 

 (……来る)

 

 直感がそう告げた瞬間、内側から“裂ける”ような感覚が走った。

 

 痛い、というより、違和感。

 硬い殻が内側から押し広げられて、古い形が合わなくなる感覚。

 俺の身体が、俺の器に収まりきらなくなる。

 

 黒い靄が、ふわりと立った。

 

 最初は吐息みたいに薄かったのが、次第に濃くなる。俺の体表から滲み出るように、肩のあたり、背中、腕の外側にまとわりつき、ゆらゆらと揺れる。

 煙じゃない。呪力だ。

 しかも、ただの呪力じゃない。

 

 腐食の性質

 

 影が吐いた粘液の、あの焼けるような嫌な“刺”が、靄として俺の身体の周りに漂っている。

 近づくものを拒む、触れたものを削る、粘ついた黒の圧。

 

 (……術式じゃない。性質だ)

 

 俺は理解した。

 あの影の腐食は“技”じゃなかった。呪力そのものの性質だった。だからあいつは言葉を吐きながら、息を吐くみたいに腐食を撒けた。

 今、その性質が――俺の呪力に染み込んでいる。

 

 俺は、試しに靄を指先へ集めた。

 

 靄は素直に従った。

 腕――腕、だ。

 いつの間にか俺は“腕”という形を持ち始めている。虫の脚の関節より滑らかな関節で、空間を掴むように動く。

 

 指先――そこにも、爪がある。

 ただの虫の鉤爪じゃない。硬い黒い爪。

 俺が意識を込めると、その爪の周りに靄が絡み、薄い膜を作った。

 

 (あの時、俺が必死に作ってた“膜”が……今は呼吸みたいに出せる)

 

 俺は爪を床へ近づけた。

 触れた瞬間――じゅう、と音がした。

 

 コンクリートが、わずかに溶ける。

 穴が、指先の形に小さく空く。

 

 俺は腕を引っ込めた。穴はまだ浅い。だが、意識を強めれば深くできるだろう。

 そして、“腐食させない”こともできる気がした。

 

 (……制御できる)

 

 この感覚は大きい。

 腐食を撒けば、俺自身も巻き込まれる危険がある。だから今までは薄く、慎重に、膜として使うしかなかった。

 でも今は違う。靄は俺の皮膚の外側にまとわり、俺を守る盾にも、敵を削る刃にもなる。

 

 俺の身体は、さらに変わっていった。

 

 まず、視界。

 複眼の“面”が、ゆっくりと狭まる。

 たくさんの映像が同時に流れ込むノイズが消え、一つの焦点へ集約されていく。

 

 最初は怖かった。

 複眼が減るのは退化に思えた。

 でも違う。

 

 視界は狭まった代わりに、深くなった。

 距離が分かる。奥行きが分かる。輪郭が鋭い。

 敵から逃げるための広い視野ではなく、獲物を捕らえるための深い視野に。

 暗闇でさえ、呪力の濃淡が陰影として見える。

 

 そして、そこに“瞳”が生まれた。

 

 肉眼に近い目。

 黒い虹彩。光を吸い込むみたいに濃い。

 

 俺は水たまりを見つけ、覗き込んだ。

 

 映っていたのは――虫と人の中間の顔だった。

 

 顔、という形がある。

 額があり、頬があり、顎がある。

 まだ歪で、皮膚は黒ずみ、ところどころに虫の名残の筋が走っている。だが、輪郭は明確に“人”へ寄っていた。

 

 口器も変わっている。

 

 あの細い口器はなくなり、代わりに口がある。

 人間のような口――と呼ぶには裂け目が大きいが、それでも、口の形だ。

 そして顎が、異様に強靭だと分かる。噛む力がある。噛み砕ける。引きちぎれる。

 

 (……喋れるか?)

 

 俺は、恐る恐る息を吐くように声を出そうとした。

 喉がある。舌がある。歯がある。

 

 「……あ……」

 

 音が出た。

 

 それだけで、俺は一瞬固まった。

 言葉ではない。たった一音。でも、確かに“声”だった。

 

 「……お、れ……」

 

 次の音は、少し繋がった。

 喉の奥が擦れるような、ガラガラした声。

 それでも、俺は笑いそうになる。

 

 (やっと、世界に言葉で触れられる)

 

 俺はもう一度、水たまりに映る自分を見る。

 

 体躯は大きくなっている。蝿頭だった頃より明らかに高い。天井が少し近い。

 四肢は長く、人間みたいに伸びているが、節々には虫の硬さが残る。背中の羽は縮んだのか、折り畳まれて見えなくなっている。

 それでも、肩甲骨のあたりが僅かに震える。必要なら出せる。そんな予感。

 

 そして、黒い靄。

 

 俺の身体の周りで、常に揺れている。

 まるで、あの影が俺の体に纏わりついているようだ。

 

 (……影を喰った俺は、もう別物だ)

 

 俺は、立ち上がった。

 足――足だ。

 床を踏む感覚が確かで、重心を移動できる。

 歩ける。走れる。跳べる。

 

 人間の動きに近い。

 でも、人間よりも滑らかで、力がある。

 

 「……い、い」

 

 声が出たことが嬉しくて、俺は思わず口に出した。

 短い。掠れている。

 それでも、俺の意志が音になった。

 

 

 

 

 

 

   §

 

 

 

 

 

 

 地下二階を歩く。

 

 影が支配していた空間は、広いようで狭かった。あいつの粘糸が張り巡らされ、蝿頭の残骸が散り、腐食の跡が床を穴だらけにしている。

 俺はその中を、靄を薄く纏わせながら進む。靄が足元の粘液を嫌うように揺れ、危険な場所を教える。

 

 (便利だな)

 

 俺は気づく。

 この靄はただの防御じゃない。感覚器だ。

 腐食の質が外側に漂うことで、同じ質――影の残滓や粘液――に反応する。

 俺の目が見えない暗がりでも、靄がわずかに濃くなる方向が分かる。

 

 影のいた広間を抜け、通路へ。

 その先には、蝿頭がいた。

 

 一体。

 壁に張り付いて、こちらを見ている。いや、見ていない。昔の俺なら分かった“嗅いでいる”動きだ。

 呪力が弱い。影の味もない。

 ただの最下級呪霊。

 

 俺は、足音を立てずに近づいた。

 

 蝿頭が気づく。羽が震える。逃げる。

 

 昔なら追いかけるしかなかった。

 でも今は違う。

 

 俺は腕を伸ばし、指先へ靄を集めた。

 小さな黒い雫が、靄の先端に生まれる。

 

 (吹き出す、というより……滲ませる)

 

 俺は軽く弾いた。

 

 びちゃり。

 

 雫は蝿頭の背中に当たり、じゅう、と小さく鳴った。

 蝿頭は暴れ、壁から落ちる。

 床で転がり、羽音が乱れる。

 

 溶けていく。

 削れていく。

 

 俺は歩いて近づき、拾い上げて顎で噛み砕いた。

 

 バキリ、と感触があった。

 骨がないはずなのに、硬い核を噛み砕いた感覚。

 呪力が流れ込むが、味は薄い。

 

 (……弱い。美味くない)

 

 それでも、確認はできた。

 

 俺は“遠距離武器”を手に入れた。

 腐食の呪力を、武器として投げられる。

 あの影ほど強くはないだろうが、雑魚には十分すぎる。

 

 通路を進む。

 次は、二体の蝿頭。

 

 俺を見て、逃げようとする。

 俺は走った。

 

 速い。

 以前の俺の“這う”動きとは異なり、今の俺は足で地面を蹴れる。

 瞬間的な加速が違う。

 壁を蹴り、天井に触れ、落ちる。動線が自由だ。

 

 蝿頭が角を曲がる。

 

 俺は角を曲がらない。

 壁を蹴ってショートカットする。

 

 追いつく。

 腕で掴む。

 

 蝿頭の体は軽い。

 俺はそのまま床に叩きつけた。

 衝撃で羽音が止まり、複眼が割れる。

 

 「……よ、わ」

 

 思わず声が漏れた。

 カタコトの、汚い発音。

 でも、俺は確かに“弱い”と口にした。

 

 もう一体が逃げる。

俺は指先の靄を少し濃くして、雫を撃つ。

 蝿頭が溶け、転がる。

 俺は歩いていって、噛み砕く。

 

 (……俺、こんなに強くなってる)

 

 認識が追いつかない。

 

 地下三階で支配者になったつもりだった。

 でも、それは“蝿頭の世界”での支配だった。

 

 今の俺は――

 蝿頭にとっての“影”に近い。

 

 雑魚を見つけるたびに、狩りは作業になっていった。

 狩り方を選べる。

 殺し方を選べる。

 喰うか喰わないかも選べる。

 

 俺は廃ビルの階層を上へ探った。

 地下二階から地下一階へ上り、さらに一階へ繋がる階段の方へ意識を伸ばす。

 だが、そこにも“あの影”以上の圧はない。

 

 俺はビルの上階まで探索した。

 一階。二階。三階。四階。

 廊下の奥、崩れた会議室、窓の割れた階段の踊り場。

 どこにも、影以上の気配はない。

 

 いるのは、蝿頭。

 人影を歪めたような下級呪霊。

 人間の恐怖の残り滓が形になったような、いびつで脆いものばかり。

 

 俺はそれを喰い、時には喰わずに踏み潰し、時には腐食で溶かして遊んだ。

 

 足元に雫を垂らし、床をじゅう、と溶かす。

 壁に線を引き、腐食の筋を作る。

 天井に飛び上がり、落下の勢いで蝿頭を粉砕する。

 

 力を試すたび、俺は確信を深めていく。

 

 俺はこのビルの中で、もう負けない。

 あの影を喰った時点で、このビルの頂点は俺になった。

 

 

 

 

 

 

   §

 

 

 

 

 

 

 地下の奥深く、三階の広間へ戻った時、俺はしばらくそこに立っていた。

 

 ここは俺の巣だった場所。

 逃げてきた蝿頭を溜めて、喰って、管理して、濃くしていった場所。

 

 いま見ると、狭い。

 

 俺の体躯が大きくなったせいもある。

 だがそれ以上に、俺の感覚が広がった。

 俺の呪力が、この空間だけで収まりきらなくなっている。

 

 黒い靄が、ふわりと揺れた。

 まるで退屈そうに。

 

 (……終わりか?)

 

 俺は思った。

 影を喰い、頂点に立ち、この廃ビルを支配した。

 

 ここで生き続けるなら、たぶん安全だ。

 上から落ちてくる雑魚を喰って、腐食を磨いて、さらに形を整えていける。

 呪術師が来ない限り――ここは俺の城だ。

 

 その考えに、最初は満足感が湧いた。

 

 「……おれ、おうさま」

 

 思わず口に出して、喉が擦れる音がした。

 自分の声が気持ち悪い。

 でも、嫌いじゃない。

 

 しばらく、俺はその満足感に浸った。

 巣の空気を味わい、壁の匂いを嗅ぎ、足元の感触を確かめる。

 この場所に“俺”が染み込んでいる。

 

 だが――

 

 満足感は、すぐに腐った。

 

 腹が空くわけじゃない。

 喰えば満ちる。

 雑魚はいくらでもいる。

 喰おうと思えば、このビルの呪霊を全部喰い尽くせる。

 

 なのに、満たされない。

 

 影を喰った時に感じた、あの甘さ。

 腹の奥に染み込むような美味さ。

 あれを思い出すたびに、今喰っている雑魚の味が泥みたいに不味く感じる。

 

 (……違う。これじゃない)

 

 俺は、床に落ちていた蝿頭の残骸を蹴った。

 ぼろり、と残穢が崩れる。

 簡単すぎて、苛立つ。

 

 (美味いのが、いない)

 

 俺は、黒い靄を指先へ集めた。

 雫が生まれ、床を溶かす。

 それを見ても、心は動かない。

 

 強い呪霊を喰いたい。

 もっと濃い負の感情を喰いたい。

 もっと、“上の味”を知りたい。

 

 その欲は、影を喰った瞬間から生まれていた。

 いや、影の口が「おなじ」と呟いた瞬間から、俺の中で増殖していたのかもしれない。

 

 俺はスロープの方へ向かった。

 二階へ。

 一階へ。

 地上へ。

 

 このビルの中には、もう俺を満たす獲物はいない。

 なら、外に出るしかない。

 

 外には人間がいる。

 人間がいるなら、呪霊が生まれる。

 強い恐怖、強い憎しみ、強い絶望が溜まる場所がある。

 

 そこには、きっと――

 

 もっと美味い呪霊がいる。

 

 もっと喰い応えのある呪霊がいる。

 

 俺は階段を上る。

 上へ行くほど空気が変わる。

 湿気が減り、匂いが変わり、遠くの外気の気配が混ざる。

 

 人間の世界が近い。

 

 俺は一度だけ振り返った。

 

 地下の闇。

 俺が蝿頭として生まれ、狩り、支配し、影を喰った場所。

 

 「……あり、がと」

 

 誰に言ったのか分からない。

 ビルにか。

 影にか。

 それとも、蝿頭だった頃の俺にか。

 

 黒い靄が、外套のように背中で揺れる。

 

 俺は、前を向いた。

 

 「……もっと、つよいの、たべる」

 

 カタコトでもいい。

 言葉になっただけで、俺の欲はさらに輪郭を持った。

 

 俺は廃ビルを出る。

 

 次の獲物を探すために。

 次の“美味さ”を求めるために。

 

 呪霊王になるために。

 

 

 




脱皮後の主人公くんの姿は、万の虫の鎧をちっちゃくした感じを想像してください。
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