朝靄がまだ石畳の隙間に溜まっている時間帯。魔導国領となった都市エ・ランテルは、今日も静かに動き始めていた。
かつて人間の喧騒で満ちていた街路には、今や別の足音が響いている。肉のない足。骨だけの腕。沈黙した顔。魔導王が提供したアンデッドの労働者たちが、整然と列をなし、指定された作業場へと歩いていく。
荷車を引くスケルトン。
崩れた城壁の補修にあたるゾンビ。
夜通し警備に立っていたデス・ナイトが交代し、無言のまま駐屯地へと戻っていく。
「おはよう……って、言っても返事はないんだけどね」
露店の準備をしていたパン屋の娘が、癖になった挨拶を、通り過ぎるスケルトンに投げる。 当然、返事はない。ただ空洞の眼窩が、ちらりとも動かずに通り過ぎていく。
この光景にも、もう三年で慣れてしまった。
最初こそ悲鳴と恐怖の混じった毎日だったが、
今では「無口でよく働く労働者」として、ある程度受け入れられつつある。
──その時までは。
午前の空気が、少しだけ冷たさを増したように感じた瞬間。
キーン……コーン……カーン……コーン。
四つの音が、どこからともなく、世界のどこかで鳴った。
鐘とも違う。
角笛とも違う。
なのに、妙に整った、一定の間隔を持った四つの音。
それをはっきりと「聞いた」のは、この街でただ一種類の存在だけだった。
──アンデッド。
荷車を引いていたスケルトンの列が、一斉にぴたりと止まる。
石垣を積んでいたゾンビの腕が、その場で固まる。
巡回中のデス・ナイトが、足を止め、ゆっくりと首を上げた。
眼窩に光はない。
表情も変わらない。
だが、確かに“聞いている”ような気配だけが街に満ちる。
「……え? なに、今の」
パン屋の娘は、思わず周囲を見回した。耳には、風と人の話し声と、荷車の軋む音しか届かない。先ほどの四音など、影も形もない。
ただ、アンデッドたちだけが、まるでどこか遠くにある「見えない鐘の塔」に視線を向けるように、同じ方向へ首を傾けている。
「おい。今、止まったよな?」
「合図でもあったのか?」
城門の見張りをしていた兵士たちも異常に気付いたらしい。
だが彼らの耳にも、何の音も届いていない。
「一瞬、耳鳴りみたいなのはしたけどよ」
「俺は何も聞こえなかったぞ。魔導国の新しい号令か?」
人間たちは戸惑い、アンデッドは沈黙したまま、数拍の後、何事もなかったように動きを再開する。荷車が再び動き出し、石が積み上げられ、デス・ナイトが歩哨の巡回を続ける。
先ほどの四音は、まるで初めから存在しなかったかのように、
空からも地面からも跡形もなく消えていた。
ただ、その光景を、エ・ランテル冒険者ギルドの窓からじっと見つめている者がいた。
──ギルド受付嬢。
「……いまの、やっぱり変よね」
彼女は帳簿に挟んでいた羽ペンを置き、窓辺から離れた。
なにか、胸の奥にざらついた違和感だけが残る。
魔法障壁の干渉? 新しい支配魔法?
それとも、もっと別の──。
「受付さん、どうかしたのかい?」
たまたまカウンターにいた下級冒険者が声をかけてくる。
彼女は「なんでもないです」と笑って首を振りながら、先ほどの出来事をこっそりメモに書き留め、その紙を別の書類と一緒にまとめた。
そのメモはやがて、後に届く一通の報告書と共に、 エ・ランテル冒険者ギルドの「異常事案」の束に綴じられることになる。
***
同じ日の午後。
冒険者ギルド内部の掲示板には、変わらず依頼票と魔導国からのお触れが並んでいた。
しかし、依頼を眺めていた冒険者たちの会話には、先ほどのアンデッドの“足並み停止”が当然のように混ざっている。
「おい、聞いたか? アンデッドどもが一斉に固まったって話」
「聞いたも何も、俺は目の前で見たぞ。荷車がガクンと止まってよ。あやうく挟まれるとこだった」
「合図も号令もなく、いきなりピタッと止まるってのは気味が悪いな……」
そこへ、受付カウンターの方から声が飛んだ。
「みなさん。うちのアンデッドは、魔導国から正式に管理されている労働力なんですから、 あまり不安を煽るようなことは言わないでくださいね」
にこやかな注意。
しかし、その声には、微かに張り詰めたものが混じっていた。
彼女自身も、さきほどの出来事がただの偶然とは思えなかったのだ。
そんな中、ギルドの重い扉が勢いよく開かれた。
「緊急報告だ! ギルドマスターはいるか!?」
荒い息を切らし、泥と木の葉で汚れたマントの男が数人、ギルド内に飛び込んでくる。中堅どころの冒険者パーティだ。彼らは受付嬢の顔を見るなり、手にした筒を掲げた。
「エ・ランテル北東の森での探索依頼の件です! ……妙なものを見つけました」
***
ギルドマスターの執務室は、
書類と地図と、酒瓶とため息で満ちていた。
「エ・ランテル北東の森で……妙なものを発見。“大地を抉る爆発痕”。大きさは小さな村がまるごと入るほど……か」
先ほど持ち込まれた報告書に目を通し、ギルドマスターは低く唸り声を上げる。
横で控える受付嬢は、顔色を変えずに追加情報を補足していく。
「調査に向かったパーティは、依頼された魔物討伐のついでに、森の奥で“空から光の柱が落ちるのを見た”という帰還途中の商人から話を聞き、念のため現地確認を行ったそうです」
報告書には、簡単なスケッチも添えられていた。
円形に抉れた地面。中心部は黒く焼け焦げ、周囲には砕けた岩と土が、波打つように盛り上がっている。
「まるで、巨大な槌で地面を叩き潰したような。いや、強力な爆裂魔法の痕とも取れるが」
ギルドマスターは視線を上げ、報告に来たパーティのリーダーを見据えた。
「実際に見たお前たちの目から見てどうだ。人間の仕業か?」
リーダーは、苦々しい顔で首を横に振る。
「ギルドマスター。俺たちは今まで焼き払った村も、亜人の軍に蹂躙された村も見てきました。だが、あれは……どれとも違う」
「違う?」
「まず、周囲に“なにかが通った痕跡”がまったくありません。巨大な魔獣が踏み荒らしたなら、その足跡や、木々を薙ぎ払った跡が残るはずです。けれど、森はそこだけ、ぽっかりと“抜け落ちていた”ようにしか見えませんでした」
別のメンバーが、思い出したように口を挟む。
「それに……あの臭いです。焦げた土と、鉄とも石ともつかない、鼻の奥に張り付くような匂い。炎の魔法や雷の魔法のあととも違いました。あれは、人間の手でどうこうできるものじゃありません」
室内の空気が重く沈む。
「報告書の他になにか言っていなかったか?」
ギルドマスターの問いに、受付嬢が言葉を継ぐ。
「……“あんなの、人間の手じゃ無理だ”と」
しばしの沈黙。
ギルドマスターは椅子から立ち上がると、壁に掛けられた地図へと歩み寄った。
エ・ランテル北東の森。
光柱が落ちたというポイント。
そこから街道、村、王都へと続く線を何本か引き、頭の中で嫌な予感を押し込める。
「……アンデッドが一斉に動きを止めたのが今朝」
ぽつりと呟き、視線だけで受付嬢を振り返る。
彼女はすぐに察して、先ほどまとめたメモを差し出した。
「はい。時刻は午前、日が上って間もない頃。街中にいたアンデッドの多くが、自発的な指示なしに一時停止。その後、数十息ほどで再始動。人間側には、明確な音や光などの兆候は観測されず……です」
ギルドマスターは、森の爆発痕の報告書と、アンデッド一斉停止のメモを並べて机に置いた。
偶然だと切り捨てることもできる。
だが、最近になって増え始めた「妙な噂」の数々が、彼の背中を押していた。
──見慣れない揃いの服を着た人間たちを見た。
──森の上空に、逆さまの街の影が見えた。
──読めない文字で埋められた板切れが、空から降ってきた。
どれも、あまりにも荒唐無稽で、
王国の役人なら机の引き出しに放り込みそうな話ばかりだ。
だが、ナザリック──魔導国は、そうした噂話も余さず拾い上げる。
ギルドマスターは、決断するように息を吐いた。
「……魔導国へ報告を上げる」
受付嬢が深く頷く。
これは、ただの地方ギルドの手に余る話だ。
「それと──モモンに連絡だ」
黒い鎧の英雄。
今は魔導国所属となったその冒険者ならば、この異常の意味を、少なくともギルドマスターたちよりは理解できるかもしれない。
窓の外では、さきほどと同じように、アンデッドの列が黙々と働いている。
キーン……コーン……カーン……コーン。
誰も聞いていないはずの四つの音が、どこか別の世界の空で鳴り響き、その残響だけが、じわじわとこの世界へ染み出してきていることを──
この時点で、まだ誰も、知る由もなかった。
***
魔導国の漆黒の英雄モモンことアインズは、ギルドからの連絡を受けると、即座にナーベを伴って森へと向かっていた。
「モモンさん。まもなく報告のあった地点です」
ナーベが無表情のまま告げる。その声には主への絶対の信頼が込められていた。
森の木々がまばらになったその先──
地面が、不自然な形に抉れていた。
直径にして数十メートルは優に超えている。
中心部は黒く焼け、周囲には土と岩が吹き飛ばされたように盛り上がっている。
まるで、巨大な槌で世界そのものを殴りつけたかのような、乱暴な穴。いやもっと適切な表現がある。強力な爆裂魔法が問答無用の強化をもって無慈悲に炸裂した痕跡。
アインズ──いや、今はモモンと呼ばれる漆黒の全身鎧に身を包んだ剣士は、その光景を見た瞬間、学園世界で何度も見せられたアホほど派手な爆発を思い出した。
(あ……これは──)
赤いマントを翻し、眼帯をつけた黒ローブの少女が、高笑いする姿が脳裏に浮かぶ。
「エクスプロージョン!!」
と、毎日のように絶叫していた魔法少女。
地面に残る放射状の破壊痕。
中心部に残る膨大な熱量の残滓。
(間違いない。めぐみんのエクスプロージョンでできたクレーターだ)
骸骨には額の汗は浮かばない。だが、精神的な冷や汗は盛大に噴き出していた。
「モモン様?」
「ナーベはなにか感じるか?」
「これは……かなり危険な痕跡だと判断します。意図的に放たれればナザリックはまだしもエ・ランテルはひとたまりもないでしょう」
ナーベは純粋な威力の考察を回答する。
アインズはクレーターの縁をゆっくりと歩き、一箇所で足を止めた。
地面の上に、何かが引っかかっている。
半ば焦げかけた木片であった。
それを拾い上げて、土を払うとそこには見慣れた文字列が刻まれていた。
《一年一組》
それは、あの学園世界でアインズが通っていたクラスの、教室プレートと同じものだった。
モモンはしばし無言で見つめた。
(ああああああああ…… なんでこんなものがこの世界にまで落ちてきているんだ……!?)
学園の廊下で毎日目にしていた、あの何気ない白いプレート。
その一部が、異世界の森の土の上に転がっている。
「モモン様、その破片は……?」
「……異世界の“標識”みたいなものだ」
思わず口から出た言葉に、アインズは自分でも驚いた。もっともナーベも似たものを見ていたはずだが、所詮記号として扱い、わかっていなかったのかもしれない。
(いや、間違ってはいない。だがそう説明すると、なんかもっと厄介そうに聞こえるな)
彼は慎重に破片を回収し、クレーターを一巡り見渡した。
爆発は既に終わっている。
残っているのは傷跡と、わずかな熱に起因した臭いだけ。
しかし──
(爆発そのものがこの世界に転移してきたのか?
それとも、向こうで起きた爆発の余波がここに穴を開けたのか。
どちらにせよ、“あの世界の出来事”が直接こっちに触れ始めているってことか……)
アインズの思考は、急速に嫌な方向へと転がっていく。
(爆発の次は……何だ? あいつらそのものか……?
いや待て、まだ決めつけるのは早──)
彼が心の中で制止をかけるよりも早く、世界の方が先に動き始めていた。