軍貫使いはZEXALで寿司を握る 作:Dの軍貫 シンキハヨ・チョーダイナ
真昼の太陽が天頂を支配し、白く焼けたアスファルトから立ち上る陽炎が視界を不気味に歪ませるハートランドシティの裏通り。張り詰めた緊張感は限界を超え、大気そのものが火花を散らすかのようだった。九十九遊馬とシャーク――神代凌牙のデュエルは、まさに佳境を迎えている。
傍らでは、アストラルが冷ややかな燐光を放ちながら半透明の身体を揺らし、観月小鳥は祈るように胸の前で手を固く組んでいた。二人の少女と一人の精霊が見守る中、ぶつかり合うのはカードの応酬ではなく、剥き出しの魂そのものだった。ナンバーズの闇に侵食され、漆黒の復讐心に突き動かされるシャークと、それをボロボロになりながらも正面から受け止めようとする遊馬。二人の間には、熱波よりも息苦しく、重い沈黙が横たわっていた。
「今の俺を突き動かしているのは、復讐と憎しみの心だけだ……」
シャークの唇から漏れ出た声は低く、真夏の酷暑さえ一瞬で凍てつかせるような、研ぎ澄まされた殺意を帯びていた。かつてデュエルを通じて言葉を交わし、互いの実力を認め合ったあの少年の面影は今やどこにもない。ただ、漆黒の槍を構え、禍々しいオーラを放つモンスターの影が、彼の輪郭を塗り潰していた。
「やめろ、シャーク! そんな、自分を傷つけるような顔をしてデュエルしたって……!」
「うるせぇ! 情けをかける余裕があるなら、自分の心配をしてやがれ! 俺は《ブラックレイ・ランサー》で攻撃!」
冷酷な宣告と共に、漆黒の奔流が遊馬を襲う。遊馬の手札には防御手段があり、伏せカードで凌ぐこともできたはずだ。しかし、彼はデュエルディスクを動かすことさえせず、ただ真っ直ぐに、襲い来る一撃をその細い身体で受け止めた。
遊馬 LP 2200 → 100
凄まじい衝撃波が狭い路地裏の壁を叩き、遊馬の身体は無残に地面を擦った。土埃が舞い上がる中、瀕死のライフポイントを告げる警告音が、無機質なリズムで周囲に響き渡る。
「くっ……うぅ……」
『なぜだ! 遊馬、なぜライフを守る手段がありながら使わなかった!?』
隣で浮遊するアストラルが、困惑と苛立ちの混じった声を上げる。計算と論理を司る彼にとって、明白な勝機を自ら投げ捨てる遊馬の行動は、到底理解し得ない「エラー」でしかなかった。
「アストラル……俺は、俺は……」
遊馬は深く俯き、土に汚れた拳を、血が滲むほど白くなるまで握りしめた。その肩は小さく、しかし内側から湧き上がる激しい情動を抑えきれずに震えている。
『君は何を考えているんだ! この一撃を受ければ、次はない! このままでは負けるぞ!』
「俺は……そんな勝ち方、ちっとも嬉しくねぇんだよ!!」
その叫びは、喉を裂かんばかりの爆発的な感情となって路地裏にこだました。シャークも、アストラルも、小鳥さえも、その剥き出しの熱量に圧倒され、次の言葉を紡ぐことができない。
「俺はこのデュエル、勝ち負けなんてどうでもいいんだよ!!」
「憎しみで、復讐で! そんな暗い顔でカードを引いて……お前、今デュエルが楽しいのかよ!?」
顔を上げた遊馬の瞳には、勝利への執着など微塵もなかった。そこにあるのは、ただ友人を想う純粋で、深く、痛切な悲しみだけだ。彼はシャークが内側に溜め込み、出口を失って腐りかけているどす黒い憎悪を、その未熟な身体で丸ごと受け止め、浄化しようとしていたのだ。
「っ……!? お前、何を……」
突き刺さるような言葉の弾丸に、シャークの眉が大きく跳ねる。復讐という鋼の鎧で固めたはずの心が、遊馬の射抜くような眼差しを浴びて、微かに、しかし確かに鳴動を始めた。
「お前は、デュエルだけは大好きな奴だっただろ!!」
「だけど今のお前は、そのデュエルさえ憎もうとしてるじゃねえか!!」
「俺は……俺は、そんな悲しいお前を、見たくねえんだよ!!」
魂の深層を削り出すような遊馬の啖呵。アストラルはその言葉を聞き、冷たい論理の裏側で、胸の奥がじりじりと熱くなるのを感じていた。消えかかりそうな心の火種に、遊馬は必死に息を吹き込んでいる。デュエルという対話を通じて、シャークの凍てついた氷壁を溶かそうとしている。
シャークは、突きつけられたデュエルディスクを握り直すことさえできず、沈黙した。遊馬のあまりに真っ直ぐな想いが、復讐という名の強固な鎧に、修復不能なほどのヒビを入れていく。
「だから俺は……絶対にお前を……」
遊馬がさらに踏み込み、心の核心に触れる言葉を継ごうとした、その刹那――。
グゥ~~~……ッ!!
あまりにも巨大で、あまりにも場違いな空腹の咆哮が、張り詰めた静寂を豪快にぶち壊した。
「……もうっ! 何やってるのよ、あんたは!」
たまらず小鳥が膝を突き、全力のツッコミを入れる。路地裏に充満していた悲壮な重苦しさは、その拍子抜けな音と共に、陽炎の向こうへ霧散していった。
「し、仕方ねえだろ! これだけ身体張って叫んだら、腹も減るってんだよ~!」
遊馬は顔を真っ赤に染め、照れ臭そうにツンツンと逆立った髪を掻く。その、あまりにいつも通りな光景に、アストラルは深い溜息を吐いて呆れ果てた。シャークもまた、毒気を抜かれたようにふっと視線を逸らす。彼の心を覆っていた冷たい霧が、遊馬の放つ無邪気なエネルギーに洗われ、ほんの一筋、光が差し込むほどに晴れたように見えた。
「……はっ、そうかよ。抜けた野郎だぜ」
「シャーク!」
「いいか、遊馬……この決着はWDCの決勝でつける! 命拾いしたな、忘れるなよ!」
それは、取り憑かれた復讐者としてではなく、一人のデュエリストとしての再戦の誓いだった。シャークはそれだけ言い残すと、翻したマントの裾を風になびかせ、長く影の伸びる路地の先へと消えていった。
「シャーク……待ってるぜ、決勝で!」
『……ふむ。先ほどまでの彼は、崖っぷちを歩くような危うさがあった。遊馬、不本意ではあるが……よくやったと言っておこう』
「へへっ、そうだな、アストラル! この後も全開で、かっとビングだぜ、俺!」
すっかり元通り――いや、空腹のあまり以前より騒がしくなった遊馬が、誇らしげに鼻の下を擦る。その時、静まり返った路地に、電子の海を越えてピピッと軽快な通知音が響き渡った。
「えぇ~? なんだよ、このタイミングで」
「どうしたの、遊馬?」
小鳥が横から覗き込んだD・ゲイザーの画面には、九十九家の絶対権力者、婆ちゃんからの短いメッセージが表示されていた。
『昼飯ができたよ。冷めないうちに早く帰っておいで』
「ま、婆ちゃんの飯なら仕方ないな! 行こうぜ、小鳥、アストラル!」
「もう、現金なんだから。……でも、そうね、お腹空いちゃった!」
沈みかけた夕陽の残光が、三人の足元に長く、温かな影を落とす。彼らは並んで歩き出し、賑やかな笑い声を残しながら、九十九家への帰路についた。道中、遊馬はさっきまでの死闘など記憶の彼方へ追いやったかのように、これから胃袋に収まるであろう献立に想いを馳せていた。
空腹こそが最大の調味料。期待に胸を膨らませ、重い足取りの小鳥を引き離して階段を駆け上がる。
「ただいまーっ!」
勢いよく自室の扉を開け放った遊馬だったが、そこに待っていたのは、見慣れた日常の風景ではなかった。
「えぇっ!? Ⅲ! お前、なんで俺の部屋にいるんだよ!」
驚愕で声を裏返らせる遊馬を余所に、侵入者であるはずの少年、Ⅲはうっとりとした表情で棚を眺めていた。
「遊馬~すごいよ、すごい!! どれも歴史の鼓動を感じる、素晴らしい物ばかりだよ~!」
彼の瞳には、かつて戦場で見せた冷徹な光など微塵もなかった。あるのは、純粋な好奇心と情熱。本来の目的は、父トロンの命を受け、遊馬の強さの秘密を暴くための潜入だったはずだ。しかし、目の前に並ぶ一馬が世界中から持ち帰った歴史の欠片を前に、Ⅲの中の筋金入りのオーパーツマニアが完全に暴走していた。
「えっ? お、おう……?」
「遊馬、君のお父さんはなんて素晴らしい冒険家だったんだ! この石像の流麗な曲線、そしてこのレリーフに刻まれた古代の息吹……。数千年の時を超えて、僕に何かを必死に語りかけてくるようだ! どれも最高に、最高に素晴らしいよ!」
Ⅲの手は小刻みに震えていた。それは敵意からではなく、名もなき古代の職人たちに対する敬意と歓喜。これほどまでに一馬のコレクションの真価を理解する相手を、遊馬は初めて見た。
「そ、そいつの凄さが分かるのか!?」
「もちろん! 僕が大好きなカードたちも、これと同じ魂を宿しているんだ。ほら、見て!」
Ⅲが宝物のように差し出したのは《先史遺産アステカ・マスク・ゴーレム》。その独特な仮面の造形と、棚に置かれた石像の共通点を熱っぽく語るⅢに、遊馬もいつの間にか身を乗り出していた。
「本当だ! ここんとこの模様、そっくりじゃねーか!」
「だろう? まさかこんな場所で、僕の『友だち』に出会えるなんて……」
二人の間に流れるのは、敵対するデュエリストの火花ではなく、趣味を共有する少年たちの瑞々しい共鳴だった。そこへ、お盆を手にした婆ちゃんが、香ばしい醤油の香りを連れてのんびりと現れた。彼女はⅢの素性など気にする様子もなく、ただ単に「孫が連れてきた礼儀正しいお友達」として接し、穏やかな微笑みを向ける。
「さぁさぁ、お客さんも一緒にご飯にしようじゃないか。丁度今、美味しいおにぎりが握りたてだよ」
「えっ、あ……。は、はい。ありがとうございます、お婆様」
刺々しい使命感を完全に削がれたⅢは、誘われるままに階下の食卓へと向かった。
九十九家の食卓は、言いようのない熱に満ちていた。
立ち上る味噌汁の湯気、明里の小言、そしてそれ以上に騒がしく明るい遊馬の声。それは、冷徹な復讐に身を置いてきたⅢにとって、眩しすぎるほどの温もりだった。
「うわぁっ、やっぱり婆ちゃんのおにぎりは世界一だぜ!」
遊馬が大きな口を開けて、握りたてのおにぎりに食らいつく。その隣で、Ⅲはおずおずと、まだ熱を帯びた白い塊を手に取った。ゆっくりと口に運び、咀嚼する。
「……美味しい。温かくて……なんだか、胸の奥まで熱くなるような味ですね」
賑やかな団欒を見つめるⅢの瞳に、ほんの少しだけ、切ない寂しさが混じる。
「遊馬。君は、こんなに温かいものに囲まれているんだね」
「おう! 腹が減ってちゃかっとビングできねーからな! ほら、Ⅲ、おかわりもいっぱいあるぞ!」
遊馬の屈託のない笑顔と、差し出された二つ目のおにぎり。Ⅲはそれを受け取り、自分が敵であることを一瞬だけ忘れ、一人の少年としてその温もりを噛み締めていた。
「うめぇ、やっぱり婆ちゃんのおにぎりは世界一だぜ!」
遊馬が弾けるような笑顔で、大ぶりの具沢山おにぎりに食らいつく。その隣で、Ⅲは差し出されたばかりの、まだ熱を帯びた白い塊をおずおずと両手で包み込んだ。手のひらから伝わる確かな熱量に、彼は一瞬、戸惑うように指を震わせた。
(……温かい。お米の一粒一粒に、誰かを想う温度が宿っている……)
意を決して口へと運ぶ。丁寧に結ばれた米が口の中でほどけ、素朴な塩気が広がった。咀嚼するたびに、なぜか喉の奥がキュッと締め付けられるような感覚に陥る。それは空腹を癒やす美味しさへの感動であると同時に、あまりに切実で、暴力的なまでの痛みを伴っていた。賑やかな笑い声が飛び交う九十九家の団欒を見つめるⅢの瞳が、次第に潤みを帯びていく。その視界の端で、不意に、心の奥底に封じ込めていたはずの記憶が鮮烈な色彩を持って蘇った。
それは復讐という呪縛に染まる前、幸せな家族として過ごした、輝くような平和な日々。
いつも穏やかな眼差しで弟たちを導き、輝かしい未来を語ってくれた長兄。まだその瞳に暗い狂気を宿しておらず、少年のような快活な笑い声を響かせていた次兄。そして、威厳と慈愛に満ち、家族にとっての絶対的な太陽であった父。
だが、今の彼らはどうだ。かつての優しさを捨て、冷徹な機械のように策を弄するⅤ。残虐な快楽に耽り、人の心を折ることに歪んだ悦びを見出すⅣ。そして、あどけない少年の姿のまま、どす黒い憎しみを撒き散らすトロンという名の化物。
(……どうして、僕たちは……。どうして、こうなってしまったんだろう)
目の前で繰り広げられる九十九家の幸せな光景が、かつての自分たちの姿と残酷なまでに重なる。それが今の自分たちの無残な現状を、より鮮明に、より鋭利に浮き彫りにした。
Ⅲの胸の奥に、研ぎ澄まされたナイフで抉られるような激痛が走る。家族を心の底から愛しているからこそ、彼は今の自分を肯定するために、この目の前の温もりを否定しなければならない。復讐という暗い使命が、喉を通ったばかりの温かいおにぎりの味を、鉄のような苦味へと変えていった。
(遊馬……君がいる限り、僕たちの復讐は果たせない。君の持つ光は、あまりにも眩しすぎて……僕たちの歩む闇を、その残酷な正体を照らし出してしまうんだ……!)
九十九家を出た二人は、腹ごなしを兼ねて夕暮れの街へと歩き出した。西の空は燃えるような茜色から琥珀色へと染まり、街路樹の影を怪物のように長く引き摺っている。遊馬は隣を歩くⅢの沈黙に気づかず、屈託のない笑顔でこれからのWDCの展望や、今日の夕飯の期待を語り続けていた。だが、Ⅲの瞳からは先ほどまでの熱が消え失せ、凍てつくような決意がその奥に宿り始めていた。
その時だ。
「おっ、遊馬じゃねぇか」
「あ、寿!どうしたんだ、珍しいじゃんか!」
「親父の友達の店の手伝いをしててな……客足も落ち着いてきたってことで、帰っていた途中なんだ」
「へぇ!何の店なんだ?」
「今度話すさ……ところで、その隣にいる奴……」
向こうから歩いてきたのは、用事を済ませて戻る途中の赤司寿だった。保冷バッグは持っていないが、板前特有の鋭い眼光は変わらぬまま。職人として日々生と向き合う彼の直感は、平和な夕暮れの散歩道に漂い始めた、ひどく不気味で異質な緊張感を即座に嗅ぎ取っていた。
「あ!今さ、Ⅲと一緒に飯食って……」
「……遊馬、少し下がってろ。こいつ、ただの野郎じゃねぇぞ」
寿は足を止め、Ⅲの瞳をじっと見据える。そこにあるのは、友情を育む少年の色ではない。大切なものを守るために、大切なものを捨てようとする処刑人の光だ。
「えっ?」
寿の低い声が、夕闇の入り口に響いた。その低い声には、明らかな警告が孕んでいた。彼は獲物を吟味するような鋭い眼光で、遊馬の隣に立つ少年を射抜く。
「一昨日会った時とは目つきが違う……。それに、お前。明らかに腹を膨らませた後の顔じゃねぇぞ、それは」
寿の言葉は、鋭い刃のようにⅢの心へ突き刺さった。美味い飯を食った後の人間には、魂の充足が顔に出る。だが、目の前の少年――Ⅲから漂うのは、満腹感とは対極にある、内側から身を焼き尽くすような飢えだった。その言葉を受け、Ⅲの瞳から揺らぎが消えた。代わりに宿ったのは、全てを拒絶し、己を研ぎ澄ます刃のような光。その額に、不気味な紋章の輝きがチリチリと音を立てるように揺らめき始める。
「……赤司寿さん。あなたの言う通りです」
Ⅲの声は、先ほど食卓で聞いたものとは別人のように冷え切っていた。
「美味しい食事も、温かな家族の光も、僕にはもう……眩しすぎます。あれを知ってしまったからこそ、僕は守らなければならない。僕の……僕たちだけの居場所を」
「Ⅲ……?」
遊馬の困惑を切り捨てるように、Ⅲは冷徹な宣言を突きつけた。
「遊馬、君を倒さなきゃいけない。家族の笑顔を取り戻すために……僕は、君という最大の障害を排除する!」
その瞬間、周囲の空気が一変した。物理的な風ではない。Ⅲの背負う宿命と紋章から漏れ出す強大なプレッシャーが、空間そのものを歪ませるほどの重圧となって遊馬たちの肌を刺す。寿は咄嗟に遊馬の前に身体を割り込ませたが、その背中越しでも、Ⅲが纏う決死の覚悟が痛いほど伝わってきた。
「今日の夕方、ハートランドの海上道路で待っているよ」
逆光の中に立つⅢの姿は、もはや一人の少年ではなく、復讐という名の機械のようだった。彼はそれだけ言い残すと、迫りくる夕闇の底へと溶けるように、音もなくその場を去っていった。静寂が戻った路上で、寿は去っていった少年の残滓を苦々しく見つめ、拳を強く握りしめた。指先が、怒りと悲しみで微かに震えている。
「……あいつ、完全に自分を捨てやがったな。あんな悲しい決意……本心じゃねぇ。遊馬、どうするんだ?」
遊馬は、Ⅲが消えた方向をじっと見据えていた。その瞳には、恐怖ではなく、かつてないほど強く、真っ直ぐな光が宿っている。
「……俺は、Ⅲを救いたい。あいつがまた、心から笑ってくれるように……。だから、俺は全力であいつにぶつかるぜ! それが、俺のデュエルだ!」
遊馬の言葉に、寿は小さく息を吐き、不敵な笑みを浮かべた。
「……そうかい。なら、最高のかっとビングを振る舞ってこい。あいつのその捻じ曲がった根性を叩き直してやれ」
「ああ!」
しかし、遊馬はまだ知らなかった。Ⅲは彼の光を塗り潰すために、自らの魂を対価として捧げ――底知れぬ闇の力をその身に宿そうとしていることを。
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夕刻、空は燃えるような茜色から、夜の帳を孕んだ不気味な紫紺へと塗り替えられようとしていた。長く伸びた廃墟の影は、まるで巨大な怪物の爪のように街を覆い、吹き抜ける潮風は昼間の温もりを完全に奪い去っている。九十九遊馬とアストラルは、Ⅲとの約束の場所――海上へと続く一本道へと、一歩一歩、自分たちの覚悟を刻みつけるように向かっていた。遊馬の足取りは重くはない。だが、その背中にはいつもの軽快な勢いとは違う、張り詰めた静寂が宿っていた。
「……遊馬、本当にいいんだな?」
隣を漂うアストラルの透明な身体が、冷たい風に波打つ。彼の鋭い視線は、遥か前方、空間そのものが歪んでいるかのように渦巻く闇の胎動を真っ向から捉えていた。
「何がだ、アストラル?」
「Ⅲ。先ほど君の家で見せたあの表情、そして今の彼から放たれる波動……。あの覚悟は本物だ。はたして、今の私たちに、闇を呑み込んだ彼を止める術があるかどうか」
アストラルの冷静、かつ悲痛な分析に、遊馬は足を止めることなく答えた。その視線は、暗がりの先に待つ友だけを見据えている。
「分かってるさ。でも……でも俺はあいつの本当の気持ちを知りてえんだ」
遊馬は自分の胸元、皇の鍵を強く握りしめた。
「俺は、上辺だけの勝負じゃなくて、本当のデュエルをしてえんだ。デュエルを通して、あいつが何を悲しんでるのか、何を背負ってるのか……全部、分かってやりたいんだよ」
その瞳には、かつてシャークやカイトの凍てついた心を溶かこうとした時と同じ、濁りのない真っ直ぐな光が宿っている。アストラルは一瞬、その眩しさに目を細めた後、わずかに口角を上げて、運命を共にすることを改めて決意した。
「遊馬……フッ。わかった、君にそのようなことを言うのは野暮だったな」
だが、アストラルはすぐに表情を引き締め、厳しい現実を突きつけた。
「だが忘れるな。君のハートピースの完成は、あと一つを残すのみ。WDC決勝進出は、すべてこのデュエルにかかっているということを」
「ああ、分かってる……!」
遊馬は短く、しかし力強く応えた。自分の命、仲間の未来、そしてアストラルの存在……。そのすべてを懸けた最後の戦いが、目の前に迫っていた。遊馬がその重圧を飲み込むように唇を噛んだ、その時だった。
「遊馬ーっ!」
背後から、冷たい静寂を突き破るような賑やかな声が響いた。振り返ると、小鳥を先頭に、鉄男、徳之助、委員長、キャッシーたちが、息を切らしながら必死にこちらへ駆け寄ってくるところだった。廃墟と化した街並みに、彼らの明るい声が不釣り合いに響く。
「みんな、来てくれたのか……!」
遊馬の顔に、いつもの柔らかな驚きが戻った。彼らの存在が、海上道路の孤独な冷気を一気に押し返していく。孤独な戦いになると思っていた遊馬の心に、一筋の光明が差した。
「当たり前だろ! お前の大事な一戦を、黙って見てられるかよ!」
鉄男が大きな拳を握って笑う。その背後で小鳥も、不安を隠すように力強く頷いた。
「そうよ、遊馬。私たちはみんな、あんたのデュエルを信じてるんだから!」
「みんな……。へへっ、ありがとうな!」
仲間の絆という熱を受け取り、遊馬の心に再び火が灯る。その時、さらに遠くからチェーンを激しく鳴らし、全力で自転車を漕ぐ音が聞こえてきた。
「はぁ、はぁ……! ひぃ、ひぃ……待て、待てぇ……っ!」
「ん? え、えええええー!?」
現れたのは、額に汗を流し、息も絶え絶えになりながらペダルを回す赤司寿だった。彼は自転車を勢いよく飛び降りて両手で押しながら、肩で息をしつつも遊馬の前に立った。
「寿! お前まで……!」
「当然だろ……あんな不吉な別れ方しといて、知らん顔できるかよ。……いいか、遊馬。あいつが背負っちまった毒を、お前のデュエルで綺麗に洗い流してやってこい!お前なら絶対できる!」
寿の力強い激励に、遊馬は大きく頷いた。一人ではない。自分には、これほど多くの温もりが背中を押してくれている。
「寿まで……よっしゃーっ!みんな、いくぜ!」
「「「「「「お~っ!」」」」」」
夕闇を切り裂くような咆哮が上がった。平和で幸せな食卓で、Ⅲと共に食べたおにぎりの温もり。そして今、ここに集まった仲間たちの想い。それらすべてを胸に抱き、遊馬は闇が支配する決戦の場へと踏み出したのだった。