軍貫使いはZEXALで寿司を握る 作:Dの軍貫 シンキハヨ・チョーダイナ
決戦の舞台となる建設中の海上道路は、潮騒と風に揺れる鉄筋の軋みだけが不気味に響く静寂に包まれていた。かつて黄金に輝いていたはずの夕陽は、今や沈みゆく絶望のように空を赤黒く染め上げ、迫りくる巨大な闇をより一層強調していた。その中心に、Ⅲは静かに佇んでいた。少年の純朴な面影は、額に浮かび上がった禍々しい紋章の光によって塗り潰されている。彼の全身から放たれるのは、空間を歪ませるほどの冷たい圧。以前の彼とは決定的に違う、全てを焼き払うような執念のオーラだった。
「待たせたな、Ⅲ!」
遊馬が荒い息を吐きながら、一歩力強く踏み出す。その真っ直ぐな瞳は、闇に呑み込まれんとする友の姿を捉えて離さない。
「遊馬。君を倒すため……僕は、新たな力を得た」
Ⅲの声には、感情を極限まで押し殺したような、刃物のような冷徹さが混じっていた。
「新たな……力?」
「君に会って、君の家族、そして友達を見て。僕は確信したんだ……僕も自分の大切な居場所を取り戻すためには、君を倒すしかないんだと」
Ⅲが腕を掲げると、周囲の空気が物理的な重さを伴って沈み込む。その重圧は、見守る小鳥たちの喉を詰まらせるほどだった。だが、遊馬は負けじと、魂の底から声を張り上げた。
「俺は、お前の本当の気持ちが知りたい。まだ話してないこと、いっぱいあるんだ!だから、俺は戦う! 戦ったら仲間になれて、そいつの全部が分かる……それがデュエルだ! ここにいるみんなも、そうやって絆をつくった仲間ばかりだ!」
「……絆、か。眩しすぎるよ、君は。その光が……今の僕には痛いんだ」
Ⅲの瞳が、紋章の光に煽られて微かに細まる。
「だから……だからこそ、俺とお前の間にもその絆があるってこと、俺は信じる!」
遊馬の魂の叫びは、Ⅲの凍てついた心を一瞬だけ激しく揺さぶった。しかし、彼はその揺らぎを強引に断ち切るように、冷たい手つきでデュエルディスクを起動させる。そのメカニカルな起動音が、建設中の海上道路の静寂を切り裂いた。
「いくぜ!」
「こい、遊馬!」
「「デュエル!!」」
####
Ⅲ LP 4000 / 遊馬 LP 4000
「先行は僕がもらう。ドロー!」
Ⅲの視界には、トロンの紋章がもたらした異能によって、通常は見えないはずのアストラルの姿が鮮明に映し出されていた。かつて敵対した時とは違う。彼が遊馬の隣に立ち、戦術の根幹を成していることを、Ⅲは冷徹な眼差しで見抜いていた。
(トロンの力を受け入れた今の僕ならば、アストラルが見える。彼が君の力……遊馬を強くしている要因なんだろう?)
見据える先に浮かぶ精霊体。Ⅲの心に、小さな疑念が芽生えるが、すぐにそれを抹殺する。
(たとえそうでも、僕は負けない!僕たちの、悲願のために!)
「僕はフィールド魔法、《先史遺産都市バビロン》を発動!」
Ⅲがフィールドにカードを叩きつけると、轟音と共にARビジョンが展開された。錆びついた廃墟は瞬く間に壮麗な黄金の輝きを放つ古代文明都市へと変貌を遂げ、見上げるほどにそびえ立つジッグラトが天を突き、空には古代の文字が怪しく浮き上がる。
「これは……」
「何だこれ!?」
「ARビジョンってすごいウラ……」
鉄男や徳之助たちが、その圧倒的なスケール感に圧倒され、息を呑む。もはやそこは、この世の果てのような空間だった。
「僕は《先史遺産トゥーラ・ガーディアン》を特殊召喚。さらに《先史遺産ゴールデン・シャトル》を通常召喚! 効果で自身のレベルを4から5に上げる!」
空中を旋回する黄金のシャトルが、魔力的な光を放って膨張していく。戦場の空気が、一気に戦闘モードへと切り替わった。
「くるのか!?」
「レベル5となった《ゴールデン・シャトル》と《トゥーラ・ガーディアン》でオーバーレイ! 2体のモンスターでオーバーレイ・ネットワークを構築、エクシーズ召喚!」
次元の裂け目から、黄金に輝く巨大な三角形の兵器がその姿を現した。
「現れろ、《No.33 先史遺産-超兵器マシュ=マック》!」
凄まじい風圧が遊馬の頬を叩き、超兵器から放たれる圧倒的な熱量が肌をジリジリと焼く。ナンバーズの闇を宿したモンスターの禍々しい波動が、全方位へ放出されていた。
「くっ……こんなに早くマシュマックを!」
「僕はカードを一枚伏せ、ターンエンド。さぁ、この僕を倒して見せろ! 遊馬、君のかっとビングで!」
Ⅲの挑発的な言葉に、遊馬は歯を食いしばり、憤りを含んだ瞳で見据えた。
「復讐だか何だか分かんねぇけど、誰かを傷つけるためのデュエルなんて、そんなのデュエルじゃねぇ! そんなんじゃねぇんだ、俺が父ちゃんから教わった……かっとビングは!」
「かっとビング……残念だけど、今の僕にそれは届かない」
突き放すようなⅢの声。遊馬の指が、決意を込めてデッキに掛かる。
「あっ? いくぜ、Ⅲ! 俺のターン、ドロー! 俺は……」
「焦るな、遊馬! 奴の場にはすでにマシュマックがいる。今は守りを優先し、隙を伺うしかない」
アストラルが遊馬の前に浮遊し、冷静な警告を発する。このままでは罠にはまる可能性が高い。
「え~っ?」
「それに、彼の雰囲気……今までとは何か違う。彼は新たな力を手に入れたとさっき言っていたな。やみくもに攻撃すれば、その牙の餌食になるぞ」
「わ……わかってんだよ! よし、俺はモンスターを裏守備表示でセット、さらにカードを一枚伏せてターンエンドだ!」
遊馬は悔しげに唇を噛みながら、アストラルの助言に従う。勝負はまだ始まったばかり。ここで無理をしては、Ⅲの思う壺だ。あえて防御に徹するその選択が、吉と出るか凶と出るか。Ⅲは冷ややかな目で、その行動を観察していた。
「僕のターン、ドロー! 魔法カード《パレンケの石棺》を発動し、カードを2枚ドロー! さらに《先史遺産アステカ・マスク・ゴーレム》を特殊召喚!」
Ⅲがフィールドに叩きつけたカードから、黄金の光が溢れ出る。彼がかつて純粋に心から愛していたはずのオーパーツを模したモンスターが、その姿を現した。だが、今の彼の瞳には、かつての愛着など微塵も残っておらず、ただ冷徹に勝利へ突き進む駒としてしか扱う、冷酷な光しか宿っていなかった。
「いけ、《アステカ・マスク・ゴーレム》! ベレンケブロー!」
ゴーレムの巨大な拳が、遊馬のフィールドに伏せられたモンスターに叩きつけられる。しかし、そこに立ち塞がったのは、遊馬が信頼する頑強な相棒だった。
「ゴゴゴゴーレム!」
《アステカ・マスク・ゴーレム》ATK 1500 vs 《ゴゴゴゴーレム》DEF 1500
「引き分け……いや、ゴゴゴはやられねぇ!」
「ああ。守備表示の《ゴゴゴゴーレム》は1ターンに一度だけバトルで破壊されない。これで攻撃も耐えられる!」
遊馬は拳を握りしめ、なんとか凌ぎきったことに安堵の表情を見せる。しかし、それはⅢの冷徹なシナリオ通りだった。
「僕の狙いは、バトルなんかじゃあない。僕は《先史遺産カブレラの投石機》を召喚し、効果発動! 《アステカ・マスク・ゴーレム》をリリースし、相手モンスターの攻撃力を0にする!」
「なに!? 自分のモンスターを、そんなあっさりと……!」
「呪いを受けろ、《ゴゴゴゴーレム》!」
《ゴゴゴゴーレム》ATK 1800 → 0
「まずいぞ、このコンボは!」
アストラルの叫びと同時に、超兵器マシュ=マックの砲身が禍々しい駆動音を立てて展開され、まばゆい光が収束していく。Ⅲの瞳が、無慈悲に遊馬のライフを見据えた。
「《マシュ・マック》の効果発動! 攻撃力の変化分だけ、相手にダメージを与える! インフィニティ・キャノン!」
黄金のエネルギー奔流が遊馬を正面から呑み込み、空間を激しく揺るがす。
「「ぐはああああああっ!!」」
遊馬 LP 4000 → 2200
凄まじい衝撃波で吹き飛び、建設中の砂利道の上を激しく転がる遊馬。その背後に立ち上がる砂煙が、ダメージの重さを物語っていた。
「《カブレラの投石機》は守備表示になり、ターンエンドだ」
「遊馬、大丈夫!?」
小鳥が悲鳴を上げる中、寿も鉄筋を握りしめ、歯を食いしばる。
「……無茶苦茶な戦術だな。だが、アイツの目が死んでやがる」
「こんなの……何でもねぇ!」
遊馬は砂を吐き出し、よろめきながらも立ち上がった。その瞳にはまだ希望が宿っている。
「遊馬、今は罠カードを……」
「……アストラル、これは俺のデュエルだ。俺は、俺のデュエルでアイツを救いたいんだよ!」
「……分かった。私からはもう、何も言うまい」
一瞬アストラルはたじろぐが、その言葉の真意をすぐに理解すると同時にこれ以上は余計だと判断し、冷静に見守ることにした。
「俺のターン、ドロー! 《ガガガマジシャン》を召喚! さらに《バウンド・ワンド》発動! 攻撃力をレベル×100ポイントアップだ!」
《ガガガマジシャン》ATK 1500 → 2300
魔力を増大させたガガガマジシャンが杖を構え、反撃の狼煙を上げる。しかし、Ⅲの表情は鉄の仮面のように、一切動かない。
「《マシュ=マック》の効果は?」
「使わないよ、微々たるダメージのために貴重なオーバーレイ・ユニットを使うのはもったいないからね」
「なら、《ガガガマジシャン》で《カブレラの投石機》を攻撃だ!」
「無駄だよ。罠発動、《コスタリカン・ストーン・ボール》! 攻撃を無効にし、そのモンスターは次まで攻撃できない!」
Ⅲの罠カードから現れた巨大な石球が、マジシャンの魔法攻撃を霧散させる。遊馬は悔しげに奥歯を噛んだ。
「……くっ! 俺はカードを一枚伏せてターンエンド!」
「この瞬間、《バウンド・ワンド》の効果が切れ、《ガガガマジシャン》の攻撃力は下がる」
《ガガガマジシャン》ATK 2300 → 1900
Ⅲの冷徹なコンボと、遊馬の必死の抵抗。海上道路は、より一層張り詰めた静寂に包まれた。
「僕のターン、ドロー! フィールド魔法《バビロン》の効果発動! 墓地の《ゴールデン・シャトル》を除外し、同じレベルのモンスターを特殊召喚する!」
Ⅲがフィールド魔法の力を解放すると、黄金の都市の廃墟から、再びあの禍々しい石像が這い出してきた。バビロンの力が、死んだモンスターを再び戦場へと引きずり戻す。
「現れろ、《アステカ・マスク・ゴーレム》!」
「Ⅲ……お前、一体どうしちまったんだ!? あんなにオーパーツが好きだって、目を輝かせて楽しそうに話してただろ! なのに、今のそのモンスターの扱いは……!」
遊馬の魂からの問いかけに、Ⅲの手の甲にある紋章がさらに強く、刺々しく発光する。その痛みと共に、彼の心はより冷酷な闇へと沈んでいった。
「黙れ……! モンスターは僕の駒、父様の悲願を果たすための道具に過ぎない!」
「本気で言ってるのか!? あんなにキラキラした目のお前が……楽しかった思い出も、全部嘘だったってのかよ!」
「遊馬、僕は変わったんだ。温もりも、笑顔も……今の僕には必要ない! どんな犠牲を払っても、僕は君を葬る!」
「Ⅲ……っ!」
遊馬の言葉が胸に刺さるのを、Ⅲは紋章の力で強引に抑え込む。
「僕は《カブレラの投石機》の効果発動! 《アステカ・マスク・ゴーレム》を再びリリースし、《ガガガマジシャン》の攻撃力を0にする!」
Ⅲがそう宣言すると共に、空に浮かぶ巨大庭園が再び鼓動し始める。
「やばい! あのコンボがまた来るぞ!」
「《マシュ=マック》の効果が直撃すれば、遊馬のライフは残り300まで削られる!」
「そこに攻撃が加わったら……トドのつまり、遊馬君の負けです!」
見守る委員長たちが絶望的な声を上げる中、遊馬の瞳だけは限界を超えて鋭く光った。彼はⅢの冷徹なシナリオを、その熱さで打ち砕く。
「そんなことはさせねぇ! 罠発動、《ガガガラッシュ》!」
「なんだと!?」
「このカードは、《ガガガマジシャン》が効果の対象になったとき、その効果を無効にして破壊する! さらに、破壊したモンスターの守備力分のダメージをお前に与える! 《カブレラの投石機》の守備力は1800! 食らえ、Ⅲ!!」
ガガガマジシャンが杖を振るい、反転させた魔法が投石機を粉々に砕く。その爆発の破片が、Ⅲへと降り注いだ。
「ぐはああああああっ!!」
Ⅲ LP 4000 → 2200
「やった! これでライフが並んだわ!」
小鳥が歓喜の声を上げる。衝撃に膝をつき、肩で息をするⅢ。だが、その瞳からは未だに闇の光が消えていない。
「よし……アストラル、行くぞ!」
「ああ。今の彼は勝利に固執するあまり、慎重さが裏目に出ている。論理的な予測が可能な分、君のような無茶苦茶なデュエリストには隙を突かれるだろうな」
「一言多くねぇか? まぁ、褒め言葉として受け取っとくぜ!」
「フッ。このまま一気に畳み掛けるぞ、遊馬」
「おう!」
(けど、ただ勝つだけじゃダメなんだ。このデュエル……俺は絶対に、本当のアイツを取り戻してみせる!)
燃えるような執念と、友を想う熱き誓い。夕闇に染まる海上道路で、二人の少年による限界を超えた戦いは、さらに激しさを増していく。黄金の都市バビロンの残光が、不気味なエメラルドグリーンの光に塗り潰されていく。Ⅲの紋章が脈動するたび、大気が悲鳴を上げるように軋んだ。
「……分かったぞ……」
「何がだ、Ⅲ?」
「遊馬の『かっとビング』に、アストラルの戦術。二人の力は、僕の上を行くというのか……。計算も、覚悟も、僕一人では君たちに届かない……」
Ⅲの瞳から、人間らしい光が急速に失われていく。代わりに宿ったのは、底なしの虚無と、それを埋め尽くさんとするトロンの憎悪。不気味な紋章が脈動するたび、彼の精神は徐々にトロンの思想へと塗り替えられていた。
「Ⅲ、俺はお前が何を考えているのかは分からねぇ! けど、あんなに目を輝かせていたオーパーツを、自分の相棒を犠牲にするなんて、そんなのお前のデュエルじゃねぇ! 自分のデュエルをしろよ、Ⅲ!」
遊馬の魂の叫びが、海風に乗ってⅢに叩きつけられる。しかし、Ⅲは力なく首を振った。その顔は憔悴しきり、すでに限界を超えていた。
「ようやく分かったんだ、遊馬。君には分からない……仲間に囲まれ、陽だまりの中にいる君には。本当に苦しいときや悲しいとき、誰一人そばにいてくれなかった僕の気持ちなんて……!」
「Ⅲ……」
「やっと取り戻したんだ、僕の家族を! ボロボロで、歪んで、狂ってしまった……。でも、それでも僕は、あの温もりを守りたいんだ!だから……だから遊馬、ウザいんだよ! 目障りなんだよ、君のいちいちが!!」
Ⅲの咆哮と共に、手のひらの紋章から悍ましい緑の光が溢れ出した。それはもはやデュエルのエネルギーではなく、空間を歪ませ、存在を書き換える呪いの奔流。Ⅲは自らの命さえ削りかねないほどの力で、遊馬を排除しようとしていた。
「Ⅲ、やめろ!」
Ⅲの姿が、古代の戦闘騎士を思わせる禍々しい鎧に包まれる。彼はその殺意に満ちた光の矛先を、遊馬へと向けた。
「闇に落ちろ、遊馬!」
「なっ……!」
回避不能の光が遊馬を貫こうとしたその瞬間、視界を遮るように逞しい背中が割って入った。
「寿!? お前……」
「遊馬! Ⅲから逃げろ! 奴の狙いはお前自身だ!」
「くっ、邪魔だ……どけ、寿ィ!」
飛び出した寿はケースを盾にするように構え、遊馬を庇って光の奔流を正面から受け止める。だが、人間の身で耐えられる圧力ではない。寿の体は衝撃で弾き飛ばされ、守るものも砕け散る。
「まとめて……食らえぇぇぇ!」
「「ぐわああああーっ!!」」
衝撃波が建設中の海上道路を粉砕し、寿と遊馬の身体が虚空へと弾き飛ばされる。二人は崩れ落ちるコンクリートの破片と共に、地面へと突き落とされた。
「くっ……寿! おい、起きろ寿!!」
遊馬が必死に叫ぶが、隣に倒れた寿はぴくりとも動かない。その時、遊馬の胸元で異変が起きた。
「な、なんだ!? 皇の鍵が……!」
これまで幾多の窮地を救ってきた黄金の鍵が、砂のように崩れ、雲散霧消していく。守護者であるアストラルの姿も、ノイズが走るように消えていく。遊馬の命の灯火が、今まさに消えようとしていた。
「地面が……崩れる……うわああーっ!」
足元の世界が底から抜け落ち、遊馬は終わりなき絶望の深淵へと真っ逆さまに落ちていった。彼を包んでいた仲間の温もりは、そこにはもう、存在していなかった。
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「しかし、本当によかったのですか?」
ハートランドを一望できる館、その広大な屋上でⅤは冷徹に眼下の光景を見下ろしていた。彼の視線の先には、闇のエネルギーに包まれる海上道路が広がっている。
「何がだい? Ⅴ」
「強力なナンバーズだけでなく、Ⅲに紋章の力まで渡すとは……。反動で彼の魂も無事では済みません」
トロンは仮面の奥で、子供のような無邪気さと、魔王のような冷酷さを孕んだ笑みを漏らした。彼にとって、Ⅲの犠牲さえも勝利のためのチェスの駒に過ぎない。
「九十九遊馬に勝つには、単にナンバーズを渡すだけではダメなんだよ。彼の父……九十九一馬は、不屈の精神を持った冒険家だった。その息子もまた、心に折れない強さを持っている。侮っては勝てないだろう」
「トロン、あなたがⅢに与えた力は……」
「そう、あの紋章の力は遊馬から一番大切なものを奪う。記憶、勇気、そして彼を突き動かす根源……。それを食らった彼を待っているのは、二度と這い上がれない絶望の世界だよ」
トロンが不気味な笑い声を上げるたび、館の空間が歪んでいく。遊馬が落ちた先にあるのは、光の届かない終わりのない闇の深淵だった。
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意識の最底層において、彼はもはや自分という形を保てずにいた。そこは光の届かない、粘りつくような黒い泥の中に沈み込んでいく、底なしの深淵。指先ひとつ動かせず、ただただ重力に従って沈下していく感覚だけが支配している。呼吸を繰り返すたび、肺胞の隅々まで冷たい泥が染み渡り、内側から自分を窒息させていく。
遊馬は、自分という存在をこの世界に繋ぎ止めていた一番太い芯──魂の背骨とも言える何かを、根こそぎ奪われていた。それはかつて彼が、どんな絶望の淵にあっても手放さなかった、眩い黄金の輝きだったはずのものだった。
「……かっとび……」
唇が、音にならない震えを刻む。
「かっと……なんだ……。なんだっけ……俺は、何を言おうとして……」
その言葉を紡ごうとした瞬間に、脳裏に鋭い痛みが走る。思い出そうとする意志そのものが、泥に呑まれて霧散していく。不意に、上方から冷徹な光が差し込んだ。眩暈を覚えながら顔を上げると、そこは天を衝くような断崖絶壁が連なる峡谷だった。吹き荒れる風は凍てつくように冷たく、立ち竦む遊馬を見下ろしている。雲の彼方、遥か高みにある岩壁の上で、父・一馬が悠然と立っていた。
「さぁ、登ってこい。遊馬!」
その声は福音ではなく、ただの宣告だった。垂直に切り立った壁は、無力な子供が挑むにはあまりに無慈悲で、絶望的な距離がある。
「無理だ……無理だよ。こんなの登れっこない!」
震える声で叫んでも、父の瞳に慈愛の色はない。
「いいや登れる。██████だ、遊馬」
「えっ? 今なんて言ったんだ?」
父の唇が動く。だが、そのもっとも核となる言葉だけが、耳を劈くようなノイズにかき消された。一馬は、深い落胆を湛えたような、あるいは息子を完全に見捨てたかのような冷徹な目を向けると、救いの手を差し伸べることもなく、そのまま一人で崖の向こうへと姿を消した。
「父ちゃん! 父ちゃん……!」
縋り付く叫びは空虚な谷間に反響し、風景は残酷に明滅して、今度は埃っぽい小学校の体育館へと変貌する。
目の前には、巨大な怪物のようにそびえ立つ跳び箱。それを囲むクラスメイトたちの視線は、期待などではなく、無様な失敗を待ち望む好奇に満ちていた。
(怖いよ……怖いよ……)
遊馬は、冷え切った壁に逃げるように背中を預け、膝を抱えることしかできない。一歩踏み出せば、その瞬間に自分のすべてが砕け散ってしまうような予感。一度の失敗ですべてを失うという恐怖が、彼の四肢を鉛のように縛り付けていた。
「ねぇ。九十九君は、チャレンジしないの?」
幼馴染の観月小鳥が歩み寄る。その声は優しく、それゆえに遊馬の耳には鋭利な棘となって突き刺さる。
「嫌だよ……怖いんだもん。あんなの……跳べるわけがない」
「でも、やってみなくちゃ分からないじゃない?」
「分かるよ。やらなくたって……僕には、無理なんだ」
僕には跳べない。僕は弱くて、無価値で、無様なだけだ。傷つくのが怖い。笑われるのが、死ぬほど怖い。
遊馬の心は、熱を失った冷たい石のように、じりじりと硬直していった。
風景はさらに彩度を落とし、逃げ場のない現実を突きつけるように明滅を繰り返す。
ハートランド学園の通路。乾いた電子音が響き、デュエルディスクに表示されたライフポイントの数値が非情に「0」を告げる。
「よっしゃ! 直接攻撃だ! やったぜ、パーフェクト勝利だ!」
クラスメイトの武田鉄男が勝ち誇り、周囲からは容赦のない嘲笑が漏れ出す。遊馬は冷たい床に這いつくばり、自分の無力さを噛み締めるしかなかった。
「にしても……九十九遊馬だっけ? この意気地なし。お前がビビってた伏せカードは、ただの装備魔法だぜ?」
「なんだウラ……つまんねぇデュエルウラ。やる気あんのかウラ?」
「トドのつまり、見るだけ時間の無駄でしたね」
表裏徳之助や等々力委員長が、道端のゴミでも見るような蔑みの目を向け、遊馬を通り過ぎていく。その足音のひとつひとつが、遊馬の尊厳を踏みつぶしていく。
「九十九君……」
「おーい小鳥、行こうぜ! そんな弱虫、放っておけよ!」
唯一の光だった小鳥さえも、その瞳に救いようのない失望を湛え、背を向けて去っていく。遊馬はただ、氷のように冷たい床を這い、ガタガタと震える指先を抱きしめることしかできなかった。もはや、彼を呼ぶ声はどこにもない。
風景は彩度を完全に失い、灰色に染まった通学路へと移る。
亡霊のようにうつむいて歩く遊馬は、向こうから来る生徒の肩に、わずかに触れる。
「っと、ごめん……」
「あ……ごめんなさい! ごめんなさい……!」
過剰に謝り、亀のように縮こまる遊馬。その無様な背後に、刃のような陰口が深く突き刺さる。
「なぁ、誰だあいつ? 」
「九十九遊馬ってやつだ。近寄るとイジケが伝染するぜ。関わらない方がいい。」
「マジかよ、キモっ」
言い返す言葉など、もう一文字も持っていない。遊馬はただ、自分を殺すように逃げ、歩き続けた。
三度風景は変わり、朝日だけが虚しく眩しい登校時間。遊馬は一人で歩いていた。そこには、背中を預けられる相棒も、道を示す蒼い影も、もういない。地面の亀裂ばかりを見つめていたせいで、前方から走ってきた男に気づくことができなかった。
「あ、危ない!」
まともにぶつかって、無様に尻もちをつく遊馬。視線を上げると、そこには白い調理白衣を纏った少年が立っていた。自分と同年代だろうか。彼は、心底申し訳なさそうに、無骨な手を差し伸べる。
「悪いな、あんた。怪我はないかい?」
その手は、ゴツゴツとしていて、命の温もりに満ちていた。だが、今の遊馬には、その真っ直ぐな善意が何よりも恐ろしく、猛毒のように感じられた。自分のような卑小な存在が触れていいものではない。
「ごめんなさい……! ごめんなさい!」
遊馬はその温かな手を取ることなく、泥の中を這う虫のように、必死でその場から逃げ出した。背後から、「何だあいつ……」という呆れたような、軽蔑の混じった声が追いかけてくる。
「あんな腑抜けたやつ、律儀に構うんじゃなかった……チッ、仕入れを急がねぇと」
遊馬は耳を塞ぎ、さらに深く、自分自身の暗闇へと沈み込んでいった。
「怖い……怖いよ……みんな、僕をバカにしてくる……」
──近寄るとイジケが伝染する。
──デュエリストの恥なんだよ。
──律儀に構うんじゃなかった。
あらゆる言葉が、鋭利な刃となって遊馬の心をズタズタに切り裂いていく。どうして、こんなに怖いんだ? 何が、こんなに足りないんだ?
何かを求めて、震える自分の手のひらを見つめる。意識の輪郭はすでに溶け落ち、彼はただ、質量を持った虚無としてそこに停滞していた。かつて彼の胸を熱く焦がしていたはずの言葉は、今や彼の中には存在しない。口にしようとすれば、喉の奥からせり上がるどす黒い泥が言葉を塗り潰し、肺を圧迫し、呼吸のたびに腐った鉄のような冷たさを全身に送り込んでいく。
「……ない」
遊馬の瞳から、最後の一滴の光が完全に消え失せる。それは、ただの悲しみではなかった。自分という存在が、最初からこの世界に不要な「染み」であったと確信させられるような、全否定の重圧だ。隣にいるはずだった誰かの体温も、静かに自分を導いてくれた透き通った声も、今の遊馬には思い出すことさえ許されない。記憶の図書館は無残に放火され、大切な記録はすべて灰となって、ただ黒い雪のように視界を塞いでいる。掠れて出そうとする声は、自らの鼓膜に届く前に闇に吸い込まれた。彼を取り巻く絶望は、物理的な重さとなって全身を蝕んでいく。
「何か……」
鏡に映る自分を想像するだけで、吐き気がした。そこには、期待を裏切り、友情を汚し、父の教えを泥にまみれさせた、薄汚い敗北者の残骸が立っているだけだ。
立ち返るれば立ち返るほどに沸き滾る嘲笑が、無数の針となって皮膚を突き刺す。その痛みは、もはや不快ですらなく、自分に与えられた唯一の報酬のようにさえ感じられた。その思考が脳裏に定着した瞬間、彼の内側に残っていた最後の手すりが、腐り落ちるような音を立てて崩壊した。
かつて、彼がどんなに転んでも握りしめていた何かの感触。胸元にあるはずの、あの輝きは、今や冷え切ったただの存在しない幻影へと成り果てている。
指先を伸ばしても、そこには空虚な風が吹き抜けるだけ。そこにあるはずのものが、ない。一番大切で、自分を自分たらしめていた、あの眩い黄金の輝き。
心臓の鼓動とともにあったはずの、魂の咆哮。遊馬の瞳から、最後の一滴の光が完全に消え失せる。
「何かとても大切ななにかが……」
光は、もはや暴力だった。網膜を焼く朝日は、彼の醜さを隈なく照らし出すための舞台照明に過ぎない。謝罪の言葉は、自己防衛の盾ではなく、自分の存在をこの世から削り取っていくための鉋だった。一文字、一文字と脳裏に文字を吐き出すたびに、九十九遊馬という人間の尊厳が薄く、脆く、削り出されていく。絶望は、彼を殺しはしなかった。ただ、生きながらにして死よりも深く残酷な静寂の中に、彼を永遠に閉じ込めたのだ。涙さえ枯れ果てた瞳には、何も映らない。思考は停止し、感情は凍土に埋もれ、彼はただ、自分という名の墓標を抱えて、終わりのない暗闇の底を這いずり続ける。
「……なくなった」
やがて彼は一縷の希望も存在しない、底知れぬ絶望の泥濘の中へと。
深く、深く音もたてずに沈んでいった。
やめて、Ⅲ!あなたの紋章の力で遊馬のかっとビングが無くなったら、皇の鍵で繋がってるアストラルの声は届かなくなっちゃう!お願い、負けないで遊馬、アストラル!二人が今ここで倒れたら、私たちとの約束はどうなっちゃうの?ライフはまだ残ってる。ここを耐えれば、Ⅲに勝てるんだから!
次回、「アストラル、死す…!?」デュエルスタンバイ!