軍貫使いはZEXALで寿司を握る 作:Dの軍貫 シンキハヨ・チョーダイナ
グスタフマックスのドリンクが面白すぎて。
昼時を過ぎた店内には、潮が引いた後のような気だるい静寂が満ちていた。
わずかに残った出汁の香りが、午後の柔らかな日差しに溶けていく。窓から差し込む斜光が宙を舞う微かな塵を黄金色に染め、止まったままの空気の中で、換気扇の低い唸りだけが虚しく響いている。俺は、使い古されたシンクの水の冷たさを指先に感じながら、目の前で図太く椅子を鳴らす弟子ことアンナを改めて見やった。
「……で。ここに普通に帰ってきたものの、疲れ果てて昼まで寝ていたと。一体全体、何をやっているんだお前は?」
俺の呆れ声が、静かな店内に石を投げ込んだ波紋のように広がっていく。洗い桶に沈んだ皿の重みが、今の俺の重苦しい溜息とシンクロしているようだった。午後二時の平穏な時間、本来なら明日の仕込みに精を出すべきはずのこの場所で、説教から始まる一日の後半戦に頭痛を覚える。アンナは気まずそうに視線を泳がせ、ピンク色の髪を乱暴に掻きむしった。
「ア、アハハ……。まぁこのアンナ様、売られた喧嘩は勝っちゃうタイプなんで……」
……買うんじゃなくて勝ってどうすんだよ。
彼女は悪びれる様子もなく、むしろ自らの戦果を誇るかのように鼻を鳴らした。カウンター越しに伝わってくるその無垢なまでの傲慢さに、俺は洗っていた皿を危うく落としそうになる。窓の外で一羽の雀が鳴くあまりに平和な光景と、目の前の問題児とのギャップに眩暈がした。
俺はこめかみを指先で強く押し込み、爆発寸前の思考をどうにか整理しようと試みた。視界の隅では、長年使い込まれたカウンターの木目がやけに鮮明に映り、その複雑な溝のひとつひとつが、今の俺の複雑な心境を代弁しているようだった。
「いや、ここは実力者に勝てたアンナを褒めるべきなのか? いや、そもそも出前中にデュエルすること自体が論外だろ。……あ、そういえば俺もしてたな。大瀬戸健三郎だったか……あいつ、今頃どうしてるんだ?」
俺の脳内では、店を手伝う者としての責任感と、好敵手との邂逅を喜ぶデュエリストの本能が、激しく火花を散らして衝突していた。指先が微かにカードを引く感触を思い出す。それは心地よい興奮であると改めて感じると同時に自分を否定する劇薬でもあった。一度思考の袋小路に入ると、そこは論理の出口が見えない、暗く深い自己嫌悪の迷宮と化す。
「しかしアンナの仕事は出前だ。品を運び、代金を受け取る。その過程にデュエルを挟んではいけないという明確な禁止規定は……いや、だが親父は早く帰ってこいと言っていた。それは可能な限り迅速にという意味であり、アンナの直情的な性格を考慮すれば、勝利を収めて帰還した今は彼女なりの最速だった……と言えるのか……?」
独り言が漏れ、俺の視線は天井の染みの一点に固定された。自分の思考が、まるで壊れたレコードのように同じ場所を空回りし、自己正当化と自己批判の間を行き来している。扇風機が首を振る規則正しい音が、俺の混乱を煽るメトロノームのように感じられた。論理の糸を解こうとすればするほど、それは複雑な結び目となって俺の心を締め付けていく。
「そもそも俺がデュエルを教えたのは、アンナの腕を上げるため……目的達成という意味では筋は通っている。だが、TPOを考慮すれば不適切極まりない。そんな常識が通用する野郎じゃなかったはずだが、まさかここまでとは……」
「師匠、俺は野郎じゃないぜ?」
アンナの声が、思考の深淵に沈んでいた俺の意識を強引に水面まで引き戻した。彼女はカウンターに肘をつき、心底不審なものを見るような顔で、俺の瞳の奥を覗き込んでくる。
その瞳には、自分の引き起こした騒動への危機感など微塵も存在せず、ただ純粋な好奇心だけが煌めいていた。俺は彼女の屈託のなさに毒気を抜かれながらも、論理の海で遭難した自分を立て直そうと必死に足掻いた。
「……黙らっしゃい」
俺は目も合わせずにピシャリと言い放ち、再び暗い思考の残滓へと意識を潜らせた。ピチャリ、とシンクに滴る水滴の音が、静寂の中で異様に大きく響く。論理を泳ぎすぎて、自分でも何を正解にしたいのか、あるいは何に怒りたいのかすら判然としなくなってきた。自分の中の常識という名の古びた秤が、アンナの奔放さという重りに耐えかねて、今にも壊れてしまいそうだった。
「もし俺が店にいれば……。いや、それは不毛な結果論だ。どっちにせよ親父は俺に配達を頼むつもりだったんだし、そうなれば俺がⅣとデュエルしていただろう。そう考えると、これで結果オーライ……? いや、そんな詭弁が通じると思ったら大間違いだろ……」
完全に自分の世界に閉じこもり、眉間に深い、深い皺を刻んで呻いてしまう。
「あー……」
それを見て、アンナは困ったように頬をポリポリと掻いた。彼女の爪が肌を擦る小さな音が、静まり返った店内の空気を微かに震わせる。俺の苦悩が彼女にとってはいつもの発作程度にしか映っていないという事実が、さらに俺の心を荒ませた。
「あのさ、師匠?」
「……なんだ」
重い瞼を押し上げるようにして視線を現実へと戻すと、そこにはアンナの顔が至近距離にあった。
彼女の肌からは、午後の日差しをたっぷり吸い込んだような、温かくて生命力に満ちた匂いがした。それまでの気だるげな態度をかなぐり捨て、彼女はニカッと、まるで雲ひとつない五月の空のような、あまりに屈託のない太陽の笑みを浮かべた。その輝きは、俺が先ほどまで彷徨っていた暗い論理の迷宮を、一瞬で焼き払ってしまうほどの威力があった。
「そんなに深く考えんなよ、師匠らしくないぜ!」
悩み抜いた俺の苦労を、豪快に笑い飛ばすような軽やかな響き。
その一言は、俺の胸に溜まっていた澱みを一気に押し流す、清涼な風のように通り抜けていった。彼女の瞳に宿る輝きは、敗北すらも飲み込んでしまう無敵の肯定感に満ち溢れており、俺はただ呆然とそれを受け止めるしかない。
「お前のせいだろ、アンナ!?」
思わずカウンター越しに身を乗り出したが、アンナはどこ吹く風で、むしろ誇らしげに鼻を鳴らす。その勢いに押されて俺の体から力が抜けていくのを実感しながら、それでも何かを言わなければならないという義務感だけが空回りする。午後の静寂が再び戻り、俺のツッコミだけが虚しく店内の角に吸い込まれていった。
「それにさ……ちょっと落ち着いて考えてみようぜ? この話、悪くないだろ?」
「どういう意味だ?」
問い返した俺の言葉に、アンナは満面の笑みで答えを返してきた。
彼女の指先がカウンターをリズミカルに叩き、その音が静かな店内に小気味よいテンポを作り出していく。まるで世界すべてが自分の味方であると信じ込んでいるような、その絶対的な自信はどこから来るのか。俺は彼女の顔を見つめながら、自分が何かを突きつけられているような感覚に陥った。
「誰も不幸になってねぇってことだよ! 親父さんは代金を受け取れて、俺は出前もデュエルも大成功。Ⅳに至っては、俺という存在を見てもっと素晴らしいファンサービスをしてくれるって言ってくれたんだぜ?」
アンナは指を折り数えながら、まるで完璧な方程式でも解いたかのような得意顔だ。未回収だった代金という現実的な問題から、敗北したはずのⅣの奇行までもを、彼女は力技で幸福の天秤に乗せてみせた。そのあまりに強引で、それでいて純粋な論理展開に、俺は呆れるのを通り越して一種の感動すら覚え始めていた。彼女の周りだけ、世界の物理法則が書き換えられているのではないかと疑いたくなるほどのパワーがそこにはあった。
「……俺だけが不幸になってるんだが」
俺の力無い叫びも虚しく、店内の空気は完全に彼女のペースに塗り替えられていた。午後の穏やかな日差しが、この噛み合わない師弟のやり取りを皮肉なほど平和に照らし出している。店の奥にある古い柱時計がコチコチと時を刻み、俺の不運など悠久の時の流れの中では誤差に過ぎないと告げているようだった。俺は深い溜息をつき、濡れた手をタオルで乱暴に拭くと、現実逃避を止めて本題に切り込む決意を固めた。
「……はぁ、もういい。この話は先延ばしだ、話を進めよう。アンナ、そのデュエル中に来たっていうナンバーズは今手元にあるか?」
額を押さえながら、俺は話題を強引に転換させた。俺の声色が真剣なトーンに切り替わると、店内の空気もわずかに温度を下げたように感じられた。アンナも遊びの時間は終わりだと悟ったのか、居住まいを正し、力強く頷く。彼女の目が、悪戯っぽい子供のそれから、戦士のそれへと鋭く変貌する一瞬を、俺は見逃さなかった。
「ああ、あるぜ! ほら!」
彼女がデッキケースから取り出したのは、鈍い銀光を放つ一枚のカードだった。
そこには、荒波を裂き進む戦艦――《No.27 弩級戦艦-ドレッドノイド》が描かれている。カードから発せられる微かな圧力が、シンクに残った水面を微かに揺らしたように見えた。イラストから感じるのは圧倒的な重量感。俺はそのカードを受け取り、指先から伝わる微かな震動を、自分の魂に問いかけるように透かして見た。
「ちょっと借りるぞ……なぁ、デュガレス。起きてるか?」
俺の声は、誰にも聞こえない領域へと投げかけられた。通常、ナンバーズは強烈な自我を持ち、憑りついた人間の魂を蝕む毒となるものだ。しかし、目の前の少女は平然とその力を手なずけ、自らのエネルギーへと変換しているように見える。俺の中に眠るナンバーズへの奇妙な耐性が、彼女にもあるというのか。静寂の中に、俺自身の心臓の音だけが不自然なほど大きく鳴り響いていた。
「……返事はないな」
俺は腰のホルダーから自分のナンバーズを取り出し、その内の一枚、《No.60 刻不知のデュガレス》に意識を集中させる。だが、カードの中の精霊は、深い泥の中に沈んでいるかのように沈黙を守ったままだ。気配を探る俺の精神が、カードの表面を滑り、虚空へと逃げていく。窓の外で急に風が吹き抜け、店先に吊るされた暖簾がバタバタと激しい音を立てた。その不吉な予兆に、俺の背筋を冷たい汗が伝い落ちる。
「どうしたんだ、急にカードに呼び掛けて?」
不思議そうに首を傾げるアンナに、俺は軽く首を振って応えた。彼女の無邪気な問いかけが、今この場に漂い始めた異質な気配をかき消そうとしている。俺は自分の指先が、いつの間にか微かに震えていることに気づき、それを隠すようにカードを握りしめた。古い建物の軋む音が、まるで誰かの忍び笑いのように聞こえて、俺は無意識に周囲を警戒した。
「ああ、ナンバーズっていうのは自我を持っているカードでな。だからこうやって話しかければ何かしら反応してくれると……どわぁっ!?」
説明の途中、俺の指先に焼けるような熱が走った。持っていたカードが意志を持つ生き物のように暴れ、俺の制御を離れて勝手に宙へと舞い上がる。視界を塗りつぶさんばかりの暴力的な白光が溢れ出し、店内の什器や椅子がその光に呑み込まれて輪郭を失っていく。あまりの衝撃と非現実的な光景に、俺の思考は一瞬で白濁し、ただ網膜に焼き付く光の残像に目を細めることしかできなかった。
「なんだぁっ!?」
あまりの衝撃に、アンナは思わず椅子ごと仰け反ってしまう。激しく震えだしたのは、呼びかけたデュガレスではない。馬の石像に予言者が接ぎ木されたような質感を絵に湛えたカード――《No.45 滅亡の予言者 グランブル・ロゴス》が、まるで自らの枷を食い破るかのように輝きを増していく。店内の空気が一変し、肌を刺すような高密度の魔力が渦巻くのを感じて、俺は本能的に息を呑んだ。
「──我が主、赤司寿に告げる」
その声は、耳ではなく直接脳を揺さぶる重低音となって響き渡った。抗いようのない力に弾かれ、カードがカウンターの木目に突き刺さるように叩きつけられた。直後、青白い粒子が渦を巻いて宙に舞い、静かな店内に巨大な幻影を投影する。現れたのは、イラストそのままの冷徹で無機質なケンタウロス。その影が店内の壁を覆い尽くし、午後の日差しを完全に遮って、この場所を異界へと変貌させてしまった。
「──これは滅亡の序曲であり、破滅への警鐘でもある……心して聞くがよい」
「……出てきていきなりだな。ああ、聞いてやるよ」
古びた石像から発せられる圧倒的なプレッシャーに、喉の奥が引きつる。ロゴスの声はもはや物理的な振動となって、店内の壁や食器をカタカタと震わせ続けている。
「貴様の所持しているナンバーズは私を含めて三体。その内の一体、デュガレスからの伝言を伝えにきた……覚悟はできているな?」
デュガレスが拗ねているのか、それとも重大なトラブルに巻き込まれたのか。俺の混乱を余所に、ロゴスの瞳には感情の欠片も見当たらず、ただ冷徹な事実を執行する審判者の光が宿っている。店内の空気は氷点下まで下がったかのように冷え込み、自分の吐く息が白く濁るのを見て、俺はこの事態の異常さを改めて痛感した。俺は混乱に思考をかき乱されながらも、抗えない運命を飲み込むように重く頷いた。
「宜しい、読み上げるぞ。『親愛なる我が主へ。我は大変憤慨しております。理由は当然お分かりのことかと思われます……』」
ロゴスが、まるで悲劇の舞台の役者のように芝居がかった厳かな口調で朗読を始めた。それはデュガレスの遺言か、あるいは主君への弾劾状のような、奇妙に丁寧で、かつ執念深い恨み節が滲む文面だった。ロゴスの一言一句が、俺の預かり知らぬところで犯した「罪」を暴き立てていくようで、俺は居心地の悪さに身を固くした。
「『しかし、聡明で何よりも貴き精神を持ちたる主のことであるからこそ、説明を放棄してはならない。そう思い筆を執った次第であります……我の怒りの原因は、先日のデュエルのことです……』」
「先日のデュエル?」
横で聞いていたアンナが、首を傾げて俺の顔を覗き込んだ。彼女の純粋な疑問が、ロゴスの重厚な朗読の間に挟まり、奇妙な不協和音を奏でる。ロゴスはその遮りを一切無視し、淡々と、しかし確実に俺の退路を断つように、一語一語を重々しく紡いでいった。俺の脳裏に、記憶の蓋が僅かに開きかけるような、不気味なノイズが走った。
「『ナンバーズたる我。ランク4の精鋭として、主に仕える者として。まだ余りにも少ない時間しか仕えていない身ではありますが、誇りと一種の信頼というものを主に置いていたのを今も覚えています……』」
覚えていたという過去形のその一言に、俺の背筋を冷たい汗が流れた。
「『しかし、あのデュエルは何たることでしょうか!? ええ、分かっておりますとも! 我こと《No.60 刻不知のデュガレス》の能力は支援に徹したもの、決して自ら輝ける存在ではない。その立場に甘んじていた我が悪かったのでしょうか……。先日のデュエルは、主の様子が一変しておりました……』」
アンナは俺に疑問符を頭に浮かべたような、それでいてどこか心配そうな視線を俺に向けてくる。
「一変? 何があったんだ、師匠?」
「それが、昨日の夕方から目覚めるまでの記憶がないんだよな……遊馬から俺がデュエルしたってのは聞いたんだが……」
その視線を受け流すと同時に俺はロゴスの言葉の奥底、失われた記憶の断片を必死に探った。脳の深層に手を伸ばそうとするたびに、鋭い頭痛がそれを阻みんでくる。遊馬とデュガレスが恐怖を抱いたのだから、相当だ。空白の数時間、俺は一体どんな怪物に変貌し、どのような表情でカードを操っていたのか。その答えを知るのが、今の俺には何よりも恐ろしかった。
「『……続けるぞ。『先日のデュエル、主が使用したカードは何たる暴力性を持つのでしょうか!? あのライゼオルと名の付くカードたちを駆る主の姿と同調するモンスターは、まるで時代を超えたような、異次元の強さを持っていました。その身に余るほどの暴力性を隠そうともせず、主は使用しておりました……』」
「ライゼオルだと!?」
思わず叫び声が漏れ、自分の声が店内の壁に当たって跳ね返るのを聞いた。その名前は聞き覚えがあるどころか、俺の魂の根底に刻まれた、前世の記憶の一部だった。かつての環境を支配し、狂ったような展開力で対戦相手の心を折ってきたあの忌まわしき、そして魅惑的なテーマ。俺がこの世界に持ち込んだはずのない、禁忌の力が、なぜ今さら彼の口から飛び出すというのか。心臓が早鐘を打ち、全身の毛穴から嫌な汗が吹き出すのを感じた。
「なんじゃそりゃ? 新しい重機か何かか?」
呑気に茶を啜り、平和な感想を漏らすアンナを尻目に、俺の心拍数は警鐘を鳴らすように跳ね上がる。彼女の無知が、今のこの異常事態をより一層際立たせ、俺を孤独なパニックへと追い込んでいく。ロゴスの投影したデュガレスの意志は、容赦なくさらに残酷な真実を俺の目の前に突きつけてきた。石造りのケンタウロスの幻影が、蔑むような冷たい光をその瞳に宿したように見えた。
「『言葉を選ばずに言いますと、主は我を非常に冷淡な目で見ていました。効果発動も冷たく、ライゼオルの効果によって二度も我を墓地に何の躊躇いもなく送った姿は、まるで我は悪夢を見ているさまでした……』」
ロゴスの声が途切れた瞬間、店内の空気が一気に冷え込んだ気がした。俺は昨日の記憶を必死に掘り返そうとしたが、脳内のその領域には厚い鉛の壁が張られているかのような違和感がある。指先で触れようとすれば、指がすり抜けて空を掴むような、そんな実体のない虚無だけがそこにはあった。取り戻せない空白が、俺の中に潜むもう一人の自分への疑念を増幅させ、余計に恐怖を煽る。
「『……かつての主が持っていた、カードとの対話を楽しむ心はどこへ消えたのでしょうか。あの時の主は、ただ勝利という結果のみを演算する殺戮機械のようでありました。我は、主の野心を満たすための単なる素材に過ぎなかった……その事実が、我を何よりも深く傷つけたのです』」
「……殺戮機械、か」
ロゴスの声に重なるように、微かにデュガレスのすすり泣くような、あるいは激しい憤怒を孕んだ震えが伝わってくる気がした。
店内の調度品が共鳴するように微かに震え、俺の胸の奥を鋭い針で刺すような痛みが走る。アンナは、茶を啜っていた手を止め、真剣な顔で俺を見つめている。彼女の真っ直ぐな視線が、今の俺にはいっそ残酷なまでに眩しく、そして責め立てるように感じられた。
「なぁ師匠、そのライゼオルってのは、そんなにヤバいカードなのか? デュガレスがそんなにビビるなんてよ……」
「……ああ、もし俺が知っている通りのものならな。爆発的な展開力と破壊力をもつ、えげつないテーマだ」
ロゴスは言葉を止めない。
「『……しかし、それが主の望まぬして行った行為だとしたら。その一点に我は賭けることにしました。主よ、我との契約を覚えているだろうか。貴公の魂に宿ったあの冷酷な影が、一時的な迷いなのか、あるいは本性なのか……それを見極めるためにも、主には十分な対価を払ってもらうこととした』」
ロゴスの瞳に宿る冷徹な光は変わらないが、読み上げられる言葉には、先ほどまでの刺すような拒絶とは異なる、どこか未練と打算が混じり始めていた。空気の緊張が僅かに緩み、店内に再び午後の静謐な時間が染み込んでくる。だがそれは、嵐が去った後の静けさではなく、新たな交渉が始まる前の、奇妙な均衡であった。
「『……主よ。幸か不幸か、今の貴公からはあの時の冷徹な残滓が微塵も感じられない。まるで別の魂が乗り移っていたかのように、あの忌まわしき記憶さえ抜け落ちているようではないか』」
図星だった。ロゴスの透き通った瞳は、俺の魂の底に沈んだ隠し事すらも見透かしているようだった。記憶がないことを、カードである彼は敏感に見抜いている。俺の困惑を余所に、ロゴスはさらにデュガレスの本音を代弁し続ける。その口調は次第に、弾劾から具体的な、そしてどこか人間臭い要求へと変質していった。
「『記憶がない者に、これ以上の絶交を突きつけるのも興を削ぐというもの。ならば此度は不問に付そう。だが! 我の受けた屈辱と精神的苦痛は、言葉だけで癒えるものではない! 主よ、我の鬱憤を晴らすべく、最高の供物を用意してもらおうか!』」
「供物だと?」
嫌な予感がして身構える俺に対し、ロゴスが突きつけた条件は、この場の緊張感を一気に脱力させるような、あまりに世俗的なものだった。店内の影が、彼の言葉に合わせてユーモラスに踊っているように見えた。滅亡だの破滅だのと言っていたその口から、あまりに場違いな単語が飛び出したことに、俺は自分の耳を疑った。アンナも同様に、ポカンと口を開けて幻影を見上げている。
「『具体的にはそう……飯だ! 腹がはち切れるほどの御馳走を我の前に並立て、誠心誠意、我をもてなすことを要求する! 異論は認めん!』」
「……なるほど」
俺が呆れ半分に吐き捨てると、それまで黙って聞いていたアンナが、待ってましたとばかりにテーブルを叩いた。その衝撃でカップの茶が僅かにこぼれ、午後の平和な喧騒が再び店内に戻ってきた。怒りが食欲という共通言語に落とし込まれたことに、俺は可笑しさと、そしてどこか安堵に近い感情を覚えた。アンナの瞳には、デュガレスへの同情よりも、これから始まるであろう宴への期待が強く宿っていた。
「でも、食材はどうするんだ? 親父さんが仕入れたものを勝手に使うのはだめだろうし、第一、今の店には残り物くらいしかねーぞ?」
アンナの至極真っ当な指摘に、俺は少しだけ考え込み、それから予定を思い出した。今日の夜、WDCの決勝進出者を招く晩餐会に出向くことになっていたはずだ。あまり覚えていないが、贅を尽くした料理が並ぶだろう。その場所こそ彼をもてなす供物を調達するにはこれ以上ない舞台ではないか。
「今日の夜に晩餐会がある。そこの豪華な食事でもいいか?」
ロゴスに問いかけると、彼は宙に浮いたまま、数秒ほど指をこめかみにあてる。やがて彼は、その重厚な首をゆっくりと縦に振り、最後の一言を放った。
「……『了承した』と伝えてくれとのことだ」
そのデュガレスの言葉は、どこか満足げな、それでいてどこか尊大な響きを伴っていた。