彼女持ちの親友が女になって転がり込んできた話   作:日ノ 九鳥

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新しい日常

 遥が俺の部屋に来てから一週間が経った。

 

 朝六時半、スマホのアラームが鳴る。止めてから少しの間ベッドの中で二度寝の誘惑と戦う……のが常だが、ここはリビングのソファで寝室ではない。遥に寝室を譲ってからこのソファが俺のベッド代わりだ。

 

 身体を起こしてリビングを見渡す。カーテンの隙間から差し込む光は弱く、今日も梅雨空のようだ。ソファから立ち上がると、キッチンの方から何やらいい匂いがする。

 

「おはよう。もうすぐできるから」

 

 エプロン姿の遥が振り返って笑顔を向けてきた。フライパンで目玉焼きを焼いている。トースターからはパンの焼ける香ばしい匂い。サラダも用意されていてコーヒーの準備もしてある。

 

「お、おう……ありがとう」

 

 正直驚いた。遥が朝食を作っている。男性だった頃の遥は料理など殆どしなかったはずだ。いや、できないわけではなかったが……自分の家で女性が朝から料理しているこの光景は少し複雑な気分にさせる。

 

「座って待ってて」

 

 言われるまま、ダイニングテーブルに座る。程なくして遥が朝食をテーブルに運んできた。トースト、目玉焼き、サラダ、コーヒー。シンプルだが十分な朝食だ。

 

「いただきます」

 

 二人で朝食を食べる。目玉焼きは程よい焼き加減だし、コーヒーも丁度いい濃さだ。

 

「料理くらいしないとな、居候してるだけになっちゃうから」

 

 遥が少し照れくさそうに言う。

 

「無理しなくていいのに」

 

「暇なんだよ。仕事にも行けないし」

 

 そう言った遥の表情が少し曇る。そうだ、遥は今仕事に行けない状態だ。

 

「会社には何て言ってるんだ?」

 

「体調不良って連絡した。……けど、いつまで誤魔化せたもんかね。診断書も出せないし。」

 

「……そっか」

 

 会社のこと、彼女のこと、貯金のこと。遥が抱える問題は山積みだ。そして俺にできることは限られている。

 

「貯金はあるから、しばらくは大丈夫だけど……いつまで持つかな」

 

 不安そうに呟く遥。新しい身分証明書もない。銀行のカードも本人確認が必要な場面では使えないだろう。

 

「大丈夫だって。一緒に方法を見つけよう」

 

 そう言うことしかできない自分が歯がゆい。

 

 朝食を終えて、出勤の準備をする。遥が玄関まで見送りに来た。

 

「行ってらっしゃい」

 

 エプロンをつけてにこやかに微笑みながらそう言った遥を見て一瞬、夫婦みたいだなとよぎった……いや、何を考えているんだ。頭を振って余計な考えを追い払う。

 

「じゃあ、行ってくる」

 

 ドアノブに手をかけて、振り返ると遥が少し寂しそうな顔をしていた。一人で部屋に残される不安があるのだろう。

 

「何かあったら連絡してくれよ」

 

「うん、ありがとう」

 

 胸が少し痛んだが、仕事を休むわけにもいかない。ドアを閉めてアパートを後にした。

 

 

 

 

 誠が出て行ったドアをしばらく見つめていた。

 

 静寂が部屋を包む。一人だ。

 

 ソファに座り込んで、ため息をつく。やることがない。いや、やれることがない。仕事に行けない。外にも出づらい。友人にも連絡できない。美月にも会えない。

 

 とりあえず、掃除でもしよう。

 

 掃除機をかけて、洗濯物を回す。誠が使った食器を洗う。誠の部屋なのに、まるで自分の部屋のように家事をしている。この状況がどこか非現実的に感じる。

 

 洗面所で手を洗いながら、ふと鏡を見た。

 

 そこには見知らぬ女性が映っている。

 

 茶色の髪、整った顔立ち、女性の身体。

 

「……俺、こんな顔してるのか」

 

 自分の声さえ、まだ慣れない。高い、女性の声。何度聞いても違和感がある。

 

 鏡に映る自分の顔を触ってみる。柔らかい肌、細い首、小さな肩。何もかもが変わってしまった。

 

 リビングに戻り、スマホを手に取る。美月の連絡先を開く。最後のメッセージは一週間以上前。美月からのメッセージが残っている。

 

 返信しようとして、何度も手が止まる。

 

 何て言えばいい?この姿を、どう説明すればいい?会って説明しようにも、この姿では美月は俺だと認識できないだろう。

 

 電話をかけることも考えた。でもこの声で話して、美月は俺だと気づくだろうか。しばらく連絡の無かった彼氏からの電話で女の声がして冷静に話を聞いてくれるのだろうか。

 

 結局、何もできずスマホを置く。

 

 次に開いたのはネットブラウザ。「性転換」「体が変わる」「突然女性になった」……考えられる限りのキーワードで検索する。

 

 出てくるのは医療的な性転換手術の話や、創作物の話ばかり。俺のように、ある日突然身体が変わったという事例は見つからない。

 

 何時間も調べたが、結局何も見つからなかった。……ここ数日同じように調べていたので当然かもしれないが。

 

 疲れてソファに座り込む。テレビをつけても内容は頭に入ってこない。ただ画面を眺めているだけ。

 

 時計を見ると、まだ昼過ぎ。誠が帰ってくるまであと何時間もある。

 

 孤独だ。

 

 こんなに孤独を感じたのは初めてかもしれない。周りには誰もいない。連絡できる人もいない。この部屋に一人、閉じ込められているような感覚。

 

 美月に会いたい。

 

 でも会えない。

 

 仕事に行きたい。

 

 でも行けない。

 

 元の生活に戻りたい。

 

 でも戻れない。

 

 気づけば涙が出ていた。拭っても拭っても止まらない。声を出して泣くと誠に迷惑をかけそうで、ハンカチで口を押さえて静かに泣いた。

 

 どれくらい泣いていただろう。涙が枯れるまで泣いた後、洗面所で顔を洗った。鏡を見ると目が腫れている。誠に心配をかけたくないので、冷たいタオルで冷やした。

 

 それでもすぐには腫れは引かないが、仕方ない。

 

 気を取り直して、夕食の準備を始めることにした。冷蔵庫を開けると、誠が買ってきた食材が入っている。

 

 美月に教えてもらったシチューを作ろう。

 

 野菜を切りながら、美月との思い出が蘇る。初めて彼女の家に遊びに行った時、シチューを一緒に作った。不器用な俺の手を取って、野菜の切り方を教えてくれた美月の笑顔。

 

 その時の俺は、男だった。

 

 今の俺は、女だ。

 

 ……もう戻れないのだろうか。

 

 鍋でシチューを煮込みながら、そんなことを考えていた。

 

 

 

 

 仕事中も遥のことが気になった。一人で部屋にいて大丈夫だろうか。何か問題が起きていないだろうか。気づけばスマホを何度も確認していた。

 

 夕方、定時で仕事を切り上げて帰宅する。いつもなら残業することも多いが、今は早く帰りたかった。

 

「ただいま」

 

 ドアを開けると、遥が笑顔で出迎えてくれた。

 

「おかえり」

 

 しかしその笑顔の下、遥の目が少し腫れているのに気づく。

 

「……泣いてた?」

 

「え?あ、いやシチュー作ってて玉ねぎ切ったからかもな……」

 

 明らかに誤魔化している。でも追及はしない。遥の辛さは想像に難くない。突然女性になって仕事も失いそうで、彼女にも会えない。そんな状況で一人部屋にいたら泣きたくもなるだろう。

 

「どう、何か進展あった?」

 

「全然……ネットで色々調べても大半が漫画か小説だよ」

 

「そうか……」

 

 やはり簡単には答えは見つからない。

 

 夕食はシチューだった。遥が作ったという。テーブルには湯気の立つシチューとサラダ、そして麦茶が並んでいる。

 

「いただきます」

 

 二人で手を合わせてから食べ始める。一口食べてその味の良さに驚いた。

 

「うまいな。本格的だ。……あんま料理はしないって言ってなかったっけ?」

 

 素直にそう伝えると、遥が少し嬉しそうに笑った。

 

「昔、美月に教えてもらったんだ。初めて彼女の家に行った時、一緒に作ったシチュー」

 

 遥の表情が柔らかくなる。美月との思い出を語る時の遥は、少しだけ元の明るさを取り戻す。

 

「美月さん、料理上手なんだな」

 

「うん。保育士だから、子供向けの料理も得意なんだ。優しくて、子供にも慕われてて……本当にいい子なんだよ」

 

 そこまで話して、遥の表情が曇る。美月の名前が出て、少し沈黙が流れた。

 

「……美月さんには連絡しないのか?」

 

 慎重に尋ねる。遥の表情がさらに暗くなる。

 

「できないよ。信じてもらえるわけない」

 

「でも、突然連絡が途絶えて、心配してるんじゃないか」

 

「だからこそ……連絡できないんだ」

 

 遥は箸を置いて、両手で顔を覆う。

 

「この姿で会って、俺だって証明できるのか?美月は俺だって信じてくれるのか?……信じてくれたとして、こんな姿の俺を、まだ愛してくれるのか?」

 

 その言葉には深い不安が滲んでいた。

 

「遥……」

 

「怖いんだ。美月に会って、拒絶されるのが。『あなたは遥くんじゃない』って言われるのが」

 

 遥の声が震えている。俺は何も言えなかった。確かに、この状況で彼女に何をどう説明すればいいのか、俺にもわからない。

 

「ごめん、変なこと聞いた」

 

「ううん、大丈夫。誠が心配してくれてるのはわかってる。ありがとう」

 

 遥は無理に笑顔を作った。でもその笑顔は、とても悲しかった。

 

 それ以上この話題を続けるのはやめて、他愛もない話をしながら食事を終えた。昔の大学時代の話、バカなことをして笑い合った思い出。そんな話をしている時だけ、遥は本当の笑顔を見せてくれた。

 

 食後、二人でリビングのソファに座ってテレビを見る。特に面白い番組があるわけでもないが、何となく流している。

 

「なあ、誠」

 

「ん?」

 

「俺、いつになったら元に戻れるんだろう」

 

 遥の声が小さい。不安が滲んでいる。

 

「……絶対方法はあるはずだ」

 

「そうだといいけど……」

 

「何か思い当たることはないのか?そうなる前に……変わったこととか」

 

 遥は少し考え込む。

 

「変わったこと……」

 

 そして突然、何かを思い出したように顔を上げた。

 

「そういえば……」

 

 遥がリュックを漁って小さな石を取り出した。親指大くらいの乳白色の丸い石。リビングの照明を受けて、その表面が虹色に輝く。

 

「これ、変わる2日前に神社で拾ったんだ」

 

「神社?」

 

 その石を受け取る。手に取った瞬間、不思議な温かさを感じた。まるで生きているような、脈打つような温もり。ただの石にしては、妙に滑らかで整った形をしている。

 

「どこの神社で?」

 

「月替神社。都内から少し離れた、山の中にある小さな神社。仕事のストレスが溜まってて、散歩してる時にふらっと立ち寄ったんだ。結構雰囲気あってさ」

 

 遥が続ける。

 

「境内の手水舎の近くに落ちてたから、綺麗だなと思って拾ったんだよ。誰かが落としたのかもしれないけど、他に誰もいなかったし……」

 

「拾った時、何か変わったことは?」

 

「いや、特には……。ただ、手に取った時、少し温かいなとは思った。太陽に当たってたのかと思ったけど」

 

 俺はその石をじっくりと観察する。光の角度を変えると、虹色の輝きが変化する。オパールのようにも見えるが、もっと神秘的な光を放っている。

 

「この石が原因だったりして」

 

「まさか……ただの石だぞ。そんなオカルトじみたこと……」

 

 遥は言いかけて口を閉じる。でも、今の状況自体が十分オカルトだ。

 

「でも、他に思い当たることは?」

 

「……ない。本当に、変わったことと言えばこの石を拾ったことくらいだ」

 

 遥も認めざるを得ない様子だ。確かにこの石以外に変化の原因になりそうなものはない。

 

「月替神社か……。月替わり、月が替わる……」

 

 何か引っかかる。神社の名前と、遥の身体が変わったこと。関係があるのだろうか。

 

「じゃあ、今度その神社に行ってみよう。俺も休みなら一緒に行ける。神主さんでもいれば話を聞けるかもしれない」

 

 遥の表情が明るくなる。絶望の中の一筋の光を見つけたような顔だ。

 

「本当か?ありがとう、誠。本当に……」

 

「いいって、俺も気になるし。この石、普通じゃない気がする」

 

 そう言って笑う。遥も笑顔を返してくれた。今日一日で一番明るい笑顔だった。

 

「早く元に戻ろうな」

 

 俺がそう言うと、遥が少し不安そうな表情を見せた。でもすぐに笑顔に戻る。

 

「ああ、頼む」

 

 その夜、遥は寝室へ向かった。

 

「おやすみ、誠。明日、よろしくね」

 

「ああ、おやすみ」

 

 ドアが閉まる音がして、俺は一人リビングに残された。

 

 ソファで横になる。いつもの定位置だ。最近はすっかりここで寝るのが日課になった。

 

 しかし、なかなか眠れない。

 

 天井を見上げながら、今日一日のことを振り返る。朝、遥が作ってくれた朝食。玄関で「行ってらっしゃい」と見送ってくれた姿。帰宅した時の笑顔。そして夕食を囲んで話した時間。

 

 女性の姿になった親友。一緒に暮らし始めて一週間。確実に距離が近くなっている。

 

 遥の笑顔が頭に浮かぶ。困った顔、泣きそうな顔、照れた顔。

 

 ふと、気づく。

 

 今日、俺は何度も遥の顔を見ていた。表情を気にしていた。笑ってくれた時、ほっとした。悲しそうな顔をした時、胸が痛んだ。

 

 それは親友を心配する気持ち……だよな?

 

 でも、心のどこかで、別の感情が芽生えている気がする。

 

 遥の笑顔を見て、綺麗だと思った。エプロン姿で料理をする姿を見て、何とも言えない感情が湧いた。

 

「……いや、違う。あれは遥だ」

 

 自分に言い聞かせる。遥は親友だ。外見が変わっても、中身は変わらない。男だった頃と同じ、俺の大切な友人だ。

 

 そう、変わらないはずだ。

 

 でも、本当にそうだろうか。

 

 外見が変われば、接し方も変わる。声が変われば、会話の雰囲気も変わる。一緒に暮らせば、見えなかったものが見えてくる。

 

 心のどこかで揺らいでいる自分がいる。その事実を認めたくなくて、俺は無理やり目を閉じた。

 

 窓の外では雨が降り始めていた。ポツリポツリと窓を叩く音が、徐々に激しくなっていく。梅雨の雨は、しつこく降り続ける。

 

 雨音を聞きながら、俺は考える。

 

 早く元に戻してやらないと。

 

 遥を元の姿に戻す。元の生活に戻す。美月さんと、また幸せに暮らせるようにする。

 

 それが、今の俺にできる唯一のことだ。

 

 それが、親友としての俺の役目だ。

 

 そう自分に言い聞かせながら、俺は少しずつ眠りに落ちていった。

 

 でも、心のどこかで、小さな違和感が消えずに残っていた。

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