「なんの曲聴いてたの?」
クラスメートに聞かれて、咄嗟に答えた曲名は「4分33秒」。
それは、演奏者が何も弾かない、沈黙の曲。
その曲をきっかけに、私たちは少しずつ言葉を交わし始めた。
音楽が溢れたその先に、沈黙が奏でる音は確かそこにあった。
カクヨム、小説家になろうにも同名のタイトルで投稿しています
桜が散り、柔らかな緑が枝に芽吹く。
昼休みの教室で制服姿の生徒たちが思い思いに過ごしていた。そんな中、窓際の席で、ヘッドホンを着けた女子生徒が外の緑を眺めていた。前の席の生徒が彼女の机をトントンと叩き、白い文字の残る黒板を指差す。
日直:高瀬・藤堂
すぐに黒板に向かおうとした女子生徒の足をヘッドホンから伸びるコードが止めた。
女子生徒は慌てた様子でヘッドホンを外し、端から端まで板消しをかけていく。
席に戻った女子生徒が黒板を見返すと、上方に文字が一部残っていた。
女子生徒が再び腰を浮かせたその時。
午後の授業の予鈴が鳴り、教室の扉が勢いよく開け放たれた。
「セーフッ!」
息を切らせた男子生徒が走り込んできた。
「じゃねーよ。高瀬、日直だろ。黒板!」
「っ悪い! すぐ消すわ」
高い上背を活かして、高瀬はあっという間に残っていた文字を消し去っていった。
高瀬はぐるりと教室を見渡し、女子生徒を見つけると片手を軽く上げてにかりと笑った。
「藤堂さん! ごめん。ありがと」
目が合った藤堂は緩く首と両手を振り、そっと視線を窓の外へと外す。
淡く澄んだ新緑に染まる山々の鮮烈な色が藤堂の目にやけにまぶしく映った。
放課後、閑散とした教室で黒板の上部を高瀬が、下部を藤堂が消していく。
綺麗に拭き取られた黒板の片隅に、藤堂は翌日の日直の名前を書き込んだ。振り返り、教卓の日誌を目にした藤堂の眉が下がる。
「あの、高瀬くん。部活あるよね? 私、日誌を書いて先生に出しておくからもう行っていいよ?」
おずおずと高瀬に申し出ると、藤堂は日誌を手に取り自身の机に座った。
ヘッドホンのコードをスマートフォンに繋ぎ、音楽アプリを立ち上げてお気に入りのロックの曲を流し始める。
藤堂がさらさらと日誌にペンを走らせていると正面の椅子に高瀬が座った。
「えっと……? 部活、行っていいよ?」
藤堂はヘッドホンをずらし首にかけると、高瀬へ小声で話しかけた。耳当てから速いテンポの重低音が微かに漏れる。
「いや、俺、今日は日直だったの忘れてて……。午前の日直の仕事、全部藤堂さんにやってもらっちゃったし」
気まずそうに言うと、高瀬はさっと藤堂の手元から日誌を奪った。シャープペンシルの頭をカチカチとノックしながら言葉を続ける。
「だから、日誌は俺が書くよ。ただ、日直二人で提出しないと怒られるからさ、ちょっと待っててくれる? その間、藤堂さんは好きな曲でも聴いててよ」
ね?と笑った高瀬はさっと日誌に視線を落とし、所々詰まりつつ続きを書き始めた。
ますます眉を下げた藤堂は遠慮がちにヘッドホンを頭に戻す。うろうろと視線を高瀬と日誌の上を行き来させると、藤堂はそっと曲を止めた。
校庭では運動部が掛け声を発し、時折ボールを打つ高い金属音が重なる。上階では吹奏楽部のロングトーンの音が響いていた。
ヘッドホン越しの少し遠い音を聞きながら、藤堂はなんとなく目の前の高瀬を眺めた。
整えられた眉毛と伏せられたまつ毛。筋の通った鼻梁がふと目に留まった。
ふわりとカーテンが揺れるたびに、高瀬から爽やかな制汗剤の香りが漂う。
動いていた高瀬の手が止まった。
「ここに藤堂さんの名前書いてくれる?」
顔を上げた高瀬は、日誌の上下を逆さにすると、自身の名前の横の空欄をトンと指で軽く叩いた。
「え、あ。う、うん」
藤堂は慌てて空欄に藤堂、と署名する。
「……なんの曲聴いてたの?」
「え? ……えっと」
何も聞いていなかった――厳密に言うと、高瀬を眺めていた――と正直に言うべきだろうかと藤堂は悩んだ。
藤堂がいいあぐねていると、高瀬は片眉を上げる。
「あ、ごめん。嫌だったら別にいいよ」
「や、そんなことないよ。えっと……」
藤堂は声をうわずらせながら必死に言葉を探す。
ふいに脳裏に1つの曲が浮かんだ。
「……あ。4分33秒、かな」
「え? なに?」
ポカンとした表情で聞き返した高瀬から藤堂はすっと視線を逸らした。
「……その。4分33秒、です」
「それがタイトル? 初めて聞いた。面白いと言うか、変わってるね。どんな曲?」
「う~ん……。静かな曲、かな」
嘘ではない。
沈黙の曲というべきだろうか。楽譜はあるが音符はなく――全て、休み、の指示となっている――、演奏者が楽器としての音は出さない曲だった。
現代音楽のひとつとして知られるこの曲は、静寂の中にある音や、聴くという行為自体を問う意図があるのだと、藤堂は以前読んだことがあった。
「ふ~ん? 確かに、藤堂さんはゆっくりっていうか静かな曲が好きそうな印象」
「……そう、かも?」
藤堂は口早に相槌を打つと、日誌を手に席を立ち高瀬に声をかけ教室を後にした。
職員室へ向かう道すがら、たまに言葉を交わす以外は沈黙のまま二人は歩き続ける。
きゅっきゅと床を鳴らす大小の足音。ゆったりとしたテンポと少し速いテンポ。足音はふいに重なり、またズレる。異なるテンポを刻みながら、二人は廊下を進んでいった。
静かな空間を満たす本の匂い。整然と並ぶ本棚の列の奥。空調の効いた図書館の片隅で、四人掛けの机にノートを広げた藤堂と高瀬は向かい合って座っていた。
日直の日から、二人はちょっとした会話を交わすようになっていた。
テスト週間に入ると、藤堂の成績を聞きつけた高瀬が東堂に勉強を教えて欲しいと連日頼み込んできた。戸惑いながらも藤堂がそれを了承したのがつい先日。集中できそうな場所を二人で話し合い高校から少し離れた図書館で勉強することとなったのだ。
二人が席に着くと、高瀬は真っ白なノートを前に神妙そうな顔をしていた。
自力で問題を解いて不明点を整理してから質問する、と言った高瀬に藤堂は深く頷くとヘッドホンを装着した。
25分の集中と5分の休憩。それを何度か繰り返す勉強方法を藤堂は取り入れていた。
藤堂はそれ用の専用アプリとそれに連動させる音楽アプリをセットして目の前の問題に意識を集中していった。
ポーン、と25分が経ったことを知らせる音が藤堂の耳を打った。
何度目かのそれに、しかし続くはずの5分の休憩に流れる曲が聞こえない。
小首を傾げて藤堂はスマートフォンを見た。
休憩用に5分前後の曲を集めたプレイリストからランダムに選ばれた曲は「4分33秒」だった。
ふふ、と藤堂は思わず笑みをこぼした。
高瀬と日直をした日の夜。音符のない曲は聴けるのだろうか、とちょっとした興味で調べたらヒットしたことに驚き、面白くなってダウンロードした曲だった。
そういえば、高瀬はどんな調子だろうか。
顔を上げると、ぱちりと高瀬と目があった。
驚きで目を見開く藤堂に、高瀬がにぱっと笑いかけてきた。
藤堂は反射的に視線を逸らす。
手の中のスマートフォンが微かに震えた。
人といるときに堂々と触るのも憚られる。
藤堂がスマートフォンを鞄に仕舞いかけると、前から長い指が伸びて軽く机を叩いた。
正面で高瀬が自身のスマートフォンを緩く左右に振っていた。先ほどの手が今度は藤堂のスマートフォンを指差した。
『何か面白いことあった?』
高瀬からの新着メッセージだった。
『さっき、笑ってたから。俺も休憩中~』
次々に高瀬からメッセージが押し寄せる。
どれに返信すべきか藤堂が指をまごつかせていると、続いていた振動が止まった。
ほっと一息つくと、再びメッセージが届く。
『ごめん。たくさんメッセージを送っちゃって困らせてる?』
ポコン、とうつ伏せになった猫が両手に顔を埋めたスタンプ――ごめんにゃさい、の文字付き――が送られてきた。
目の前では高瀬が眉をへにょりと下げ、両手を合わせてごめん、と口パクをしてきた。
藤堂は小さく首を横に振って、自身のスマートフォンの画面を指差すと指を走らせた。
『ううん! そんなことないよ』
『ちょっと集中力切れちゃって』
高瀬がぱっと晴れやかな表情を浮かべる。
『ずっと集中して問題解いてたもんな』
『たまに寝てる? って思ってたら両手を上に伸ばしたりして面白かった』
藤堂がばっと顔を上げると高瀬がいたずらっ子のように目を細めていた。
一瞬で藤堂の頬が熱を帯びる。
藤堂は口を開きかけてすぐに閉じると、猛然と指を動かし始めた。
『見てたの!?』
『休憩に曲を聴きながら体をほぐひた』
『ほぐしたりしてただけで』
気恥ずかしさを誤魔化すように、藤堂はポコンポコンと弁明を送り続ける。
高瀬は右手の甲で口を隠すと、くつくつと笑って肩を揺らした。肩の震えがおさまると高瀬は画面に右手の指を走らせる。
『動揺しすぎでしょ』
高瀬の口元は緩んでいた。
耳や目にもじわりと熱が広がるのを自覚しながら、藤堂はつられるように笑った。
図書館の静寂の中、藤堂と高瀬の指先が静かに動き、二人の手の中のスマートフォンが交互に振動する音が微かに響いてた。
ポーンと勉強再開の音が藤堂の耳元で鳴る。
あっという間の4分33秒だった。
高瀬の問題集が随分と進んでいるのを見て、藤堂は勉強用と音楽アプリを閉じる。
『タイミングもいいし、お昼に行く?』
藤堂はヘッドホンを外し、ノートを片付けながらチラリと高瀬をみた。
いそいそと片付け始めた高瀬は、藤堂の視線に気付くとお腹すいた、と口パクをしながらお腹を押さえる。
そのコミカルな動きに藤堂がくすくすと笑い声をこぼした。
高瀬はにこっと屈託のない笑顔を浮かべる。
そのまま笑い合いながら、二人は梅雨の晴れ間の中へと歩き出した。
オレンジ色に染まる教室でヘッドホンを着けた藤堂はペンを走らせていた。
ポーンと休憩を告げる音が耳元で鳴る。
しかし、藤堂の予想に反して曲が流れない。
藤堂の口元が思わずほころんだ。
藤堂がスマートフォンを見ればその画面には「4分33秒」のジャケット画。
アップテンポの曲を集めた休憩用のプレイリストの中でふいに訪れる無音。その静寂は初めて一緒に日直をした日の放課後や図書館でのやり取りを思い出させた。
『部活終わった!』
ポコン、と高瀬からメッセージが届いた。
図書館での勉強以降、高瀬とは雑談をよくするようになった。
そんなある日。最終下校時刻になり勉強を終わらせて帰る藤堂と部活終わりの高瀬が校門で鉢合わせたのだ。
高瀬はうろたえた様子で藤堂の普段の下校時間等や帰る方向を矢継ぎ早に尋ねてきた。そして、気がつけば毎日一緒に帰る約束をしていたのだった。
当初は随分と緊張していた。しかし、高瀬の部活や友人の話、藤堂の好きな曲、そういったたわいもないことを話すうちに、いつしか藤堂にとって特別な時間になっていった。
『あと5分くらいで合流できそう!』
藤堂の口角が上がり、目尻は下がった。
藤堂は勉強用アプリを閉じるも、音楽アプリの画面で一度止まった。結局、藤堂は音楽アプリを終了させることなく、4分33秒の静寂が流れる中で帰る準備を進めていった。
突然、教室の扉が開いた。
藤堂の肩がビクリと跳ねた。
にぎやかに話しながら生徒達が入ってきた。
「ったく。忘れ物するなよな。部活終わりの貴重な時間だぞ~」
「ごめんって。なんかおごるから許せよ」
「あれ、藤堂さん。高瀬を待ってるの?」
教室に入ってきた生徒の一人で、高瀬と仲のいい佐藤が藤堂に声をかけてきた。
女子生徒達が顔を見合わせる。
「あ、高瀬君と帰ってたの藤堂さんだったの? この前、2組の鈴木さんが告白するって言ってたからてっきり……」
「あー、あの子。可愛いよね。髪や化粧とかネイルもばっちりだし」
女子生徒達はそのままお洒落の話題で盛り上がりはじめた。
藤堂はうつむいてスマートフォンからヘッドホンのコードを外した。そのままコードを仕舞うために指へ巻きつける。
整えられた指の爪には何も塗られていない。
藤堂は結び終えたコードと共に指先をぎゅっと握り込んだ。
「なぁ、ちょっと聞いてくれよ」
少し遅れて教室に入ってきた男子生徒達の一人が不満を口に出し始めた。
「部活が終わってへとへとなのに彼女が毎日一緒に帰りたいとか言ってきてさぁ。やっとレギュラーになって集中したいのに」
困る、とぼやく男子生徒に、佐藤や女子生徒達が慌てた様子で遮ろうとする。しかし、男子生徒と一緒に入ってきた別の生徒達が次々に同意の言葉を返して盛り上がり始めた。
「おい、お前らやめろ。あの、藤堂さん。あいつ、一緒に帰れて嬉しいって俺らに」
佐藤が焦ったように藤堂に話しかけた瞬間。
藤堂のスマートフォンから大音量で激しいロックの曲が流れ、生徒達は口をつぐんだ。
藤堂は音楽アプリを咄嗟に閉じる。
有線コードを外しても音楽が再生され続けるなんて知らなかった。
静まり返った教室で藤堂は身じろいだ。
「……あっ、あの。私、もう帰るね」
藤堂は荷物をつかんで教室を飛び出した。
しばらく廊下を走り続けていた藤堂の足が止まる。息を弾ませながら、藤堂は握りしめていたスマートフォンに震える指を走らせた。
『ごめんなさい。ちょっと今日は急用ができて一緒に帰れないです』
さらに続けようとした指が一瞬ためらう。
『あと、もう一緒には』
続きを書いては消すことを何度か繰り返すも、送信ボタンは押されることはなかった。
こういうことは直接伝える方がいいだろう。
藤堂は力無くかぶりを振りヘッドホンを着けた。うつむいて歩きながら音量を上げる。
好きな曲で頭をいっぱいにしたかった。
とぼとぼと廊下を歩く藤堂の耳に、大音量で流れる曲に紛れて微かに声が届いた。
藤堂は足を止めて左右に目をやるも、人影はない。再び一歩踏み出しかけたその時。
強い力で藤堂の右腕がつかまれた。
藤堂が驚いてそちらを見ると息を荒げた高瀬が立っていた。
「っごめん! 少し、待って、くれる?」
高瀬は肩を大きく上下しながら途切れ途切れに言葉を発した。藤堂が小さく頷くとほっとした表情で手を離す。
息を整えるように高瀬はその場で両手を膝に当てて何度か深呼吸を繰り返した。
「あの……」
藤堂はヘッドホンを首にかけつつ、ためらいがちに高瀬に小声で話しかけた。
その声に顔を上げた高瀬や眉を寄せて言いづらそうに口を開いた。
「さっき、佐藤から連絡があって。それで探してて……」
目を伏せた高瀬は両手を固く握りしめた。
「いや、ごめん。そうじゃなくて」
高瀬は拳を緩めるとゆっくりと顔を上げる。
高瀬の真剣な目が藤堂を射抜いた。
「あの、さ。えっと、用事があるのにごめん。でも、校門……や、玄関まででいいから一緒に帰っていい? その、今すぐ行かないといけないんじゃなければ、だけど」
いつもより早口に、しかし恐る恐る伺うように高瀬は慎重に言葉を続けた。
藤堂が口ごもると高瀬の顔が曇った。
「俺と一緒にいること自体が、嫌、かな」
「そ、そんなことない。ただ、……その」
藤堂の右手の指がヘッドホンから伸びるコードをいじる。左手がヘッドホンを握りしめると、耳当てがぎちりと微かに音を立てた。
「……じゃあ、藤堂さんは好きな曲でも聴いててよ。無理に話さなくていいし、ただ横で歩くだけ。それだけでも」
藤堂は無言で小さく首肯した。
逡巡しつつ藤堂はヘッドホンを元に戻す。そっと横目で高瀬を窺うと、まっすぐな視線とぶつかった。
思わず目を逸らしてプレイリストを眺めるものの、藤堂の指は戸惑うばかりだった。
いっそのこと、こっそり音量を下げてしまえばいいだろうか。
焦りで適当に曲を選ぼうとした瞬間。飛び込んできた「4分33秒」のジャケット画。
藤堂はとっさにその曲をタップすると高瀬の方を仰ぎ、軽く頷いた。
頷き返した高瀬の視線が少し下がった。藤堂の手元付近を見たようだった。
藤堂の右側に高瀬が立つ。行こう、というかのように高瀬が前を指で示すと、二人は無言のまま連れたって歩き始めた。
ヘッドホンから流れる静寂。
いつもより一歩分だけ離れた二人の距離。
さぁっと二人の間を風が通る。
ふわり、と制汗剤と汗の混じった匂いが藤堂の鼻に届いた。
部活終わりの高瀬からは、いつも制汗剤の香りだけがしていたことに藤堂は気づく。
足裏に感じる床の硬さ。自身の心臓の鼓動。窓に映る二人の姿。
普段なら気にもとめないそれらが、やけに藤堂の意識を捕らえた。
ふと、横を歩く高瀬が何かをつぶやいた。
藤堂がちらりと横目で高瀬を見上げると、ぱちりと目があった。
びくり、と藤堂の肩が揺れる。
あ、と高瀬の口が少し動いた。
何か言いたいのだろうか。
藤堂がヘッドホンを外そうと手をやると、接触を探知して外音取り込み機能が入った。
高瀬は、そのままでいいよ、と言って――クリアな声が耳に入った――首を振った。高瀬はヘッドホンをかける身振りをすると、前を指差して再び歩くように促す。
二人の足元できゅっと床が鳴った。
先ほどよりも明瞭になった周囲の音を藤堂の耳が拾い始める。
最終下校を告げる廊下に響くチャイム。離れた場所で響く生徒の笑い声と下校を促す教師の掛け声。大きな返事とともにばたばたと足音が遠ざかっていく。
じわりと浮かんだ汗が藤堂の首筋を伝った。再び風が吹いて藤堂の髪を躍らせる。
汗臭くないだろうか。
藤堂はもう半歩分、距離を取ろうとした。
「ごめん」
ぽつり、と高瀬が零す。
遣る瀬なさを滲ませた声だった。
藤堂がこっそりと右側を見上げると、背筋をピンと伸ばして高瀬は前を見つめていた。
「佐藤が、さっきクラスで色々と話があったって」
教室での会話が知られているのか。
藤堂は思わず眉をしかめる。
同時に、高瀬の独白を盗み聞きしている状況に焦りを覚えた。
「……心配もあるけど、それ以上に俺が一緒に帰りたくて送りたいって言ったのに」
藤堂は聞こえていることを正直に白状しようと口を開きかける。しかし、続く高瀬の言葉に言い出すタイミングを掴み損ねた。
「勉強を教えてくれって頼んだり、休み時間に話しかけたり……受け入れてくれる藤堂さんの優しさに甘えてたんだ」
高瀬の苦しげな声と告げられた言葉。
違うのに、と藤堂は反射的に思った。
「困るとかそんなわけない。それなのに、俺のせいで嫌な思いさせて……ごめん」
悲しみと悔しさの溢れた声に、藤堂は小さく左右に首を振る。
「俺は」
聞こえていると言えない心苦しさ。それでも何かを言いたくて言葉を探す藤堂の耳に芯の通った声が届いた。
「藤堂さんのいいところ、いっぱいあるって知ってる」
ノートの文字から伝わる丁寧さと几帳面さ。図書館の迷子にしゃがんで声をかける優しさ。荷物を持った妊婦さんをチラチラ見て、緊張しているのに声をかける一生懸命さ。
ポロポロと降ってくる高瀬の言葉に藤堂は息を呑んだ。
「可愛いところも、たくさん知ってる」
甘いものを食べてキラキラと輝く目。綺麗に整えられた爪や普段と違う髪型を褒めたときの真っ赤な頬。勉強を教えてくれる声の柔らかさ。好きな曲を語るときにこぼれる笑顔。何でもない俺の話にコロコロと笑う声。
高瀬が重ねる言葉に藤堂の胸はきゅうと締め付けられて息苦しさすら感じるほどだった。
あっという間に藤堂の全身は火照り、目がじわりと潤む。進む足が遅くなり、少しずつ二人の距離が開いていく。
一歩先の高瀬が、くるりと振り向いた。
「だから」
互いに立ち止まり、視線が絡む。
藤堂の両手が高瀬の手に包み込まれた。
「藤堂さん」
熱のこもった眼差しが藤堂を見据える。
胸の鼓動がうるさいほど激しく響いた。
瞬間。藤堂の両耳に大音量の曲が流れ込み、周囲の音を一瞬にして掻き消した。
「――――」
今、高瀬は何と言ってくれたのだろうか。
心のこもった温かさに満ちていたはずの言葉は、藤堂の耳に届くことなく宙に消えた。
照れ臭そうにはにかんだ高瀬がそっと手を離す。遠のいていく温もりを追うように、藤堂の両手から熱が引いていった。
冷えた指先で首元にヘッドホンを下ろす。耳当てからシャカシャカと軽快な音が漏れた。
「た、たかせくん」
動揺のあまり舌足らずな呼びかけになった。
「ご、ごめんなさい。今、何を言ってくれたの? 曲、が流れてて」
その続きは藤堂の口の中に消えていった。
不思議そうに首を傾けた高瀬は、しかし耳当てから漏れる音に気付いたのだろう。
あ、と声を漏らすと頬を赤く染めた。
「っその! ご、めん。急に手を握って」
吃りながら謝ると、高瀬は片手を前に突き出し、反対の手で口元を覆った。
「あの、ちょっと待って」
高瀬は息を吸うと、深く長く息を吐いた。
顔を紅潮させたまま体を元に戻すと、高瀬は真摯な目で再度、藤堂の名前を呼ぶ。
その眼差しがちくりと藤堂の胸を刺した。
「っあの! 待って」
口をついて出た藤堂の言葉に、高瀬の顔がさっと青ざめた。
藤堂は自身のふがいなさに下唇を噛んだ。
人気者の高瀬に臆していた自分こそが、高瀬の言動に甘えていたのだ。それなのに、さらに甘えるのか。それは、違うだろう。
藤堂は微かに震える両手で首からヘッドホンを下ろす。すがるようそれを握りしめた。
「私もっ」
か細くかすれた声がもどかしい。
藤堂はこくりと唾を飲み込み口を開いた。
「高瀬君のいいところ、いっぱい知ってる」
道に迷っている人にためらいもなく声をかける勇気と優しさ。昼休みにも自主練する部活にひたむきな姿勢。友達や部活の仲間について嬉しそうに話すところ。
積み重なる言葉に高瀬の目元が赤らんだ。
その表情に藤堂は気持ちを奮い立たせる。
「か、かっこいいところだって」
集中して問題を解く真剣な顔。何度もボールを打って硬く分厚くなった手。美味しそうにご飯をほおばるときの笑顔。部活での出来事を楽しそうにイキイキと話す声。
言葉を尽くすと藤堂はほっと息を吐き、ゆっくりと吸い込んだ。
「あのね、高瀬君。私、高瀬君のこと」
「――待って」
わずかに震える藤堂の声を高瀬が遮った。
「ごめん」
藤堂は息を呑んだ。
高瀬はぱっと片手で口元を覆い隠す。
「藤堂さん、可愛すぎて困る……」
耳の先まで赤くして高瀬は唸るような声で言葉を漏らした。
「でも」
高瀬は軽く息を吐き姿勢を正すと、真剣な眼差しで藤堂を見つめてきた。
「俺から言わせてほしい」
静かな揺るぎない声だった。
藤堂の胸の奥からじりじりと温かいものが込み上げてくる。
「好きです。俺と付き合ってください」
ころり、と熱は雫となって藤堂の頬を滑り落ちていった。
「っはい……!」
鼻をすんすんと鳴らす藤堂を前に、高瀬は笑顔を弾けさせた。
「少しはかっこつけられたかな? さっき、ズルいことしちゃったから」
高瀬は眉を下げてはにかみながら言った。
藤堂はゆっくりと首をかしげる。
「ズルいって……?」
「その、藤堂さんが……曲を聴いてるときに。色々話しちゃったこと、かな」
「曲? あ……」
藤堂は曲を聴いている体で図らずも高瀬の言葉を聞いてしまっていたこと思い出した。
黙っていた自分の方がむしろズルい、と藤堂が考えているうちに、ふと疑問がよぎった。
もしかして、高瀬は4分33秒という曲を知っているのではないだろうか。
藤堂が高瀬のいいところやかっこいいところを伝えたとき。高瀬の言葉を返すような藤堂の言葉に、高瀬は照れているようでも驚いてはいない様子だった。
先ほど、曲を選んだ際に高瀬は藤堂のスマートフォンの画面を見ていなかったか。
高瀬の独り言にしてはやや大きかった声。
告白が――おそらく、だが――曲で聞こえなかったと言ったときの高瀬の反応。
小さな違和感が積み重なる。
「高瀬君。4分33秒って曲、知ってる?」
高瀬はパチリと一度瞬いた。
「……知ってるよ。静かな曲、でしょ? 初めての日直のときに教えてくれたやつ」
「そ、うだね……よく覚えてたね」
「ん~……好きな子のことは知りたくなるもんじゃない?」
丸く柔らかい声で高瀬はふんわりと笑った。
「聴いたことは……っ」
温かな熱が藤堂の右手を包み込んできた。
つい、藤堂はその続きを飲み込んだ。
「ね、玄関まで手を繋いでもいい?」
高瀬は揶揄うような目で指を絡めてきた。
「……用事、なくなったから。その、いつものところまで一緒に帰れるよ」
藤堂はささやいて手をそっと握り返した。
そのまま二人は無言で歩き出した。
茜色の雲に薄く紫が重なり始める。
藤堂が右手の温もりに慣れてきたその時。
「あのさ」
突然の声に藤堂の手がびくりと震えた。
逃げる藤堂の手を高瀬の手が優しく握る。
「聴いたことはないんだけど、色々なアーティストの4分33秒を集めたトリビュートアルバムがあるの知ってる?」
高瀬は藤堂の手を何度か軽く握りしめながら声を弾ませた。
「えっ。そんなアルバムがあるの?」
藤堂が高瀬を咄嗟に見上げると、優しい目がそこにあった。
二人の足が自然と止まる。
無言のまま、互いの視線が柔らかく絡んだ。
「「……今度、一緒に聴く?」」
二人の声が重なり、一拍の沈黙が流れる。
どちらからともなく小さく笑い出した。
頬を寄せて囁き合いながら一歩を踏み出す。
きゅっと大小の足音が同時に床を鳴らした。
二つの足音はふいに重なり、またズレる。
次第に音が重なる回数が増え、いつしか同じテンポが刻まれていた。