プラントに到着して早々、世界を揺るがした激動の数時間。
地球軍による核攻撃という最悪の悪夢を、本物のラクスとキラが「自由」の翼で切り裂いた。
そして、その熱狂と混乱が冷めやらぬ中で放たれた、プラントの歌姫による、渾身の演説。
アスラン・ザラがようやく応接室の扉を開けた時、そこに立っていたのは、以前アーモリーワンで会った時の、どこかふわふわとして浮ついていた少女ではなかった。
「……おかえりなさい、アスラン。無事で何よりですわ」
振り返った彼女──ミーアの表情には、本物のラクスが持つ慈愛とはまた違う、ひりつくような「覚悟」が刻まれていた。
今の彼女が纏っている空気は、あまりにも重い。
それは、自らの意志で戦場に立ち、自らの言葉で民衆を導こうとする者が背負う、孤独な指導者のそれだった。
「……君も、無事でよかった」
アスランは言葉を絞り出す。月軌道での彼女の戦いぶりは、帰還したジュール隊の報告で聞いていた。
かつての親友と同じように、不殺を貫こうとするキラの影で、泥を被るように敵を討ち続けた「もう一人のラクス」。
その時、アスランの視線が、彼女の服の襟元で鈍く光る小さな「翼」に釘付けになった。
「それは……」
「これのことかしら?」
ミーアは自嘲気味に指先でそのバッジに触れた。
金色の、気高くも禍々しい意匠。
「最高評議会議長直属特務隊──『
FAITH。
その言葉が、アスランの胸の奥を鋭く抉った。
かつて、プラントが前大戦の戦火に包まれていた頃。
父、パトリック・ザラが自分に授けたものと同じ称号。
ジャスティスを託され、己の正義を疑い、迷い、そして引き裂かれたあの記憶。
(議長は……彼女にそれを背負わせたのか)
FAITHは特権であると同時に、呪縛だ。
議長の意思を代行し、自らの判断で超法規的な武力行使さえ許される「孤独な英雄」の証。
それを、家族を人質に取られたこの少女に与えたデュランダルの真意はどこにあるのか。
「アスラン。貴方は、かつてこの重みを知っていたのでしょう?」
ミーアの声は、どこか遠くを見つめているようだった。
「私はもう、ただ守られるだけの女の子ではありません。……このバッジと、そしてあの機体――『プロヴィデンス』と共に、私は私の選んだ路を行きますわ」
「プロヴィデンス……!? まさか、あの機体まで持ち出したというのか、議長は!」
アスランの動揺を余所に、ミーアは窓の外に広がる人工の空を見上げた。
「摂理に抗うために、摂理を駆る。……滑稽ですけれど、今の私にはこれしかないのです。アスラン、貴方が……本物のラクス様たちが、私の光を救い出してくれるその時まで」
彼女の襟元で光るFAITHのバッジが、夕映えのような照明を反射して怪しく煌めく。
アスランは、かつての自分を見るような既視感と、それ以上に、一人の少女を修羅の道へと追い込んでしまった現実に対する、激しい悔恨に拳を握りしめた。
「……ラクス。君は一人じゃない。それを忘れないでくれ」
「分かっていますわ。……だからこそ、私は立ち止まれませんの。──それと、ミーアって、呼んでちょうだい。アスラン」
「ああ、分かった。ミーア」
ミーアは再び、完璧な「ラクス・クライン」の微笑みを貼り付けた。
けれど、その襟元の翼だけは、彼女がもはや引き返せない戦士の領域に踏み込んだことを、無慈悲に告げ続けていた。
◇◇◇
アプリリウス市街の喧騒から隔絶された、ザフトの地下軍事施設。
薄暗い通路を歩くミーア・キャンベルの足音だけが、硬い床に反響していた。彼女の装いは、先の演説の時と変わらぬ薄紫の短袖に白い羽織。かつて戦場を駆けた戦艦エターナルの指揮官を彷彿とさせるその姿は、今の彼女が纏う静かな威圧感と相まって、すれ違う兵士たちに本物のラクス・クラインが降臨したかのような錯覚を抱かせていた。
その後ろを、迷いを捨てきれぬ面持ちでアスラン・ザラが追う。
「ここです」
ミーアが立ち止まり、重厚なセキュリティ扉を開放した。
照明が点灯し、広大なハンガーの全貌が露わになる。その中央に鎮座する機体を目にした瞬間、アスランは息を呑んだ。
「これは……」
鋭角的なシルエット、特徴的な頭部のセンサーユニット。それは、アスランがかつて愛機としたイージスやジャスティスの面影を色濃く残していた。
「ZGMF-X23S セイバー。……最新鋭のセカンドステージ・シリーズの一機です。私の特務官としての権限で、この機体を貴方へと託しますわ、アスラン」
ミーアの声は、鈴を転がすように澄んでいながらも、抗いがたい重みを伴っていた。アスランは機体を見上げたまま、自嘲気味に呟く。
「……セイバー。俺に、救世主になれと言うのか?」
その問いに、ミーアはゆっくりと彼を振り返った。羽織の裾がふわりと舞う。
「あら。私にとっては、貴方はもう充分に救世主ですわ。手のひらに書いた私の稚拙な願いを、貴方は拾い上げてくださったもの」
彼女の瞳は、揺らぎのない光を湛えていた。
「その名を背負うかどうかは、貴方に任せます。ですが、どのような想いであってもそれを貫く力と……戦ってでも守らなければならないもののための力。この機体は、そのためのものだと思ってくださいな」
アスランは沈黙した。
目の前の少女は、自分に「正義」を説いているのではない。
ただ、戦う理由があるのならそのための「手段」を、自分の意志で選べと言っているのだ。その強さと残酷さは、アスランが知るどの指導者よりも、今の世界に対して誠実であるように感じられた。
「君は本当に……何とどう戦わなければならないかということに、迷いがないのだな」
アスランの呟きに、ミーアは微かに微笑んだ。それは慈愛に満ちたラクスの仮面の下にある、ミーア・キャンベルとしての覚悟が漏れ出したような、不思議な笑みだった。
「未来がどうなるかなど、私にもわかりません。ですが、今の世界との向き合い方は……私なりに心得ているつもりですわ」
その凛とした立ち居振る舞い、そして迷いなき言葉。
アスランは改めて確信した。目の前にいるのは、誰かに仕立て上げられた単なる替え玉ではない。
たとえ名が偽りであっても、彼女は今、自らの魂を削って「ラクス・クライン」という役割を真実に変えようとしているのだと。
紅い機体の影の下、羽織をなびかせて立つ少女の姿は、あまりにも気高く、そして痛々しいほどに孤高だった。
◇◇◇
セイバーを託され、重い決意を胸に秘めたアスラン・ザラは、プラント本国に留まる間、かつての戦友であるニコルやミゲルたちの墓参りに行こうと考えていた。軍への外出届は受理されていたが、安全上の理由から「同行者」がつくことになっていた。
宿泊先の自室で身支度を整えていたその時、呼び鈴が鳴った。
――ピンポーン。ピンポーンピンポーン!
一度ではない。間を置かず、執拗に、そして苛立ちを隠そうともしない連打。一度鳴らせば中にいることは分かるはずだ。それにもかかわらず、返事を待たずに鳴らし続けるその無作法な音に、アスランは思わず眉をひそめた。
「……分かった、今開ける!」
アスランがドアを開けた瞬間、そこに立っていた人物の顔を見て、彼は絶句した。
「イザーク……、ディアッカ」
「貴様ぁっ!」
挨拶も何もなく、いきなり胸ぐらを掴みかかってきたのは銀髪の男、イザーク・ジュールだった。
「うわっ、なっ、ちょっと待て、おい!」
「待てるか! 貴様のせいでどれだけの手間を食っていると思っているんだ!」
アスランは何とかその手を振り解き、一歩下がって身構えた。
「なんだっていうんだ、いきなり! 暴力はよせ!」
「それはこっちの台詞だアスラン! 俺たちは今、部隊の再編だの何だのでムチャクチャ忙しいっていうのに! 評議会に呼び出されて来てみれば、貴様の『護衛監視』だと!? ふざけるな!」
肩を怒らせて捲し立てるイザークの横で、金髪の男──ディアッカ・エルスマンが、やれやれと肩をすくめながら付け足した。
「護衛監視。……まあ、表向きはな。外出を希望したんだろ? お前」
「あ、ああ。誰か同行者がつくとは聞いていたが……それが、お前たちなのか?」
アスランの困惑に、イザークが吠えるように答えた。
「そうだっ! ジュール隊の隊長と副官を揃って使い走りにするとは、いい度胸だ貴様!」
「……ま、お前の事情を知ってる『誰か』が、わざわざ俺たちを指名したってことだよ。議長か、あるいは……例の『歌姫様』か」
ディアッカの言葉に、アスランはハッとした。自分と彼らの因縁を知り、かつ信頼して任せられる相手──デュランダル議長か、或いはミーアが、イザークたちに裏で手を回したのではないかという推測が頭をよぎる。
「……とにかく、立ち話をしていても目立つ。行くぞ」
ディアッカの促しに従い、三人は地下駐車場の車へと向かった。
ディアッカがハンドルを握り、助手席には不機嫌そうに腕を組むイザーク、後部座席にアスランが座る。かつてのクルーゼ隊を彷彿とさせる光景だが、その空気は以前よりもさらに複雑な色が混じっていた。
「で? どこ行きたいんだ、お前。せっかく俺様が運転してやってんだ、無駄足はごめんだぜ?」
ディアッカがバックミラー越しにアスランを見やる。
「買い物だの、観光だのと言い出したら俺は即座に貴様を部屋へ叩き返すからな!」
助手席のイザークが釘を刺す。その剣幕に、アスランは静かに、けれど真っ直ぐに答えた。
「……そんなんじゃない。ただ、ニコルたちの墓に、行きたいんだ」
「…………」
その名が出た瞬間、車内の空気が一変した。
あれほど騒がしく吠えていたイザークの口が、不自然なほどぴたりと止まる。窓の外を見つめるその横顔には、怒りではなく、隠しようのない沈痛な色が差していた。
「……そうか」
ディアッカが短く呟き、静かに車を発進させた。
誰がこの「再会」を仕組んだにせよ、その配慮だけは、今の彼らにとって必要なものだった。三人は言葉を失ったまま、かつて共に戦い、そして散っていった仲間たちが眠る静かな場所へと向かって走り出した。
◇◇◇
静寂に包まれた慰霊碑の前。ニコル・アマルフィの名が刻まれた墓標を前に、三人の間にはかつての戦場とは違う、穏やかで、けれど重みのある空気が流れていた。
アスランは静かに口を開いた。
「俺は……ザフトに復隊することにした」
その言葉に、イザークは驚く素振りも見せず、ただじっと墓標を見つめたままでいた。ディアッカもまた、黙ってアスランの言葉の先を待つ。
「プラントのラクス・クライン──彼女から新たな力を授かった。セイバーという機体を。……俺は、今の世界で自分にできることを探したい」
「セイバーか……。最新鋭機を個人に与えるとは、彼女も随分と思い切った真似をするな」
ディアッカが皮肉げに、けれどどこか楽しげに口角を上げた。
「ミーアも、なかなかやるじゃないの」
「……! なぜお前たちが、彼女の本名を……」
アスランは目を見開いた。彼女の正体は、議長が秘匿している国家最高機密のはずだ。驚くアスランに対し、ディアッカはひらひらと手を振って見せた。
「まあ、ちょっとした『共犯者』ってやつさ。いろいろあってね」
「貴様がプラントを離れている間、あいつはしばらくジュール隊で預かっていた」
イザークがぶっきらぼうに言葉を継いだ。その声には、単なる保護対象に対するもの以上の、奇妙な敬意のようなものが混じっている。
(そうか……。彼女は必死だったんだ)
アスランは胸の奥が熱くなるのを感じた。
家族を人質に取られ、孤独な
「あいつ、隊を離れる時に言ってたぜ。『短い間でしたけど、ありがとうございました』ってな。FAITHのバッジを付けて、わざわざ頭を下げに来やがった」
ディアッカの言葉に、アスランは彼女の襟元に光っていたあの翼のバッジを思い出した。
「FAITHは議長の懐刀だ。その権限も重みも、並の軍人とは比較にならん」
イザークが、ようやくアスランの方を真っ直ぐに見据えた。その瞳には、かつてのライバル心を超えた、戦友としての忠告が宿っている。
「……アスラン。あいつから目を離すなよ」
「イザーク……」
「あいつはもう、ただの替え玉じゃない。自分の意志で、あの大戦の亡霊すら呼び覚まして戦場に出ようとしている。……それがどれほどの毒になるか、貴様なら分かるはずだ」
イザークの言葉は鋭かった。かつてパトリック・ザラの下で「正義」を強制された自分たちだからこそ分かる、力を持つことの危うさ。
「分かっている。彼女を……一人にはさせない」
アスランの答えに、イザークは鼻を鳴らして顔を背けた。
「フン。ならいい。……行くぞ、ディアッカ。いつまでもここに居ては、ニコルが安眠できん」
大股で歩き出すイザーク。その後を追うディアッカが、アスランの肩を軽く叩いた。
「ま、期待してるぜ、救世主殿」
車へと戻る二人の背中を見つめながら、アスランはもう一度、ニコルの墓前に視線を落とした。
守るべき仲間。託された想い。そして、今度は自分が守らなければならない、孤独な少女の笑顔。
アスランは深く息を吸い込み、決意を新たに歩み出した。
もう、迷いはない。
彼女が守ろうとしたこの世界を、今度は自分がその隣で支え抜くために。
◇◇◇
車内には、タイヤがアスファルトを噛む音と、わずかな風切り音だけが流れていた。
ニコルの墓参りを終えた後の沈黙は、決して気まずいものではなく、それぞれが過去と向き合うための必要な空白だった。
その静寂を、カーオーディオから流れてきたイントロが破る。
『君の姿は僕に似ている……静かに泣いてるように胸に響く』
哀愁を帯びたメロディと、力強くも切実な歌声。
ラクス・クライン──いや、ミーア・キャンベルの新曲だった。
ハンドルを握るディアッカが、スイッチを切ろうと手を伸ばしかけ、ふと止める。
助手席のイザークも、いつもなら「くだらん」と吐き捨てるところを、無言で窓の外を見つめたまま動かない。
『何も知らない方が幸せというけど、僕はきっと満足しないはずだから』
後部座席のアスランは、流れる景色を見つめながら、その歌詞を噛み締めていた。
(何も知らない方が……)
そうだ。何も知らず、ただ命令に従っていれば楽だったかもしれない。
だが、俺たちは知ってしまった。
戦争の裏側を、父の狂気を、そして平和の脆さを。
『うつろに横たわる夜でも、僕が選んだ今を生きたい、それだけ』
「……フン。よく歌う」
イザークが低く呟いた。
罵倒ではない。その声には、どこか自嘲にも似た共感が滲んでいた。
彼もまた、エリートとしての道を外れ、ジュール隊という現場で泥を啜りながら、「自分が選んだ今」を生きている一人だ。
かつてニコルを守れなかった悔恨を抱えながら、それでも前へ進むことを選んだ男だ。
『どうしても楽じゃない道を選んでる、砂にまみれた靴を払うこともなく』
「……まるで、俺たちのことだな」
ディアッカがハンドルを切りながら、ポツリと言った。
楽な道なんて、誰も選んでいない。
アスランは脱走し、また戻り、苦悩の中で再び軍服を着た。
イザークは昇進の道よりも、現場で部下を守る盾となることを選んだ。
ディアッカもまた、一度は敵となり、世界を見て、ここへ戻ってきた。
みんな、砂にまみれた靴のままだ。
綺麗な英雄なんかじゃない。傷だらけで、泥だらけの生存者。
『こんな風にしか生きれない、笑って頷いてくれるだろう、君なら』
アスランの脳裏に、ニコルの笑顔が浮かぶ。
そして、ミゲルの、散っていった戦友たちの顔が。
彼らなら、今の不器用な自分たちを見て、笑って頷いてくれるだろうか。
「相変わらずですね」と、「仕方ない奴らだ」と。
『君の姿は僕に似ている……同じ世界を見てる君がいることで』
バックミラー越しに、アスランとディアッカの目が合う。
そして、イザークがちらりと横目で二人を見る。
言葉はいらなかった。
かつては反発し合い、バラバラになりかけたチーム。
けれど今は、同じ痛みを知り、同じ墓標に祈りを捧げ、同じ「どうしようもない世界」を見つめている。
「……似た者同士、か」
アスランが小さく呟くと、イザークが鼻を鳴らし、ディアッカが苦笑した。
『僕は君に生かされてる…』
曲が終わり、フェードアウトしていく。
車内には再び静寂が戻ったが、それは先ほどよりも少しだけ温度のある、温かな沈黙だった。
「……行くぞ。議長が待っている」
イザークの言葉に、車が加速する。
彼らは再び、それぞれの戦場へと向かう。
「君は僕に似ている」という、見えない絆を確かめ合って。