ミネルバがカーペンタリアを離れ、スエズへと向かう大海原の上。艦内のMS隊は、特務隊FAITHの称号を持つアスラン・ザラを実質的な隊長として再編された。
シン、ルナマリア、そしてレイという個性の強い赤服たちを束ねるには、かつての英雄であり、誰よりも実戦経験豊富なアスランが適任であることに異論を挟む者はいなかった。それは、同じFAITHであっても軍籍を持たない「民間協力者」という立場のミーアにとっても、最も動きやすい形だった。
軍議を終え、ミーアは自分に割り当てられた士官室の重い扉を閉めた。
「ふうぅぅぅ…………っ!」
扉に背を預けた瞬間、ピンと張り詰めていた背筋が、音を立てるように緩んだ。
ミーアは両腕を高く突き上げ、声を漏らしながらぐーっと身体を大きく伸ばす。薄紫の袖が滑り落ち、白い羽織がふわりと揺れた。
そこは、プラントの豪奢な屋敷でもなければ、議長の冷徹な視線が突き刺さる応接室でもない。ミネルバの機能的な、けれど確実にプライベートが保証された、彼女だけの「城」だった。
「やっと……やっと一人になれた……」
ベッドの端に腰を下ろし、ふにゃりと肩の力を抜く。
ラクス・クラインとして、慈愛に満ちた聖女を演じ続けるのは、想像以上に魂を削る作業だ。特に今は、地政学的な戦略を語り、艦長や副長を圧倒してみせた直後。頭脳をフル回転させた反動で、心地よい倦怠感が全身を包んでいた。
「……何、そんな顔で見てるのよ、アスラン」
ふと視線を上げると、部屋の入り口付近に立っていたアスランが、呆れたような、それでいてどこか柔らかな眼差しで自分を見つめていることに気づいた。
「いや……。君も、普通の女の子なんだなと思って」
「失礼ね。普通で悪かったわね。……でも、これくらい気を抜いたってバチは当たらないでしょ? 議長の監視カメラも盗聴器もない。ここは、私が私でいられる唯一の場所なんだから」
ミーアは唇を少し尖らせて、年相応の少女のように不満を漏らした。
プラントの指導者たちが見れば、あまりの落差に目を剥くような「素」の姿。けれど、アスランの目には、戦場でドラグーンを操り、ブリッジで冷徹に戦略を説く「ラクス・クライン」よりも、今の彼女の方がずっと切実で、守るべき価値のある存在に映っていた。
「……笑わないでよ、アスラン」
アスランの口元が、隠しきれずにわずかに綻んでいるのを見て、ミーアは顔を赤くして枕を抱え込んだ。
「笑っていない。……ただ、安心しただけだ。君が君のままでいられる場所が、この艦にあって良かったと、そう思っただけだよ」
アスランの静かな、けれど確かな温もりを含んだ声。
ミーアはその言葉を胸の奥で反芻し、抱えた枕に顔を埋めた。
「……もう。本当に、救世主様は言うことが違うんだから」
皮肉っぽく返したけれど、その声にトゲはなかった。
外では終わりの見えない戦争が続き、彼女たちはその渦中に自ら飛び込もうとしている。
けれど、この小さな「城」の中で、自分を知る誰かが隣にいる。
その事実だけで、ミーア・キャンベルはまた明日、完璧な「ラクス・クライン」という仮面を被って立ち上がるための、ささやかな勇気を得ることができた。
◇◇◇
ミネルバのMSデッキに隣接するブリーフィング・ルーム。
張り詰めた空気の中、ハッチが開く電子音が響いた。
「待たせたな」
入室してきたのは、真紅の制服に身を包んだアスラン・ザラ。そしてその横には、淡い薄紫の短袖のドレスの上に、純白の羽織を纏ったミーア・キャンベル──ラクス・クラインが並んでいた。
軍規に則った厳格な姿のアスランと、戦場には不似合いなほど優美で、けれど不思議な威厳を漂わせるミーア。そのあまりに異質なツーショットに、部屋に待機していた三人のパイロットたちの反応は劇的に分かれた。
「お、お待ちしておりました! ザラ隊長! ラクス様!」
真っ先に反応したのはルナマリア・ホークだ。彼女は居住まいを正し、少し頬を紅潮させながら完璧な敬礼を送った。憧れの歌姫が、まさか自分たちの艦に、それもMSパイロットとして配属されたのだ。ミーアの着ている白の羽織が、彼女の可憐さと「指導者」としての品格を際立たせているのを見て、ルナマリアの瞳はキラキラと輝いている。
対照的に、シン・アスカは椅子に座ったまま、不服そうに二人を睨みつけていた。
「……アンタが隊長、ですか」
シンは、カガリの護衛として腰巾着をしていた「アレックス」の姿と、目の前の赤服のエリート姿がどうしても重ならないらしい。
「不満か? シン・アスカ」
「別に……。ただ、アンタみたいな人が、俺たちと一緒に泥水を啜れるのかって思っただけですよ。それに……」
シンの視線が、アスランの隣に立つミーアへと向く。
「姫様までMSに乗るなんて、正気とは思えませんね。あのデカブツ、飾りじゃないんでしょう?」
「飾りではありませんわ、シン・アスカ」
ミーアは柔らかな笑みを崩さず、しかし毅然と言い返した。
「平和を歌うだけでは守れないものがあると、私は知りましたの。だから、剣を取りました。……貴方と同じですわ」
「っ……」
痛いところを突かれ、シンはバツが悪そうに視線を逸らした。
そして──レイ・ザ・バレル。彼はただ静かに、直立不動で二人を見つめていた。表情は能面の様に変わらない。だが、その視線はアスランを通り越し、ミーアの背後にある「存在」──彼女が乗る機体『プロヴィデンス』の影を見ているようだった。
(……プロヴィデンス)
レイの手元にあるデータパッドには、今回配備された機体のスペックが表示されている。ZGMF-X13A。かつて、自分と同じ遺伝子を持ち、兄と慕った男、ラウ・ル・クルーゼが駆った機体。世界の終末を告げる鐘として鳴り響いた、あのドラグーンシステム。
それを、議長はこの少女に与えた。自分ではなく、ラクス・クラインの代役である彼女に。
(議長の意志だ。……俺が疑うことではない)
レイは理屈で感情を押し殺す。だが、胸の奥底に渦巻く黒い
「レイ・ザ・バレル。……どうかしましたか?」
視線に気づいたのか、ミーアが小首をかしげてレイを見た。その無邪気な仕草さえ、今のレイには神経を逆撫でするものに映る。
「……いいえ。ラクス様が、あの機体を扱えるのかと危惧しただけです」
「ふふ、心配性なのですね。でも大丈夫。……『声』が聞こえる気がしますもの」
「!?」
レイの眉がピクリと跳ねた。
声、だと?
「さあ、ブリーフィングを始めよう」
アスランが手を叩き、奇妙な緊張感を断ち切った。だが、その瞬間に生じたレイの中の小さくも深い亀裂は、簡単には塞がりそうになかった。
それぞれの思惑を乗せて、新生ミネルバ隊が始動する。
◇◇◇
インド洋の青い海が、またたく間に硝煙と爆炎で覆い尽くされた。
ミネルバのブリッジには、けたたましいアラートが鳴り響く。
「敵機、急速接近! ウィンダム、ジェットストライカー装備隊30! ──さらに上空にカオス、水中からアビスです!」
「空中の敵は俺とシンで相手をする。ラクスは援護を頼む。レイとルナマリアは水中のアビスを!」
アスランの鋭い指示。
セイバーとインパルスが鮮やかにデッキを蹴り、空へと舞い上がっていく。
(援護、ね。……そんなに心配しなくても、私だって戦えるのに!)
私はプロヴィデンスのコックピットで、不敵に口角を上げた。
「援護」という名目で、私を安全圏に置こうとするアスランの優しさは嬉しいけれど、今の私にはこの「天帝」を操る腕がある。
『進路クリア、カタパルト接続、プロヴィデンス発進、どうぞ!』
「ラクス・クライン、プロヴィデンス、発進します!」
凄まじい加速G。
カタパルトから射出された灰色の巨体は、改良されたVPS装甲に電流が走り、くすんだ灰色から不気味な鈍色へと輝きを変える。
本来、ドラグーン・システムは大気圏内では使えないというのが定説だった。端末の推力が重力に抗えないから──。
けれど、かつてクルーゼが駆ったこのプロヴィデンスのドラグーンは、ビームの網を張るだけでなく、それ自体が突撃兵器としての機能さえ持っていた。
「いっけぇぇぇぇ!!」
私の脳波リンクに呼応し、背負った巨大なプラットフォームから複数の端末が分離する。
宇宙のような三次元の超高速機動は難しい。けれど、空を切り裂き、最短距離で敵を貫くことなら──この「天帝」には造作もないこと!
大型ドラグーンが青い空を奔り、ビームスパイクを発振して巨大な光の鏃となる。それが逃げ惑うウィンダムの胴体を容赦なく貫通し、爆発の華を次々と咲かせていく。
『なっ……!? あの重装甲機、ドラグーンを飛ばしてやがるのか!?』
『ば、化け物か!』
敵の動揺が通信越しに伝わってくる。
私の本体を狙おうとするウィンダムの群れに対しても、私は操縦桿を力強く押し込んだ。
「本体だって、飾りではありませんわ!」
肩掛け式の大型ビームライフル『ユーディキウム』が火を吹き、腰部のドラグーンが前方へ展開して固定砲台──ビームキャノンとして火線を重ねる。
さらに懐に飛び込んできた一機には、左腕の複合兵装防盾から巨大なビームサーベルを展開。一閃。
ウィンダムが上下真っ二つになり、海へと落ちていく。
プロヴィデンスの巨体が空に留まる姿は、まさに戦場を支配する神。
「審判」を下すその苛烈なまでの戦いぶりに、ミネルバのクルーたちも、そして戦うシンやアスランさえも、一瞬だけ言葉を失った。
「さあ、お退きなさい。……これ以上、私たちの邪魔をさせませんわ」
戦火に染まる海の上で、私は完璧なラクス・クラインの微笑みを浮かべながら、次なる標的へとドラグーンを放った。
◇◇◇
「なんだ……あの機体は」
マゼンタ色の専用ウィンダムのコクピットで、ネオ・ロアノークは息を呑んだ。
戦場を舞う、禍々しい灰色の巨体。
背負った円盤状のプラットフォームから放たれる、光の刺青のような弾幕。
それは、本来この時代に、この重力下にあるはずのない「亡霊」だった。
「……っ!?」
その瞬間、ネオの脳内に凄まじい衝撃波が走った。
視界が白く明滅し、鋭い頭痛が彼を襲う。
(な、なんだ……この感覚は。知っている……俺は、これを知っている……!)
プロヴィデンスが放つドラグーンの軌跡。
空間を立体的に削り取るような、逃げ場のない死の網。
ネオの空間認識能力が、その機動の「意味」を、かつて魂に刻み込まれた「恐怖」として呼び覚ます。
──ドクン、と鼓動が跳ねた。
脳裏に、今の記憶ではない映像が強引に割り込んでくる。
真っ赤に焼ける宇宙。
降り注ぐ無数の光の矢。
そして、その中心で嘲笑う、仮面の男。
「う、あああああああッ!!」
ネオは頭を抱え、絶叫した。
「ネオ・ロアノーク」という偽りの仮面を繋ぎ止めていた、精神の「箍」が、プロヴィデンスの放つ圧倒的なプレッシャーに耐えかねて悲鳴を上げる。
『墜ちなさいッ!』
通信回線に割り込んできたのは、汚れなき歌姫──ラクス・クラインの声。
だが、その慈愛に満ちた声とは裏腹に、プロヴィデンスが振るうビームサーベルの苛烈さが、ネオの脳内の結界を粉々に打ち砕いた。
──パリンッ!!
何かが、物理的な音を立てて壊れた。
暗闇に沈んでいた記憶の底から、眩いばかりの色彩が溢れ出す。
「……俺は……」
ネオの瞳から光が消え、別の色が宿る。
マゼンダ色のウィンダムが、激しく機体を震わせた。
操作系を握る手の震えが止まらない。
「俺は……ネオじゃない。俺は……ム、ムウ……」
壊された。
連合の研究所が施した精緻な記憶操作の処置が、たった一機のMSの残像によって、跡形もなく破壊された。
プロヴィデンス──
「俺は……ムウ……ムウ・ラ・フラガだ……ッ!!」
記憶操作の箍は、完全に粉砕された。
あの日、宇宙の塵となったはずの男が、プロヴィデンスの放つ死の光を浴びて、皮肉にもその魂を現世へと呼び戻されたのだ。
溢れ出した記憶の奔流に飲み込まれ、意識が混濁する。
目の前にいるプロヴィデンス。
彼はただ、荒い息を吐きながら、眼下のプロヴィデンスを見つめていた。
憎悪ではない。
因縁と、そして奇妙な運命の巡り合わせを感じながら。
「……ハハッ、なんてこった。……地獄の底から迎えに来たってのかよ、クルーゼ」
ムウ・ラ・フラガの瞳が、仮面の下で鋭く光った。
混乱と、怒りと、そして得体の知れない「懐かしさ」が混ざり合い、彼のウィンダムは戦場の中央で、狂ったようにスラスターを噴射させた。
「クルーゼェェェッ! まだ、死に損なっていたのかぁぁぁッ!!」
かつての宿敵を討つためか、あるいは自分を壊した亡霊を振り払うためか。
マゼンタのウィンダムは、回避行動も忘れてプロヴィデンスへと肉薄した。
◇◇◇
ミーアには分かる。
理屈ではない。この機体のシートを通じて、背筋を凍りつかせるような、それでいてひどく懐かしい「熱」が流れ込んでくるのだ。
向かってくるマゼンタのウィンダム。
そこから放たれる殺気は、単なる敵意を超えた「怨念」に近い。
それに応えるように、プロヴィデンスの駆動系が、まるで歓喜に打ち震えるかのように唸り声を上げた。
(聞こえる……)
耳元で、あの冷笑を浮かべた仮面の男の声が囁くかのようだった。
『さあ、見せてやれ。……自分を捨て、役割に逃げ込んだあの愚か者に。逃れられぬ業というものをな!』
「……煩い。黙ってて、貴方はもう死んだ人なんだから!」
ミーアは唇を噛み、目の前の「不可能を可能にする男」へと狙いを定めた。
手強い。ドラグーンの軌道を完全に読んで、網の目のわずかな隙間を潜り抜けてくる。
かつて唯一、プロヴィデンスのドラグーンを読み切って避けた男の直感。
だが、そこには致命的な誤認があった。
今のネオ──ムウが見ているのは、自分を地獄へ引きずり込もうとするラウ・ル・クルーゼの幻影。
対するミーアが振るうのは、この物語を生き延びようとする「一人の女の子」の執念。
(貴方が見ているのは、クルーゼの影。……でも、私はミーアよ。ラクス様ですらない、ただの、ミーア・キャンベルなの!)
「そこですわっ!」
ミーアはドラグーンを包囲網としてではなく、あえて「盾」として使った。
クルーゼなら絶対にしない、ドラグーン端末を自機の前面に盾として配置してビームシールドを展開、敵のビームを至近距離で弾き返すという暴挙。
「なっ……!?」
ムウの脳内に衝撃が走る。
彼の知るクルーゼは、こんな「守り」の機動は取らない。常に攻め、嘲笑い、敵を翻弄するはずだ。
その「予測のズレ」が、一瞬の、けれど決定的な隙を生んだ。
「これでも、喰らって……正気に戻りなさい!」
ミーアは左腕の複合兵装防盾を叩きつけた。ビーム刃は展開しない。
そのまま物理的な打撃としてウィンダムの頭部を、メインカメラを粉砕する。
「が、はっ……あ、あああああああ!!」
激しい衝撃と共に、ムウの意識の中で火花が散る。
プロヴィデンスの灰色の掌が、ウィンダムの胸部を──コクピットのすぐ横を、優しく、けれど強く押し込む。
その瞬間、通信回線が強引に繋がった。
そこから流れ込んだのは、戦場の狂気ではなく、ただ一人の少女の、切実な叫びだった。
『……生きて! 生きてください! 貴方は、こんなところで終わっていい人じゃないはずですわ!!』
凛としたラクス・クラインの声。
けれどその奥に、必死に泣きじゃくりながら名前を呼ぶ、誰かの面影。
「……あ、……ぁぁ……マリュー……俺は…」
ムウの瞳からネオとしての光が消え、涙が溢れ出した。
崩壊した記憶の瓦礫の山から、たった一つの、暖かな光が差し込む。
マゼンタのウィンダムは、力を失ったように海へと落下し始めた。
「アスラン! あのウィンダムを回収して! 殺しちゃダメ、絶対!」
『……ラクス!? 分かった、セイバーで拘束する!』
アスランのセイバーが急降下し、パワーダウンしたウィンダムを抱きとめる。
空には、プロヴィデンスが静かに浮いていた。
その灰色の装甲が、夕映えに染まって一瞬だけ、赤く輝く。
ミーアは激しく震える自分の指先を、もう片方の手で強く押さえ込んだ。
(……助かった? 今ので、フラグ、折れたかしら)
戦場に沈黙が降りる。
ミーアの頬を、一筋の冷や汗が伝った。
摂理の呪縛を力ずくでねじ伏せ、彼女は今、物語の歯車をかつてないほど巨大な力で、あらぬ方向へと回し始めたのだ。