ガルナハンの要塞を覆っていた硝煙が、朝日に照らされて白く棚引いている。
戦闘は終わった。けれど、本当の意味での「戦い」はここからだった。
プロヴィデンスのハッチを開け、私はタラップを降りた。薄紫色に白の羽織。風に舞う桃色の髪。
要塞の広場では、解放された喜びが、瞬く間にどす黒い「報復」の熱気へと変貌しようとしていた。
「殺せ! こいつらが俺たちの家族を!」
「生かしておくな! 奪われた分だけ苦しませてやる!」
レジスタンスや、ついさっきまで鎖に繋がれていた人々が、武器を手に、武装解除された連合兵たちを囲んでいる。怯える兵士たちを、今にも引きずり出して
「──そこまでになさい!」
私は声を張り上げた。マイクを通したわけでもないのに、その凛としたラクス・クラインの声は、怒号に染まった広場を静まり返らせるほどの力を持っていた。
人々の視線が私に集まる。
私は震える足で、怒りに燃える男たちの前まで歩み寄った。
「どいてくれ、ラクス様! あんたは優しいからそんなことが言えるんだ! こいつらは人間じゃない、俺たちの命をゴミのように扱った悪魔だ!」
一人の男が、血走った目で叫んだ。
「ええ、その通りかもしれません。彼らが貴方たちにしたことは、決して許されることではないでしょう」
私は静かに、けれど逃げ場のない眼差しで男を見つめた。
「ですが……彼らを殺してしまえば、貴方たちもまた、彼らと同じ『奪う側』になってしまう。……それで一時は胸の曇りが晴れたとしても、貴方たちが愛した方々は、その手で血を流す貴方を見て喜ぶでしょうか?」
「うるさい! なら、俺たちのこの怒りは、どうすればいいんだ!」
「……殺されたから殺して、殺したから殺されて……。その憎しみの連鎖が奏でる音が、安らかに眠るべき魂への
私は一歩、さらに前へ出た。傍らでは、アスランとシンが、いつでも飛び出せるように機体から降りてこちらを見守っているのが分かった。
「……赦せとは申しません。その怒りも憎しみも、愛するが故の、奪われた者の正当なものですわ」
私はシンの目を思い出しながら、言葉を継いだ。
「ですが、貴方たちが彼らと同じ深淵に堕ちる必要はありません。報復は何も生まず、ただ新しい悲劇の火種を残すだけ……。奪われた側にしか分からない痛みを、今度は貴方たちが、別の誰かに味わわせる側にならないでほしいのです」
「……そんなのは……ただの綺麗事だ」
男が、持っていた銃を震わせながら呟く。
「ええ、綺麗事ですわ」
私は微笑んだ。慈愛に満ちた、けれど哀しみを知る一人の女の子として。
「だからこそ、私はそれを現実にしたいのです。……人が人を撃たずに済む世界。奪われたからといって、奪い返すことでしか自分を保てない……そんな悲しい運命を、私はここで終わらせたいのですわ」
私は静かに頭を下げた。
「どうか……憎しみに、貴方たちの尊い心を食い尽くさせないで。貴方たちが取り戻したのは、ただの土地ではありません。……明日を生きるための、『誇り』のはずですわ」
沈黙が広場を支配した。
やがて、一人の男が持っていた鉄パイプを、カラン……と地面に落とした。
それが合図だったかのように、人々は力なく膝をつき、あるいは顔を覆って泣き崩れた。
報復の熱が、静かな、けれど深い悲しみの涙へと変わっていく。
「……さすが、だな」
いつの間にか私の隣に来ていたムウさんが、低く、感心したように呟いた。
アスランも、そしてシンも、言葉を失って私を見つめていた。
(……綺麗事、か。本当にね)
私は羽織の裾を握り締め、自分に言い聞かせた。
原作のラクスが説いた言葉は、あまりにも高潔すぎて、時に現実を置いてけぼりにした。
でも、今の私──ミーア・キャンベルが語るのは、自分が地獄を知っているからこその、泥臭いまでの「願い」だ。
「……お疲れ様です、ラクス様」
ルナマリアが駆け寄り、私の肩を支えてくれる。
「ありがとう、ルナマリアさん。……でも、私の仕事はまだ終わっていませんわ」
私は、遠くスエズの空を見つめた。
ガルナハンの解放は、始まりに過ぎない。
この世界に牙を剥くロゴスを討つために人々が立ち上がるその日まで。
私はこの「綺麗事」という名の旗を、誰よりも高く掲げ続けてやる。
◇◇◇
広場に満ちていた殺気と、それに代わって訪れた嗚咽。
その重苦しい空気を震わせるように、ミーアは瓦礫の上に立ち、静かに歌い始めた。
『涙で滲んだ この
『儚い蒼さが 胸を締めつけてく』
伴奏などない。
砂塵混じりの風の音だけが響く中、彼女の歌声は驚くほど力強く、そして透き通って響き渡った。
その歌は、ただの娯楽のための歌ではなかった。
死と隣り合わせの荒野で、生きることの過酷さと、それでも続いていく命への賛歌。
『Life Goes On 燃え上がる 命がある限り』
『真実の自分さえ 見失いそう それでも』
膝をついたレジスタンスの男たちが、地面に拳を突き立てて泣き崩れる。
彼らの背中を、歌声が優しく撫でていく。
奪われた悲しみは消えない。焼かれた家は戻らない。
それでも、命がある限り、人生は続いていくのだと。
『Life Goes On 守りたくて 心は砕かれて』
『本当の哀しみを知った瞳は 愛に溢れて』
その歌詞を聞いたシン・アスカは、ハッとしてミーアを見つめた。
「本当の哀しみを知った瞳」。
昨夜、彼女が肯定してくれた自分の痛み。
そして今、憎しみに囚われそうになった人々を止めた彼女自身の瞳にも、深い哀しみと、それを越える愛が宿っているように見えた。
(……すごい)
シンは震えた。
MSの力で敵を倒すことだけが強さじゃない。
言葉と歌で、人の心の剣を収めさせる。
これが、
『冬に咲く花が 霞む景色 彩る』
『“強さは優しさ” そう歌いかけてる』
「強さは、優しさ……」
群衆から少し離れた場所で、アスラン・ザラはそのフレーズを反芻していた。
かつて自分が求めた力。父が求めた力。
それは敵をねじ伏せるための剛力だった。
だが、彼女は歌う。本当の強さとは、悲しみを知り、他者を思いやる優しさなのだと。
(俺は……彼女に教えられてばかりだな)
アスランは自嘲気味に、しかし穏やかな笑みを浮かべた。
隣に立つハイネもまた、腕を組みながら深く頷いている。
「……へっ。MSでドンパチやるのが馬鹿らしくなっちまうな」
ムウ・ラ・フラガは、自分の新しい機体インパルスの足元で、その光景を見下ろしていた。
目の前で殺されかけていた連合の捕虜たちが、今は放心したように、しかし救われた顔で歌に聴き入っている。
彼らもまた、命令されて戦い、死に怯えていた人間だ。
この歌は、敵も味方もなく、ただ「生き残った者たち」すべてに平等に降り注いでいる。
『何の為 誰の為に 君は 戦い続けるのだろう 今』
その問いかけは、レイ・ザ・バレルの胸にも微かなさざ波を立てた。
彼は無表情のまま、プロヴィデンスザクのコクピットハッチから身を乗り出し、歌う「偽物の歌姫」を見つめていた。
自分には縁のない言葉だと思っていた。遺伝子が定める役割を果たすだけの存在。
けれど、ミーアの歌声は、そんな彼の冷徹な論理の壁を、優しく、けれど容赦なく浸食していく。
(……なぜ、あなたの歌は、こんなに胸を叩くのですか。ミーア……)
議長の計画のための駒。
だが、その駒が放つ光は、もはや本物を凌駕し始めているのではないか。
『Life Goes On この時代に 生まれてきた限り』
『この腕で この胸で 今 受けとめよう 愛を信じて』
ミーアの声が、広場の隅々まで染み渡る。
復讐のために上げられた拳は開かれ、隣にいる家族を、友を抱きしめる手へと変わっていく。
殺伐とした処刑場になるはずだった場所が、今は鎮魂と再生の祈りの場へと変わっていた。
『いつの日か もう一度 光を分かち合いたい』
『Life Goes On 守りたくて 祈りを
歌が終わっても、しばらくの間、拍手は起こらなかった。
ただ、静寂だけがそこにあった。
それは、どんな熱狂的な歓声よりも雄弁な、魂の共鳴だった。
やがて、誰からともなくすすり泣く声が漏れ、一人の少女がミーアに駆け寄った。
ミーアはその少女を抱きしめ、そして集まった人々に向けて深く、深く頭を下げた。
その姿は、ガルナハンの人々の目に、そしてミネルバのクルーたちの目に、永遠に焼き付く光景となった。
◇◇◇
ガルナハンの要塞からザフトの撤収作業が進む喧騒の中。
プロヴィデンスザクの影で、レイ・ザ・バレルは一人、立ち尽くしていた。
昨夜、シンが彼女の腕の中で泣き崩れたあの光景が、そして今朝、彼女が戦場に響かせたあの歌が、レイの胸の奥底に突き刺さって抜けない。
彼は決意を固めたように、一人で歩き出そうとしていたラクス・クライン──ミーアへと歩み寄った。
「……ラクス様」
低く、けれど震える声。ミーアが足を止め、穏やかに振り返る。
「レイ……。お疲れ様でしたわね。貴方の援護、とても助かりましたわ」
「いえ……。問いが、あります」
レイは彼女の瞳を直視できなかった。
彼は、自分が何者であるかを知っている。人工的に作られた命、ラウ・ル・クルーゼのクローン。短い余命と引き換えに、ギルバート・デュランダルの描く「デスティニープラン」の成就こそが自分の存在意義だと信じてきた。
「何故……あのような歌が歌えるのですか。失うことを嘆きながら、それでも明日を望むような……そんな、残酷な歌を」
レイの声は、次第に告白へと変わっていく。
「私は……短命です。明日などという不確定なものに価値はない。だからこそ、ギルの……議長の示す
彼の脳裏に浮かぶのは、ミネルバの食堂で交わす他愛もない会話や、訓練の合間に見せる仲間の笑顔。デスティニープランが完成すれば、それらは「役割」に置き換えられてしまう。それでも自分は、その温もりを求めてしまっている。
ミーアは、静かにレイへと歩み寄り、その冷たくなった手をそっと取った。
「それで良いのですわ、レイ。……いえ、それこそが、貴方が今を精一杯生きている証ですもの」
「……証……?」
「明日を願うことは、罪ではありません。誰かと共に歩みたいと願う心は、貴方が『道具』ではなく、血の通った『強い人』であるという証拠なのですわ」
ミーアは、レイの瞳の奥に潜む「亡霊」を見据えるように言った。
「貴方は、レイ・ザ・バレル。……ラウ・ル・クルーゼではありませんわ」
レイの肩が、びくりと跳ねる。
「人の夢、人の望み、人の業……それらすべてを呪って、世界を破滅させようとした彼。……けれど、貴方は違います。貴方の生命は、貴方のもの。貴方が感じる痛みも、シンを想う優しさも、彼の
「だが、俺は……ギルに役目を与えられた! 俺はラウだと、それが運命だと言われたんだ!」
レイは悲鳴のように叫んだ。その心の中に溜まっていた、デスティニープランへの最後の「苦悩」が溢れ出す。
「デスティニープランが成就すれば……シンの明日はどうなる? あいつは『守護者』として、戦い続ける運命に縛り付けられる……。俺は、親友を……大好きなあいつを、そんな檻に閉じ込めるために戦っているのか!? これが……俺の望む明日なのか!?」
自分はいい。どうせ先はない。けれど、未来あるシンまでもが、自分の信じる「運命」によって自由を奪われる。その矛盾に、レイは押し潰されそうになっていた。
ミーアは、すべてを知っていた。
本来の物語で、彼が最後に議長を撃った理由。親友のために、自らの信じた全てを否定してまで明日を託した、その魂の輝きを。
「……願っていいのですわ、レイ。貴方自身の明日も、シンの明日も」
ミーアは、泣き崩れそうになるレイを、優しくその胸に抱き締めた。
「……あ……ああ……ッ」
レイは、耐えきれずにミーアの肩に顔を埋め、縋り付くように彼女の背中に手を回した。
軍人として、クローンとして、完璧に押し殺してきた感情。
それが、ミーアの柔らかな温もりを通じて、激しい嗚咽となって溢れ出す。
「レイ。貴方は、彼の様に明日を呪わなくていい。……生きたいと、願っていいのですわ」
ミーアは、小さな子供をあやすように、レイの金色の髪を撫で、その背中を優しく、何度も叩いた。
シンの怒りを受け止め、レイの絶望を溶かす。
それは本物のラクス・クラインでさえ成し得なかった、ミーア・キャンベルという「一人の女の子」が選んだ、孤独な少年たちへの救済だった。
ガルナハンの砂塵の中、朝日に照らされながら。
「運命」という鎖に縛られていた二人の少年は、偽物の歌姫の腕の中で、初めて自分自身の「明日」という光を見つけようとしていた。
レイの泣き声が、風に乗って消えていく。
その背中を撫で続けるミーアの瞳には、かつて物語を観ていた時のような同情ではなく、共にこの過酷な時代を生き抜こうとする、共犯者のような強い光が宿っていた。
◇◇◇
ミーアに抱きしめられ、その温もりの中で心の澱を吐き出したレイは、かつてないほど足取りが軽いことを感じていた。
育ての親であるギルを裏切る。その負い目は、消えることはない。
けれど、自分を「ラウ」という亡霊の檻に閉じ込め、シンの未来さえも「守護者」という役目に縛り付けようとしたギルの愛は、あまりにも一方的で、あまりにも冷たい。
(俺は……明日を生きたい。この想いに、もう嘘は吐かない)
レイは決意を固め、自室にシンを、そしてある「当事者」を呼び出した。
ムウ・ラ・フラガ──。
アル・ダ・フラガの息子であり、この話をするに足る人物であると定め、ある意味での立会人として声を掛けた。
ルナマリアを外したのは、彼女の優しさを案じたからだ。この重すぎる真実は、今の彼女にはまだ毒になるかもしれない。
「……話ってなんだ、レイ」
「改まって、どうしたんだよ。おっさんまで呼んでさ」
「おっさんじゃない」
部屋に入ってきたシンは、昨夜の涙が嘘のように晴れやかな顔をしていた。一方、ムウはどこか予感めいたものを感じているのか、静かな眼差しでレイを見つめている。
レイは二人の前に立ち、一呼吸置いてから、静かに、けれど淀みなく真実を語り始めた。
「俺は……ラウ・ル・クルーゼと同じ、アル・ダ・フラガのクローンだ」
「……えっ?」
シンの顔から色が失われる。隣でムウの眉がピクリと跳ねた。
「俺に遺された時間は、普通の人間よりもずっと短い。テロメアの短縮……それが、俺の背負った宿命だ」
レイは淡々と、自分の出自と、死へのカウントダウンが始まっていることを明かした。そして、かつて自分がその「運命」を肯定し、世界のすべてをギル──デュランダル議長が示す「デスティニープラン」に委ねようとしていたことも。
「だがな、シン。……俺は、願ってしまったんだ。明日を。お前がいて、ルナマリアがいて、そして俺がそこにいて、笑っていられる明日をな」
「レイ……」
「議長はいずれ、世界にデスティニープランを解き放つだろう。遺伝子によって人の役割を定め、争いをなくすという、完璧な調和。……だがそれは、お前を『戦うための道具』として檻に閉じ込めることと同義だ。俺は……そんな運命のために、お前を利用したくはない」
レイの言葉は、熱を帯びていた。それは、ミーアが彼に与えてくれた「生きたい」という執念の現れだった。
「その時が来れば、俺は議長と対峙することになるだろう。……俺は、お前とルナマリアと、共に明日を生きるために戦う。それがたとえ、俺を育てた親への裏切りであってもだ」
沈黙が部屋を満たす。
シンは、親友の告白の重さに震え、拳を強く握りしめた。
「裏切りなんて言うなよ、レイ……っ」
シンがレイの肩を強く掴んだ。その瞳には、かつての復讐の炎ではなく、友を守ろうとする強い意志が宿っていた。
「俺は、お前と一緒にいたい。ルナもそうだ。……運命だかなんだか知らないけど、俺たちがどこで誰と笑うかくらい、俺たち自身が決めてやる。……そうだろ、おっさん!」
不意に振られたムウは、困ったように頭を掻いた。
「ああ。……不可能を可能にする男の前で、寿命だの運命だのと言われるのは癪に障るからな。……いいぜ、レイ。お前は俺の父親の影なんかじゃない。お前はお前だ。その『明日』ってやつ、俺も一緒に掴み取ってやるよ」
「……感謝する」
レイの唇に、ようやくかすかな、本当の笑みが浮かんだ。
クローンという呪縛、デスティニープランという檻。
それらを打ち破るための、小さな、けれど強固な「反逆の同盟」がここに結ばれた。
その光景を扉の向こうで感じ取ったミーアは、壁に背を預け、静かに安堵の息を吐いた。
(レイ……。よかったわね。これで貴方の物語も、もう死へと続く一本道じゃない)
ミーア・キャンベルの「解釈違い」の旋律は、ミネルバの奥深くで、確実に未来を書き換え始めていた。
ギルバート・デュランダルが描いた完璧な盤面は、いまや内側から崩壊を始めていた。
友情と、愛と、そして何より「明日を生きたい」という原始的なまでの執念によって。