籠は静かに完成した   作:鬼灯@東方愛!

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正しい距離

 朝の教室は、いつもとても騒がしい。

 

 椅子を引く音。

 ランドセルのファスナーを開ける音。

 挨拶をし、名前を呼び合う声。

 

 その喧騒の中で、琴里は自分の席に座っている。

 

 忘れ物はない。

 ノートも、筆箱も、体操服も、全部そろっている。

 

 確認した記憶は、ない。

 でも、琴里にとっては、あるのが普通だった。

 

 授業中、先生に指名されて席を立つ。

 黒板の前に立ち、チョークを握る。

 

 何を書くかは分かっている。

 けれど、最初の一画で、手が止まる。

 黒板は大きく、腕を動かす距離が遠い。

 

 先生がすぐ近くに来て、手首の位置を調整する。

 琴里は何も言わず、そのまま書き進める。

 

 席に戻ると、もう次の問題に進んでいた。

 

 

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 休み時間。

 琴里は席に座ったままだ。

 誰も、立てとは言いにこない。

 

「琴里ー、私ね、今日算数のノート忘れてさ」

 

 前の席から、陽菜(ひな)が声をかけてくる。

 

「さっきの授業、先生に当てられたらどうしようかって思った」

 

 クラスで一番背が低くて、

 でも一番落ち着いている子。

 だから、忘れ物なんて、珍しい。

 

「琴里は忘れ物、本当にしないよね」

 

「……そうかな」

 

「うん、みたことないよ」

 

 ただ、気づいたことを口にしただけの調子だった。

 

 

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 給食の時間になっても、琴里は席を立たない。

 いつも、配膳当番に名前を呼ばれるまで動かない。

 

「行かなくていいの?」

 

 陽菜が小さく聞く。

 

「呼ばれてないから」

 

 それが理由にならないことは理解している。

 けれど、体はそう判断していて、動かない。

 

 陽菜は何も言わず、琴里の腕を引いて歩き出す。

 

「はい」

 

 トレーを取って、琴里に差し出してくれた。

 

「ありがとう」

 

 

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 昼休み、保健室の前を通る。

 体調が悪いわけじゃない。

 でも、いつか呼ばれそうだなと、ぼんやり考える。

 

「琴里ってさ」

 

 帰り支度をしながら、陽菜が言う。

 

「あんまり自分から動かないよね」

 

 言葉を探している感じはない。

 淡々としている。

 

「……そうかも」

 

 否定も、肯定もできる。

 でも、どちらも正しくない気がした。

 

「ーー家の人、過保護じゃない?」

 

 その一言で、空気が少し止まる。

 

 琴里は答えない。

 

 分かっている。

 普通じゃないことも、行き過ぎていることも。

 

 でも、それをどうするかは、

 もう琴里の手の中にはない。

 

「……よく分からない」

 

 そう言うと、陽菜はそれ以上、何も聞かなかった。

 

 

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 お父さんが死んだ。

 

 でも、琴里は知っている。

 本当は、ずっと前から知っていた。

 

 あの人は、琴里の本当の父親じゃなかった。

 

 お母さんも、

 ーーたぶん、本当の父親だった人も、

 

 もう、とっくに、どこにもいない。

 

 使用人も、全員、鎖夜が辞めさせた。

 

 それで、この家は二人きりになった。

 

 鎖夜は琴里の前にしゃがみ込む。

 視線の高さを合わせて、静かに言う。

 

「ぜんぶ任せて。琴里は、なんにもやらなくていいよ」

 

「……自分で、できるよ」

 

 そう言うと、鎖夜は小さく笑った。

 

「うん、知ってる」

 

 紫の瞳が、

 琴里と、よく似た色の瞳が、

 僅かに、揺れた気がした。

 

「でもね」

 

 一拍置いて、続ける。

 

「出来なくなっても、いいんだよ」

 

 鎖夜は、目を細めて、笑って。

 甘い声で、囁いた。

 

「お母さんも、お姉ちゃんもーー全部、私がやってあげるから」

 

 音が減って、

 距離が縮まって、

 逃げ道だけが、静かに消えた。

 

 琴里は、何も言わなかった。

 拒まなかった。

 

 逃げられたとしても、

 行くところなんて、ない。

 

 それが、始まりだった。

 とっくに、終わっていた。

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