玄関の鍵が閉まる音は、いつも一拍遅れて聞こえる。
琴里が靴を脱ぎ、上がり框を越えたあと。
鎖夜が続いて中へ入り、扉を閉める。
最後に、鍵。
金属が噛み合う低い音が、古い家の奥へ静かに吸い込まれていく。
「おかえり」
背後から掛けられる声は、柔らかく、甘い。
振り返る前に、肩に手が置かれる。
存在を確かめるだけの、軽い接触。
「寒くなかった?」
「……うん」
「そっか。じゃあ、居間に行こっか」
廊下は長く、天井が高い。
磨かれた床板が、足音を必要以上に立てない。
この家は古い。
けれど、過去は何処にも匂わせない。
歴史は、飾られていない。
ただ、今を閉じ込めて沈殿している。
居間に入ると、鎖夜は迷いなく机の前に琴里を座らせる。
「ちょっと待っててね」
声音は甘い。
命令でも、お願いでもない。
でも、確定事項だ。
湯のみから立つ湯気が、冬の空気に細くほどける。
置く前に一度、指先で温度を確かめる仕草。
息を何度か吹きかける。
「うん、熱くないよ」
琴里は頷いて両手で湯のみを持つ。
その様子を、鎖夜はじっと見ている。
菓子に手を伸ばそうとして、琴里の指が止まる。
どの菓子を摘もうか、判断が遅れる。
鎖夜はすぐに気づく。
「こっち」
一つを選び、琴里の手元へ。
いつだって、説明はない。
正解だけが、差し出される。
「学校、何かあった?」
「……なにも」
「そっか」
それ以上は聞かれない。
琴里の肩が、ほんのわずかに落ちているのを見て、鎖夜が動く。
背後に回り、
そのまま、覆うように抱き寄せる。
強くはない。
けれど、逃げ道はない。
「無理、しなくていいよ」
耳元で囁かれる声が、ただ、甘い。
「今日も、私がやるから」
何を、とは言わない。
全部だ。
琴里は抵抗しない。
背中を預ける。
鎖夜の体温が、じわりと伝わる。
近すぎて、でも、離れない。
鎖夜の指が、琴里の手に触れる。
人差し指。
握りやすい位置に、導かれる。
琴里の癖を、鎖夜はよく知っている。
琴里自身は、起点を憶えていないのに。
「大丈夫」
何度も、同じ調子で。
赤子をあやすように。
鎖夜は離れない。
背中に伝わる体温が、琴里の位置を静かに固定していく。
動かなくていい場所が、説明もなく差し出されている。
呼吸まで、鎖夜のそれと揃ってしまう。
ここに留まることを、体が先に受け入れていた。
鎖夜は、この距離が正しいと、疑っていない。
この配置が、最適だと信じている。
琴里は、鎖夜の中心にいる。
世界の真ん中に置かれている。
けれど、飛び立つことは想定されていない。
籠の中で、
静かに、息をしているだけだ。