会長室は、静かだった。
高い天井。
厚い扉。
街の気配はガラスの向こうにあり、この部屋だけが切り離されている。
鎖夜は机に向かっている。
書類を読み、署名をし、決裁印を押す。
紙がずれる音。
印鑑を押印する感触。
指先に残る、わずかな朱の匂い。
迷いはない。
判断は滞らず、順序は狂わない。
正しい判断。
正しい配置。
正しい処理。
それらは、考えるまでもなく、身体に馴染んだ動きだった。
ソファでは、琴里が微睡んでいる。
膝を抱え、背を丸めているから、余計に小さく見える。
正しい位置。
正しい距離。
――側にあって然るべき物。
書類の束をめくったとき、
一枚だけ、紙質の違うものが混じっていた。
少し古い。
今は使われていない形式。
印影だけが、妙にはっきりしている。
鎖夜の指が、ほんの一瞬、止まる。
記憶ではない。
感情でもない。
秩序が、一瞬だけ崩れる。
鎖夜はその書類を、束のいちばん下へ滑り込ませた。
後でいい。
今、触れる必要はない。
視線を上げる。
目覚めた琴里が、こちらを見ていた。
目が合う。
何かを求めているわけではない。
訴えているわけでもない。
ただ、
鎖夜がここにいるかを確かめる視線。
鎖夜は一度、息を整える。
椅子から立ち上がり、腕を広げた。
「……おいで」
意識した、柔らかい声。
命令ではない。
呼び戻すための合図。
琴里は立ち上がる。
一歩。
もう一歩。
近づいてきた小さな身体を、鎖夜はそのまま抱き上げる。
女の細腕に、
12歳の少女。
軽くはない。
重さを受け取る。
繰り返されてきた動作だ。
椅子に腰を下ろし、
向かい合う形で膝の上に収める。
背中に腕を回す。
覆い被さるように、静かに囲う。
隙間は、作らない。
けれど、痛みも与えない。
琴里の体温が、ゆっくりと伝わってくる。
――ここだ。
考えるより先に、身体が理解する。
この位置。
この距離。
正しい。
琴里は声を出さない。
呼吸だけが、わずかに上下している。
鎖夜は机に視線を戻す。
書類の山。
ペン立て。
印鑑。
ーー過ぎる、記憶の断片。
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机の上に並べられた物は、
過不足なく揃っていた。
書類も、写真も、音声データを記録した媒体も。
言葉を重ねる必要はない。
鎖夜は、
それ以上、何も足さなかった。
父は、並べられた罪を見詰めていた。
長い時間ではなかった。
確認するような視線でもなかった。
ただ、
一度、瞼を閉じて、
それから小さく、息を吐いた。
そして、
笑った。
「おまえはやっぱり、俺の娘だ」
細められた瞼。
向けられたことのない視線。
やわらかな声音。
鎖夜は、
その言葉を上手く受け取れなかった。
父に背を向け、
何も言わず、部屋を出た。
その後、
父は死んだ。
ここで。
この机に俯せて。
鎖夜が聞いた、
最後の言葉と、
当主という立場だけを残して。
だから鎖夜は、
この席を離れない。
当主であり続けることが、
受け取り損ねた物を処理し続ける、唯一の方法だからだ。
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腕の中で、琴里が小さく身じろぐ。
鎖夜は、言葉を発さずに、腕に少しだけ力を込める。
痛めつけるつもりはない。
ただ、存在を示す為。
――ここにいる。
そう伝えるための圧。
「大丈夫だよ」
繰り返し、告げる。
唯一の家族に。
世界の、中心に。
「お姉ちゃんと一緒にいれば、大丈夫」
薄墨色の細い髪に指を通してゆっくりとすく。
琴里のーー妹の呼吸が、穏やかになっていく。
その変化を、鎖夜は感じ取る。
それでいい。
守っている。
与えている。
どちらも、正しい。
そして置くのだ。
失われない位置に。
手の届く範囲に。
鎖夜は、机から視線を外さない。
この配置で。
この距離で。
壊さなければいい。
壊れなければいい。
鎖夜の中では、
これは最初から、正しかった。