○序章
皆にとって『推し』とは、どのような存在なのだろう?
ある人にとって、推しとは癒やしなのかもしれないし、活きる活力なのかもしれない。ある人にとっては崇拝し、布教すべき対象で、推しのためにどれだけ貢ぐのもいとわない、という人もいるだろう。
でも、どんな人にも共通なのは、推しに幸せになってもらいたい、笑顔になってもらいたい、という考えなのではないだろうか?
いつまでも推しには元気で活動していてもらいたいし、推しには笑顔でいてもらいたい。
そうした気持ちは、もちろん俺も持っている。
いつまでも、いつまでも、推しは推していた。
だが、往々にして出会いがあれば別れがあるのは推しも同じ。
俺の推しも、いつかは必ず何かしらの理由で引退する。寂しいが、それは仕方のない事実だ。
そう、考えていたのに。
でも、まさかこんな展開があるだなんて思ってもみなかった。
俺が、俺自身が推している推しに。
まさか、自分がなるだなんて。
○第一章
部屋に入ると、そこには土下座した従妹の姿があった。
「え? どういうこと?」
学校から帰ってきたばかりの俺、月城 裕夫(つきしろ ひろお)は混乱しながら後ろ手に部屋の扉を閉める。
高校の教科書やノートが入っている鞄を床に置き、学ランをハンガーにかけて振り向くも、まだ従妹の西垣内 琴奈(にしがいと ことな)は土下座を続けたままだった。
従妹の琴奈は中学二年生で、いわゆる厨ニと言われるど真ん中の年齢だ。しかし、だからといって近所に住んでいる高二の俺の家、しかも俺の部屋で制服姿のまま土下座をする理由に全く心当たりがない。
「琴奈。お前、何で土下座なんてしてんの?」
「裕兄殿に、謝罪の意を表明している所存でござりまする」
「いや、だからその謝罪は何に対してなんだよ。後、部屋から出ていけ。制服着替えられん」
「裕兄殿が、拙者の謝罪を受け入れてくださるのであればやぶさかではござりませぬ」
「謝りに来ていると見せかけて喧嘩売りに来てんのか? それからその色々間違った喋り方気持ち悪いからもうやめて、いい加減頭上げろよ」
「裕兄殿が、拙者の謝罪を――」
「やめろと言うとるだろうが」
ぽすっ、と琴奈の頭にチョップを入れて、俺はベッドに腰掛ける。
それを見上げるように、ようやく琴奈が土下座をやめた。顔を上げた従妹は、思ったよりも弱ったような表情を浮かべている。彼女の肩まで伸びたツインテールがサラサラと揺れるのを見つつ、俺は口を開く。
「ほいで? 今度は何をやらかしたんだ? また裏垢でも作ったのか? 承認欲求モンスター」
「……違うよ。それはこの前、裕兄にめっちゃ怒られたからやってない」
「怒ってたのはお前の親もだけどな。でもありゃ厨ニにしてもやり過ぎだ」
俺も中学生ぐらいの頃には、オリジナルのキャラクターを考えたり、自意識過剰なポエムなんかも口ずさんだりもしていた。
でも、それだけだ。今のWeb漫画の主人公には、かつて厨ニの黒歴史を持っていて、それを後悔している人物たちも多い。そしてそのキャラの後悔する理由もわかるので、俺は小学生ながらそうならないようにしよう、と思っていた。
でも先程述べた通り、少しは、した。しないようにと思っていたけど、してしまった。
自分だけの何かが欲しくって、自分だけが特別なんだと勘違いしたくって。
でも、それを多くの人に公開しようとは思わなかった。
それが一過性のものであり、今は良くてもいずれ黒歴史になって後悔する未来が訪れるということを、もう漫画で知っていたから。
つまり、どれだけ痛い事なのか、理解してた。
しかし、琴奈は違った。
自分だけの何かが欲しくて、特別なんだと勘違いしたい。
誰かに認めてもらいたいという承認欲求は、誰もが持っている。
そしてそれは、手段を選ばなければ、結構簡単に叶えることが出来るのだ。
どんな事をしてもSNSで注目を浴びれば、その他大勢が自分のことを見てくれる。
他の何者でもない、特別な自分だと、ボタン一つで、二百文字にも満たないメッセージだけで、勘違いさせてくれる。
そして琴奈は、痛すぎる行動に出た。
「あれは、結構大変だったな。お前が現役女子中学生を謳って、際どい写真載せてた。そしたらこれマジもんじゃね? って人が群がってきて、変なネットストーカーも現れたりしてよ」
SNSに琴奈が顔を隠してアップした写真、その背後に写っている建物の画像から住所が特定されるかもしれない、というタイミングで琴奈が俺に相談してきたのだ。
……家が近所だっていうのもあってこいつとは妹みたいな付き合いを続けていたし、度々相談には乗っていたけど、あれは流石に参ったよ。
とりあえずアカウントを速攻で削除して、別垢からストーカーのアカウントの同行を確認した。その結果、奴はもう琴奈ではない別のアカウントに執着していそうだ、というのがわかったので、ひとまずこの件は夏に入る前に収束したという形になっていた。
「でも、学校やお前の友達にバレる前に相談してくれたのが不幸中の幸いだったよ。前にも言ったが、ネットにアップした情報からリアルの情報は結構手にはいるんだからな? 画像だけじゃなく音声からだって、本人を特定されることもあるんだぞ」
「うぅ、だから、ごめんってばぁ、裕兄……」
しょげたように、琴奈のツインテールも萎れている。
色々と俺がSNSの使い方について口うるさく言っているのは、かくいう自分もSNSを使っているからだ。
使っていると言うより、Youtubeでアカウントを作り、ガッツリ動画をアップしている。
俺は自分のチャンネル、ヒーローチャンネルで『ヒロ』としてゲームのプレイ動画を上げていた。扱っているゲームのジャンルが幅広いことと、一部の人からプレイに光るものがあると言ってもらったりして、そこそこの評価はしてもらっている。
……といっても、動画の再生数は本当にそこそこで、ギリギリ収益化出来ている、ぐらいなもんなんだけど。
そこそこで留まっている理由は、俺でもわかっている。顔出しもしていなければ、生放送もしておらず、自分で喋るのも嫌なので動画の音声はゆっくりボイスによるテキストの読み上げにしていた。
つまり、他のゲームチャンネルとの差別化が出来ていないのだ。
……でも、身バレするような情報を載せて酷い目にあってる事例が目の前にいるしなぁ。
そう思いながら、俺はその事例に向かって口を開く。
「で? 既に盛大にやらかしているお前が、今度は何をやらかしたんだ? 前回が凄すぎたから、もう驚かんぞ」
「……私が『ヒロ』だって、学校の友達に言いふらしてました」
「…………は?」
一瞬、何を言っているのか理解できなかった。
呆けたように口を半開きにする俺に向かい、琴奈が地面に額を打ち付けるように再度土下座をする。
「だから、裕兄のヒーローチャンネルは私がゲームをプレイした内容をYoutubeにアップしてるって学校で言いふらしてました! そして嘘だってバレそうです助けてください裕兄っ!」
「いやいやいや、何だその斜め上の展開! 前言撤回するわ! それは驚くよ! 驚きすぎてお前が何でそんな事したのか意味わかんねぇよ! っていうか、何でお前俺が『ヒロ』だって知ってるの? 高校の友達にも言ってねぇのに」
焦ったようにそう言うが、琴奈は1+1=2ってそりゃ当たり前ですよね? とでもいうように、口を開く。
「え? そりゃわかるでしょ。従妹だもん」
「え、ヤダこの子、土下座しながら凄い怖いセリフ言うやん」
意味が分からなすぎてキャラ崩壊してしまったが、ひとまず咳払いして気持ちを落ち着かせる。
「えーっと? つまり、あれか? 裏垢で不特定多数から承認欲求を満たせなくなったから、今度はリアルの方でそれを満たそうとした、ってことか? 俺が『ヒロ』だって知って、顔出しも声出しもしないから偽ってもバレないだろうと。だから安心して学校で『ヒロ』だと吹聴していた、と?」
「その通りでござりまする! 拙者、承認欲求モンスター過ぎて申し訳ありませぬ、裕兄殿っ!」
流石に、土下座した琴奈の頭を足で踏んづけた。もちろん手加減しているが、今回のやらかしはちょっとやり過ぎだ。
「お前、裏垢の件で反省してたんじゃないのか?」
「しておりもうす! それ故、裏垢は作っておりませぬ!」
「反省の仕方と反論が小学生か。っていうか、夏前にSNSでヤバい状況になったのに、よくやろうと思ったなお前。まだ今九月中旬だぞ」
「拙者、転んでもただでは起きない故!」
「一生寝とけばよかったのに」
「言うこと聞いて寝てるから一生養ってよね!」
「絶対嫌だよ」
足に僅かに力を込めると、琴奈のうめき声が聞こえてくる。
「うぅ、最初は、最初は、ほんの出来心だったんだよ? すぐに冗談だって言おうと思ったんだけど、周りが褒めてくれるから、全然引っ込みがつかなくって……」
「完全に裏垢にハマった時と同じ理由じゃねぇか」
「本当に申し訳ありません!」
俺に足蹴にされたまま、琴奈が言葉を紡いでいく。
「それでね? 私の学校の先輩が、正確にはその先輩の姉弟(きょうだい)の人が、裕兄と会いたがってる、って言ってて。今更嘘だなんて言えないし、受け入れるしかなくって……」
「……なるほど、それで本当の『ヒロ』の中の人である俺に泣きついてきた、と」
そう言いながら、俺は琴奈の頭から足を下ろす。
「でも、それならまだ隠し通せたんじゃないか? 俺が言うのも何だが、その先輩の兄弟(きょうだい)っていうのは、琴奈が『ヒロ』だって思ってんだろ? 一度会ったとしても適当に話を合わせて帰ればバレなかったんじゃないか?」
「うん、それも考えたんだけどね」
「考えたのかよ」
顔を上げる琴奈に、思わずツッコミを入れる。そこで、俺は僅かに首をひねった。
……あれ? 何かさっきの会話で、食い違いがあったような気が。
そう思うものの、その思考は紡ぐ琴奈の言葉に霧散していった。
「でも会いたいって言っている人は、ゲームのプレイ内容についても話をしたいって言ってるんだって。私、ゲームなんて全然出来ないから、会ったら絶対に嘘ついてたってバレちゃうから……」
「確かに、それはそうだな。とはいえ、いくら相手が先輩だからといっても、会うのを断ることだって出来ただろ?」
「その先輩、弟だから年上の姉弟には逆らいづらいみたいで。それにその先輩、私の友達の好きな人だから。先輩の望みは叶えてあげて、友達には先輩への橋渡しをしてあげたら、先輩と友達の二人が私を褒めてもらえるかな? って思って」
「欲求に忠実過ぎるぞ、お前」
ガチモンの承認欲求モンスターを前にドン引いていると、琴奈が半泣きになっていた。
「……褒めてもらいたい気持ちも、確かにまだあるよ。でも、もしここで先輩の姉弟と会うのを断って、この先もずっと皆の前で私が『ヒロ』を続けるのが、怖かったんだ。リアルなら、友達ぐらいなら大丈夫、って思ってたけど、噂も一瞬で広まって。自分が凄い人になったみたいで気持ちよかったけど、その分、いつバレるんだろう、ってずっと怖かったから」
……こいつはこいつで罪悪感を感じて、辞め時を探していた、っていうことか。
しょぼくれる琴奈を見て、つくづく俺はこの従妹に甘いのだと思い直す。根は素直なので、反省をしているのは間違いないだろう。
素直すぎて、承認欲求にも素直なのが問題ではあるのだが。
「お願い、裕兄! 週末の土曜日に、先輩の姉弟と会って欲しいの! 私が嘘をついてたっていうのは、先輩にはちゃんと伝えるからっ!」
「……先輩に正直に話すっていうことは、学校の他の生徒にもちゃんと嘘をついてたって言うんだな?」
「うん、言う! 友達にも言う! それから、ちゃんとごめんなさいもする!」
「正直に言った結果、その先輩の兄弟が俺と会いたくない、と言う可能性は?」
兄弟なのだから、相手はきっと男だろう。相手が『ヒロ』が女子中学生の琴奈だと思っていて会いたがっている、ヤバいヤツの可能性もある。
……もしそうなら、なおさら琴奈を会わせられないし、『ヒロ』が男だと知れば予定はなくなるかもしれないな。
そう思っている俺の前で、琴奈は納得したように頷いていた。
「そうだね。先輩の姉(・)弟だし、やっぱり裕兄と二人で会うのは抵抗あるかも。でも相手の人、大学生だって聞いてるから大丈夫な気もするけど。でも、一応確認しておくね」
「大学生が中学生と会おうとしていたのかよ……」
いよいよ琴奈とは会わせられないな、と思う一方で、俺はその大学生と会ってみたいという気持ちになっていた。
……会ってくれるのなら、女子中学生が目当てじゃなくて、純粋に俺の動画に興味を持ってくれた、って事だよな?
それは、もう俺のファンなのではないだろうか?
……いやいや、落ち着け俺! そうとは限らないぞ。変に期待すると琴奈みたいになるし、いらん黒歴史が増えるだけだ。
自分を特別な何かだと勘違いして、痛い思いをするのは勘弁だ。
そう思うものの、顔が少しニヤけてしまうのは止められない。
誰かに認めてもらいたいという承認欲求は、誰もが持っている。
誰にも認められないよりも、誰かに認めてもらえた方が嬉しいに決まっている。
「何ニヤニヤしてるの? 裕兄。キモいよ?」
「マジでお前、どの口でそれ言うのよ。他人のアカウントを自分だって偽るの、キモい以上に痛いぞ。冷静に考えてみろ? たとえば俺が、お前が推してるこのVtuberの中の人だって言い張ってたら――」
「やめて裕兄! それは今の私には効きすぎる。あたたたた。痛い、心が痛すぎて精神が病んで闇落ちしそう」
「既に闇落ちしてっから裏垢作ったり他人の垢自分のだって言い張るんだろうが」
「ロジハラやめて。後、私の推しに中の人なんていない」
「お前絶対反省してねぇだろ! 大体、お前はいつもそうやって考えなしに行動して――」
その後散々説教して、涙目になった琴奈を家まで送っていった。
家に帰る頃には夕飯の時間で、飯を食って風呂に入った後、俺はようやく自分の部屋で一息つく。
椅子に座った俺の前にはPCのディスプレイが置かれており、そこにはある動画が表示されていた。
Vtuber、『おりおり』がゲームをしている動画だった。
今彼女は、FPSのゲームをプレイしている。
……やっぱりいいな、『おりおり』のヘッドショットは。美学を感じる。
『おりおり』は、おりおりチャンネルで活動している眼鏡をかけたお姉さん風のVtuber。基本生配信でゲームをしており、キャラに合わせているのかあまり騒がず、少し冷たい声色で淡々とクールにプレイしているのが特徴だ。
そのキャラ付けが一部の人に刺さっており、どこかの事務所には入っていないが結構人気のあるVtuberである。
かくいう俺もその刺さった一人であり、俺のプレイと『おりおり』のプレイ内容に似ている所を勝手に感じて、そこから彼女を俺は推していた。
……俺の動画収入の殆どは、『おりおり』への投げ銭に使ってるからな。
彼女は基本的にスパチャは拾ってくれるし、『ヒロ』のスパチャもよく読んでくれていた。
今もまた、『おりおり』が俺のスパチャを読み上げる。
《おりおりさん、引くなら弾数気をつけて》
『ヒロさんありがとう。でも、大丈夫よ。引かずに攻めるつもりだから』
そう言って『おりおり』は手榴弾を投げつつ、スナイパーライフルを構えて移動する。
敵は手榴弾を避けながら『おりおり』を狙うが、その動きを彼女は読んでいた。
スコープ越しに、相手の顔が見える。
そして銃声が鳴り、その顔が吹き飛んだ。
画面に表示されるのは、『おりおり』が勝者となったメッセージ。ヘッドフォンからは、ファンファーレの音も聞こえてくる。
引くなら気をつけるように、というメッセージを送ったが、やはり彼女は前に出ることを選んだ。
……やっぱり、そこは攻めるよな。
自分と『おりおり』が同じ考えでプレイしている、と勝手に考えて更に勝手に満足感を得る。妄想みたいな考えだが、別に誰かに迷惑をかけてないので、頭の中で考えるぐらいなら問題ないだろう。
でも、そう思える『おりおり』のプレイ動画は、俺にとって何よりも癒やしになっていた。
だからこそ、俺には気がかりなことがある。
……ここ最近、配信が止まってるんだよな。
そう思いながら、俺はアーカイブから再生していた動画を停止した。
ほぼ毎週行っていた『おりおり』の配信が、ここ二週間程全く更新されていない。
……まさか『おりおり』の中の人に、何かあったのかな?
心配になるものの、俺が出来ることは『おりおり』がまた戻ってくるのを待つことぐらいだ。
彼女は俺だけのものじゃないし、特別な誰かではない。
『おりおり』にとっての俺は、ただ数いる『おりおり』にスパチャを投げる、顔も知らない誰かの一人だ。
……そこを勘違いすると、黒歴史になりかねないからな。
今日琴奈の件を聞いたからか、余計にそう思う。
そう自分を戒めつつ、今日はもう寝ることにした。
その翌日、琴奈から連絡があった。どうやら、週末土曜日の予定は開催されるようだ。
……つまり、初めて自分のファンに会う事になるのか? 俺。
いやいや、落ち着け。変に舞い上がるな。むしろ、気をつけなくては。
相手は大学生で、しかも男だ。
口が上手くて、気づいたら詐欺の片棒を担いでいたり、変な壺を買わされる可能性も十分にある。
……十分に気を引き締めて、ヤバいと思ったらすぐに店を出るようにしないと。あ、もしもの時の証拠とか集めるために、スマホで撮影とかした方がいいのかな?
頭は自衛について思いを巡らせているのに、口元はどうしてもニヤけてしまう。
そして日々はすぐに過ぎ去って。
ついに、琴奈の先輩の兄(・)弟に会う日がやってきた。
◇◇◇◇◇◇
「ご予約されている、大塩様のお連れ様ですね。お席までご案内させて頂きます」
ウエイターに案内され、俺は緊張しながらお店の中を歩いていく。
待ち合わせ場所と指定されていたのは、電車で三十分程揺られて到着した都心付近のレストラン。店の周りにはアパレルやコスメ、美容室といったお店が並んでおり、カフェタイムの今もそこそこ客で賑わっている。
……それにしても、随分おしゃれな場所で待ち合わせするんだな。
先程述べた通り、このレストランの周りは比較的女性向けの店が多い。店内の客層も女性が中心で、男性がいても女性とペアになっているお客さんばかりな状況だ。
そんな所に大学生と高校生の男が二人並んでいるだなんて、ちょっと周りから浮いてしまいかねない。
……まさか、詐欺とかの勧誘じゃなくって、男狙いの方だったりして。いや、それならそれで俺たちが目立つなら、いざという時助けを呼びやすいかな。
そんな事を考えていると、ウエイターの足が止まる。
「あちらのお席でございます」
「ありがとうございます」
そう言って俺は、案内されたテーブルへ視線を向ける。
そして、動きを止めた。
ウエイターに案内された席に座っていたのが、綺麗な女性だったからだ。
ショートカットの彼女はゴテゴテしたような装飾品は身につけておらず、スッキリとした印象を受ける。しかし、その着飾らなさが整った彼女の容姿にとても似合っており、デキる女っぽい雰囲気を醸し出していた。
そんな彼女を見ながら、俺の頭の中が真っ白になる。
彼女の美しさもそうだが、俺は非常に混乱していた。
……え? 今日会うのって、男じゃなかったの? だって兄弟だって、え? 姉(・)弟だった、ってこと? っていうか、何でこの人、腕吊ってるの?
数秒間その場で硬直していると、席に座った女性の方が顔を上げる。
「あ」
そう言って、女性が俺の方へ視線を向けた。途端に俺は緊張で体を固くするが、反対に彼女は柔らかく笑う。
「もしかして、『ヒロ』さんですか?」
「は、はい、そうです」
少し涼し気な声が、耳に心地いい。もうすぐ訪れる冬の気配を、先取りしているかのようだった。
……でも、なんか、聞き覚えのあるような声だな。
そう思いながら席に向かう俺に、彼女は何を勘違いしたのか、自分の左腕に巻いているアームホルダーを見て苦笑いを浮かべる。
「あ、この腕ですか? ちょっと、転けてしまって」
「骨折ですか?」
「いえ、幸いヒビが入った程度です。後一ヶ月ぐらいで外せるみたいなんですが。あ、座ってください」
言われた通り椅子に座るが、俺の心はちょっとどころじゃないぐらい浮ついていた。
……こんなに綺麗な人が、俺の動画を観てくれているなんて。
あれだけ気をつけねばと思っていたのに、瞬く間に心境が変化している自分に、俺は内心苦笑いを浮かべる。
世の中で、詐欺被害がなくならない理由と黒歴史がなくならない理由がよくわかった。気をつけなければ、と思っていても、そんな心構えは他の大きな出来事を前にしたらいとも簡単に吹き飛んでしまう。
俺の場合、それが目の前の美女だった。
「まずは、自己紹介ですね。私は、大塩 志織(おおしお しおり)と言います。この近くの大学の一年生で、今年から一人暮らしをしています。あ、弟の直翔(なおと)から私の話は聞いてますか?」
「い、いえ、全然。俺、あ、僕は――」
「遠慮なさらず、いつも通りの話し方でいいですよ」
クスリと笑う大塩さんの顔を見て、俺は顔から火が出そうなほど赤面した。恥ずかしかったのだ。
てっきり男と会うと思っていたので、こちらはラフに上はTシャツにジャケット、下はジーパンという格好。このレストランにもあっていなければ、大塩さんともつり合いが全く取れていない。
……これなら、男同士の方がまだ店で浮かなかったよ。
そう思うものの、もうこの格好で来てしまったのだから仕方がない。
俺は腹をくくって、顔を上げる。
「ありがとうございます、大塩さん。俺は月城裕夫といいます。後、大塩さんはタメ口で大丈夫ですよ。俺の方が年下なんで」
「本当? それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらうね。裕夫くんは、あ、裕夫くんでも大丈夫? ずっと『ヒロ』さんって呼んでたから、そっちの方が呼びやすくって」
……そんな風に呼んでくれてたのか!
そんなも何も、『ヒロ』という名前で動画を上げていたので、それ以外の呼びようがない。それだというのに、普段呼ばれないハンドルネームで呼ばれて、俺のテンションと心拍数がかなり上がる。
「だ、大丈夫です」
「ありがとう。最近裕夫くん、ラストイリュージョン14の動画上げてるよね?」
「そうですね。最近アクション系が多かったんで、偶にはまったりとMMORPGの動画でも撮ろうかと思って」
「直近の動画だと、生産職をいくつか使ってたでしょ? レベリングってどんな感じだった?」
「大体四時間ぐらいでレベル80ぐらいまでは上げられましたよ。食事をしていればボーナスがついて取得できる経験値も上がりますし――」
話題が自分のアップしている動画とゲームの話になって、俺は流暢に話すことが出来た。
それから暫くの間、俺らは互いに飲み物を頼みつつ、ヒーローチャンネルにアップしたゲームの話を話して過ごした。
はっきり言って、滅茶苦茶楽しかった。
いつもゲームの話なんて学校の友達ぐらいとしかしていなかったけれど、話す話題が同じでも話す人によってこんなに楽しくなるだなんて初めて知った。
振り返ってみればどもりながら話していたのに突然早口になって、傍から見たらキモい以外の何物でもない。
でもこの時はそんな事、微塵も感じなかった。
大塩さんの頼んだ紅茶と俺の頼んだコーヒーのカップが空になりそうになる頃には、俺はすっかり、ここから少しぐらい壺の話題をふられたとしても話ぐらいなら聞いてもいいかな? というぐらいの心持ちになっていたりして、全然琴奈のことを笑えない、むしろ積極的に黒歴史を新たに作り出しにいきそうな状況になっていた。
しかし、紅茶を飲み干した大塩さんは、全く違う話を切り出してくる。
「……うん、やっぱり裕夫くんは、『ヒロ』は、私の思った通りの人だった。ゲームに対しての考え方が、私と凄い似ている」
その言葉に、俺も全力で頷いた。
話が楽しかったのは大塩さんが美人というのもあるけれど、彼女と俺はプレイスタイルが非常に似ている。
厨ニ的な言い方しか思い浮かばないけれど、まさに美学が同じ、と言ってもいいのかもしれない。
俺はすっかりニヤけ顔になりながら、頭をかく。
「そうですね。俺もビックリしましたよ。まさか、大塩さんとこんなに話が合うなんて」
「うん、やっぱり『ヒロ』は、私の見込んだ通りのプレイヤーだった。結果的に男の子だったっていうのも、ある意味良かったのかもしれない」
「……え? それは、どういう意味なんでしょうか?」
そう言うと大塩さんは、こちらに向かって深々と頭を下げた。
そして、全く想定していなかった言葉を口にする。
「ごめん、裕夫くん。突然だけど、私の動画制作を手伝ってもらいたいの!」
一拍、何を言われているのか咀嚼する時間が必要だった。
そして彼女の言葉をどうにか噛み砕くことが出来たタイミングで、俺は口を開く。
「……そ、れは、これから大塩さんがTwitchとかYoutubeに動画をアップする事を考えてる、ってことですか? あ、だから『ヒロ』と会いたかったってことですかね? プレイスタイルも似ているし、どんな動画を編集すればいいのか知りたいとか」
そう言うが、大塩さんは首を振る。
「違うの。私、もう自分のチャンネルは持ってるの。っていうか、Vtuberでゲーム実況やってるの、私」
「……え? もうチャンネルは、ある? でも、その怪我じゃゲームできませんよね?」
「そうなの。だから、最近動画更新できてなくって」
……あれ? なんだかそんな状況のVtuberに、一人心当たりがあるんだけど。
いやいや、でもそれは偶然だろう。
今では誰でもVtuberになれるし、ゲーム実況をしている人だって沢山いる。
……そうだ。これは偶然だ。偶然に決まっている。
そんなアニメや漫画みたいな展開、あるわけない。俺はそんな物語に登場するような、特別な存在なんかじゃない。そこを間違えると、一瞬にして黒歴史が増えるだけだ。
自分にそう言い聞かせながら、それでも流れる冷や汗を止めることが出来ない。
震える指でコーヒーを飲み干す俺に、大塩さんは更に口を開いた。
「大学に進学したのを期に一人暮らしを始めたんだけど、家賃とかは自分で払うことになってて。アルバイトとVtuberの収益でどうにかなってたんだけど、この腕じゃバイトも出来ないじゃない? でも後一ヶ月無収入だと、正直家賃を払うのが苦しくって」
話を聞きながら、自分の中に違和感が生まれる。それを咀嚼するように、俺は口を開いた。
「……でも、俺、男ですよ? 仮に俺が大塩さんの代わりにVtuberの中の人になっても、どう頑張っても声は真似られませんし」
「大丈夫。裕夫くんに頼みたいのは、そっちじゃないから」
そう言われて、俺は大塩さんが言わんとしていることに思い至った。
「つまり、喋りと側の部分を大塩さんが担当して――」
「ゲームのプレイ部分を、裕夫くんに頼みたいの」
……それでさっきまで、ゲームのプレイスタイルの話ばかりしていたのか。
確かに話を聞く限り、ゲームに対しての考え方や美意識は一致しているように思える。
「で、でも、流石にバレませんか? いくらプレイスタイルが似ているとはいえ、別人がゲームやるんですよ?」
「そこは大丈夫。私のチャンネルのコメント欄は治安が良いの。調子が悪くてプレイが上手く行かなくても、汚い言葉を投げる人はそんなにいないし。それは、いつもスパチャをくれる『ヒロ』さんも知ってるでしょ?」
その言葉に、稲妻に撃たれたかのような衝撃が俺に走った。
震える声で、俺はどうにか言葉をひねり出す。
「ま、まさか、大塩さんがやっているVtuberって……」
「うん、そのまさかだよ」
そう言って大塩さんは、凛々しく笑った。
「改めまして。おりおりチャンネルのVtuber、『おりおり』こと大塩志織です」
……俺の推しじゃねぇかっ!
いや、少し、ほんの少しは、そうなんじゃないか? という気はしていた。
しかし、いざ本当に推しが目の前にいると知ると、かなりテンパる。
「え、本当に? 大塩さんが、あの『おりおり』さんなの?」
「だから、そう言ってるでしょ? でも、本当に直翔が『ヒロ』さんとリアルで繋がってて良かったわ。スパチャでもらったコメントから、ゲームについては気が合いそうだとは思ってたの」
……やべぇ、推しに認知されてるの、やべぇ。
推しが俺の名前読んでるのマジヤバい。語彙力皆無になるくらいヤバい。
口元に手を組んでニヤけ顔を隠そうとするが、もはや無駄なあがきだろう。
マズい。これならまだ壺を売りつけられた方がまだマシだ。
嬉しすぎて、今ならこの無茶な推しからのお願いを聞いてしまいそうになっている。
彼女のお願いというのはつまり、俺が推しの中の人になるという事だ。ゲームのプレイ部分だけど。
……いやいや、流石にマズいでしょ! 何がマズいのか説明しづらいけど、それはマズいって!
俺が推しているのに、その推しに俺がなる? 『おりおり』はそもそも推しで、その中の人が俺と大塩さんになるんだから俺が推しで大塩さんも推しになる?
……ヤバい、テンション上がりすぎて思考がおかしくなっている。
思考がとっ散らかって、全然まとまらない。
そんな俺をよそに、大塩さんはなおも頭を下げてくる。
「お願い、一ヶ月でいいの。一ヶ月でいいから、一緒に『おりおり』をやってくれない? 具体的には怪我が治るまでの一ヶ月、週二回の計八回の配信を手伝ってもらいたいの。大学の友達にはVtuberやってることは内緒にしているし、もうこれ以上頼れないし」
……これ以上?
そうした疑問を感じる俺に、更に大塩さんが口を開く。
「あ、お礼も出すよ? 収入が家賃以上を越えた分は、全部裕夫くんにあげるから」
「逆に言うと、それを越えなければ俺はタダ働き、ということですか」
「……うん、ごめんけど、そうなっちゃう。でも、それは多分大丈夫。視聴者さんから、その、そこそこスパチャもらえてるから」
確かに、クールな大塩さんにコメントを読んでもらいたいリスナーが、ちょこちょこスパチャを送っている。俺もその内の一人ではあるものの、だからこそどれぐらいの投げ銭が飛んでいるのかは感覚で知っていた。
……タダ働きになることはなさそうで、そして推しからのお願い。
断る理由は、皆無だった。
でも――
「いくつか、うかがってもいいですか?」
「何? なんでも聞いて」
「大塩さんは、どうして一人暮らしをしてまでVtuberを続けているんですか?」
そうだ。先程得た違和感は、この事だったのだ。
……大塩さんの弟の直翔くんが琴奈の中学の先輩、ということは、大塩さんの実家は俺の家からそこまで遠くないはず。
そして大塩さんが通っている大学がこのレストランの近くだというのなら、今彼女が住んでいる場所は通学を考えてそこまで遠くではないだろう。
ということは大塩さんが今住んでいる場所も実家も県内で、通おうと思えば大塩さんは実家から大学に通えるはずだ。
表情を凍らせた大塩さんに向かって、俺は口を開く。
「大学生に進学したので一人暮らしがしたくなった。そういう気持ちは、俺もわかります。でも、家賃なんかを自分で払わないといけないということは、大学の学費は大塩さんのご両親が出してくださっているんですよね?」
でも大塩さんは怪我をして収入がなくなり、一人暮らしが危ぶまれている。
「正直、俺には大塩さんは今かなり生活が不安定な状態で、無理にVtuberの活動を続けようとしているように見えます。実家でVtuberの活動をするやり方だってあったのに、何故そんな方法を選んだんでしょうか?」
実家で実況プレイを配信するのは、中々恥ずかしいものがあるのかもしれない。家族が突然部屋に入ってくることもあるだろうし、予期せぬアクシデントに見舞われるリスクもあるだろう。
でも、骨にヒビが入ったぐらいで家を追い出されるようなリスクは背負わなくてもすむ。何より生活費を稼ぐために、見ず知らずの俺みたいな高校生を頼らなくてはならない状況は、女性なら誰しも避けたいだろう。
……というか、最初は中二の琴奈に頼ろうとしてたんだから、切羽詰まりすぎだろ。
琴奈があんな感じで色々やらかし、その後始末をしているので、どうにも俺はこういう話の中できな臭くなりそうな部分があると、どうしても鼻について気になってしまう性分になっていた。
……壺を売りつけられる方が、まだ話が簡単でマシだったんだがな。
そうであれば、推しからこんなきな臭さを感じず、二つ返事でVtuberの手伝いを了承していただろうに。
そう思っている俺の前で、大塩さんがうつむきがちにポツポツと言葉を零す。
「……無理なの。実家じゃ、私、Vtuberを続けられないから」
「ご家族とは、あまり上手く行っていないんですか?」
踏み込み過ぎかも、と思うものの、大塩さんの事を理解するのに必要なことだと、俺はあえて言い切る。
すると大塩さんは、小さく頷いた。
「直翔は大丈夫だけど、両親とは全然で。古い考えの人たちで、Vtuberとか、そういうものに全然理解がないの。だから、実家に戻ったら確実にVtuberとして活動が続けられなくなる」
「それで、Vtuberの活動をするためにお金が必要で、そのために俺の力が必要だ、ってことですか」
「……正直に言うと、それもある。もちろん、お金のこともあるよ。でも、それだけじゃないの」
そう言うと、大塩さんは顔を上げて、真っ直ぐ俺の方を見つめてきた。
「最初にスパチャを投げてもらえた時は、すっごい嬉しかった。それから皆が金額って形で私の活動を認めてくれた気がして、お金をもらえる度に、『ほらみたことか、私は間違ってないんだ!』って、両親を見返せた気持ちになってたんだ」
自分だけの何かが欲しくて、特別なんだと勘違いしたい。
これは、大塩さんなりの承認欲求の形なのだろう。
自分の活動を認めなかった両親に対する反発の気持ちが、投げ銭という具体的な数字で満たされていたのかもしれない。
「でもね? 今は、少しだけ違うんだ。スパチャをもらえるのは嬉しいけど、今はそうやって応援してくれる人たちにお返ししたいって、そういう気持ちが強いの」
「お返し、ですか?」
「うん、そう。何もない所から、家出するように始めたVtuberだったけど、そんな私のゲーム実況にお金という形で価値があるって認めてくれる人たちがいるから。応援してくれる視聴者の人たちがいるから、自惚れかもしれないけど、私の動画を待ってくれている人たちがいるって思えるから」
……それは、自惚れではありませんよ、大塩さん。
現に俺は、『おりおり』の配信を心待ちにしていたのだから。
そんな俺の推しは、自分の中の感情を吐き出すように、滔々と言葉を紡いでいく。
「だから私は、怪我をしていても皆にどうにかして動画を届けたいの。動画を観ることで皆が支えてくれたから、今度は私が動画で皆を支えたいの。正直、寄付みたいな形で皆からお金を募るやり方もあるし、それで怪我をしている間は乗り越えられるかもしれない。でも、それは違うの。それだと、私がもらってばっかになっちゃう。私の動画で楽しんでもらうのが最初で、その結果として皆から支えてもらう形が、私の考えるVtuberとしての在り方だから。だから、私のワガママだっていうのはわかってるんだけど、どうしても裕夫くんには――」
「わかりました。手伝います」
そう言って、俺は大塩さんの言葉を遮った。
琴奈は、自分の推しに中の人なんていないと言った。でも、俺は今ならその従妹に自慢できる。
……俺の推しは、『おりおり』(ガワ)も大塩さん(中の人)も推せるぞ。
「一ヶ月、って話でしたけど、やるゲームとか候補上がってますか? 俺がやってないのだと、ちょっと練習したいんですけど」
そう言う俺を、大塩さんが信じられないものを見るような目で見つめてくる。
「……え? あ、の、いい、の? 自分で言っておいてなんだけど、私、結構無茶苦茶言ってるよ?」
「その自覚があるのなら、今後はもう少し計画的にやってくださいよ。俺じゃなくて琴奈が来てたら、中学生にゴーストライターならぬゴーストプレイヤーをやらせるつもりだったんですか? 流石にヤバいですよ」
「……面目ありません」
体を縮めるように丸めた大塩さんを見て、俺は思わず笑ってしまった。自分より随分大人に見えていた美女ではなく、大塩さんの可愛らしい少女のようなの一面が見られて、嬉しかったのだ。
それから俺達は連絡先を交換し、次回の配信の準備の予定日なんかを決めてレストランを出ることにした。
「あ、伝票は私に頂戴。流石に高校生に払わせられないから」
「……いや、お金ないんですよね?」
「報酬の先払いよ。『おりおり』の中の人になるのは、皆に秘密にしておいてもらわないといけないしね。もちろん、従妹の琴奈ちゃんにも言っちゃ駄目よ?」
「言いませんよ。あ、荷物俺が取りますよ」
「ありがとう。片腕だと、色々不便で」
苦笑いを浮かべる大塩さんの代わりに、荷物籠の中に入っている鞄を取り出す。片手でも使えるような、ショルダーバッグだった。
それをアームホルダーで吊っている腕に邪魔にならないよう肩にかけながら、そういえば、と言って大塩さんが俺の方を振り向く。
「いくつか質問があるって言ってたけど、気になることは全部確認できた? これから一緒に仕事をするから、他に疑問点があるなら答えるわよ。もちろん、後から質問してもらってもいいけど」
「大丈夫です。今知りたいことは、全部知れたんで」
寄付型の集金方法の考え方も聞きたいと思っていたのだが、それは先んじて大塩さんから聞くことが出来た。
俺は人の心が読めないので、あの時彼女が語った内容が全て本心なのかはわからない。わからないが、それを口にしてくれたというだけで、俺は十分満足していた。
店の扉をくぐりながら、更に大塩さんが俺に問いかける。
「結局、裕夫くんが私を手伝ってくれるようになった決め手って、一体何だったの? 自分で話しておいて何だけど、よくわかっていなんだけど」
その言葉に、俺は思わず苦笑いを浮かべる。
「それは非常に簡単な理由ですよ」
「どんな?」
「推しを、推せるうちに推す事にしたんです」
それは本当に単純で、簡単に決めてしまえるぐらいの、俺の誓いみたいなものだった。
◇◇◇◇◇◇
……ここで、あってるよな?
俺は、スマホの地図アプリを見るために下に向けていた視線を上げる。
そこには、白を基調とした十三階建てのマンションが建っていた。外壁はヒビが入っていたり剥がれたりしている所はまったくなく、真新しい。
俺は再度視線をスマホに戻して、住所を確認する。何度確認しても、大塩さんから送られてきた住所で間違いない。
……こ、ここが大塩さんの住んでいるマンションか。
今日は『おりおり』の中の人として配信をするための準備ということで、休日のお昼から大塩さんの部屋を訪ねることとなっていた。
のだが、その前段階で既に俺の心臓は爆発しそうになっている。
……お、俺が推しの部屋に、入るなんて。
しかもその部屋は『おりおり』が生配信をしている場所であり、推しの部屋と同時に配信をしている現場。俺は今、いわば聖地巡礼的な事をしようともしているのだ。
配信を手伝うと言った以上、こうなることは確定路線ではあった。しかし、実際に大塩さんの家を訪れるとなると、緊張で体が固くなる。
……琴奈の部屋には何度も入ったことはあるけど、あいつは従妹だし、意味合いが全然違うからな。
何せ、これから向かうのは推しの家だ。
生まれて初めて一人暮らしをしている女性の部屋に入るという緊張よりも、そちらの方が気になって仕方がない。
とはいえ、いつまでもここでスマホとにらめっこをしているわけにはいかないだろう。不審者として通報されたら、大塩さんに迷惑がかかってしまう。
俺は意を決して、マンションの中に入っていった。
エントランスには各部屋の郵便受けと、宅配ボックスにインターホンが設置されている。部屋に上がるためにはインターホンに設置されている鍵穴に部屋の鍵を入れるか、部屋の住人を呼び出してガラスの扉を開けてもらうしかない。
俺はインターホンを操作して、大塩さんが住んでいるという403号室を呼び出した。
反応があるまでの間、どういうわけだか居心地が悪くなる。インターホンに設置されているカメラが、気になって仕方がなかった。
……大塩さんには、見られてるんだよな? 俺の格好。
レストランでの反省を活かし、ジャケットもパンツも色を揃えてきているつもりではあった。
だがそれがまた、大塩さんに良く見られたいと必死さを出してしまっているのではないか? と、今になって気になってしまう。
……ああ、早く出てくれ、大塩さん!
時間にしては数秒だったと思うが、待っている時間は無限にも感じられた。
だがその時間も、すぐに終わりを迎えることとなる。
『はい。あ、裕夫くん?』
「こ、こんにちは」
ただ普通に挨拶するだけなのに、舌がもつれてどもってしまう。
恥ずかしさで顔から火が出そうだが、それを気にしているのはどうやら俺だけのようだ。
大塩さんは全く気にした様子もなく、施錠されていた扉を開けてくれる。
『そのまま置くに進むとエレベーターが二基あるから、手前のエレベーターに乗ってくれる? 奥のエレベーターは七階以上の高層階に止まるやつだから』
「わかりました」
そう言って俺は、マンションの中に入っていく。
緊張しすぎて奥のエレベーターに最初乗ってしまったりしたものの、どうにか403号室に到着することが出来た。
……つ、ついに、ここまで来てしまった。
エレベーターを間違えるという凡ミスをしてしまったからか、マンション内での移動がRPGのダンジョンの探索のように感じられた。部屋の前まで来ただけなのに、最深部に到達したかのような達成感がある。
しかし、ダンジョンの最深部で待つのは往々にしてボスモンスターだ。
今回はボスモンスターではなく推しが待っているわけだが、そこに足を踏み入れる緊張感で言えばそれ以上のものである。
深呼吸をして、俺はインターホンのボタンを押した。ベルが鳴るとわかっているのに、その音で更に身を固くする。
その硬直が解ける前に部屋の扉が開き、腕を吊ったスウェット姿の大塩さんが現れた。
「いらっしゃい。遅かったね? 誰かエレベーター使ってたの?」
「すみません、エレベーター間違って乗っちゃいまして」
そう言うと、大塩さんがクスリと笑った。
「もう、ちゃんと気をつけてって言ったのに。ゲームのプレイはしっかりしてるのに、結構おっちょこちょいなんだね、裕夫くん」
「……すみません」
大塩さんに笑われて、俺はそれで隠れられるわけでもないのに、体を丸めた。
……うう、本当に穴があったら入りたいよ。
「謝らないで。こっちが裕夫くんに配信を手伝ってもらう側なんだから。さ、入って入って」
「はい。それじゃあ、お邪魔しま――」
「あ、ちょっと待って」
玄関に入ろうとした俺を、大塩さんが手を上げて止める。そして気まずそうな表情を浮かべて、口を開いた。
「あの、私、怪我してるでしょ? だから、その、部屋の掃除とかそこまでしっかり出来てなくて。つまり、その――」
「ああ、なるほど」
大塩さんの言葉に、思わず笑みがこぼれてしまう。
彼女は、自分の部屋が汚れていることを恥ずかしがっているのだ。その恥じらいが可愛らしくて、俺は思わず笑ってしまった。
しかし、そんな俺の反応は好ましくなかったようで、大塩さんは頬を膨らませて不満を表明する。
「何? その顔。怪我してなくても私の部屋は散らかってそうとか、そう思ってる?」
「そんな失礼な事思ってないですよ! 俺なんて、両腕使えても部屋の掃除なんて親に怒られない限りしませんし。それなのに片腕が使えないなら、多少汚れてても仕方がないですよ」
「多少、なら、良かったんだけど……」
「え?」
なんだろう? 今、不穏な単語が聞こえてきたような気がするのだが。
……でも、大塩さんに限ってそんな事はないよな。
初対面の時に感じた、デキる女っぽいイメージに加えて自分よりも年上ということで、どうしても大塩さんにはなんでも完璧にこなしているような印象を持ってしまう。
そして自分の推しということもあり、その辺り贔屓目に見ていてデキる補正がかかってしまっているのかもしれない。
……でも、今年から一人暮らしをしているって言ってたし、そんなに酷いことにはなってないよな。
色々考えた結果、俺は大塩さんが謙遜して、自分の部屋が多少ではないぐらい汚れていると言ったのだと判断した。
だから俺は彼女を安心させるために、口を開く。
「大丈夫ですよ。俺、ちょっとやそっと部屋が散らかってたぐらいじゃ動じませんから」
「……本当?」
心配そうに上目遣いになる大塩さんに、俺は大きく頷いて断言する。
「はい。俺、従妹の琴奈の部屋にも何度も行ってますけど、そいつの部屋は本当に散らかってて酷いもんなんですよ。漫画は読んだら読みっぱなしにしているし、服も脱いだら脱ぎっぱなしですし。なので、女性の部屋が汚れているのは慣れてますから」
「琴奈ちゃんって今、中学二年生なんだよね?」
「え? は、はい。そうですけど」
「……ふーん」
あ、あれ? 何故だろう。安心させるために言ったつもりだったのに、どういうわけだか大塩さんは若干不満げな表情だ。
その理由に思い至る前に、彼女は一歩部屋の中に入る。
「それじゃあ、入ってもらおうかな。何度も女の子の部屋に出入りして慣れている裕夫くん」
「……あの、言い方に悪意があるような気がするんですが」
「気の所為でしょ?」
そう言った後、大塩さんがボソリと何かつぶやく。
「……何よ。一人暮らしを始めて、初めて男の子を家に上げるのに緊張してた私が、馬鹿みたいじゃない」
「え? 何か言いましたか?」
「なんでもないわ。ほら、早く上がって」
……何なんだ? 一体。
よくわからないものの、俺はお邪魔します、と言って玄関に入る。
そして靴を脱ぎ、一歩奥に進んだ所で、視界の端に台所が映った。
台所なのだから、食器があるのはわかる。だが、それが洗い場に積み上がっているというのはどういう事なのか?
「大塩さんって、一人暮らしですよね?」
「そうよ。言ったでしょ?」
「だったら、あの食器の山はなんですか?」
「食器? ああ、あれは上だけ食器で、下はカップ麺の容器よ」
「危ないじゃないですか!」
むしろ、食器が大量に積まれていた方がマシだった。下の容器が重さで崩れでもしたら、上に乗っている食器が落ちて割れていたに違いない。
俺が食器とプラスチック容器を分けているそばを通り、大塩さんは更に扉を開けて中に入る。この部屋の間取りは、一人暮らしようの1Kなのだろう。
開けられた扉の向こうへ恐る恐る視線を向けると、そこにちゃんとフローリングが見えて俺は安堵した。
……良かった。流石に足の踏み場がない状態ではないんだな。
台所を見たらもしや、とも思ったが、どうやらそこまでではないらしい。
ホッとして中に入ったのだが、そこで俺は自分の考えが甘かったことに気付かされる。
床は、確かに汚れてはいない。しかしそれは、あくまで床に物が置かれていないというだけだった。
三段式のカラーラックには下の段から衣類がぎゅうぎゅうに詰め込まれ、雑草が生えでる様に夏服の袖が飛び出している。
ラックの上には編みかごが置かれており、美容液や化粧水、口紅にマスカラとメイク道具が剣山に花を生けるようにグサグサと突き刺されていた。
テレビが鎮座しているテレビラックの中には配信で使うゲーム機器が詰め込まれており、それは全く問題ない。
問題なのは、そのテレビラックの上だ。
テレビが乗っているのに、そのテレビの前に何故だかゴミ箱が置いてある。そしてその脇には洋服のしわ取りスプレーに殺虫剤、寝癖直しの詰替え用ボトルが転がっていて、テレビの裏には畳まれたAmazonのダンボールが突き立てられていた。
テレビラックの前には足の低い机が置かれているが、その上にはテレビのリモコンに剥き出しのティッシュ箱、飲み終わったペットボトルが三本に、飲みかけのペットボトルが二本。そしてノートパソコンの隣にドライヤーが置かれている。
……ゆ、床に荷物を置かない代わりに、少しでも高い所に全部の荷物を無造作に積んでいるのか。
床を足の踏み場がない程散らかすのに十分であろう荷物が、今にも崩れ落ちそうなジェンガのように机やラックの上に乗せている。
部屋にはクローゼットもあるので、先日見たショルダーバッグなどはそこに入っているのだろう。
しかしそれが実際に想像通りなのか、それを開けて確かめる勇気を俺は持ち合わせていなかった。
そしてこんな奇妙な部屋を作り上げた元凶は、恐らく部屋の角で充電中のルンバだろう。
「ルンバを走らせるために、とりあえず荷物を全部何かの上にまとめたんですか?」
「……だって、そうしないと掃除してくれないじゃない」
少しむくれて、大塩さんがベッドに腰掛ける。
よく見れば、ベッドの上には洗濯物を取り込んだ後放置されているのか、バスタオルに部屋着なんかが散らばっていた。
片腕で畳むのも大変なのは理解しているが、それらの下から、僅かにレースの布が見えて――
……いや、流石に見間違いだろうけど、もしそうなら見続けるのはマズい!
そう思い、慌てて俺は視線をそらした。
「そ、それじゃあ、自分で掃除機をかけたりとかはしてないんですね」
「うん、そうね。一人暮らし用の電化製品を買いに行ったら、丁度現品限りで型落ちのルンバが安く売ってたから、それにしたの。毎日掃除機かけるのも大変だし、学校行っている間に掃除してくれると助かるから」
「だから台所はあんな感じで、部屋の中はこんな感じになってるんですか」
ルンバが掃除をしてくれるといっても、それはあくまで床だけの話だ。
洗濯物は畳まない限り畳まれないし、食器も洗わなければ汚れたまま。
大塩さんの部屋は、自分で掃除機をかけなくてもいい代わりに、ルンバがやってくれないものは全て棚上げされて乱雑になっていた。
そう思っていると、大塩さんが僅かに唇を尖らせる。
「い、いいじゃない。怪我して全く掃除機かけられないぐらいなら、ルンバにやってもらった方が」
「怪我したのが後で、一人暮らしを始めた時には既にルンバ頼りだったんですよね?」
「……ちょっとやそっと部屋が散らかってたぐらいじゃ動じないんじゃなかったの?」
「動じてませんよ。圧倒されているんです」
「同じことでしょ、それは!」
「とりあえず、部屋を片付けませんか? できれば、あのぐらいのレベルまで持っていきたいです」
そう言って、俺は部屋の中で唯一綺麗に整頓されている場所へ視線を向ける。
そこは、ゲーミングデスクとゲーミングチェアが置かれていた。
ディスプレイが二つ並び、配線も綺麗にまとめられている。キーボードとマウスの前にはリストレストが置かれており、机の中央にはWEBカメラとマイクにヘッドホンが置かれていた。
そして、俺が座るために新しく用意したであろうパイプ椅子も。
「あそこで、いつも配信してるんですよね? なら、配信中に変なものが入り込まないよう掃除したいんですけど」
そう言うと、大塩さんは観念したように溜息を吐く。
「そうね。生配信中に事故るのは、私も嫌だし」
「それじゃあ俺は台所を片付けてくるので、大塩さんは先にベッドの上の物を片付けておいてください」
そう言うと、大塩さんは不思議そうに小首をかしげる。
「台所? 配信の心配をしてるんだったらこの部屋の中から片付けたらいいじゃない。それに、何でベッドの上から先に――」
そう言った所で、自分が何をベッドの上に放り出したままなのか気づいたのか、大塩さんの顔が真っ赤に染まる。
「ちょ、み、見たの? 裕夫くん!」
「な、何がですか?」
「何が、って、見たからベッドの上って言ったんじゃ――」
「い、いえ、適当に言っただけですよ? それとも、俺は台所に行かずにこの部屋の片付けを手伝った方がいいですか?」
そう言うと、彼女は俺が何を言おうとしているのか察してくれたのか、おずおずといった口調で口を開く。
「……いえ、台所の掃除からお願いするわ。部屋に入れるような状態になったら、また声かけるから」
「わかりました」
そう言って俺は、そそくさと部屋を出て台所に向かい、後ろ手に扉を閉める。
……こうすれば部屋の中を見る事ができないから、大塩さんも安心して俺に見られると恥ずかしいものを隠せるだろう。
たとえばだけど、取り込んだままにしていた下着とか。
俺は先程のやり取りの気恥ずかしさを洗い流すように、台所で洗い物を開始する。ゴミを出す時に困らないように、カップ麺等のプラスチック容器もすすいでおいた。
水切り台に食器を並べ、ゴミを捨てやすいようにまとめ終えた所で、扉の向こうから声が聞こえてくる。
『も、もう入っても大丈夫だよ』
「わかりました」
部屋に入ると、とりあえずベッドの上の洗濯物は全て畳まれている。
……流石に、下着はしまったみたいでよかった。
そう思っていると、大塩さんがジト目になる。
「……なに? やっぱり気になるの? ベッドの上」
「いえ、そんな事は! ゴミが結構溜まったので出してこようと思うんですが、どうしたらいいですか?」
誤魔化すようにそう言った俺をそれ以上追求することなく、大塩さんが口を開く。
「一階にゴミ捨て場があるから、そこに分別してゴミ袋にまとめたものを入れておくの。それを管理人さんが、曜日別に収拾するゴミを更にまとめて出しておいてくれるのよ」
「なるほど。それでは、俺は先にゴミを捨ててきます」
「お願いね。私はもう少し、部屋の中を整頓しておくから」
それからしばらく、俺はゴミ捨て場と大塩さんの部屋を往復した。
その途中、俺は思わず苦笑いを浮かべる。
……まさか、大塩さんにあんな一面があったなんて。
大塩さんは琴奈とはまた違った方向で、部屋を汚してしまう人だ。
琴奈は単にズボラなだけで、やろうと思えば料理もできる。
しかしあの人は、家事スキルがなさすぎだ。流石に洗濯は自分で行っているようだが、あの部屋の状況を見るに料理も自分でしているようには思えない。
……でも、だからといって幻滅したかというと、そうでもないのが不思議なんだよなぁ。
これが推しの力なのだろうか?
もし別の異性が大塩さんのような家に住んでいたのなら、幻滅してもおかしくないような状況だったと思う。
しかし、ことそれが大塩さんだと、『おりおり』だと知っているからか、幻滅どころか苦手なことがあるのを知り、それを逆に微笑ましいと思ってしまう自分がいるのだ。
……俺、本当に『おりおり』が好きなんだな。
この感情がLIKEとかLOVEかと言われると、明確に違うと言いきれる。どこまでいっても、あの人を推したいという気持ちしか沸いてこない。
……だったらこれからも『おりおり』を推すため、部屋の掃除だけじゃなく配信の手伝いの方も頑張りますか。
元々今日大塩さんの家を訪れたのは、それが目的だったのだ。
掃除も一段落したため、俺達は当初の目的通り配信の準備をする。
つまり、ゲームの実況だ。
「それじゃあ裕夫くんがゲームをプレイして、それに私が自分がプレイしているみたいに喋るわね」
「は、はい。お願いします」
別にまだ配信をするわけでもないのに、変に緊張してきた。
何故ならディスプレイには眼鏡をかけたお姉さん風のVtuber、『おりおり』がカメラの前の大塩さんの動きに反応して動いているのだ。
……やべぇ、本物だ! こうやって動いてるんだ!
「大丈夫? 裕夫くん」
「だ、大丈夫です。やりましょう」
「そう? それじゃあ、始めるわね。……って、私が操作しないから」
「あ、そうだ。俺がやるんだった」
そう言って俺は、慌ててキーボードとマウスを操作する。
ディスプレイには、オープンワールド系のゲームであるマインハードワーク、通称マイワクの画面が表示された。
このゲームは特に目標が設定されておらず、プレイヤーが自由に何でも行動できるというのが売りだ。
『おりおり』はマイワクだと、よく建造物の探検を行っている。
そのため俺も、『おりおり』のキャラを動かして砦の遺跡を探索することにした。
……その前に、持っていくアイテムを調整しないと。
画面上でキャラクターが動き、『おりおり』が作った宝物庫に向かっていく。ここにアイテムがまとめられているのだ。
無言でプレイする俺の隣で、大塩さんが口を開いた。
「それじゃあ、今日も探索に行くわよ。まずは持っていくアイテムの選択ね」
ディスプレイに表示されるキャラクターの行動と、大塩さんのコメントが一致している。
……お、結構いいんじゃないか?
過去に見た『おりおり』の配信を思い出しながら、俺はそのプレイにできるだけあわせるようにキャラを動かしてく。
そう思ったのだが――
「そうね? 武器は剣、じゃなくて弓を選択するようね。防具は火耐性付きのものを選ぶみたいだけど、砦の遺跡に向かうなら妥当な判断だと思うわ。あそこは床が溶岩になっているし、炎を吐いてくる敵も出るから」
「……あの、何でそんなに実況風なんですか?」
これは、あくまで大塩さんが『おりおり』のキャラをプレイしているように話さなくては意味がない。
しかし大塩さんは、画面に映った内容をナレーションしているように話してしまっている。
「……そうね。たとえば弓を選択するようね、ではなく、選択するわ、みたいに、あくまで自分の行動として話さないとダメなのね」
「はい。実際テレビのナレーションみたいに映像を見ながら実況するので難しいかもしれませんが、あくまで俺のプレイは大塩さんがやっているテイで話さないと」
「わかったわ。それじゃあ、進めて頂戴」
その言葉に頷いて、俺はプレイを再開した。装備を整えて、砦の遺跡へと向かう。
そして目的地に到着すると、前方に敵キャラが現れた。
「出てきたわね。でも、この距離なら弓で一方的に攻撃できるわ。ほらね? せっかくだし、ドロップしたアイテムでも回収し、痛っ! え、どこから攻撃してきたの? あ、左左! 左よ裕夫くん! ほら、だから左だって!」
「……大塩さん、ひょっとして友達のゲームとか黙って見ていられないタイプですか?」
……後、ダメージ食らうとどうしても痛っ、って言いがちだよね。
その左側に出現した敵キャラを倒し、キャラを安全圏まで移動させて『おりおり』の中の人へ視線を向ける。
今のはいつもの淡々とクールにプレイしている『おりおり』とは、正反対の実況だった。
彼女は顔を赤くして、僅かにうつむいていた。画面上の『おりおり』も、同じ様に動いている。
「だ、だって、しょうがないじゃない! 左に敵が見えちゃったんだから」
「だからって、それを全部口にしてたら実況にすらならないですよ」
「それは、わかってるんだけど」
そう言って大塩さんは、うなりながら首を傾げる。
「裕夫くんとはプレイスタイルが似ているから、すぐに上手くいくと思ったんだけど。やっぱり自分でゲームをしてないせいか、ディスプレイの全体を見ているから裕夫くんと視点が少しずれちゃうのかもしれないわ」
「プレイヤー目線になりづらい、ってことですかね」
「そうかも。あくまで私は見てる側になっちゃってるから」
「なら、探索じゃなくて採掘系でもやりますか? それなら急いで喋らなくてもいいですし、慌てることもないと思いますけど」
「確かに、それはいいかも知れないけど、『おりおり』の視聴者はそれで楽しんでくれるかな? コメントだと、やっぱり何かを作ったりするよりも探索を進める方が人気があるし。一度や二度なら採掘系の配信でもいいかもしれないけど、ずっと続くと見てる側も楽しくないだろうし」
「そっか。全部で八回の配信ですもんね」
配信回数を失念していた俺は、思わず頭をかく。
「それじゃあ、ちょっと別のゲームも試してみますか」
「そうね。無理に一つのゲームに拘る必要もないし」
そう言って、俺たちは別のゲームもプレイしてみた。
だが、MMORPGをプレイしても、シューティングゲームをしてみても、あまり結果は変わらなかった。
大塩さんは相変わらず画面に表示されたものを口にしなければ気がすまず、それをやめようと意識すればするほどアナウンサーがナレーションや実況をしているような口調になってしまう。
「……ちょっと、休憩しましょうか」
そう言って、大塩さんは席を立つと冷蔵庫に飲み物を取りに行く。
大塩さんがいなくなったので、ディスプレイ上の『おりおり』は糸が切れた操り人形の様にぐったりと顔をうつむけた。
それが今の大塩さんの心の中を現しているようで、俺は焦燥感に駆られる。
声を当てるのは確かに大塩さんだが、彼女が話しやすいようにプレイ出来ていないのは俺の責任だ。
……俺は結局、推しの力になれないのかな?
そう思った俺の頬に、何か冷たいものが押し付けられた。
「うおっ!」
驚きすぎて、椅子から落ちそうになる。振り向くとそこには、おかしそうに笑っている大塩さんの姿があった。
「え? そんなに驚くこと?」
「いや、驚きますよ。突然冷たいものくっつけられたら」
「ごめんごめん。はい、これ」
「ありがとうございます」
そう言って俺は、大塩さんから缶コーヒーを受け取る。
プルタブを開けて缶を口にすると、彼女はペットボトルの紅茶を飲んでいるのに気づいた。
「あれ? 大塩さんは紅茶なんですね」
「うん。私、ほとんどコーヒー飲まないから」
「え? それなら、どうしてコーヒーがこの家にあるんですか?」
そう言うと、大塩さんはなんてことないという風に、口を開く。
「そりゃ、裕夫くんが飲むと思ったから買っておいたのよ。紅茶の方がよかった?」
「いえ、コーヒーの方が好きですけど。でも、どうして俺がコーヒーの方が好きだって知ってたんです?」
「だって、最初に会ったレストランで君、コーヒー頼んでたでしょ? だから、コーヒーの方が好きなのかな? って。それだけよ」
そう言われて、俺の脳裏にある閃きが浮かんだ。
「そうだ。それですよ、大塩さん!」
「なっ! ど、どうしたの? 急に立ち上がって」
「だから、ゲームの実況ですよ。俺、ずっと大塩さんみたいにプレイしないと、大塩さんが話しやすいようにプレイしないとって、ずっとそう思ってました」
「……でも、それって実際そうじゃない? 裕夫くんのプレイしている内容を、私が喋る必要があるんだし」
「それが、違ったんです。やるべきなのは、逆だったんですよ!」
「逆? どういう事?」
首を傾げる大塩さんに向かって、俺は興奮気味に口を開く。
「実際に大塩さんがプレイしていないのに、俺がその通りにキャラを動かせるわけがないんです。だからやるべきなのは、俺が何を考えてプレイしているのかを、大塩さんに知ってもらうことだったんですよ!」
俺がコーヒーが好きだと知り、こちらから何も言わなくても大塩さんがコーヒーを用意していてくれたように、彼女に俺がどうやってプレイしているのかを伝えれば、大塩さんは俺のプレイ内容を理解して自然に話せるようになるのではないか?
その仮説を聞いた大塩さんは、なるほど、と大きく頷いた。
「そうか。私のスタイルにあわせて裕夫くんがプレイするんじゃなく、私が裕夫くんのプレイスタイルにあわせて話せばいいんだ」
「プレイスタイルが似ているとは言え、違う人間がやることですからね。そこの差を埋めていければ、多分上手くいきます」
「……でも、肝心のプレイスタイルの理解はどうやってすればいいの?」
「簡単ですよ。俺が話しながら最初にプレイするので、その内容を加味して次に大塩さんが喋ってください」
そうなると、できるだけ同じシチュエーションが発生するようなゲームがいいだろう。何度も似たような場面を繰り返せば、自ずと次にどんなプレイをするのか想定しやすくなるからだ。
……そういう意味だと、マイワクとかのランダム性が高いゲームはやめた方がいいな。
敵キャラと戦う部分は同じかもしれないが、その敵が違ったり、新しい場所へ探索しに行くと想定外の事態に遭遇しやすい。
そうなると、突発的に発生した事態に上手く話せなくなってしまう。
「なら、オープンワールド系だったりがMMORPGは避けた方が良さそうね」
「そうですね。となると、シューティング系とか、FPSとかが良さそうだと思います」
「なら、レジェでどうかしら? FPSだし、『おりおり』でもゲーム実況を望む声が多いから、皆喜んでくれると思う」
大塩さんが言ったレジェというのは、Legendes Hojdpunktの略だ。
スウェーデンのゲーム会社が作ったFPSで、スマホ版やPC版、その他殆どのゲーム機に対応している世界中で人気のゲームだ。
対戦モードはバトルロワイヤルとチーム戦があり、ランダムマッチとランキングで対戦するプレイヤーのレベルを変えられるので、偶に他のゲーム実況配信者とマッチして対戦する、なんてこともあった。
「わかりました。それじゃあ、バトルロワイヤルのランダムマッチで始めますね」
俺は早速レジェを起動させ、宣言通りの内容で対戦の準備を進める。
バトルロワイヤルは三人一組で一チームが構成され、それが特定のフィールドに複数チームが投入。そして、最後までチームが生き残っていれば勝ち、というルールで行われるものだ。
ランダムで二人のプレイヤーが選ばれ、チームが決まった。そしてすぐに自分で操作するキャラクターを選択し、ゲームを開始する。
キャラクターにはそれぞれ固有の特殊能力があり、瞬間移動をしたり、敵の痕跡を辿ったり、空を飛んだり、ダメージを受けると移動速度が上がったりと個性があった。
このゲームではプレイ直後、キャラクターは武器を何も持っていない状態でスタートする。キャラクターは戦場となるフィールドにパラシュートで落下し、フィールド上にあるアイテムを集めて、他のプレイヤーたちと戦うのだ。
俺はキャラクターを操作し、チームメンバーと共にフィールドへ降り立つ。最初の一定時間はプレイヤーたちがアイテムを集めるためのインターバルが設定されており、互いに攻撃できない仕様になっていた。
キャラクターを動かしながら、俺は口を開く。最初に俺が何を考えているのか、大塩さんに理解してもらうために。
「何はともあれ、装備を集めないとな」
建物の中に入り、アイテムを収拾していく。キャラクターを動かしながら、俺は口も動かしていった。
「ダメージを低減してくれるシールドはすぐ装備して防御力強化。救急キットは負傷した時に使えるからどれだけ取ってても困らない。って、全然銃が置いてねぇ! 手榴弾はあるけど、あ、ようやく見つけた、けどハンドガンか。まぁないよりマシかな」
そうこう言っているうちに、インターバルが終了。他のチームとの交戦が可能となった。
すぐに別のチームのプレイヤーたちが近づいてきて、撃ち合いとなる。
「ヤバい! チームの皆ごめん、俺最初全然戦力にならないかも」
そう言いながら、俺は仲間と共に他のプレイヤーとの戦闘に臨んでいく。
「武器がヘボいから、とりあえず邪魔にならないよう援護射撃だけして、大人しく後ろに引っ込んどくか。ダウンした仲間を救助出来るような位置につけ、ヤバい、グレネード撃ってくる! 皆下がって下がって! 下がりながら手榴弾投げて牽制して、お、ナイス味方相手落としてくれた。遮蔽物に隠れて移動できる位置にアイテムボックスが出たから、アイテム取りに行くね」
レジェは相手を倒すと、そのプレイヤーが装備していたアイテムを入手することが出来る。
装備が希薄な俺は、すぐに相手プレイヤーの落としたアイテムを拾いに行くため、アイテムボックスの方へ向かうことにした。
「他の二人を警戒しつつアイテム回収、お、ライフルあるじゃん。ヘルメットと持てるアイテム増やせるバッグももらって、弾薬もあるだけもらおうかな」
そうしている間に、味方の一人がダウンする。
俺は入手したライフルで弾をバラまきながら、倒れた仲間の救助に向かった。
「助けに行くから落とされるまで持ちこたえてくれ。あ、クソ、やっぱりそう簡単には近づかせてもらえないか。え、ヤバいってそこで突っ込んだら。まだ二対二なんだから、ここは一度落ち着いて下がった方がいい、うわ、もう一人の仲間もダウンした!」
状況が一転し、二対一の劣勢に追い込まれる。
弾丸の雨が俺のキャラクターに降り注ぐが、それを遮蔽物に隠れながらなんとか凌ぐ。
「ライフルを手に入れられたからまだ戦えるけど、結構キツイな、うわ、後ろに回り込まれた! 先にどっかで回復して、って移動経路全部潰されてるわ。ダメだ、押し負けそう」
そう言った直後、俺のキャラクターのライフがゼロとなり、ここでゲームオーバーとなる。
チームをマッチする前の画面に戻り、大塩さんへ視線を向けると彼女は苦笑いを浮かべていた。
「確かに、最初ハンドガンだけだと序盤はかなり苦しいわね」
「大塩さんだったら、どういう立ち回りにしてましたか?」
「基本は裕夫くんと同じよ。でも、グレネードを撃たれた時は下がらず突っ込んだかもしれないわ」
「どうしてです?」
「救急キットを持ってたから、ダメージを受けても別の遮蔽物まで移動出来るでしょ? そうすれば敵の裏につけられるし、相手も引きつけることが出来るじゃない。そうなると釣られた相手を仲間のプレイヤーが集中砲火出来る状況になるわ。その間に回復すれば、敵の後ろを取った状態で攻撃できるから有利かも、と思ったんだけど、実際釣られてくれなければ無駄にダメージを負うだけだから、劣勢になっちゃうかもしれないわね」
「まぁ、その辺りは巡り合わせみたいなところがありますからね」
そう言って俺は、またチームをマッチさせる。キャラクターを選びながら、大塩さんへ向かって口を開いた。
「次の語りは、大塩さんですよ」
「わかったわ。でも、裕夫くんが何を気にしながらプレイしているのか、とても良くわかった気がする」
「でも、次のプレイだと最初からいきなり装備が充実してるかもしれませんよ」
「……それは、数をこなして慣れていくしかないわね」
そう言っている間に、既にプレイは開始されていた。
チームメンバーと一緒にパラシュートでフィールドに降り立つと、俺はすぐにアイテムを集めるために走り始める。
しかし今回の落下地点は建物の近くではなく、滝が流れる川のそばだ。その近くに車が横転しており、そこにアイテムが用意されている。
そこに向かってキャラクターを向かわせていると、大塩さんがすかさず口を開いた。
「川の近くはアイテム数が少ないけど、強力な装備が、あら? スナイパーライフルがあるじゃない。いいわね。弾薬も強力なものを集めて、すぐに下りましょう。ここは遮蔽物がなさすぎて、狙い撃ちにされてしまうわ」
その言葉通り、俺は既に行動を開始していた。
道路が地震で隆起して壊れたような場所に身を潜めると、インターバルが終了する。
レジェの画面が映っている隣のディスプレイに表示された『おりおり』が、淡々とした表情で口を開いた。
「他の仲間とは距離が離れてしまったけど、遠距離攻撃が出来るから問題ないわ。むしろ距離を取っている分索敵が出来て、あ、ほら、丘の向こうから相手チームがやってきたわ。もう少し接近したら――」
そのタイミングで、既に俺は射撃を開始している。
……きっと大塩さんは、遠距離であれば確実性に狙い撃ちたいんだろうな。
それは自分も同じ気持ちだが、俺ならこの距離でも当てられる。
もちろん、相手が近づいてきてからヘッドショットを狙ってもいい。ただ今回、俺は取得したアイテム数が少ないため、先制攻撃を優先した。
……俺が撃ったことで、味方に相手プレイヤーの存在も知らせられるしね。
結局その時その時で、何を優先するのか、という違いでしかない。
もし俺がプレイの実況を担当してプレイを大塩さんが担当していたら、俺が確実性を重視して大塩さんが先制攻撃を優先していた気もする。
琴奈が『ヒロ』を自称していると知らされたあの日の晩観ていた動画でも、俺はスパチャで引くなら気をつけるように伝えたが、『おりおり』は攻めることを選んでいた。
その時選んだ選択が違っても、その意図を理解できるのなら相手の美学と通じることが出来ると、俺はそう思っている。
結果として今回は本当に幸運にも、ヘッドショットが決まって相手をすぐに落とすことが出来た。
自分の言葉とは違う状況だが、大塩さんは焦らず言葉を紡いでいく。
「今のヘッドショットはまぐれね。でも運も実力の内だから良しとしましょう。この距離で一人落とせたのはかなりでかいわ。おまけにこっちは遮蔽物があるけど、丘を降りてくる相手は身を隠すところがない。もう少しで一人落とせそう、落とせたわね。後は三対一だから変に前に出なければ撃ち合いで負けることはないわ」
そして、淡々と語る大塩さんの言葉通りの展開となった。
相手チームを落とした俺たちは、彼らがドロップしたアイテムを回収する。
「シールドが削れたから、修復しましょう。ダメージはそれほど受けてないから、回復量が多いものは取らずに味方に回すわ。炎を作るテルミットは、射線が見にくくなるから今回は見送りね」
その言葉が未来を予言しているのではないかと言わんばかりに、俺は大塩さんの語った通りにプレイしていた。
細かい所は差分はあるものの、やっぱり大塩さんと俺のプレイスタイルは似ているらしい。
結局今回は最後まで生き残り、無事トップに立つことが出来た。
チームをマッチする前の画面に戻り、一息つくと、大塩さんが疲れを吐き出すように溜息を吐く。
「……疲れたわ。これ、ゲームするより疲れるかも。まだ実況もぎこちないし」
「でも、かなり良くなったと思いますよ」
それこそ、マイワクをやっていた時に比べたら雲泥の差だ。
「それじゃあ、全八回の配信はレジェで決まりね。レジェの一ヶ月強化期間、みたいな感じでSNSに流しておくわ」
「よろしくお願いします」
そう言うと、大塩さんはPCの時計で時間を確認する。
「裕夫くん。後一、二時間ぐらいレジェのプレイ、というか実況に付き合ってもらいたいんだけど、大丈夫かな?」
「問題ないですよ。そのために来てるんですし」
「ありがとう。それじゃあ、早速またプレイを始めましょうか」
それから結局、俺たちは日が暮れるまでゲームと実況に明け暮れた。
そのかいあって、来週の初回配信はなんとかなりそうだ、という所まで辿り着けたと思う。個人的に、非常に充実感がある時間だった。
……何せ、推しの力になれるんだからな。
でも、ここで勘違いしてはいけない。俺が今やっているのは、あくまで大塩さんの怪我が治るまでの、一時的な強力だ。
自分を特別な存在だと勘違いしてしまうと、自分の黒歴史を増やしてしまいかねないし、勘違いした結果推しに迷惑がかかるような事があってはならない。
その大塩さんなのだけれど、玄関で見送ってくれる彼女は申し訳無さそうな表情を浮かべていた。
「ごめんなさい。こんな遅くまで引き止めるつもりはなかったんだけど」
「大丈夫ですよ。親には遅くなるってLINEしてますし」
琴奈からは執拗にどこにいるのか確認するLINEも届いていたが、あいつは俺のアカウントを自称した罪があるのでしばらく塩対応をすると決めている。
……あいつへの返事は、家に帰ってからで十分だな。
「それじゃあ、気をつけてね」
「はい。来週の配信、頑張りましょう」
そう言って俺は、エレベーターで一階に降りる。
と、今日は大塩さんの部屋とゴミ捨て場の往復をしていたせいで、エントランスではなくゴミ捨て場の方に出てしまった。
……まぁ、こっちからもマンションの外に出れるからいいか。
管理人の人がゴミ収集車に集めたゴミを出せるよう、ゴミ捨て場からも外に出られるようになっている。
もちろん防犯対策のためオートロックになっており、鍵を持っていなければマンションの外から扉を開けることは出来ない。
その扉をくぐり、外に出る。スマホを取り出し、地図アプリを起動させた。
そこで俺の背後で扉が勢いよく閉まり、そこそこ大きい音がする。
……さて、帰りはどのルートで変えるのが一番近道なんだろう?
そう思っていると、誰かが慌てたように物陰から飛び出し、走り去っていく姿が見えた。
それを見て、俺の脳裏に突拍子もない考えが浮かんだ。
しかし、突拍子もなさすぎて、そんな事を考えた自分自身に俺は呆れてしまう。
……何考えてるんだ、俺は。ゲームのし過ぎで疲れたのか?
そう考えると、今日は大塩さんの家の掃除をしたり、推しの家に行く緊張だったりと、疲れる要素が今日は沢山あった一日だったと気づく。
……今飛び出してった人は、きっと俺が閉めた扉の音でびっくりしただけだよな、きっと。
そう思いながら、俺は地図アプリの案内で帰路についた。