ジュエリーインザガベージヒル ~瓦礫の中の珠玉を求めて~ 作:メグリくくる
◇◇◇ ヒバリ ◇◇◇
「では、こちらにお乗りください」
「わかりました」
白衣の女性の言葉に頷いて、私は車の前に進んでいく。
向かった車は、本で読んだ救急車みたいに大きくて、それでいて神経質なぐらい真っ白に塗られていた。
いつも研究所から窓越しに見るだけだった車は、王冠を付けた様な鳥の絵が描かれていたりするのだけれど、今回はそれも白に塗りつぶされている。
まるで、白以外の色は使うことを許されていないみたいだ。
その排他的な気配を漂わせる車を前に、私は尻込みしてしまう。
でも、白衣の女性に無言で見つめられて、私はおずおずと車のドアに手をかけた。
そしてバックドアを開けて、中に入る。裸足だったので、足の裏が冷たくて、体がぴくっ、と反応した。
中に入ると、そこも真っ白な壁の中に、椅子が置かれている。
車の進む方ではなく、バックドアガラスの方を向いていた。
「こちらにお座りください」
「……はい」
車に乗る時と同じ様な圧力を感じて、私は素直に頷くと、その椅子に腰を掛けた。その拍子に、着ている青色の病衣がふわりと舞う。
座ると、先程の女性が私の側にやってきた。
「どこか気になることがあれば、言ってくださいね」
そう言いながら、シートベルトを締めてくる。
片側の斜めがけのものだけではなく、おヘソ辺りにバックルがあり、それを左肩、右肩、左脇、右脇からの四方向からタングを差し込んで固定するものだ。
固定が終わった後も白衣の女性はまだ立ち去らず、ベルトの長さを極限まで短くし、たるみを殆どなくしていく。
「あの、ちょっと、痛いです」
「アサクサ・シティにある研究所までの移動なので、かかっても一時間程です。すぐに到着しますよ」
つまり、我慢しろということなのだろう。彼女はロックボタンを押して、私が勝手にシートベルトを解除出来ないようにした。
……気になることがあれば、言っていいって言ったのに。
そう思うものの、あまりワガママは言っては駄目だと、我慢する。
……私は、特別な子なんだから。色んな人が、私のために色々と頑張ってくれて、だから私は感謝しないといけないんだ。
何がどう頑張ってくれているのか、詳しくは教えてもらえたことはない。
でも、私を色々と見てくれる研究所という場所にいる人達が、そう言っていた。
だから私は恵まれていて、だから研究所の人達の言う事は、しっかり守らないといけないらしい。
私の幸せのために皆頑張っていてくれている。だから、皆の期待に応えれるよう、私も頑張る必要あるのだ。これから向かうアサクサ・シティの研究所も、私のために建てられたものらしい。
……特に、クラウンさん? って人は、私にすっごい期待してくれているみたい。
私は一度も会ったことはないのだけれど、何でも私だけしか出来ないことがあるようなのだ。
会ったこともない人や、いつも最低限の言葉しかこちらに投げかけない白衣を着た大人の人達に、なんだかよくわからない期待をかけられて、正直よくわからない事の方が多い。
たまに、ベルトをきつく締められる時に感じるような、嫌な思いもする事があって、耐えられない時はその夜、隠れてベッドで泣くこともあった。
正直、痛いのも苦しいのも苦手だし、今もベルトは緩めてもらいたいのだけれど、今日はなんとか耐えられそうだった。
何故なら――
……今日、初めて研究所の外に出られるんだ。
私は生まれてから今日まで、フナバシ・シティにある研究所で過ごしてきた。外に出たことがないので、フナバシ・シティがどこにあるのかも、どういう所なのかもわからない。
研究所での生活はさっき話たみたいな感じで、物心ついた時には私は他の子達からは引き離されて、他に子供はいなかった。
そんな中私は、体に冷たいやつを貼られたり、ちょっとピリって痛くなったりする検査ばかりの日々を過ごしてきたのだ。
無味乾燥な日々ではあったものの、私にも楽しみにしていることがあった。
私にとって唯一の楽しみ。それは、本を読むことだった。
……情操教育? とか、健康にもいいから、って、読み聞かせてもらったのが始まりだったっけ。
研究所の大人達は、非情にぶっきらぼうに私に本を与えた。
多分、本を選ぶのも面倒だったのだろう。とりあえず子供が読むだろう本を適当に見繕って、彼らはそれを私に与えた。
それでも私は、そこに書かれている内容に衝撃を受けた。文字の読み方を教えてもらい、それを夢中で読みふけった。
白い壁に囲まれ、白衣の大人達に囲まれ、よくわからないけどジロジロ見られたり、頭に何かをまかれたりするだけの生活。
それが当たり前で、それが全てだった私にとって、本の内容は全く違う世界を見せてくれた。
不思議な動物達と旅するお話に、魔法使いがお姫様を幸せにしてくれる話。
おもちゃが大冒険に繰り出すお話や、不思議な国に迷い込んでしまうお話。
どんな物語も、ページをめくれば胸を高鳴らせてくれた。
どんな物語も、本を開けばその時だけは全く違う世界を見ることが出来た。
それはまるで、鳥が大空を自由に飛び回るように、世界の色んな所を見て回れるように。
……どんな世界なんだろう? 外の世界って。
物語のページを全てめくり終え、本を閉じてその日ベッドで目を瞑った後、何度そう考えて、何度自分自分なりの外の世界を想像してみただろう。
本に描かれていた外の世界は、いつだって美しくて、いつだってキラキラしていた。
……どうなっているんだろう? 本当の外の世界って。
その答え合わせが研究所を移動する、今日出来るのだ。
だから少しぐらい、シートベルトがきつくたって、耐えられる。
だってもう、この車が動き始めて研究所の外に出たら、夢にまで見た外の世界なのだから。
そう思った所で、車にエンジンがかかる。
車体全体が揺れて、私の期待もどんどんと膨らんでいく。
椅子からエンジンの振動が伝わってくる度、私の鼓動も高鳴っていった。
そして、緊張しすぎて頭がクラクラし始めた所で、車が動き始める。
待ちに待った瞬間が、やってきた。
体に食い込むシートベルトを更に自分に食い込ませ、窓の方へと顔を伸ばす。
と――
「え、閉めちゃう、んですか? カーテン」
「ええ。万が一にも、貴方を研究所の人間以外に目撃されるわけにはいきません。『ハーラーハラ』はBPP(バレアリカ・パボニナ・パボニナ)社のクラウンCEO肝いりのプロジェクトですから」
……そんな。
車の動く振動は、今は絶望を刻む鈍痛になっていた。
私の目に映るのは、全てが白に塗られた車の中。椅子も白なら、カーテンも白だ。
研究所で散々見てきた色だけれど、これだけ全面に白色を出されると、どうにもわざとらしい感じがして仕方がない。
なんというか、何か別のモノや色が描かれていたのに、それを無理やり白で塗りつぶしているような、そんな感覚だ。
その、ある種強迫観念を感じさせる白という色に、私の心も塗り固められる。
……やっぱり、ないのかな? 本の中の、美しくてきれいな世界なんて。
前に一度だけ、研究所の人達に言ってみたことがある。
本の中の物語みたいな大冒険や、きれいな場所、ワクワクするような出会いは本当にあるんだよね? って。
でも、返ってきたのは失笑であり、冷笑であり、嘲笑だった。
そんなものあるわけないだろと、夢を見るのは勝手だけれど下らない事を言って研究の邪魔はするなと、所詮あれは妄想の産物なのだから自分の置かれている状況をわきまえて楽しむようにと、そんなに現実逃避がしたいのかと、そう言われた。
……やっぱり、私がおかしいのかな? 物語に憧れるだなんて。初めての外の世界に、憧れを持つなんて。
研究所の中でしか生活してきていないので、それ以外の人達の生き方がわからない。
でも、あれだけ大勢の大人達から否定されると、やっぱり自分が間違っていたのかも知れないと、そう考えてしまう。
……結局、何も変わらないのかな? 研究所の外に出ても、私の人生って。私の世界って、このまま何も変わらないのかな?
アサクサ・シティへ向かう車の中、私の心の中は闇より闇色になっていく。
出発してから、ずっとうつむいていた私の耳に、運転手と白衣の女性が会話する声が聞こえてきた。
「間もなくアラカワ・リヴァーを渡って、ヒライ・シティへ入ります」
「そう。予定より早く着きそうね。もっとスピードを出せば、夜になる前にはアサクサ・シティに到着出来るかしら?」
「流石にそれは無理ですよ。それに、最近この付近で徒党を組んで悪さをしている奴らがいるみたいで。余り目立つ行動をすると、目をつけられます」
「いいじゃない。早くこの仕事を終わらせて帰りたいのよ。あんなモノのそばにいるだなんて、苦痛で苦痛で仕方がないわ」
……あんなモノ?
彼女の言葉からは隠しきれない嫌悪感がにじみ出ており、それがどうにも気になってしまう。
モノというからには、何かしらの物体なのだろうか?
しかし、この車には何かしらそういったモノは積み込んではいなかったはずだ。
もしかしたら、これから向かうアサクサ・シティにそのモノが置いてあって、早く仕事を片付けて帰宅したいのかもしれない。
そんな事を思っていると、運転手の苦笑いをした様な声が聞こえてくる。
「それは自分も同じ気持ちです」
「だったら、急いでアラカワ・リヴァーを渡りきりなさい」
「ですが、今回の輸送は極秘であり、関係者も最小限にすることから護衛も付けておらず――」
「いいから。責任は私が取るわ」
「そういう事でしたら……」
そう言うと運転手はアクセルを踏んだのか、体にかかる圧力が増す。
自分の思い通りに事が運んでいるからか、女性の嬉しそうな声が聞こえてきた。
「そうそう、何事も慎重に行動はすべきだけれど、過度にリスクを恐れてはいけないわ。ほら? もう橋を渡り終えてヒライ・シティに入ったでしょ? 流石に日が暮れてきたけど。荒くれ者がいるといっても、その行動には物理的に制約がある。そう考えると、現実的に私達が彼らに接触する確率は低いと言わざる――」
そこで、白衣の女性の言葉が途切れる。
その代わりに彼女の口から、甲高い悲鳴が上がった。
ただし、悲鳴が上がったのは彼女だけではない。運転手や私も同じ様に、悲鳴を上げている。
その理由は、単純明快。
私達の乗った車が、横転したのだ。
凄まじい騒音と振動が、私の鼓膜と体を襲う。
視界が二回、三回と回転し、私は世界がひっくり返ってしまったのかと思った。
しかし実際はそんな事はなく、ただ車が横転し、その衝撃でボンネットがひしゃげ、硝子が砕けてしまっただけだ。
……な、何? 何が起こったの?
視界が横になっていたことで、私は自分が右側に傾いて、体が水平方向になっている事を知る。
車の側面に叩きつけられていないのは、きつくシートベルトをしてもらっていたおかげだろう。
痛い思いをして、それよりもっと痛い思いをしなくてすんだらしい。
「あの、すみません」
そう言うが、運転手からもも白衣の女性からも、明確な返答は返ってこない。
あるのはただ、気まずい沈黙だけだった。
シートベルトへ視線を向けると、右側から伸ばしていたベルトの留め具が外れている。
どうやら横転した時の衝撃で、外れてしまったようだ。
……これなら、抜け出せるかもしれない。
体が横倒しになっているせいか、頭に血が上っているようで気持ちが悪い。
だから私は、シートベルトの拘束から抜け出すことにした。
何か体調が悪化したらすぐに言うようにと、研究所でも大人達から口を酸っぱくして言われている。
どうやら私の体に異変があると大変なことになるらしく、即時解決が必要との事らしい。
……でもその割に、本を読むこと以外あんまり自由にさせてもらえなかったけど。
健康維持のための運動も、必要だからと無理やりやらされていたのでは、苦痛以外の何物でもない。
ただ、それが苦痛だと感じるようになったり、なんとなく研究所での自分の扱いに違和感を感じてしまうようになったのは、本を読んでからだった。
本を読まなければそんな風に、大人達が言う悪い子の考えに、ならなかったのかもしれない。
でも本を読むことは、物語を楽しむことは、外の世界に憧れることは、やめることが出来なかった。
だからそれは、ある意味仕方がないことだった。
今、シートベルトの拘束を抜け出して、僅かに開いている車の扉を押してみたい、外に出てみたいという、体の内側から湧き出てくるものを、私は抑えることが出来ない。
いつもならそうした行動は、研究所の大人達によってすぐに阻まれたり、そもそも出来ないようになっている。
しかしここは研究所の外で、夢にまでみた外の世界で、だから私は好奇心に突き動かされるそのままに、扉を押して車の外に出った。
そこで、私の目に飛び込んできたのは――
控えめに言って、地獄だった。
まず感じたのは、異臭だ。
何かが燃え上がり、鼻の曲がりそうな匂いがする。
その燃えた残り滓が宙を漂い、黒い消し炭みたいなものが、また炎に焼かれて黒煙を上げる。
煙が伸びる空は無限に高く、今まで研究所にあった真っ白な天井なんてどこにもない。
あるのはただ、広く、そして広大な、ただの真っ黒ななにかだった。
その頭上に広がる真っ暗な何かには、針で穴をさしたようなポツポツがいくつも開いていて、そこに突然生まれた巨大な目玉のようなものがくっつけられている。
井戸の中のカエルが海に突然放り込まれたら、こんな気持になるのかもしれない。
あんな暗闇の中、まともな鳥なら飛び回ったりしないだろう。
途方もない、恐怖の権化がそこにあった。
……何、ここ。こんなのが、外の世界なの?
何かに助けを求めるよう周りを見回すが、あるのは物言わぬ廃墟のビルと、燃え上がる炎だけだ。
どうしたらいいのか、わからない。
しかし私は頬に感じる火の熱さに危険を感じて、すぐその場を移動することにした。
……体を、大切に。私を傷つけちゃ、駄目だから。体を大切にしないと、大人の人に、怒られちゃう。
研究所で言われ続けてきた言葉が脳裏を過ぎり、まだ火の手が上がっていない建物の方へと走り出す。
でも、上に天井がないのが落ち着かない。
だからすぐに、私は暗闇ばかりの建物の中に入ってしゃがみ込んだ。
……ここも真っ黒で怖いけど、上に浮かんでいる巨大な目玉の方が怖いよ。
そう思っていると、何やらいくつかのエンジン音がする。
恐る恐る覗いてみると、そこには何台かのバイクと車がやってきた。
それを運転していたのは、七人の男達。顔立ちは、研究所の大人にはいなかった、粗暴なタイプだった。
「おい、見ろよ! 俺の撃った弾で横転させたぞ」
「ばーか。俺の弾に決まってんだろ?」
「アホか。サブマシンガンで車がひっくり返るわけねーだろ。機関銃だよ、機関銃」
「それより、何か面白いもん積んでないのか?」
「運転手は死んでいて、あちゃー。女はいるけど、もう死んでるぜ?」
「マジかよ、殺しちゃったの? もったいねぇ。車も完全に燃えてるし、売れそうなもんはねぇなぁ」
「なら、さっきかっぱらってきた酒でも飲みながら、この炎で焚き火でもするか」
聞こえてくる言葉の意味は、理解できる。どうやら自分が乗っていた車を襲ったのは、彼ら七名らしい。
でもそれ以上に、その口にされている内容が私にとて衝撃的だった。
……殺す? 奪う? なにそれ。それって、悪いことなんじゃないの?
少なくとも、読んできた本の世界では、それは良い事としては書かれていなかった。
でも、これが、外の世界なのだろうか?
私の憧れてきた、夢にまでみた世界は、こんな醜いものだったのだろうか?
目で見えるもの、耳で聞くもの、鼻で感じるもの、皮膚からくる怖気、そして緊張で乾く舌。
物理的に五感で感じるその全てを否定したくって、私は一歩下がった。
そこで――
……痛っ!
どうやら、硝子の破片を踏んづけてしまったようだ。
左足の裏を見ると皮膚が裂け、血が出ている。
……ど、どうしよう? 大人の人に、怒られちゃう!
こんな時なのにも関わらず、研究所で言い含められてきた事が頭に浮かぶのが不思議だった。
この荒廃した世界を前に、研究所で言われてきたことが正しかったんだと、私は実感する。
……あそこは私に、こんな物を見せないようにしていてくれたんだ。
それはつまり私の幸せのためで、つまり私は恵まれていて、だからクラウンさんっていう人の期待にも応えなくてはならない。
でも、私は自分の体に傷をつけてしまった。
……何か、傷を塞がないと。
大人達からは、何かあっても自分達が投与するモノ以外接種してはいけないと言われている。
使われる言葉は難しかったけれど、とにかく勝手に薬を使っては駄目だということだろう。口にするモノすら、彼らが徹底的に管理したもの以外食べたことはない。
どうしようかと悩んだ末、私は自分の足を傷つけた硝子で、着ている病衣の袖を切り落とす事にした。
そしてそれを、足に巻く。右足も傷つけてしまうかもしれないので、結局両肩の袖を切り、両足に巻いた。
左足は痛むものの、裸足で歩くよりはマシだろう。
……でも、これからどうしよう?
車を襲った七名は、運転手と白衣の女性が死んで今も燃え続けている車の前で、酒盛りを始めた。
私は車から離れたといっても、彼らの声が聞こえるぐらいの距離にいる。
今ここから出ていくと、私の姿はあの中の誰かに姿を見られてしまうだろう。
そしてその後どうなるかは、僅かたりとも想像もしたいとも思わなかった。
だから私は、恐怖でただただ身を縮めるしかない。
……誰か、誰か、助けて。
本の中で、ヒロインがヒーローに何度もそう言って助けを求める場面を読んできた。
その時私はあろうことか、とってもワクワクしていたのだ。
すぐにヒーローがやってきて、悪い奴らをやっつけてくれて、ヒロインを助け出すに違いない。さぁ、早くそれを見せて欲しいと、貪欲にページを捲ったものだ。
でも、今なら言える。私は物語のヒロイン達に、謝らなくてはいけない。
こんな恐怖、こんな絶望、一秒たりとも味わう必要はなかったのだ。
更にヒロイン達は本を読んでいる私と違って、この後誰かが助けに来てくれるとを知っているはずがない。
そんな人達の体験を呼んでワクワクしていただなんて、私はどうかしていたとしか思えなかった。
だって私は、別に悪い奴らに捕まったわけでも、銃口をこめかみに突きつけられているわけでもなく、近くに暴徒がいるというだけで、こんなにも震えてしまっている。
……ごめんなさい、ごめんなさい、あなた達の恐怖を楽しんでごめんなさい!
しかしどれだけ謝ろうとも、私の身に起こっている現実は変えられない。
大人達が言っていた通り、これは現実で、妄想の産物たる本の物語のように、さっそうとヒーローが登場したりもしなかった。
だから、そう、偶然なのだ。
彼らが何かに気づいたように、別の方向を向いた。完全に、私の隠れている建物からは視線を外している。
……今だ!
そう思い、私はすぐに駆け出した。
左足が少し痛むが、恐怖の前ではそんなもの全く気にしている余裕はないし、痛みは恐怖で塗りつぶされていた。
後ろを振り向くと、二人の男がバイクに乗り込んでいる所だった。他の五人も彼らを囃し立てているけれど、何を言っているのかまではもう聞こえない。
必至に走って、どうにか彼らの姿が見えない所までやってくる。
荒い息をしながら汗を拭い、私は廃墟の壁にもたれかかった。
深呼吸をして空を見上げると、そこにはやっぱり、一面に黒が広がっている。
しかし不思議と、最初に感じたような恐怖は薄れていた。
必死になって、この真っ黒の下を走っていたからだろうか?
それとも炎が上がっておらず、暴力の気配を感じないからだろうか?
今五感で感じる世界は、どういうわけだか澄んだような印象を受ける。
そう思っていると、遠くの大通りに車が何台かやってきた。
それは黒色の車だが、雑に黒で塗ったのか、車の外壁に王冠を付けた様な鳥の絵が薄っすらと浮かんでいるような気がした。
……ひょっとして、あれ、研究所の人達かな?
白で塗られてはいたものの、私と一緒に車にもあの鳥の絵が描かれていた。
あの鳥は、研究所でも所々に描かれていたものだ。
そう思い、私は同乗していた女性が、アサクサ・シティの研究所まですぐに到着すると言っていたのを思い出した。
だが実際はそうなっておらず、予定到着時刻も大幅に過ぎているはず。だから心配して、人を寄越してくれたのかもしれない。
……よかった。これで研究所に戻れる。
早くこの暴力的な世界から開放されたくて、私は一歩前に出て。
そして、足を止めた。
車から、黒いスーツを着た男達が八人降りてくる。彼らの手には一様に、黒光りする拳銃が握られていた。
……え? 何で、研究所の人も、そんな危ないものを持っているの?
それは、何かを傷つける道具で、何かを傷つけるのは悪いことだったはず。
一瞬固まるが、車が男達を置いて立ち去ったのを見て、私は思わず廃墟の中へと飛び込んだ。
……あれ? どうして私、逃げたんだろう?
自分で自分の行動を不思議に思うものの、今しがた感じた暴力の気配が、自然と私の足を彼らから遠ざける。
もし研究所の人達でなければ、あの銃口が私に向けられるかもしれない。
彼らはひょっとしたら、先程出会ったあの七人の男達と、同類なのかもしれない。
そうなったら私は、先程横転した車、それに乗っていた運転手と白衣の女性の二の舞いだ。
つまり、死ぬ。
……嫌だ。怖い、死にたくない、死にたくないよ。
別に、何かのために生きたいと考えながら、今まで過ごしてきたわけではない。
でもこんなにも急に、そして強引に死を感じさせられる場に出てきたことで、私は根源的な生の欲求に突き動かされていた。
私が廃墟に入ったのを見ていたのか、男達がこちらに向かってやってくる。
私は恐怖で居ても立っても居られなくなり、飛び込んだ場所とは反対側の窓から飛び出した。
「おい、捕縛対象が逃げたぞ!」
「裏に回り込め!」
濃厚な暴力の気配が、私の背中から迫ってくる。
それにだけは捕まるまいと、必死になって駆け出した。
……帰りたい。早く、安全な場所に帰りたいよ!
そう思うものの、所詮は子供の悪あがき。
いつまで経っても逃げ切ることは出来ず、逆にどんどんと包囲網が狭まってくる。
……嫌だ、助けて、誰か、助けてよ!
先ほどと同じセリフを、心の中で唱える。
でも、ここは相変わらずの現実の中だった。
本の物語のように、ヒーローがやってきてくれるわけではない。
「いたぞ、こっちだ!」
「手間を取らせやがって」
「やめて、離して!」
「おい、大人しくしろ!」
結局私は、黒スーツの男達に捕まってしまう。
そう、結局、私の前に現れることはなかった。
暴力という悪を打ち倒す正義の味方は、やってこなかったのだ。
そう、だから、私の前に現れたのは――
また、別の暴力だった。
猛烈なバイクのエンジン音が、こちらに向かってくるのが聞こえてくる。
それは獲物を目の前にした猛獣のように、全く減速することなく男達へと突っ込んだ。
バイクの車輪が、私から一番離れていた男に激突。骨の折れる音と肉の抉れる音がして、その男は絶命しながら吹き飛んだ。
残りの七名がそちらに振り向くが、無事振り向けたのは五名のみ。
黒のレザージャケットをたなびかせながら、バイクに乗った男が手にした拳銃を発砲し、振り向けなかった二名の額に穴を開けたのだ。
バイクの下に一人、そして撃たれて倒れる二人の男の血で、地面が盛大に朱の色で彩られる。
そんな中最初に言葉を発したのは、バイクに跨る男、の腰に差してあるサムライブレイドだった。
『ジブ! またその下品な低処理デバイスを使いましたね? これはもう、私という存在への冒涜です。精神的苦痛を伴ったことにより、損害賠償請求をさせて頂きます!』
「払った所で金の流れは俺からお前を所有している俺になるだけで、無駄以外の何物でもないだろ」
『いいんです、私の気持ちが晴れるんですから!』
「何だ貴――」
『ああ、また撃った! 一体どれだけ私を愚弄すれば――』
「すぐに使ってやるから黙ってろ」
残り四人になった拳銃を構える男達へ、バイクを駆って刀を構えた男が向かってくる。
彼は自分に発砲された銃弾をサムライブレイドで叩き落としながら、こちらに向かって走ってきた。
そんな中、一人の男が私を抱えあげる。
「お前はこっちに来い!」
悲鳴を上げて暴れるが、男の腕からは全く逃げ出すことは出来なかった。
私を抱えて、男はそのまま走り出す。
角を曲がり、私の視界からバイクの男が消える時には、彼は既に一人の男の胴体を真横に、一人の男を縦から真っ二つに切断した所だった。
「何なんだあいつは? あんなメチャクチャな戦いをしてたら、いつ死んでもおかしくないぞ!」
私は、その自分を抱える男の言葉に同意する。
出来るか出来ないかではなく、大人数相手に真正面から突っ込むだなんて、自殺行為でしかない。
……どうして? 死ぬのが、怖くないの? 痛いのが、嫌じゃないの?
そう考えている間に、私を抱えた男は入り組んだ道へと進んでいく。
「だが、あれだけ無茶苦茶な奴でも、バイクでこの道は入ってこられないだろ。このままコイツを連れて逃げ――」
そこに、何か降ってきた。
私を追ってきた八人の内、一人はバイクで轢き殺され、三人は銃で撃たれ、もう二人はサムライブレイドで斬り殺された。
残ったのは、私を抱える男と、あの場に残った男。その二名のみ。
その、残った方の男の。
生首が、私達の進行方向に降ってきたのだ。
そう認識した瞬間――
入り組んだ壁をぶち抜いて、バイクに乗ったあの男が現れる。
しかし、不思議とバイクにはそれ程傷があるようには見受けられない。
どうやら入り組んだ道の外壁、彼の進行方向にあったそれらを全て撫で斬りにして、一直線にこちらに向かってきたようだ。
その男が握る刃が、勝ち誇るように音声を発する。
『逃走した男の身体的特徴と目的を優先した思考パターンから逃走経路を予測しましたが、ドンピシャでしたね。どうです? ジブ。これであの雑魚雑魚低処理デバイスの利用を改める気になりましたか?』
「お前の長話と無口な銃を足して二で割ると丁度いいんだ」
そう言いながら、彼は既に刃を振るっている。
それが切断したのは、私を抱える男の腕だった。
斬られた腕には銃が握られていて、発砲される前に彼は物理的に自分への脅威を取り去ったらしい。
だが、不思議と腕を斬られた男は悲鳴を発しない。振り向けば、断末魔を上げる時間すら与えられず、彼の喉仏から上がなくなっていた。
先ほど降ってきた男の顔の隣に、切断された私を抱えていた男の生首が降ってきてぶつかる。
頭蓋と頭蓋の衝突音を聞く前に、私の体はいつの間にかサムライブレイドを持つ男の腕に抱かれていた。
しかし、私は悲鳴を上げることが出来ない。
暴力に次ぐ暴力に、死と血潮の匂いで、完全に思考が停止していたのだ。
だが、こちらの顔をマジマジと見つめてきた男の言葉で、私は更に混乱する。
「……コウノ、なのか?」
……え? 誰?
「私の名前は、ヒバリ、ですけど……」
それから少しの間、非情に気まずい雰囲気が流れる。
そんな状況の解決策は、今まで読んできたどの本にも書かれていなかった。