まのこい天秤   作:雪無い

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週2投稿が思ってたよりキツすぎる!週2投稿が思ってたよりキツすぎる!

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3話『高度維持の境界線』

 

 十二月の風は、校舎の分厚い壁さえも通り抜けてくるような鋭さを帯び始めていた。廊下を渡る生徒たちは皆、制服の襟を立て、白く染まる吐息をこぼしながら足早に通り過ぎていく。

 

 そんな冷え込みの中でも、一箇所だけ熱を帯びたように人だかりができている場所があった。

 廊下の掲示板。そこに張り出された数枚の模造紙が、この数週間の努力の結末を無機質な数字の羅列で告げている。

 俺は人混みを隙間を縫うようにして、その紙の前に立った。

 今回のテストの目標は、総合順位の半分より上。学力としては普通のレベルであるこの学園だが、俺にとっては決して低いハードルではない。しかし、俺の低すぎる学力に根気よく付き合ってくれた彼女たちの顔を思えば、最低限クリアしておかねばならないラインであった。

 

 上から順に名前を追っていく。

 二階堂はもちろん一番上。その後知らない名前が続くも、意外なことに黒部の名前が上位にあった。あまり器用とは言えない彼女だが、勉強はかなりできるようだ。点数を取るという分かりやすい指針があるペーパーテストは得意分野なのかもしれない。

 気を取り直し、視線を下げ中段当たり、ちょうど紙の継ぎ目になるあたりを凝視する。

 

「……ダメだったか」

 

 思わず、重い溜め息が口をついて出た。

 自分の名前を見つけたのは、目標としていた中央線より数行下。総合順位半分よりわずかに下の位置。

 一教科の躓きが、そのまま全体の均衡を崩した結果だった。かつての俺なら真ん中付近なら御の字だと切り捨てられたはずのわずかな差が、今はどうしても埋められない敗北の証に見えて仕方がなかった。

 

「あぁクソ……」

 

 スポーツから勉強に変わっても同じらしい。昔から負けた時は心がざわめいて仕方ない。神経がささくれ立って眠れる気がしないような胸を焼く苛立ち。そんな体温の上昇が、テストの結果という紙切れ一枚で再び呼び覚まされていた。

 しかし、今までならその悔しさはあってもすぐに切り替えることができた。それなのに今回はどうも振り切れない。それはやはり、彼女たちの顔が思い浮かぶからだろうか。

 

「おや、大鐘さんではありませんか。そんな険しい顔で掲示板を睨みつけてどうされましたか?さては、秘密のメッセージでも探していましたか?」

 

 聞きなれた快活な声に、俺は視線を横に動かした。

 そこにいたのはいつものようにどこか風を切るような足取りで現れた橘シェリーだった。冬の制服にいつものコートを羽織り、名探偵としてのスタイルを崩さない彼女は、重苦しい廊下の空気を一人で跳ね返しているように見えた。

 

「……橘か。お前も順位を確認しにきたのか?」

「いえ!私はただこの人だかりに興味を惹かれて立ち寄っただけです。テストの成績は名探偵が解き明かす謎としては少々退屈ですから!」

 

 いかにも彼女らしい。答えの決まっているテストの評価など、この少女にとっては興味の対象外なのだろう。

 

「それで、大鐘さん。まるで世界の終わりみたいな顔をしてますが何かありましたか?」

 

 橘が不思議そうに首を傾げ、俺の顔を覗き込んでくる。

 察してほしいものだが、と思うも、橘にそれを求めるのは酷というものだろう。この少女は他人の感情の機微を読みたがるが、それがあまり得意ではない。

 

「成績が悪かった」

 

 俺は短く答えた。

 

「目標にしてた順位に届かなかった。お前にも手伝ってもらったのに、悪いな」

 

 素直に吐き出すと、橘は「あー」と納得したように声を上げた。

 

「それは残念でしたね!しかし大鐘さん、最初の惨状からすればこれは十分な進歩だと思いますよ!私が見た限り、あなたの勉強への取り組みは本当に真剣でしたから!」

 

 橘は力強く頷きながら、フォローの言葉を投げかけてくれる。

 

「惨状……」

 

 俺は思わず呟いた。

 確かに間違ってはいない。だが、改めて言葉にされると、少しばかり胸に突き刺さるものがある。

 慰めてくれているのは伝わってくる。橘なりに、俺を励まそうとしてくれているのだろう。だが、その優しさが、かえって俺の気分を沈ませる。慣れない励ましの言葉を吐かせてしまった自分が、どうしようもなく情けなく思えた。

 橘は少しの間、何か重大な証拠品でも吟味するかのような仕草で考え込んだ。その瞳が、掲示板と俺の顔を交互に往復し、やがて何かを閃いたような表情になる。

 

「状況は把握しました!大鐘さん!放課後、屋上に来てください!遅刻は厳禁ですよ!」

 

 突然の宣言に、俺は思わず目を瞬かせた。

 

「屋上?何か事件でもあったのか?」

「いえ、そういうわけではありませんが……とにかく来てください!きっと大鐘さんのためになりますよ!」

 

 橘は自信満々に胸を張った。

 その表情には、いつもの探偵としての鋭さではなく、どこか人を元気づけようとする純粋な意志が宿っている。

 

「……わかった。行くよ」

 

 俺は短く了承した。

 何だかよくわからないが、とりあえず受ける。橘の言うことには、特段の理由でもない限りすぐ従ってしまう自分は、本当に忠犬なのかもしれない。遠野の言葉が、また脳裏をよぎって自嘲の笑みがこぼれた。

 

 

 

 

 放課後がやってきた。

 授業が終わり、ホームルームを済ませた俺は、約束通り校舎の最上階へと足を向けた。

 屋上に行くのは、この学園に来て初めてだった。

 階段を上がるごとに、外気の冷たさが増していく。

 十二月の放課後は、既に夕暮れの気配を帯び始めている。吐く息が白く染まり、制服越しに肌を刺すような寒さが襲ってくる。

 何の用だろうか。

 橘のことだから、何か奇抜な励まし方でも考えたのかもしれない。あるいは、やはり屋上で何か事件が起きているとか。

 

 俺は重たい鉄扉に手をかけ、ゆっくりと押し開いた。

 冷たい風が一気に吹き込んでくる。

 屋上は思ったよりも広く、フェンスに囲まれた無機質な空間が広がっていた。

 

 そして───そこには、一人の少女が立っていた。

 

「……あら」

 

 金髪のツインテールが、冬の風に揺れる。

 翠色の瞳が、こちらを向いてわずかに困惑の色を浮かべた。

 遠野ハンナだった。

 彼女は白いマフラーを首に巻き、カーディガンを羽織った冬仕様の姿で、フェンスの近くに佇んでいた。

 

 だが、その周囲には誰もいない。

 

「遠野……?」

 

 俺が戸惑いながら名前を呼ぶと、遠野も同じように困惑した表情でこちらを見返した。

 

「大鐘さん……どうしてあなたがここに?」

 

 彼女の声には、明らかな疑問の色が混じっている。

 

「橘に呼ばれたんだ。放課後、屋上に来いって」

「……まあ」

 

 遠野は少しだけ目を見開き、それから小さく溜息をついた。

 

「わたくしも、シェリーさんに呼ばれましたの。『放課後、屋上で待っています』と」

 

 俺たちは顔を見合わせた。

 橘シェリーがいない。

 呼び出したはずの本人が、どこにもいない。

 少しの沈黙の後、遠野が何かに気づいたように小さく呟いた。

 

「……なるほどシェリーさんなりに、慣れない気を遣ったんですわね。……お節介なことですわ」

 

 その声は、呆れと、そして少しだけ嬉しそうな色を帯びていた。

 

「何かわかったのか?」

 

 俺が尋ねると、遠野は小さく肩をすくめた。

 

「別に、何でもありませんわ」

 

 その声はどこか柔らかく、俺に対する密かな同情と、何か諦めのようなものが混じっているように聞こえた。

 

「とりあえず、場所を変えましょう。ここで凍えていたら風邪引きますわ。全くシェリーさんったら、場所はもう少し考えるべきでしたわ」

 

 遠野は肩をすくめると、風に揺れる髪を押さえながら、少し困ったように眉を下げた。

 確かに、屋上の風は薄手の制服を簡単に突き破って体温を奪っていく。

 

「そうだな」

「わたくしたちの教室がよろしいですわ。もうシェリーさんもエマさんも帰ってるでしょうし、静かに話せますもの」

 

 遠野はそう言うと、俺の返事を待たずに屋上の扉へと歩き出した。

 

「悪いな、時間取らせて」

「別に謝る必要ありませんわ。わたくしも……いえ、なんでもありませんわ」

 

 彼女は微笑を浮かべて先を歩き始める。

 橘が用意した舞台を自分たちで選び直し、俺たちは静まり返った冬の校舎を進んでいく。冷え切った廊下を歩く二人の足音だけが、等間隔に響いていた。

 

 

 

 

 魔法クラスの教室は、いつもの賑やかさが嘘のように静まりきっていた。

 窓から差し込む冬の夕日が、机と椅子に長い影を落としている。

 遠野は手慣れた様子でティーポットを取り出し、紅茶を淹れ始めた。その所作は優雅で、見ているだけで少しだけ心が落ち着く。

 

「はい、どうぞ」

 

 差し出されたカップを受け取り、一口啜る。

 温かい液体が喉を通り、冷え切った体に染み渡っていく。

 

「……ありがとう」

「どういたしまして」

 

 遠野は自分のカップを手に取り、俺の正面の席に腰を下ろした。

 そして、翠色の瞳で真っ直ぐに俺を見つめる。

 

「それで、大鐘さん。テストの結果、ダメでしたの?」

 

 単刀直入な問いかけに、俺は少しだけ驚いて顔を上げた。

 

「……何でわかる?」

「そのくらい顔を見ればわかりますわ」

 

 遠野は呆れたように肩をすくめた。

 

「シェリーさんがわざわざわたくしたちを二人きりにしようとしたのも、きっとあなたが落ち込んでいたからでしょう。あの子なりに、気を遣ったんですのよ」

 

 確かに、橘は俺の様子を見て何かを察したのだろう。

 そして、俺を励ますために、いや、励ませる人間のもとへ送り届けるために、あんな慣れない策を講じたのだ。

 

「……ああ。目標にしてた順位に届かなかった」

 

 俺は素直に答えた。

 遠野の前では、変に取り繕う気にならなかった。

 

「一教科だけ、どうしても理解が追いつかなくて。結局、総合順位が半分よりわずかに下になった」

「それで落ち込んでいたんですの?」

 

 遠野が不思議そうに首を傾げる。

 

「ああ。お前たちが時間を割いて教えてくれたのに、結果で応えられなかった。それが、悔しくてな」

 

 俺がそう言うと、遠野は呆れたように溜め息をついた。

 

「……本当に、あなたという人はクソ真面目ですわね」

 

 呆れたように吐き出された言葉

 だが、その声には棘や怒りではなく、どこか温かみが混じっていた。

 

「一教科だけですわよ?他は全部クリアしていたんでしょう?それで十分ではありませんの」

「でも」

「でも、ではありませんわ」

 

 遠野は俺の言葉を遮るように、カップをソーサーに置いた。

 

「大鐘さん。あなたは、わたくしたちの時間を無駄にしたなんて、そんなこと思っていますの?」

 

 その問いかけに、俺は答えに詰まった。

 遠野は立ち上がり、窓際へと歩いていく。

 

「……少し、気分転換しましょうか」

 

 遠野は振り返り、少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ。

 

「大鐘さん。あなた、わたくしの魔法、見たいでしょう?」

 

 その言葉に、俺の心臓が跳ねた。

 

「……いいのか?」

「ええ。あなたが落ち込んでいる姿を見るのは、わたくし、あまり好きではありませんの。ですから───少しだけ、特別に見せて差し上げますわ」

 

 遠野は深呼吸をすると、目を閉じて集中し始めた。

 

 すっと床を蹴った。それは跳ぶという動作ではない。まるで水底から水面へと浮上する泡のように、あるいは透明な手に引き上げられる羽毛のように、彼女の体から質量という概念が消失した。

 暖まった室内の空気が、彼女の動きに合わせて微かに揺れる。驚くべきは、その静寂だ。風を切る音も、衣擦れの音すらもしない。ただ、窓から差し込む冬の斜光が、彼女の制服のプリーツや、細い指先、そしてふわりと広がった黄金の髪を鮮烈に縁取っている。重力に従って下に落ちるはずの髪や裾が、まるで穏やかな水中にいるかのように、ゆらゆらと、しかし優雅な法則性を持って宙にたゆたっている。

 

「……っ」

 

 俺は息を呑む。 彼女は宙で一度、ゆっくりと横に回転した。その動きには一切の踏ん張りがない。支点も力点もない空中で、彼女はただ己の意思だけで座標を書き換えていく。夕暮れの中で、彼女の瞳だけが宝石のように鋭く光った。完璧な弧を描いて舞うその姿は、地面に足を縛り付けられた俺に希望を与える。それは残酷なまでの自由の体現であり、同時に、誰も触れることのできない高みへ一人で行ってしまうような、壊れそうな孤独をも孕んでいた。

 

「どうかしら、大鐘さん。……わたくしの魔法、少しはよく見えますこと?」

 

 頭上から降ってくる声は、残響を伴って鼓膜を震わせる。  彼女がゆっくりと降下してくる。俺の目の前、手を伸ばせば届きそうな距離で、彼女は静止した。浮いていなければできない角度で斜めに傾きながら、彼女は俺を覗き込む。重力に抗うのではなく、重力を手懐け、玩具のように弄ぶその姿。窓からの光が逆光となり、彼女の輪郭を白く飛ばす。その瞬間、彼女は本当に、この世界から解き放たれた光の粒子そのものに見えた。

 

「……すごいな、遠野」

 

 俺は思わず立ち上がり、彼女の周りをぐるりと回って凝視する。

 

「前よりずっと安定してる。体幹の使い方も良い。これなら、もっと自由な動きができるんじゃないか」

 

 興奮を抑えきれず、俺は矢継ぎ早に言葉を並べた。

 

「浮遊時間も伸びてるだろ。重心の移動もスムーズだし、予備動作も無駄がない」

 

 そんな俺を見て、遠野はクスリ、と小さく笑った。

 

「……ふふっ」

 

 その笑い声に、俺はハッとして我に返った。

 

「あ……悪い。つい熱くなっちまって」

「いいえ、構いませんわ」

 

 遠野は笑みを浮かべたまま、俺の方へと近寄ってきた。

 

「あなたのその、魔法に対する純粋な情熱……嫌いではありませんわ。むしろ───」

 

 そこで言葉を切り、遠野は少しだけ頬を赤らめた。

 

「……少しだけ、可愛らしいと思いますわ」

「可愛らしい……?」

 

 俺が戸惑いながら聞き返すと、遠野は「ふん」と鼻を鳴らした。

 

「ええ。そんなに目を輝かせて。……とても真面目で、クールぶってて、でも優しくて、魔法のことになると途端に子供みたいになる。本当に、あなたという人は……」

 

 遠野は呆れたように肩をすくめたが、その表情は柔らかかった。

 彼女の視線が揺れた。

 浮遊している彼女の体温が、冬の冷気を切り裂いて、微かにこちらまで伝わってくる。

 

 彼女はそのまま、宙を滑るようにして俺の胸元に指先を寄せた。

 夕闇の差し込む室内で、彼女の翠色の瞳が、獲物を射抜くような鋭さと、少しの不安を帯びて俺を凝視する。

 

「いいかしら。あなたのその、救いようのない魔法への情熱……。本来なら、わたくしが直々に矯正して差し上げるところですが」

 

 遠野は宙に浮いたまま、俺の胸元にそっと指先を突き立てた。

 

「……その、熱っぽい視線を見せるのは、わたくしにだけにしなさい」

 

その言葉に、俺は思わず目を瞬かせた。

 

「シェリーさんやナノカさん、ココさんにまでその熱心な眼差しを向けるのは許しませんわ」

 

 彼女は顔を僅かに赤らめながらも、逸らすことなく俺を見つめ続けた。

 その言葉は、教師が教え子を嗜めるような体裁を取ってはいたが、剥き出しの独占欲を孕んでいた。俺が彼女の魔法に救われているのと同じように、彼女もまた、俺が彼女の魔法を唯一無二として見つめる瞬間に、安らぎを見出しているのかもしれない。

 

「あぁ、わかった。約束する」

「……ふん、わかればよろしいのですわ」

 

 遠野は満足げに、そして名残惜しそうに最後の一旋回をしてから、ゆっくりと俺の目の前に着地した。

 

「ありがとな」

「別に、お礼を言われるほどではありませんわ」

 

 遠野はふいっと顔を背け、開いた扇子で口元を隠した。だが、かすかに赤くなっている耳は隠せていない。

 着地した彼女の肩は、微かに、けれど確かに上下していた。重力を無視するあの瞬間が、どれほど彼女の体力を削り、神経を磨り潰すものか。この細い体に、どれだけ負担がかかっているか。

 

「……ふっ、はは」

 

 そのあまりに不器用で、一生懸命な彼女の姿が愛おしくて、俺の口からは堪えきれない笑いが漏れ出した。

 

「な……ななな、何を笑っていらっしゃいますの!? わたくしは真密に、あなたのその……その締まりのない顔を正して差し上げようと……!」

「悪い、悪い。笑うつもりじゃなかったんだ」

 

 俺は片手を上げて謝ったが、口元の緩みはどうしても収まらなかった。

 自分を元気付けるためだけに、彼女は全神経を研ぎ澄ませて、俺の一番好きなものを見せてくれたのだ。

 慰めるなんて直接的な言葉は一言も使わず、高飛車な態度を崩さないまま、その実、精一杯の献身を俺に叩きつけてくれている。

 

「……ありがとな、遠野。励ましてくれたんだろ? すごく嬉しかった」

「なっ……! は、励ます? 誰が誰をですの! 勘違いも甚だしいですわ! わたくしはただ、このまま暗い顔でいられてはわたくしの指導の名折れだと思っただけで……!」

 

 否定すればするほど、彼女の顔はさらに赤く染まっていく。

 夕闇の差し込む教室で、真っ赤になって憤慨する彼女の姿は、先ほど宙を舞っていた神秘的な姿とは対照的に、驚くほど等身大の、ただの素直ではない一人の少女のものだった。

 遠野は視線を泳がせ、それから小さく咳払いをした。

 

「……とにかく!少しはマシになりましたの?」

「ああ、本当に助かった。ありがとう」

 

 俺が素直に礼を言うと、遠野は少しだけ照れたように視線を逸らした。

 それから、ふと疑問が浮かんだ。

 

「……ところで、遠野。一つ聞いてもいいか?」

 

 俺は温まったカップを置き、彼女を見つめた。

 

「短期間でどうしてこれほど魔法が強力になったんだ? 出力そのものが、以前とは比べものにならない」

 

 その問いに、遠野は一瞬、弾かれたように肩を震わせた。隠し事が下手な子供のように、翠色の瞳が激しく動揺を物語っている。

 

「前に体の使い方について、いくつかアドバイスしたよな。それを実践しているのは見ていて分かった。でも、それだけじゃないはずだ。単なる反復練習の成果にしては、あまりにも急激すぎる」

 

 俺は座り直して、真剣な眼差しを彼女に向けた。直感が、彼女の中に起きた地殻変動のような変化を捉えて離さない。

 

「練習したのはわかる。でも、それだけじゃない。何か……決定的な要因があったんじゃないか?」

 

 遠野はは俺の問いかけに、少しだけ困ったように眉を下げた。

 その翠色の瞳が揺れ、何かを隠しているような、けれど拒絶ではない温かな光を瞳に宿して揺れた。やがて、彼女は降参したようにふっと息を吐き出す。

 

「……そうですわね。確かに、わたくしの中で一つ、変わったことがありますわ」

 

 彼女はゆっくりとした足取りで窓際まで歩み寄り、燃えるような夕陽にその横顔を預けた。

 

「……ある、素敵な気持ちに気がつきましたの」

「気持ち?」

 

 聞き返した俺の声は、夕暮れの静寂に吸い込まれた。

 遠野は窓ガラスに映る自分を見つめるようにして、どこか恥ずかしそうに、けれど愛おしいものを慈しむように微笑んだ。

 

「ええ。理屈ではありませんの。ただ、その気持ちを抱きながら空を見上げると、飛ぶための感覚が不思議と指先まで淀みなく流れていく……。以前よりもずっと、魔法が使いやすく、自由になったように感じますの」

 

 遠野は自分の手の平を見つめ、それから優しく握りしめた。それから俺の方を向き、真っ直ぐに見つめた。微かに頬が赤く染まっている。

 

「だから、わたくしの魔法が強くなったのは……きっと、その気持ちのおかげですわ」

 

 その言葉に、俺は少しだけ戸惑った。

 素敵な気持ち。

 それが何を意味するのか、遠野は明言しない。しかし、その衝動が、彼女に新たな翼を与えようとしている。

 

「……そうか。その気持ちが、お前の魔法を強くしてるんだな」

 

 俺が曖昧に答えると、遠野は「ええ」と小さく頷いた。

 

「ですから、大鐘さん。わたくし、これからもっと上手くなると思いますわ」

 

 自信に満ちた表情で、胸を張った。

 

「そして、その成長を……あなただけに、見せて差し上げますわ」

 

 夕日が沈みかけた教室で、遠野ハンナの笑顔が、やけに眩しく見えた。

 

 

 

 

 

 その夜、俺は寮の自室で、ベッドに横たわりながら天井を見つめていた。

 

 窓の外では、冬の冷たい風が木々を揺らしている。

 暖房の効いた部屋は温かいはずなのに、胸の奥に妙な熱が残っていた。

 

 遠野ハンナの、あの笑顔。

 「素敵な気持ち」という、濁した言葉。

 そして、「わたくしだけに」という、独占欲。

 

 それらが、俺の中で何度もリフレインする。

 

 だが、それ以上に、俺の脳裏に焼き付いて離れないものがあった。

 

 文化祭の日。

 迷子の少女を助けた後、去っていく姉妹を見送る遠野の横顔。

 

 母親に手を引かれ、笑顔で去っていく二人の姉妹。

 姉らしき女の子が、妹の手をしっかりと握っている。

 妹は、姉の袖を握りしめながら、安心したように笑っていた。

 

 その光景を、遠野はじっと見つめていた。

 

 俺が声をかけるまで、彼女はただ、動くことも、言葉を発することもなく、立ち尽くしていた。

 

 その瞳に宿っていたのは言いようのない切なさと、羨望、そして───

 

 俺は目を開け、再び天井を見上げた。

 

 遠野ハンナという少女は、誰にも言えない苦しみを抱え、それでも気高くあろうとしてきた。

 

「……」

 

 俺は、ゆっくりと起き上がり、窓の外を見つめた。

 

 冬の夜空に、星が瞬いている。

 冷たく、遠く、それでも確かに輝いている。

 

 遠野ハンナが抱えているもの。俺は、それを知りたい。

 彼女が一人で背負っているものを、少しでも分かち合いたい。

 

 かつて、俺は最善を選んだつもりで、結局誰も救えなかった。

 だが、今度は違う。

 今度こそ、目の前の誰か───いや、遠野ハンナという少女を守りたい。

 あいつがどれほど高く、危うい場所まで浮き上がったとしても。

 いつかその翼が折れ、地面へと落ちてくるその瞬間が来たとしても。

 俺だけは、絶対に目を逸らさない。

 一番近くで、彼女が落ちてくるその場所で受け止めてみせる。

 

「……遠野」

 

 俺は、静かに呟いた。

 窓の外で、風が吹いた。

 木々が揺れ、葉が舞い散る。

 

 俺の心は、迷っていなかった。

 

 遠野ハンナという少女を、支えてやりたい。

 

 その想いが、確かな熱を持って、胸の奥で脈打ち始めていた。

 

 

 





最初ハンナの話はコメディ一色にするつもりでしたが、しっとりとしたやつもいいなと考え直し静かな回も挟むことにしました。

ラブコメ世界であることを活かした設定にしていきたいなぁ!と常に考えながらやらせてもらってます。次回もよろしくお願いします
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